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グラーフ・ツェッペリン級


 基準排水量、23,200t、15cm単装砲×8門、10.5cm連装高角砲×12門、37mm連装対空機関砲×22門、20mm対空機関砲×28門、航空機×42
 機関出力200,000hp、速力33.8ノット
 英独海軍協定によって手に入れた38,500tの航空母艦建造枠を半分にわけて建造することが計画された19,250tの航空母艦二隻。
 最大装甲が舷側100m、甲板60mmで重巡洋艦並。安定の硬さ。
 舷側がそのまま格納庫の側面となり、飛行甲板まで伸びている。
 飛行甲板の長さは240mで、艦の全長とほぼ同じ。カタパルト×2基とエレベーター×3基が装備されていた。
 カタパルトは毎分一機の航空機を発艦させることが可能。二基合わせて30秒に一機の割合で発艦できた。
 搭載機はMe109E-4Nを艦上機化したMe109T-1とJu87Bを改造したJu87C-1。搭載予定数はそれぞれ前者が10機、後者が12機。この他に複葉電撃機のFi167を20機搭載する予定だった。

 

 一番艦:グラーフ・ツェッペリン
  1936年12月28日にキールで起工。1938年12月8日に進水したが艤装中に開戦したため、1940年4月10日に建造作業が一時停止されている。このとき工事は85%まで進んでいた。
  1942年に工事が再開され、改装も加えられることになった。
  15.5cmの主砲を軽巡洋艦並の連装8基に強化。対空砲火も増強した。これによって重くなった船体のために舷側に最大2.4mのバルジを設けた。
  こうした改装によって最大排水量は33,550tに達していた。
  搭載機にも変更があり、旧式の複葉電撃機Fi167が搭載機から外され、Me109T-1が12機とJu87Eが30機となった。Ju87EはJu87Dがベースになっている新型機で、艦上機への改造内容はJu87Cと同じだが、魚雷攻撃ができるようになっていた。
  格納庫は二段式だった。
  カタパルトをイタリアに譲渡してしまったこともあり、工事はなかなか進展せず、再開された工事が終わらないうちに1943年の大型艦解体命令によって再び中止してしまった。
  終戦時の1945年4月にシュテティンで自沈したが、1947年に当地を占領していた露(ソ連)により浮揚された。露(ソ連)へ回航されている途中に戦時中の機雷に触れ沈没。

 

 二番艦:〈B〉
  1938年に起工。1939年9月19日に工事が中止され、1940年に解体された。

ザイドリッツ(ヴェゼル)
 アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦の三番艦。1936年にブレーメンで起工され、1939年1月19日に進水。
 竣工前に第二次大戦が始まったことにより未成のまま放置されていたが、グラーフ・ツェッペリンの工事再開と同時期の1942年5月に航空母艦に改造する計画となり、着工は同1942年の12月だった。
 その際、重巡洋艦としての工事は95%まで完了していたため、艦上構造物を取り除いて格納庫と飛行甲板を装備することになった。
 船体が大きくなかったため、格納庫は一段式で、飛行甲板の長さも200mと、やや短かった。カタパルトは先端に2基を装備。発艦は容易だった。搭載機はMe109T-1とJu87Eが10機ずつの計20機。
 兵装は、船体の大きさから主砲装備できず、高角砲と機銃だけであった。
 1943年の大型艦解体命令により、グラーフ・ツェッペリンと同様に工事が中止され、連合軍の空爆を避けるためケーニヒスベルクに退避。その後、同都市陥落直前の1945年1月29日に自沈した。
 自沈後、ソ連軍によって浮揚され、ソ連本国に戦時中売却されていたアドミラル・ヒッパー級重巡洋艦五番艦リュッツォウを竣工させるための部品取りとして回航された。
 が、結局リュッツォウは竣工まで至らず、本艦も解体されてしまった。

 

 


この他にもポケット戦艦(重巡洋艦に類別変更)「リュッツォウ」「アドミラル・シェーア」、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」「プリンツ・オイゲン」が航空母艦に改装されることも検討されていた。
当時、二機ないし三機の航空機に射出機及び着艦用甲板を擁す、航空機用母艦と呼べる艦を独海軍はもちろん保有しておらず、射出機を装備していた「フリーゼンラント」「シュヴァーベンラント」はこれに含まれなかった。だいたい空軍元帥のせい。

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