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公海水雷艇-S90~G137


 常備排水量310~412t、主砲8.8cm×1門、45.0cm魚雷発射管×3門
 燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×4基、主機パーソンズ並列複式タービン×1基3軸、出力10,800軸馬力、速力27~28ノット
 1898年に公布の艦隊法による「大型水雷艇」の第一陣。S90~G137の48隻が、1898~1905の各年度に6隻ずつ建造された。
 シッヒャウ社が36隻を、クルップ社が12隻を建造し、後者は同社ゲルマニア造船所のイニシャルを冠している。
 常備排水量、速力ともに、能力的に外洋での艦隊戦に参加可能となっていた。
 最終艦は近代独駆逐艦の先駆けとも言えるもので、やや大型の船体にタービン主機を試験的に採用、前部機械室に中央軸高圧タービンと右舷軸低圧タービンを並置した。

 

 S90
  シッヒャウ社。第一陣最初艦。
  第一次大戦時には東洋艦隊に所属し、1914年10月17日には日海軍の青島封鎖を逃れて外洋に出、翌18日の午前1時30分頃に日海軍の戦艦「高千穂」に雷撃を仕掛け、沈めている。高千穂の乗組員は艦長以下271名が戦死した。

  艦長:ブルネン少佐

 

 G137
  クルップ社。第一陣最終艦。常備排水量580t、速力30ノット
  1914年に練習艦、翌1915年に第3潜水艦戦隊付属艦となり、1916年にT139と改称された。
  ヴァイマル共和国海軍に引き継がれたが1921年に解体された。

公海水雷艇-S138~G197


 常備排水量533~700t、主砲8.8cm×2門、45.0cm魚雷発射管×3門
 燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×3基+同重油専焼両面缶×1基、主機パーソンズ並列複式タービン×1基3軸、出力15,000軸馬力、速力30~32ノット
 1989年に公布の艦隊法による「大型水雷艇」の第二陣。S138~G197の60隻が、1906~1910の各年度に12隻ずつ建造された。
 シッヒャウ社が20隻、ヴルカーン社が27隻、クルップ社が13隻を建造。
 途中から兵装と機関が強化された。

 

 G169
  クルップ社。常備排水量670t、速力32ノット
  1908年度にクルップ社が建造したG169~172の一番艦。
  主砲は船首楼甲板と後甲板に1門ずつ置き、発射管は第一煙突の前後に1門ずつと、後甲板に1門を置いた。
  主缶は第一缶室に重油専焼両面缶を配し、他の3缶室に石炭専焼缶を配していた。煙突は2缶室ずつに対応。
  第一次大戦開戦時は公海艦隊第3水雷戦隊に所属。1917年に「T169」と改称された。
  1920年に除籍。賠償として英に引き渡され、解体された。

 

 V186
  ヴルカーン社。常備排水量666t、50.0cm魚雷発射管×4門
  主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力18,000軸馬力、速力32ノット
  1910年度にヴルカーン社が建造したV186~191の一番艦。
  発射管は艦橋前のウェル・デッキの両舷に1門ずつと艦中央部と後甲板に1門ずつ装備された。
  第三缶室に重油専焼缶、他の3缶室に石炭専焼缶を配した。煙突は2缶室ずつに対応。
  第一次大戦開戦時はバルト海で沿岸防備に従事。1914年10月に公海艦隊第1水雷戦隊に転属している。
  第7水雷戦隊としてユトランド海戦に参加したが、復水器が故障したため会敵前に帰投した。
  1918年に「T186」と改称。1920年に除籍され、賠償として英に引き渡された後、解体された。

公海水雷艇-S138~G197

公海水雷艇-V1~G12


 常備排水量569t、主砲8.8cm×2門、50.0cm魚雷発射管×4門
 燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×2基+同重油専焼両面缶×1基、主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力17,000軸馬力、速力32ノット
 1911年度に計画され、ヴルカーン社とクルップ社で6隻ずつ、計12隻ずつ建造された。
 当初は98~209の付番予定だったが、用兵側の要求により艦隊戦における操縦性向上と乗員削減のために船体を短縮し、1906年度計画のS138~149と同調して新しくV1~G12と付番された。
 兵装は1909年度に計画されたG174以降と同じ。主砲は船首楼型甲板上と後甲板に1門ずつ配し、発射管はウェル・デッキ両舷に1門ずつと後檣の前後に1門ずつ配した。
 主缶配置は建造所によって異なる。
 ヴルカーン社が建造した6隻は3缶室に1基ずつで、第一・第二缶室に石炭専焼缶、第三缶室に重油専焼缶を収めた。第一煙突は第一・第二缶室に、第二煙突は第三缶室に対応。
 就役早々、耐波性が問題となり、V6の代艦を建造する際には船首楼を延長。艦橋構造物をその後端に置いてウェル・デッキを廃止。前部発射管を第二煙突の左右に1門ずつ装備した。
 最前部の第三缶室への呼気筒は第二煙突の左舷後方となり、第二缶室への呼気筒とほぼ並列に配置した。
 艦橋が低かったV1~5は後に艦橋構造物と第二煙突を1.2m増高している。

 

 V1
  ヴルカーン社。
  第三缶室の重油専焼両面缶に対応する艦橋前の呼気筒には筒状のカンヴァス製の波除けが付加されていた。
  第一次大戦開戦時はV2~6とともに公海艦隊第5水雷戦隊に所属。
  ユトランド海戦にはシェーア本隊の直衛として全艦が参加した。この際V4が夜戦で沈没している。
  ヴァイマル共和国海軍に引き継がれた後、1929年に除籍、解体された。

 

 V5
  ヴルカーン社。
  第三缶室の重油専焼両面缶に対応する艦橋前の呼気筒には後向きの角ばったダクトが付加されていた。
  第一次大戦開戦時には公海艦隊第5水雷戦隊に所属。
  ユトランド海戦にシェーア本隊の直衛として参加。
  1912年7月にV6とともに希海軍に譲渡され、代艦が1913年5月と7月に就役した。
  1918年に護衛艦隊に転属。ヴァイマル共和国海軍に引き継がれ、1929年に除籍。翌1930年に売却、解体された。

 

 V6
  ヴルカーン社。
  第一次大戦開戦時には公海艦隊第5水雷戦隊に所属。ユトランド海戦にシェーア本隊の直衛として参加した。
  1912年にV5とともに希海軍に譲渡され、代艦が1913年5月と7月に就役。
  1918年に護衛艦隊に転属し、ヴァイマル共和国海軍に引き継がれ、1929年に除籍、解体された。

公海水雷艇-V1~G12

G7級


 常備排水量573t、主砲8.8cm×2門、50.0cm魚雷発射管×4門
 燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×3基+同重油専焼両面缶×1基、主機ゲルマニア式タービン×2基2軸、出力16,000軸馬力、速力32ノット
 1911年度に計画され、ヴルカーン社とクルップ社で6隻ずつ、計12隻ずつ建造されたうちの後者。
 当初は98~209の付番予定だったが、用兵側の要求により艦隊戦における操縦性向上と乗員削減のために船体を短縮し、1906年度計画のS138~149と同調して新しくV1~G12と付番された。
 兵装は上記のV1~6と同じだが、船体は0.8m長く、機関出力が1,000軸馬力低かった。
 主缶は石炭専焼缶×3基と重油専焼缶×1基の混載。前者を第一~第三缶室、後者を第四缶室に収めて2缶室ずつ両煙突に対応させた。
 このため両煙突間の呼気筒は2基となり、1基のV1~5との識別が可能になった。
 建造時の煙突の高さは同じで、艦橋構造物はこれよりも低かったが後に波浪対策のために艦橋構造物と第二煙突を1.2m増高し、第四缶室の呼気筒を後ろ向きにして艦橋構造物と一体化させている。
 V1~6とG7~12は船体の短縮により耐波性が低下するとともに、艦内の空所を極力利用したため炭庫の一部を艦尾に設けざるを得ず、荒天時に石炭を缶室に運搬することが極めて困難になった。
 第一次大戦開戦時、G7~12は公海艦隊第5水雷戦隊に所属している。
 1915年9月8日にG12をV1との衝突で失った後、ユトランド海戦には残ったG7~11の5隻がシェーア本隊の直衛として参加した。
 夜戦で英大艦隊の襲撃を命じられたが、石炭専焼缶から火の粉が出るため、敵から視認されないよう、16ノット以上速度をできずに17ノットで航行する的に追いつくことができなかった。
 戦後、残存艦4隻がヴァイマル共和国海軍に引き継がれ、更に第三帝国海軍にも引き継がれ、1936年に揃って練習艦となった。1939年に頭文字をTに替え、艦番号に100が加算されている。

 

 G7
  クルップ社。
  第二次大戦後に賠償として露(ソ連)に引き渡され、解体された。

 

 G8
  クルップ社。
  第二次大戦後に賠償として英に引き渡され、解体された。

 

 G9
  クルップ社。
  1918年5月3日に触雷し、沈没。

 

 G10
  クルップ社。
  1945年5月5日に自沈。

 

 G11
  クルップ社。
  1945年4月3日に爆撃により沈没。

G7級

V25級


 常備排水量812t、主砲8.8cm×3門、50.0cm魚雷発射管×6門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×3基、主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力23,500軸馬力、速力33.5ノット
 1913年度計画でV25~S36のヴルカーン社とシッヒャウ社が6隻ずつ、計12隻ずつ建造した。
 前年度までの小型化を反省し、再度艦型を拡大するとともに主缶をすべて重油専焼缶として力量を増大、速力向上を図った。
 主缶配置は3缶室に1基ずつ。第三缶室はやや小型の缶で、第一煙突は第一缶室、第二煙突は第二・第三缶室に対応させていた。
 外観はどちらもほぼ同じで、主砲は艦首楼甲板、第一煙突と後檣の間及び後甲板に1門ずつ装備された。
 発射管は艦橋前のウェル・デッキ両舷に単装1門ずつ、第一煙突と後檣の間に連装2門を直列に並べていた。
 第一次大戦開戦時には公海艦隊第9水雷戦隊に所属していた。ユトランド海戦に参加し、南下戦終盤で英第13水雷戦隊と砲雷戦を行った艦もある。

 

 V25
  ヴルカーン社。
  1915年2月13日にヘルゴラント島沖で触雷、沈没。

 

 V26
  ヴルカーン社。
  第一次大戦後に賠償として英に引き渡され、1922年に解体された。

 

 V27
  ヴルカーン社。
  ユトランド海戦南下戦終盤で英第13水雷戦隊より被弾し沈没。

 

 V28
  ヴルカーン社。
  第一大戦後に賠償として英に引き渡され、1922年に解体された。

 

 V29
  ヴルカーン社。
  ユトランド海戦南下戦終盤で英第13水雷戦隊より被雷し沈没。

 

 V30
  ヴルカーン社。
  1918年11月20日、スカパ・フロー回航途中で触雷、沈没。

V25級

大型水雷艇-S49~G96


 常備排水量802t、主砲8.8cm×3門、50.0cm魚雷発射管×6門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×1基+同両面缶×2基、主機シッヒャウ式タービン×2基2軸、出力24,000軸馬力、速力34ノット
 第一次大戦開戦直後の1914年8月6日に独海軍省は大型水雷艇を、シッヒャウ社に18隻、ヴルカーン社に18隻、クルップ社に12隻の計48隻を建造するように命じた。
 建造当初は重油の安定供給が懸念され、各社とも最初の6隻に重油専焼缶1基と石炭専焼缶3基を搭載すること命じられたが、1914年11月に元の計画に復帰したため、竣工が遅れた。
 シッヒャウ社が後期に建造したS53~66の14隻は燃料増載のために船体を3.5m延長しており、常備排水量は919tとなっている。

 

 S49
  シッヒャウ社。初期に建造した一番艦。
  就役とともに公海艦隊第6水雷戦隊に所属。ユトランド海戦には参加していない。
  船首楼甲板はタートル・バック。艦橋構造物と第三缶室の呼気筒、後部羅針儀が一体化している。
  1919年の一斉自沈に加わった後1924年に浮揚、解体された。

大型水雷艇-S49~G96
V99級

V99級


 常備排水量1,350t、主砲8.8cm×4門、50.0cm魚雷発射管×6門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式両面水管缶×4基、主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力40,000軸馬力、速力36.5ノット
 1914年8月7日にブローム・ウント・フォス社とヴルカーン社が露海軍向けに建造していた駆逐艦4隻を接収して編入した。
 ブローム・ウント・フォス社が建造した二隻にはB97、B98の名が与えられ、ヴルカーン社が建造した二隻にはV99、V100の名が与えられた。
 後者の二隻は主砲を船首楼甲板と後甲板に1門ずつと第一・第二煙突の間に2門直列に装備した。
 発射管は艦橋前のウェル・デッキ両舷に単装1門ずつ、第一煙突と後檣の間に連装2門を直列に配していた。
 主缶は四缶室に1基ずつで、中央の2缶を太い第二煙突に対応させ、主機は前部機械室に右舷機、後部機械室に左舷機を収めた。
 露海軍向けに計画されていたため、艦首舵は採用されていない。

 

 V99
  ヴルカーン社。
  1915年8月17日、露水上部隊との交戦により損傷。リガ湾西方に沈座した。

 

 V100
  ヴルカーン社。
  公海艦隊第13水雷半艇隊の1艦としてリガ湾封鎖作戦に参加し、露駆逐艦「グロム」を撃破した。
  1919年の一斉自沈に参加した後、2ヶ月後に浮揚され、仏に賠償として引き渡された。1921年に解体された。

B109級

B109級
 

 常備排水量1,374t、主砲8.8cm×4門、50.0cm魚雷発射管×6門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式両面水管缶×4基、主機改良パーソンズ式タービン×2基2軸、出力40,000軸馬力、速力36ノット
 露駆逐艦用として製造していた主機の流用によって前級(V99級のB97・98)の同型艦を短期間に建造する提案をブローム・ウント・フォス社が出し、4隻が承認された。
 主砲は船首楼甲板と後甲板に1門ずつと第二煙突の前後に1門ずつ装備。発射管・主缶・主機の配置は前級と同じ。
 艦載艇の収容はV99とV100が第三煙突の後ろ側。本級(B109~112)が第一煙突の両舷。そのため、ボート・デリックの位置も異なっている。
 ユトランド海戦には公海艦隊第2水雷戦隊として4隻とも参加している。
 夜戦では東方海域の捜索を命じられたが、英大艦隊主力とは会敵出来ず、スカゲラック海峡を経由して帰航した。
 リガ湾封鎖作戦にも4隻揃って参加し、エーゼル島に突撃隊を上陸させたが、B110とB112が座礁したため、この二隻は戦線離脱した。
 第一次大戦を生き抜いた4隻はスカパ・フローに抑留され、一斉自沈に加わった。
 その後1925年から翌1926年にかけて浮揚、解体された。

V125級


 常備排水量924t、主砲10.5cm×3門、50.0cm魚雷発射管×6門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×1基+同両面缶×2基、主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力23,500軸馬力、速力34ノット
 1916年6月から秋にかけて独海軍省は大型水雷艇の第二次分23隻の建造をヴルーカン社、シッヒャウ社、ホーヴァルト社に命じた。各社の建造数はヴルカーン社から順に11隻、9隻、3隻。
 第一次大戦序盤での運用経験を反映して、船首楼を延長。艦橋構造物をその後端に設けて、主砲は口径を10.5cmに大きくした。
 主砲配置は艦首楼甲板、第一煙突と後檣の間、後甲板に1門ずつ。発射管は第二煙突の左右に単装1門ずつと第一煙突と後檣の間に連装2門を直列に並べた。
 主缶配置は3缶室に1基ずつ。第一缶室は片面缶として、第一煙突は第一・第二缶室に、第二煙突は第三缶室に対応させていた。
 第一次大戦中の華々しい活躍は無い。1919年の一斉自沈に参加している。その後各国に引き渡され、1922~25年に解体された。

 

 V125
  ヴルカーン社。
  1919年の一斉自沈に加わった後、翌1920年に賠償として英に引き渡された。

 

 V126
  ヴルカーン社。
  1919年の一斉自沈に加わった後、翌1920年に賠償として仏に引き渡された。

 

 V127
  ヴルカーン社。
  1919年の一斉自沈に加わった後、翌1920年に賠償として日に引き渡された。

 

 V128
  ヴルカーン社。
  1919年の一斉自沈に加わった後、翌1920年に賠償として伊に引き渡された。

 

 V130
  ヴルカーン社。
  1919年の一斉自沈に加わった後、翌1920年に賠償として仏に引き渡され「ビュイノ」と改名。1934年に解体された。

V125級
V116

V116
 

 常備排水量2,060t、主砲15.0cm×4門、60.0cm魚雷発射管×4門
 燃料重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式両面水管缶×4基、主機AEGヴルカーン式タービン×2基2軸、出力45,000軸馬力、速力36ノット
 第三帝国海軍の34/34A型駆逐艦(Z1級)のベースとなっているグループ。ヴルカーン社。
 第一次大戦序盤での運用経験より、B97級・V99級などの大型駆逐艦が優れた航洋性発揮し、実戦に好適と判断した独海軍省が1916年の春に建造命令を出した。
 内容は大型駆逐艦(常備排水量2,000t以上)12隻の建造。艦番号はS113~B124。シッヒャウ社、ヴルカーン社、クルップ社、ブローム・ウント・フォス社の4社に3隻ずつの建造命令だった。
 船体は船首楼型。 独駆逐艦で初めて水線長100m・幅10mの大台を超え、主砲は15cm45口径で、同時期の英嚮導駆逐艦の10.2cm砲より強力なものになっていた。
 主砲配置は艦首楼甲板と第一煙突後方に1門ずつと艦尾に2門を背負式に装備した。発射管は第一煙突と後檣の前方にそれぞれ連装2門を配した。
 主缶配置は4缶室に1基ずつ。両煙突に2缶ずつ対応していた。艦首舵は廃止されていた。
 強力な火力と長大な航続力により、巡洋艦の援護無しで長距離の出撃が可能と期待されたが、第一次大戦中に竣工できたのはS113と本艦(V116)のみだった。
 第一次大戦中の独駆逐艦の建造は、基本計画の改変や資材の欠乏、潜水艦の優先建造などのため、発注数288隻のうち、114隻が未成に終わった。
 本艦は1920年に賠償として伊に引き渡され、「プレムダ」と改名。1937年に解体された。

専用掃海艇-Mボート

専用掃海艇-Mボート


 常備排水量500t前後、備砲8.8cm×1~3門
 主缶水管缶×2基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×2基2軸、出力1,800指示馬力前後、速力16ノット前後
 第一次大戦序盤に旧式水雷艇(Tボート)を掃海任務に充当していたが、機雷の進歩にかんがみて、十分な耐波力・航続力を有して喫水の浅い専用掃海艇(Mボート)を発注した。
 発注数は162隻。大戦中に149隻が竣工。主に北海方面で運用され、30隻が失われた。

 

 M116
  ブレーメンのアトラス工場。常備排水量525t
  1917年11~12月に発注されたM107~136のうちの一艇。
  1920年に捕虜輸送艇となるまで掃海任務に従事していた。

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