
クールフュルスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク)級
常備排水量10,013t、主砲28cm×6門、副砲10.5cm×6門、8.8cm単装砲×8門、3.7cm砲×12門、45.0cm水上発射管×6基、
装甲400mm、燃料石炭、主缶円缶×12基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×2基2軸、出力9,000指示馬力、速力16ノット
1888~89年度計画で4隻が建造された。1899年に装甲艦から戦艦に類別変更。
基本設計が全般的に同時期の仏主力艦に準じている。
船首楼型。中央砲塔が缶室と機械室の間に配してある。
主砲は首尾砲塔が40口径(最大射程14,440m)、中央砲塔が35口径(最大射程15,080m)。最大仰角は25度。
砲室は半球状で後方に張り出しが設けられていた。副砲は前部上構内に装備された。
1904~05年の改装で前後檣の円形高所銃座を縮小。副砲を2門増やし、水上発射管を6門から2門に減らした。
装甲は一番艦と三番艦がニッケル甲鉄、二番艦と四番艦が複合甲鉄になっている。
一番艦:クールフュルスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。
1910年9月に土海軍に譲渡され「バルバロス・ハイレディン」と改名。
第一次大戦中の1915年8月8日にダーダネルズ海峡にて英潜水艦E11の雷撃により沈没。
二番艦:ブランデンブルク
ネーム・シップとなることが多い。
三番艦:ヴァイセンブルク
1910年に一番艦「クールフュルスト・フリードリヒ・ヴィルヘルム」とともに土海軍に譲渡され「トルグット・レイス」と改名、運用された。
第三帝国海軍のランデヴー油槽船「ヴァイセンブルク」とは別の艦。
四番艦:ヴェルト
クルップ社。他の三隻と比べて煙突がやや低くなっていた。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第5戦隊、1915年から第6戦隊に所属。沿岸防備に従事した。
1915年5月には占領した露の軍港リバウで防備艦となり、翌1916年にはダンツィヒで宿泊兼給水艦となった。1919年に解体、除籍。
カイザー・フリードリヒ3世級
常備排水量11,097t、主砲24cm×4門、副砲15cm×18門、8.8cm単装砲×12門、機砲×12門、45.0cm水中発射管×6基
装甲300mm、燃料石炭、主缶ソーニクロフト式水管缶×4基+円缶×8基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力13,000指示馬力、速力17.5ノット
1892~94年度計画で5隻が建造された。
独海軍の標準戦艦(前ド級戦艦)の祖形と言え、長船首楼型の船体。円缶と水管缶へ全面的に移行する過渡期の設計。
独戦艦で初めて主機を3基3軸採用。前部機械室に両舷機、後部機械室に中央機を配置、翼軸を外方回転、中央軸を左回転とした。3軸推進はコルヴェット「カイゼリン・アウグスタ」に次ぐ採用。
缶室配置は常用する第一缶室、水管缶を第二・第三缶室に収めてそれぞれ第一煙突と第二煙突に対応させていた。
3~5番艦は缶使用圧増大にともなって4気筒3段膨張レシプロ機関となっている。
主砲は同時期の英戦艦よりも二回り小さいが、副砲は口径、数ともに上回っていた。副砲18門中14門は最上甲板に装備。
艦首砲塔の装備位置は最上甲板よりも一層分高く、喫水線からの砲身高は9.1mだった。
建造された5隻中4隻は1907~10年に日露戦争の教訓に基づいて改装された。
標的面積と上部重量の削減のために上構を縮小して前後檣ともに棒檣として高所銃座を廃止。
水雷艇撃退用8.8cm補助砲8門を上構内から上甲板に移設。低位置の上甲板にあった副砲4門を撤去して水線甲帯の増高に振った。
前後檣トップマストと煙突を増高し、ダースネック・クレーンをデリック・アームに換装、艦首飾を廃止するなどして艦容が一変した。
一番艦:カイザー・フリードリヒ3世
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。中央砲塔艦「プロイセン」の代艦名目で建造された。
就役とともに本国艦隊第1戦隊に所属。1908~09年に改装を受けた後、第一次大戦開戦時は本国艦隊第5戦隊副旗艦を務め、ベガス代将の将旗を掲げていた。
1915年2月、乗員を潜水艦作戦に転用するために戦隊ごと予備役となり、兵装を解きキールで宿泊艦となった。
1918年にはフレンスブルクで宿泊艦となり、1919年に除籍、1920年に解体された。
二番艦:カイザー・ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×4基+円缶×8基。
中央砲塔艦「フリードリヒ・デア・グローセ」の代艦名目で建造された。命名は現皇帝にちなんでいた。
就役から1906年にかけて本国艦隊旗艦を務めた。1911年に公海艦隊第3戦隊所属となっている。第一次大戦開戦時は公海艦隊第5戦隊の旗艦を務め、グラボウ中将の将旗を掲げていた。
1915年、ヴィルヘルムスハーフェンで公海艦隊司令部専用艦となった。1921年に除籍、解体。
三番艦:カイザー・ヴィルヘルム・デア・グローセ
クルップ社。主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×4基+円缶×6基、主機4気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸。
就役とともに本国艦隊第1戦隊に所属。1908~10年に改装を受けた後、1911年に公海艦隊第3戦隊所属となっている。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第5戦隊第1小隊2番艦を務めた。
1917年、キールで水雷試験艦となる。1919年に除籍、翌1920年に解体された。
四番艦:カイザー・カール・デア・グローセ
1894年4月に公布された艦隊法による増勢分第2艦。
五番艦:カイザー・バルバローサ
1894年4月に公布された艦隊法による増勢分第1艦。
ヴィッテルスバッハ級
常備排水量11,744t、主砲24cm×4門、副砲15cm×18門、8.8cm単装砲×12門、3.7cm砲×12門、45.0cm水中発射管×6基
装甲225mm、燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×6基+円缶×6基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力14,000指示馬力、速力18ノット
1897~99年度計画で5隻が建造された。前級(カイザー・フリードリヒ3世級)の改良版。
船体を長船首楼型から平甲板型にし、艦尾砲塔の装備位置を前級より甲板一層分高くした。
司令塔は二階建て。全面に艦橋、天蓋上に前部羅針儀の架台を設置、第一煙突はやや前よりになっている。艦首の後寄りに補助錨を装備。
1911年に前後檣トップマストを増高し、後部羅針儀台座を後檣の前方より後方に移設。
副砲の配置も変更されいている。正艦首方向へ指向可能な門数を前級の6門から8門に増強。
装備位置は前級が最上甲板14門・主甲板(砲郭甲板)4門だったのが、最上甲板8門・主甲板10門になった。
装甲は水線部を減厚した反面、装着範囲を副砲砲郭まで広げたため防御重量は前級よりも増大した。
前後檣の探照灯は前級よりも高位置に装備された。
主砲は前級と同じ。クルップ式の層成砲身・鎖栓式尾栓の薬莢砲。実口径は23.8cm(最大射程16,900m)、最大仰角は30度。
一番艦:ヴィッテルスバッハ
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第4戦隊旗艦を務め、シュミット中将が座乗していた。
1914年9月に公海艦隊を率いてバルト海東部に進攻。
1916年に練習艦となり、1919年に掃海母艦となった。1920年退役。1921年に除籍、売却された。
二番艦:ヴェッティン
三番艦:ツェーリンゲン
クルップ社。
1910年9月、予備艦隊付属艦となったが、第一次大戦開戦時は公海艦隊第4戦隊に復帰した。
1915年に水雷標的艦、翌1916年に練習艦となった。1920年に除籍された後は1926~27年に無線操縦の標的船に改造された。
ヴァイマル共和国海軍、第三帝国海軍でも使用されたが、1944年12月18日にゴーテンハーフェンで英機の爆撃により着底。
四番艦:シュヴァーベン
五番艦:メクレンブルク
ヴルカーン社。主缶ソーニクロフト式水管缶×6基+円缶×6基。
就役とともに本国艦隊第1戦隊に所属。1911年に予備艦隊に編入されたが、第一次大戦開戦時に公海艦隊第4戦隊第1小隊の所属になった。
1916年にキールで捕虜収容艦、1918年に潜水艦戦隊、1919年には掃海艇隊の宿泊艦となった。
1920年に除籍、解体。
ブラウンシュヴァイク級
常備排水量13,208t、主砲28cm×4門、副砲17cm×14門、8.8cm単装砲×18門、3.7cm砲×4門、45.0cm水中発射管×6基
装甲225mm、燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×8基+円缶×6基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力16,000指示馬力、速力18ノット
1900~01年度計画で5隻が建造された。前級(ヴィッテルスバッハ級)の拡大強化版。1900年6月の改定艦隊法による増勢分とされた。
ブラウンシュヴァイク級の登場により独海軍標準戦艦の基本形がほぼ確立した。
主砲は28cm40口径(実口径28.3cm、最大射程18,800m)で最大仰角30度。副砲は17cm40口径(実口径17.26cm、最大射程18,800m)で最大仰角22度。
主砲は重量増大にともなって前後砲塔とも上甲板装備になり、副砲は上甲板の単装砲塔に4門と主甲板の砲郭に10門装備された。
当時の列国海軍が二巨砲混載戦艦に移行しつつあったが、ブラウンシュヴァイク級では主・副・中間3砲の射撃指揮が困難という理由から中間砲を採用しなかった。
主缶は依然として円缶水管缶の混載だったが水管缶の力量を増大し円缶の力量を減少させ、円缶の配列を従来の縦方向(首尾線方向)から横並び(幅方向)に改めた。
缶室内配置は円缶6基を第一缶室、水管缶を第二・第三缶室に4基ずつ収めた。缶室ごとに煙突を対応させたため独戦艦初の3本煙突となった。
一番艦:ブラウンシュヴァイク
第一次大戦開戦時には公海艦隊第4戦隊の副旗艦を努め、アルベルツ少将が座乗した。
1916年にキールで新兵教育艦、翌1917年には宿泊艦となった。
ヴェルサイユ会議の結果、大戦後も保有を認めたれたため1921年~1922年にかけてヴィルヘルムスハーフェン工廠で復旧作業を行い、1922年3月にヴァイマル共和国海軍の戦艦として現役復帰した。
復旧の際に後部副砲塔2門は廃止され、羅針艦橋が拡充された。
1931年に除籍され、ヴィルヘルムスハーフェンのハルクを経て1935年頃に解体された。
二番艦:エルザス
シッヒャウ社。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第4戦隊第2小隊に所属。
1915年12月に退役、1916年7月に兵監部練習艦となり、1918年7月に全兵装を撤廃した。
ヴェルサイユ会議の結果、大戦後も保有を認められたため、副砲塔など一部を残して兵装を復旧。ヴァイマル共和国海軍に引き継がれ、戦艦として復帰した。
その後1930年に退役し、翌1931年に除籍。1935年に売却、解体された。
三番艦:ヘッセン
クルップ社。燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×8基+同重油専焼缶×2基。
独主力艦で初めて円缶の代わりに重油專焼缶を搭載した。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第2戦隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第2戦隊第4小隊3番艦としてブラウンシュヴァイク級から唯一参加。
英巡洋戦艦部隊追撃の北上戦では独戦艦22隻の殿を航行。被害無く帰還を果たした。
同年末にキールで潜水艦戦隊の付属艦となった後、ヴァイマル共和国海軍に引き継がれ戦艦として復帰。
第三帝国海軍にも引き継がれ1935年に標的艦に改造され、第二次大戦終結まで在籍したが、1946年に露(ソ連)に接収された。
四番艦:プロイセン
ヴルカーン社。
就役とともに本国艦隊第2戦隊に編入された。第一次大戦開戦時は公海艦隊第2戦隊の旗艦を務め、後に公海艦隊司令長官となるシェーア中将が座乗。
第一次大戦中は主にドイツ湾方面の沿岸防備に従事。1917年にはバルト海の砕氷任務を経てヴィルヘルムスハーフェンで潜水艦戦隊の付属艦となった。
ヴァイマル共和国海軍に引き継がれ、1919年に第8・第9掃海半艇隊母艦に改造された。第三帝国海軍水雷艇レオパルトと接触した敷設艦かは不明。
五番艦:ロートリンゲン
シッヒャウ社。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第2戦隊第1小隊3番艦を務めた。
1917年3月に主兵装を撤廃。副砲10門を残して砲術練習艦となった。その後1919年には第4掃海艇隊第10半艇隊母艦に改造された。
その改造の内容は、小喫水内火式掃海艇を合計12隻詰積めるように艦首から艦尾にかけて両舷にボート・クラッチ移動用レールを敷いた架台を付加したこと。
グースネック・クレーンを撤去していたため、デリック・アームを設けて第一煙突直後に鋼材で台形の支持や櫓を組んだ。
ドイッチュラント級
常備排水量13,191t、主砲28cm×4門、副砲17cm×14門、8.8cm単装砲×20門、3.7cm砲×4門、45.0cm水中発射管×6基
装甲225mm、燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×8基+円缶×6基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力16,000指示馬力、速力18ノット
1901~02年度計画で5隻が建造された。前級(ブラウンシュヴァイク級)の改良版。改定艦隊法による増勢分として計画された。
兵装は前級と同じだが、上甲板の副砲を単装砲塔ではなく砲郭装備として重量を軽減した。主甲板の副砲も間隔を広げて装備し、1門ごとの視界を広げた。
煙突の外筒は下半分のみとなり、後に第三煙突だけが増高された。
二番艦以降は1902~03年度計画で建造されており、一番艦よりも防御が強化されている。
主缶は円缶との混載をやめ水管缶のみとした。第三缶室に4基ずつ収め、缶室ごとに煙突を対応させた。
一番艦:ドイッチュラント
クルップ社。
就役とともに本国艦隊総旗艦を、1913年にカイザー級一番艦「フリードリヒ・デア・グローセ」に譲るまで務めた。その後は本国艦隊第2戦隊に所属。
1909年に前後檣トップマストを増高。前檣中ほどと第三煙突側面及び後部ミリタリー・マスト天蓋に探照灯を増設している。
第一次大戦開戦時は本国艦隊第2戦隊第4小隊に所属し、ユトランド海戦では本国艦隊第2戦隊旗艦としてマウフェ少将が座乗。二番艦~五番艦と前級三番艦「ヘッセン」を率いて参加。無事帰還した。
1917年の戦隊解散に伴いヴィルヘルムスハーフェンで宿泊艦となり、1920年に除籍、1921年にかけて解体された。
二番艦:ハノーファー
三番艦:ポンメルン
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。装甲240mm、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×12基、出力20,000指示馬力。
就役とともに公海艦隊第2戦隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第2戦隊第3小隊2番艦として参加。
帰投中の1916年6月1日未明、英第12水雷戦隊より魚雷1~2本を受けたことにより副砲弾薬庫が誘爆、船体分断を起こして沈没。
四番艦:シュレジェン
シッヒャウ社。装甲、主缶、出力はポンメルンと同じ。
就役とともに公海艦隊第2戦隊に編入された。第一次大戦開戦時は公海艦隊第2戦隊第4小隊に所属。
ユトランド海戦には公海艦隊第2戦隊第3小隊3番艦として参加。
戦隊解散後はバルト海の砕氷艦や海防艦・新兵教育艦・砲術練習艦等を転々とし、1918年からは主砲副砲ともに撤去し10.5cm砲と8.8cm砲のみを装備してキールで兵学校練習艦となった。
第一次大戦末期の反乱では姉妹艦や第三戦隊で唯一行動をともにしなかったために、姉妹艦の大砲で威嚇され外海へ遁走した。
ヴァイマル共和国海軍に引き継がれて戦艦として復帰。第三帝国海軍においても現役で、ビスマルクの先導も務めている。
1945年5月4日にシュヴィーネミュンデで英機の投下した機雷に触れて着底。
五番艦:シュレスヴィヒ=ホルシュタイン
四番艦「シュレジェン」と同じく第三帝国海軍においても現役であった。
1939年9月1日の波侵攻作戦で陸軍への沿岸支援でヴェスタープラッテ要塞へ火蓋を切っている。
その後は四番艦「シュレジェン」とともにオクスホフト、オストロヴォグルンド、ヘクセングルンドの部隊終結点や防御拠点へ砲撃を加えた。
ナッサウ級
常備排水量18,873t、主砲28cm×12門、副砲15cm×12門、8.8cm単装砲×16門、45.0cm水中発射管×6基
装甲270mm、燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×12基、主機3気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力22,000指示馬力、速力19ノット
独海軍初のド級戦艦。1906年度予算と1907年度予算で2隻ずつ建造された。計画主任はビュルクナー博士。
計画当初は28cm砲と21cm砲の二巨砲混載戦艦だったが、「ドレッドノート」の情報を手に入れたことにより単一巨砲全装艦に変更。
連装6砲塔を亀甲形に配置し両舷戦闘に備えている。船体の割に重兵装と評された。
主砲は砲身長45口径(最大射程18,000m)で最大仰角13.5度。副砲は砲身長45口径(最大射程14,900m)で最大仰角19度。
火薬庫は弾庫上とされたが、一番艦と二番艦の首尾砲塔だけは上下が逆だった。
機械室は1軸ずつ水密縦隔壁で仕切られ、主缶は3缶室に4基ずつ収め、第一・第二缶室は第一煙突、第三缶室は第二煙突に対応していた。
一番艦:ナッサウ
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。装甲艦「バイエルン」の代艦名目で建造された。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊第2小隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第1戦隊第2小隊3番艦として参加。
夜戦で英駆逐艦「スピットファイア」を襲撃。主砲の爆風でその艦橋と煙突を吹き飛ばした。小口径弾2発を喫している。
1920年に賠償として日に引き渡されたがスクラップとして売却され、蘭で解体された。
二番艦:ヴェストファーレン
ヴェーザー社。旧装甲艦「ザクセン」の代艦名目で建造された。
ユトランド海戦に参加し、夜戦で英駆逐艦「ティッペラリー」を沈めた。その一方で1発被弾している。
1918年9月にヴィルヘルムスハーフェンで砲術練習艦となり、第一次大戦後1920年8月に賠償として英に引き渡された。
三番艦:ラインラント
ヴルカーン社。装甲290mm。装甲艦「ヴュルテムベルク」の代艦名目で建造された。
後部羅針儀台座はラインラントより後檣の直後に設置された。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊第2小隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第1戦隊第2小隊3番艦として参加。
夜戦で中口径弾2発を喫した。1918年4月にフィンランド赤化防止作戦に参加したが、4月11日、濃霧の為にオーランド諸島南方で座礁。
工作船「ボスニア」などによって石炭・砲塔・舷側装甲といった重量物約6,400tを撤去し、1918年7月にようやく浮揚。キールに曳航された。
復旧されることはなく、そのままキールで宿泊艦となり1919年に除籍され、翌1920年に賠償として停戦監視委員会に引き渡された後、蘭で解体された。
四番艦:ポーゼン
クルップ社。装甲はラインラントと同じ。装甲艦「バーデン」の代艦名目で建造された。
1913年7月4日の観艦式に参列してる。この時の所属は公海艦隊第2戦隊副旗艦。第2小隊1番艦だった。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊の副旗艦を務め、ゲーデッケ少将が座乗。
ユトランド海戦ではエンゲルハルト少将が座乗。夜戦で英第4水雷戦隊の襲撃を回避した味方巡洋艦「エルビング」を自沈に至らしめた。
フィンランド赤化防止作戦に参加し、1920年に賠償として英に引き渡され、スクラップとして蘭に売却された。
ヘルゴラント級
常備排水量22,808t、主砲30.5cm×12門、副砲15cm×14門、8.8cm単装砲×14門、50.0cm水中発射管×6基
装甲300mm、燃料石炭、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×15基、主機4気筒3段膨張レシプロ機関×3基3軸、出力28,000指示馬力、速力20.5ノット
前級(ナッサウ級)の拡大強化版。1908年度予算で3隻、1909年度予算で1隻が建造された。
計画当初は前部背負式6砲塔や前部並列5砲塔といった案が検討されたが、1907年末に前級と同じ亀甲形6砲塔と決定された。
主砲は50口径(最大射程19,200m)、最大仰角13.5度。
舷側砲塔は左右中心間距離を前級より約2m縮小したためバーベット外舷側の通行が可能になった。
主缶は第一・第二缶室に6基ずつ配し、第三缶室に3基を配した。第一煙突は3缶に、第二・第三煙突は6缶ずつに対応していた。
煙突は第一煙突が小判形断面で他の二本は円形断面。前後対照に配置されたのは、潜望鏡視野などの悪条件下で進行方向を欺くことを期待されたため。
主機は依然としてレシプロ機関だったが、大出力化にともない低圧シリンダーを二分割して往復部質量の釣り合いを改善。
艦首錨は前級とは逆になっている。右舷1基、左舷2基。グースネック・クレーンはデリック・アームに変更された。
浮沈性の追求はティルピッツ海相の意向でもある。
一番艦:ヘルゴラント
第一次大戦末期の反乱ではシリッヒ泊地にてチューリンゲンとともに反乱を起こした。
二番艦:オストフリースラント
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。装甲艦「オルデンブルク」の代艦名目で建造された。各煙突の外筒上に突き出した換気筒が特徴。
1913年7月4日の観艦式には公海艦隊第2戦隊旗艦として参加。第1小隊1番艦。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊旗艦を務め、ランス中将が座乗した。ユトランド海戦ではシュミット中将が座乗。
帰投中にホーン・リーフ沖で英の敷設した機雷に触れ約400tの浸水を招いた。1917年にヘルゴラント級で最後に煙突を1.5m増高した。
1919年に賠償として米へ引き渡された。米海軍に調査された後は1921年7月21日にヴァージニア州ケープ・ヘンリー沖で米陸軍ミッチェル少将指揮下の爆撃機の標的となって処分された。
航空攻撃によって戦艦が沈められた初の事例。
三番艦:チューリンゲン
ヴェーザー社。装甲海防艦「ベオウルフ」の代艦名目で建造された。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊第1小隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第1戦隊第1小隊3番艦として参加。
夜戦では英巡洋艦「ブラック・プリンス」を至近距離から照射射撃して撃沈した。
水兵リヒャルト・シュトゥンプ曰く、全艦隊の模範的な艦であったという。ただ、シリッヒ泊地にて本艦で起きた反乱は、乗員が下士官を監禁し、錨を揚げるのを拒むという、最悪な反乱だったらしい。
1920年に賠償として仏に引き渡され1923~33年に解体された。
四番艦:オルデンブルク
装甲海防艦「フリトヨフ」の代艦名目で建造された。1913年に煙突を3m増高した。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第1戦隊第1小隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第1戦隊第1小隊4番艦として参加。
夜戦で英第4水雷戦隊より小口径弾1発を喫した。1920年に賠償として日に引き渡されたがスクラップとして売却され、翌1921年に蘭で解体された。
カイザー級
常備排水量24,724t、主砲30.5cm×10門、副砲15cm×14門、8.8cm単装砲×8門、50.0cm水中発射管×5基
装甲350mm、燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×16基、主機パーソンズ串型複式タービン×3基3軸、出力28,000軸馬力、速力21ノット
前級(ヘルゴラント級)の改良版。1909年度予算で2隻、1910年度予算で3隻が建造された。
計画当初は前級と同じく平甲板型船体、前後砲塔を背負式、舷側砲塔を左右各1基とした菱形6砲塔案だったが、長船首楼船体、後部砲塔背負式、舷側砲塔梯形配置の5砲塔案が採用された。
主缶は第一~第四缶室にそれぞれ6基・1基・6基・3基収め、第一煙突は7缶、第二煙突は9缶に対応していた。煙突断面は二本とも小判形。
燃料は石炭專焼から炭油混焼になった。艦尾水中発射管はカイザー級で廃止された。
カイザー級は独ド級戦艦で初めてタービンを搭載した。
一番艦:カイザー
キール工廠。装甲海防艦「ヒルデブラント」の代艦名目で建造された。
1913年7月4日の観艦式に公海艦隊第3戦隊旗艦として参列した。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第3戦隊に所属。ユトランド海戦では公海艦隊第3戦隊の副旗艦としてノルトマン少将が座乗。
巡洋戦艦「リュッツオゥ」とともに英巡洋艦「ディフェンス」を沈めた反面、英戦艦隊より大口径2発を喫した。後に第4戦隊に転属し、1917年11月に第二次ヘリゴラント・バイト海戦に参加した。
1918年11月の休戦にともないカイザー級以降の戦艦11隻はスカパ・フローに抑留され、翌1919年6月21日に連合国への引き渡しを拒絶して一斉自沈した。
1929年に浮揚され、1930年ロサイスで解体された。
二番艦:フリードリヒ・デア・グローセ
ヴルカーン社。装甲艦「ハイムダール」の代艦名目で建造された。
主機がAEGカーチス串型複式タービン×3基3軸になっている。独ド級戦艦で初めて主機にタービンを搭載。
いずれも高低圧タービンを同型とした串型複式タービンで推進器と直結、計画速力時の回転数は210rpmだった。
就役後に公海艦隊総旗艦に指定されている。その際に前部羅針艦橋、同航海艦橋、後部航海艦橋を拡張されている。
第一次大戦開戦時には公海艦隊司令長官インゲノール大将、翌年には同じく公海艦隊司令長官ポール中将が座乗。第一次大戦中盤まで歴代司令長官の将旗を掲げていた。
1916年5月31日から6月1日のユトランド海戦では公海艦隊司令長官シェーア中将が座乗、かの有名な戦術一斉回頭により英巡洋戦艦部隊の包囲を脱した。
1917年3月、戦艦「バーデン」に旗艦を譲り、カイザー級で編成された公海艦隊第4戦隊の旗艦となった。
9月には巡洋戦艦「ゲーベン」の土入りで名を挙げたスション中将が座乗、10月のリガ湾封鎖作戦に公海艦隊第4戦隊を率いて参加。独陸軍部隊の上陸を支援した。
1918年11月21日、降伏艦隊司令長官ロイター少将が座乗し、ロサイスを経由してスカパ・フローへ向かった。翌1919年6月21日にロイター少将の命により一斉自沈。
1934年に水没したままスクラップとして売却、1937年に浮揚、解体された。
三番艦:カイゼリン
ホーヴァルト社。装甲海防艦「ハーゲン」の代艦名目で建造された。1911年11月11日11時11分に進水。
総旗艦設備を有する二番艦「フリードリヒ・デア・グローセ」と比べて前後艦橋が小型になっている。
第一次大戦開戦時には公海艦隊第3戦隊に所属。ユトランド海戦には公海艦隊第3戦隊第6小隊3番艦として参加、被害無く帰還した。
その後公海艦隊第4戦隊に転属し、第二次ヘリゴラント・バイト海戦にも参加した。
1919年に一斉自沈したが1934年に水没したまま売却され、1936年に浮揚、ロサイスで解体された。
四番艦:プリンツレゲント・ルイトポルト
クルップ社。装甲海防艦「オーディン」の代艦名目で建造された。
主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×14基・主機パーソンズ串型複式タービン×2基2軸・出力馬力16,000軸馬力・速力20ノット。
航続距離増大のため中央機関室にゲルマニア式6気筒複動ディーゼル機関の搭載を予定していたが開発が間に合わずタービン×2基2軸での就役となった。
両舷軸の推進器直径が一・二・三・五番艦が3.75mだったのに対し四番艦「プリンツレゲント・ルイトポルト」は4.0mだった。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第3戦隊旗艦としてフンケ少将が座乗。ユトランド海戦には公海艦隊第3戦隊第6小隊2番艦として参加、被害無く帰還した。
1917年7月30日に艦内で機関兵のレクリエーションをかねた映画会が取り止められ、水兵たちは軍事訓練を告げられたが、約50名の水兵がこれを拒否して艦を離れた。
また、水兵たちが戻ってきたとき、11人が逮捕、投獄された。これに同情した他の水兵たちが起こしたストライキも無駄だった。
三番艦「カイゼリン」同様公海艦隊第4戦隊に転属し、1919年に一斉自沈。1929年に水没したまま売却され1931年に浮揚、1933年ロサイスで解体された。
五番艦:ケーニヒ・アルベルト
シッヒャウ社。装甲海防艦「エギール」の代艦名目で建造された。蒸気捨管が煙突側面に集中しているのが特徴。主機はシッヒャウ串型複式タービン×3基3軸。
1913年12月から旗艦「ケーニヒ」に従い南米4ヶ国を歴訪、1914年6月に帰国した。
第一次大戦開戦時は公海艦隊第3戦隊第5小隊に所属。ユトランド海戦には復水器修理のため不参加だった。
公海艦隊第4戦隊に転属後、1919年に一斉自沈。1934年に水没したまま売却され、1935年に浮揚、翌1936年にロサイスで解体された。
ケーニヒ級
常備排水量25,796t、主砲30.5cm×10門、副砲15cm×14門、8.8cm単装砲×6門、50.0cm水中発射管×5基
装甲350mm、燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×15基、主機改良パーソンズ串型複式タービン×3基3軸、出力31,000軸馬力、速力21ノット
前級(カイザー級)の改良版。1911年度予算で3隻、1912年度予算で1隻が建造された。
船体は前級と同じ長船首楼型。全5砲塔を首尾線上に配置。前後砲塔を背負式にした。弾薬庫は上層が弾庫で下層が火薬庫。防御要領も前級と同じ。
主缶は第一~第三缶室にそれぞれ6基・6基・3基を配置。第一煙突は6缶、第二煙突は9缶に対応している。第三缶室の3基は重油専焼缶。
主機は前級(カイザー級)四番艦「プリンツレゲント・ルイトポルト」と同じく、中央軸のみを12,000軸馬力のMAN式6気筒2サイクルディーゼル機関となる予定だった。
が、やはり開発が間に合わず純タービン推進の3軸艦となった。
水雷艇撃退用8.8cm単装砲は前級の8門から6門となり、すべて前部上構内に装備された。
一番艦:ケーニヒ
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。
ケーニヒ級4隻が就役するとともに公海艦隊第3戦隊旗艦を務めた。
ユトランド海戦ではベーンケ少将が座乗。独戦艦隊の先頭に立ち、北上戦では僚艦とともに英高速戦艦隊を痛打した。
しかし主力決戦では大口径砲弾1発、英巡洋戦艦部隊より大口径砲弾9発を喫して独ド級戦艦中最多の死者を出した。
1917年10月、公海艦隊第3戦隊を率いてリガ湾封鎖作戦に参加。露戦艦「スラヴァ」を撃破、自沈に追い込んだ。
第一次大戦末期の反乱にて、ヴェーニガー艦長は艦長で唯一武器を取り、赤旗をを掲げさせぬように艦旗マストを守り、射殺された。
1919年一斉自沈。1962年に水没したまま英に売却されたが浮揚されることなく未だ水底に眠っている。
艦長:ヴェーニガー
二番艦:グローサー・クールフュルスト
四番艦「クローンプリンツ・ヴィルヘルム」と英潜水艦から雷撃されたり衝突したりする。
三番艦:マルクグラーフ
ヴェーザー社。装甲艦「ヴァイセンブルク」の代艦名目で建造された。主機はベルクマン串型複式タービン×3基3軸。
ユトランド海戦には公海艦隊第3戦隊第6小隊3番艦として参加。北上戦で英高速戦艦隊を痛打したが大口径砲弾3発を受け、英巡洋戦艦部隊より大口径砲弾2発を喫した。
他にも至近弾を受け左舷推進軸が曲がり、他の2軸による運転を余儀なくされた。リガ湾封鎖作戦にも参加している。
1917年に前檣トップに射撃指揮所を設けるために前檣が太い棒檣に改装され、司令塔天蓋上に測距機を追加装備した。
この改装は同級3隻と前級二番艦「フリードリヒ・デア・グローセ」も施されている。
1919年一斉自沈。1962年に水没したまま英に売却されたが浮揚されることなく未だ水底に眠っている。
四番艦:クローンプリンツ・ヴィルヘルム
クルップ社。装甲艦「ブランデンブルク」の代艦名目で建造された。主機は改良パーソンズ串型複式タービン×3基3軸。
当初の名前は「クローンプリンツ」だった。「クローンプリンツ・ヴィルヘルム」と改名されたのは1918年1月。
起工時から前檣トップに射撃指揮所が設けられ、太い棒檣での竣工となった。
公海艦隊第3戦隊第6小隊4番艦としてユトランド海戦に参加、被害無く帰還した。
1916年11月デンマーク沿岸で二番艦「グローサー・クールフュルスト」とともに英潜水艦J1の雷撃を受け、翌1917年3月には二番艦「グローサー・クールフュルスト」と衝突している。
リガ湾封鎖作戦に参加した際も触雷している。損傷は軽微だった。日露戦争黄海海戦に参加した戦艦「ツェサレヴィチ」改め露戦艦「グラズダーニン」を撃退した。
1919年に一斉自沈した後、浮揚されることなく水底で眠っている。
バイエルン級
常備排水量28,600t、主砲38cm×8門、副砲15cm×16門、8.8cm単装砲×8門、60.0cm水中発射管×5基
装甲350mm、燃料石炭・重油、主缶シュルツ・ソーニクロフト式水管缶×14基、主機パーソン串型複式タービン×3基3軸、出力31,000軸馬力、速力21ノット
独海軍初の超ド級戦艦。1913年度予算で建造された。
主砲砲身38cm45口径(最大射程20,400m)で最大仰角16度。各砲塔に8m測距儀を装備、天蓋の覗き窓を廃止した。
遠戦に対応するため、前檣を独戦艦初の三脚檣とし、トップに射撃指揮所を設けた。後檣は無く、斜桁のみを備えていた。
防御は前級(ケーニヒ級)をベースとしている。防御重量は11,428tで、常備排水量の40%を占めている。
主缶は第一~第三缶室にそれぞれ6基・5基・3基を配置。第三缶室の3基は重油専焼缶。第一煙突は6缶、第二煙突は8缶に対応している。
三番艦と四番艦は船体線図が異なっており、正確には準同型艦ということになる。
中央軸をMAN式6気筒2サイクル12,000軸馬力ディーゼル機関とする計画になっていた。
1913年度と翌1914年度予算で1隻ずつ建造された。
一番艦:バイエルン
ホーヴァルト社。ユトランド海戦後に公海艦隊第3戦隊に所属となった。
8月の総出撃の祭には「グローサー・クールフュルスト」「マルクグラーフ」とともにヒッパー中将率いる公海艦隊第1偵察部隊に所属していたが会敵には至らなかった。
リガ湾封鎖作戦では沿岸砲台砲撃中に触雷し、艦首及び前部水中発射管室等に約1,000tの浸水を招いた。
1919年に一斉自沈。1933年に浮揚され、1935年にロサイスで解体された。
二番艦:バーデン
シッヒャウ社。装甲艦「ヴェアト」の代艦名目で建造された。主機はシッヒャウ串型複式タービン×3基3軸。
当初より旗艦設備を備えていて、前部羅針艦橋と同航海艦橋が広くなっていた。1917年3月に公海艦隊総旗艦となり司令長官シェーア大将の将旗を掲げた。
1918年4月、ノルウェー船団襲撃のために公海艦隊を率いてスタヴァンゲル沖に出撃したが、戦果なく帰還した。
1918年8月、シェーアが軍令部長へ栄転したことにともない、後任司令長官ヒッパー中将の将旗を掲げた。
第一次大戦終結後も国内に留まっていたが、当初の抑留リストに載っていた巡洋戦艦「マッケンゼン」が未成だったため、代わりにスカパ・フローへ回航された。
1919年6月21日に一斉自沈したが、英のタグボートが浅瀬に曳航し、全没には至らなかった。その後水密工事を受けポーツマスへ回航。
各部調査の上1921年に射撃標的艦となり海没処分に付された。
三番艦:ザクセン
クルップ社。戦艦「カイザー・フリードリヒ2世」の代艦名目で建造された。
1916年に進水したが竣工前に終戦を迎え未成に終わった。
1920年に売却され、翌1921年に解体された。
巡航用デイーゼル機関の搭載も検討されていたが実現に至らなかった。
四番艦:ヴュルテンブルク
ヴルカーン社。戦艦「カイザー・フリードリヒ3世」の代艦名目で建造された。
1917年に進水。以下三番艦と同じく1921年に売却され、ハンブルクで解体された。