top of page

34/34A型駆逐艦(Z1級)


 基準排水量2,205~2,275t、12.7cm単装砲×5門、37mm連装機銃×4門、20mm単装機銃×6門、53.3cm四連装魚雷発射管×8門、機雷×60発
 主機関ワグナー缶×6基(Z1~Z8)、ベンソン缶×6基(Z9~Z16)、ギアードタービン×2軸、出力70,000hp、速力38ノット
 仮想敵国仏の艦に類似した砲配置とされている。2番、4番砲を1番、5番砲との背負式、3番砲は4番砲直前のシェルターデッキに装備した。独水雷艦艇で前後部とも背負式を採用した、初の例。
 第一・第二砲塔は艦橋楼の前に配置されていて、第一砲塔の最大仰角は左右145度。戦闘時は砲塔右側に装填手、砲手、照準手の三名と、後方に砲術士官が配置された。砲は横揺れに対する安定性が考慮されて、艦橋左右に魚雷照準用方位盤とサーチライトが装備されていた。
 対空兵装には新開発の37mm砲をジャイロ・スタビライザー付連装砲座として中部両舷に2基を搭載した。20mm単装機銃6門は船首楼両舷に各2門、後部シェルターデッキ上に各2門を配置した。
 Z1~Z4の艦橋楼前面はなだらかな円形。艦首線は直線形状。後の型では艦首の甲板弧度増加により檣楼形状と舷側窓が変更されている。最初の五隻の曲面艦橋は1938年の再装備時に角張った形状に改正されていて、その後の型は最初から角型形状だった。トップ・ヘビー状態を改善するために、艦橋等の上部構造物には軽合金が大幅に用いられた。
 新たな艦橋楼配置で操舵室は広くなり、甲板施設の管理性が改善された。操艦は電動式で、多くの電気作動機器によって行われた。操舵室前には大型の、正方形の窓が5つと防水硝子があり、戦闘時には装甲シャッターを下ろした。
 前方艦橋には射撃方位盤があり、機関室には艦橋と連絡するための伝達装置のテレフラグと回転計が、機関の効率的運用を図るために、一つの計器にまとめられていた。艦尾には4m光学測距儀があった。
 後部構造物には2基目の4m測距儀と主サーチライト、3.7cm連想対空砲架、補助操舵装置があった。
 重厚な艦橋構造と大きな前方煙突頂部の鋼板の大いに特色があり、小さい後方煙突も頂部に鋼板覆いを装備している。両煙突の基部にはボイラー室用の大型換気口がある。
 当時の殆どの国が300psiを超えていないボイラーを使用していたのに対し、独は1616psiの運用圧力を持つ新型ボイラーの開発を狙っていた。
 1935年に北独・ロイド社が極東航路の運航を開始した際に配当した三隻の推進船は、ポツダムのベンソン缶やシャルンホルストとグナイゼナウのワグナー缶(シャルンホルスト1325psi、グナイゼナウ737psi)といった高圧ボイラーを搭載していた。
 タンネンブルクで850psiワグナー缶の試験を実施後、独軍艦初の新型ボイラー(ベンソン缶)搭載艦、通報艦「グリレ」が1935年5月に就役した。ワグナー缶は1936年2月に就役した練習艦「ブルンマー」をもって運用に入った。
 1937年1月の時点でシステムとして実用可能な域まで到達し得ておらず、大戦初期まで頻繁にトラブルに見舞われるという状態が続いた。
 タービンの取扱いが困難を来したベンソン艦に関しては、海軍総司令部からゲルマニア社へ新式の高圧タービンを発注する決定が1941年1月に下された。
 約半数が緒戦で戦没したため改正点は無く、1940年中に前檣が三脚となった点と1942年に生存していた六隻が上部重量軽減のために煙突のカットダウンを行った点があった。
 1944年にヤコビ、シュタインブリンク、ロディは大規模な改修を実施している。
 各艦とも前檣をゴールポスト状に改め、電探空中線を全周旋回可能にした。後部シェルターデッキ上に20mm四連装砲機銃ヴィールリンク1基を搭載し、同位置の20mm単装機銃2基を船首楼上と後甲板上移設。一部の艦ではシェルターデッキ上の二、四番砲砲身下にあたる場所にも20mm単装機銃を装備していた。
 1940年4月から残存している艦全てにレーダーが搭載されてきたが、1944年末まで性能の良いものは得られず、補助電探が後部煙突後方に搭載されていた。
 連合軍の航空優勢が益々顕著化してきたことから、艦橋前方・中部・三番砲塔撤去跡各2基に37mm連装機銃6基、20mm機銃9門をバウ・チェイサーに1門、艦橋ウイングにLM44連装銃座2基・後部四連装1基、8.6cmロケットランチャーを標準装備とする計画が持たれたが、計画通りにはいかずに各艦で施行状況に幅があった。
 ナルヴィク戦後に各艦は第5、第6駆逐群へ改編されたが、隊編成に緊密性はあまり無く、駆逐群の全艦が一堂に会して行動することは滅多になかった。仏陥落後の作戦行動の中心は1940年末から1941年にかけて英仏海峡、仏大西洋岸地域へと移った。
 1943年9月初めのスピッツベルゲンにも参加した艦があったが、北洋作戦としては航続力不足であるということから、10月をもって南部への配備変更を命ぜられた。これによって1943年末から1944年に入る時期はスカゲラック地域が主作戦区域となり、オスロを出入港する輸送船団や機雷敷設艦の護衛、スウェーデン諸港からの脱出を図る連合国商船の阻止を目的としたパトロール等にあたった。
 番号艦名は1939年11月7日以降、戦術符号としてのみ使用された。
 艦名は第一次大戦時の軍人から。

 

 ・Z1-レーベレヒト・マース
  キール工廠。
  1939年9月3日、グディニアにてポーランド艦隊と交戦し、沿岸砲台から命中弾を受けている。この時本艦は水雷艇戦隊司令官リュッチェンス少将から水雷艇戦隊の旗艦とされていた。
  1940年2月に自軍機の誤爆を(パイロットが空中から船を見たのはこれが初めてだった)受け、19時58分に沈没。被爆後12分のことだった。
  乗員330名のうち生存者は60名。
  この時本艦は駆逐艦群の殿を務めていた。最期の通信は「飛行機確認。月にかかる黒雲のなか」
  艦長:シュミット少佐→ワグナー少佐→フリッツ・バスエンゲ少佐

 

 ・Z2-ゲオルク・ティーレ
  キール工廠。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第1駆逐隊に所属。ダンツィヒ湾沖の東バルト海へ展開。
  ノルウェー侵攻部隊の一員としてナルヴィク占領を命ぜられたが、1940年4月10日の第一次ナルヴィク海戦では7発を喫し、13日の第二次ナルヴィク海戦で沈没。
  姉妹艦「マックス・シュルツ」が水雷艇「ティーガー」を沈めた際には、損傷した姉妹艦を曳航。
  艦長:ハルトマン少佐→プフェンドルフ少佐→マックス=エッカルト・ヴォルフ少佐

 

 ・Z3-マックス・シュルツ
  キール工廠。よくボイラー室あたりに不具合が起きる。
  1940年2月に自軍機からの誤爆撃を受け、回避行動をとるうちに英側が新設した機雷原に踏み込み触雷して沈没。
  乗員308名のうち生存者は無し。
  艦長:バルツァ少佐→クラウス・トラムペダッハ少佐

 

 ・Z4-リヒャルト・バイツェン
  キール工廠。対空兵装の強化についての改装は他の5隻と比べて小規模止まりだった。未施工だった可能性もある。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第1駆逐隊に所属。ダンツィヒ湾沖の東バルト海へ展開した。
  その後は北海での活動に移り、10月から翌1940年2月の期間中に11回の出撃を実施。参加回数は3回。
  1940年末から1941年にかけて英仏海峡、仏大西洋岸地域へと作戦行動の中心を移し、「ハンス・ロディ」「カール・ガルスター」と共に英駆逐艦「ジャヴェリン」を大破させた。
  1942年1月に仏へ移動後は2月のツェルベルス作戦に参加し、ブレストから本国へと帰還する巡洋戦艦隊を護衛した。作戦終了後はノルウェーへ進出した。1942年中はノルウェー、バレンツ海で大型艦に随伴して行動。
  1945年3月にスカゲラック海峡で船団護衛中に夜間空襲を受け大破。戦後は英に保有されたが、1949年1月10日に解体のために売却された。
  艦長:ガドゥ少佐→シュミット少佐→ハンス・フォン・ダヴィトソン少佐→ドミニク少佐→ルッデ=ノイラート大尉→ガーデ少佐→ノイス少佐

 

 ・Z5-パウル・ヤコビ
  デシマーク社。1944年に大規模な改修を実施し、クリッパー・バウを装着している。
  連合軍の航空優勢が顕著化してきたことから、対空兵装を強化したが、計画通りの武装には至らなかった。37mm連装機銃×4基+37mm単装機銃×2基の計10門、20mm単装機銃×1基+20mm連装機銃×5基+20mm四連装機銃×1基の計15門。
  1942年1月に仏へ移動し、ツェルベルス作戦に参加。その後は北部ノルウェー、バレンツ海で大型艦に随伴して行動した。
  1943年12月にキールへの空襲で被弾し損傷。沈没には至らなかったが、敗戦後は仏に引き渡され、仏海軍に「ドゥゼー」として編入された。1954年2月に除籍。
  艦長:ペータース少佐→ゾンマー少佐→シュリパー少佐→ブルター少佐

 

 ・Z6-テオドル・リーデル
  デシマーク社。「パウル・ヤコビ」同様対空兵装を強化していたが、やはり施行状況に幅があり、37mm連装機銃×2基の計4門、20mm単装機銃×6基+20mm連装機銃×2基+20mm四連装機銃×1基の計14門となっていた。バルト海を発つ前にFa339バッハシュテルツ(鶺鴒の意)という風力オートジャイロの試験に用いられている。
  ノルウェー侵攻(ヴェーゼル演習)作戦ではトロンヘイム部隊に所属。終戦間近まで前線に立ち続け、東普からの撤退作戦にも参加した。
  戦後、仏海軍に引き渡され「クレベ」として編入された。1957年4月に予備艦となった。
  艦長:フェヘナー少佐→ボーミグ少佐→ヴァルター・リーデ少佐→ハウゼン少佐→メンゲ少佐→ブローズ少佐

 

 ・Z7-ヘルマン・シェーマン
  デシマーク社。
  1942年1月に第5駆逐群として仏へ移動。ツェルベルス作戦に参加している。その後はノルウェーへ進出。
  Z24、Z25と共にPQ14船団を攻撃に向かった際に英軽巡洋艦「エディンバラ」に撃沈された。
  艦長:モンティング少佐→テオドル・デトマース大佐→ハインリヒ・ヴィティヒ少佐

 

 ・Z8-ブルーノ・ハイネマン
  デシマーク社。暫定武装として一~三、五番砲位置に15cm砲を搭載して竣工し、将来の駆逐艦建造へ向けた同砲の適合性評価に供されたが、好天下で行われた試験は総体的に誤解を招く結果をもたらし、結局第二次大戦開戦までに計画武装へ戻されている。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第6駆逐隊としてダンツィヒ湾沖の東バルト海へ展開。
  1939年10月17日から翌1940年2月10日にかけての、英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には3回参加した。
  1942年1月に仏へ移動し、ツェルベルス作戦に参加。ブレストから本国へと帰還する巡洋戦艦隊を護衛したが、同2月25日にグリネ岬沖で触雷し沈没。
  艦長:フリッツ・ベルゲン中佐→ゲオルク・ラングヘルト少佐→アルベルツ少佐

 

 ・Z9-ヴォルフガンク・ツェンカー
  ゲルマニア造船所。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第6駆逐隊に所属。10月17日から1940年2月10日の英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には2回参加した。
  ノルウェー侵攻部隊としてナルヴィク占領を命ぜられた。1940年4月13日の第二次ナルヴィク海戦に参加し、沈没した。
  艦長:ポーニッツ少佐

 

 ・Z10-ハンス・ロディ
  ゲルマニア造船所。連合軍の航空優勢が顕著化してきたことから、対空兵装の強化改装を施工している。37mm連装機銃×7基、20mm連装機銃×3基+20mm四連装機銃×1基。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時には第9駆逐隊に所属。10月17日から1940年2月10日の英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には2回参加した。
  仏陥落後、作戦行動の中心が1940年末から1941年にかけて英仏海峡や仏大西洋岸地域へと移った頃、「リヒャルト・バイツェン」「カルル・ガルスター」と共に英駆逐艦「ジャヴェリン」を大破させていた。ライン演習作戦の際に第六駆逐戦隊でビスマルクとプリンツ・オイゲンをエスコートしている。
  1943年9月初めのスピッツベルゲン攻撃に参加し、敗戦間近には東普からの撤退作戦にも参加した。
  戦後は英に「リヒャルト・バイツェン」と共に保有されたが、1949年7月17日に解体のために売却された。
  艦長:プットカマー少佐→フーベルト・フライヘア・フォン・ヴァンゲンハイム大佐→プフェイファー少佐→ツェンカー少佐→マルクス少佐→ハウン中佐

 

 ・Z11-ベルント・フォン・アルニム
  ゲルマニア造船所。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第6駆逐隊に所属。10月17日から1940年2月10日の英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には1回参加した。
  ノルウェー侵攻部隊としてナルヴィク占領を命ぜられたが、1940年4月10日の第一次ナルヴィク海戦で5発を喫してボイラー1基が不稼動になり、13日の第二次ナルヴィク海戦で撃沈した。
  艦長:クルト・レヘル少佐

 

 ・Z12-エーリヒ・ギーゼ
  ゲルマニア造船所。
  1939年10月17日から1940年2月10日の英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には1回参加した。
  ノルウェー侵攻部隊としてナルヴィク占領を命ぜられたが、1940年4月13日の第二次ナルヴィク海戦で撃沈した。
  艦長:シュミット少佐

 

 ・Z13-エーリヒ・ケルナー
  ゲルマニア造船所。
  1939年10月17日から1940年2月10日の英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には2回参加した。
  ノルウェー侵攻部隊としてナルヴィク占領を命ぜられたが、1940年4月13日の第二次ナルヴィク海戦で撃沈した。
  待ち伏せ位置に到達できなかった本艦は一度の斉射と二発の魚雷を放った後、英艦隊から集中砲火を受けた。
  艦首は魚雷で吹き飛ばされ、第一ボイラー室と第二ボイラー室に連続命中弾。砲弾揚弾機も破壊されたため、自沈に至った。戦艦「ウォースパイト」から38.1cm弾を受けてもいる。
  艦長:シュルツ・ヘンリクス大佐

 

 ・Z14-フリードリヒ・イーン
  ブローム・ウント・フォス社。連合軍の航空優勢が顕著化してきたことから、対空兵装の強化改装を施工している。37mm連装機銃×2基、20mm単装機銃×6基+20mm連装機銃×2基+20mm四連装機銃×1基。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第3駆逐隊に所属。北海での作戦に移り、10月17日から翌1940年2月10日の期間中に英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦には3回参加した。
  敗戦間近に展開された東普からの撤退作戦にも参加している。戦後は露(ソ連)に引き渡され、1950年代末に除籍された。
  艦長:トタンペダッチ少佐→バイ少佐→プッフェンドルフ少佐→ギュンター・ヴァクスムート少佐→フロム少佐→リヒター=オルデコップ中佐

 

 ・Z15-エーリヒ・シュタインブリンク
  ブローム・ウント・フォス社。連合軍の航空優勢が顕著化してきたことから、対空兵装の強化改装を施工している。兵装は「ハンス・ロディ」と同じ。37mm連装機銃×7基、20mm連装機銃×3基+20mm四連装機銃×1基。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第3駆逐隊に所属。北海での作戦に移り、1939年10月17日から翌1940年2月10日にかけての、英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦に参加。参加回数は2回。1943年9月初めのスピッツベルゲン攻撃にも参加している。
  1944年6月にハンブルクで空襲を受け被弾。沈没には至らなかったが、敗戦後は露(ソ連)に引き渡され「ピルキィ」と改名された。1950年代末に除籍。
  艦長:ロルフ・ヨハネソン少佐→ローリングホーフェン少佐→テイヒマン少佐→ローヴァー少佐

 

 ・Z16-フリードリヒ・エックオルト
  ブローム・ウント・フォス社。
  1939年9月1日の対ポーランド作戦開始時は第3駆逐隊に所属。その後は北海での作戦に移り、1939年10月から翌1940年2月の期間中に英東海岸沿い一帯に機雷を敷設する作戦に参加した。参加回数は5回。
  トロンヘイム部隊に編入された。ナルヴィク戦後はあまり緊密性の無い駆逐群改編を受け、1942年中は北部ノルウェー、バレンツ海で大型艦に随伴した。ライン演習作戦の際に第六駆逐戦隊でビスマルクとプリンツ・オイゲンをエスコートしている。
  JW51B船団攻撃に参加した際に英軽巡洋艦「シェフィールド」に撃沈された。「Z4(リヒャルト・バイツェン)」とともに英艦を味方の艦だと誤認したため。生存者無し。
  艦長:アルフレート・シェンメル中佐→メンゲ少佐→ルッツ・ゲルストゥング少佐→アルフレート・シェンメル大佐(臨時)

bottom of page