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ビスマルク級


 基準排水量44,734t、満載時排水量48,626t(合衆国海軍ヨーロッパ技術任務研究班の報告書によると、一番艦ビスマルクの完工事の満載時排水量は53,546tとなっている)。
 全鋼板の90%が溶接され、船殻全長の約80%に二重船殻が施されている。装甲は艦の総重量の約40%を占める。装甲厚は水線装甲帯で320mm、防御甲板で120mmと、特別高いわけではないが、装甲版にはヴォタン鋼というニッケル・クロム・モリブデン鋼板を採用しており、防御力が低くなっていたというわけでもない。現に一番艦「ビスマルク」は英海軍に砲弾での撃沈は不可と言わしめている。
 日の大和級や米のアイオワ級が登場するまで名実ともに世界最大の戦艦だった。ただしタイプシップとなっているのは前時代の戦艦「バイエルン」で、時代より遅れた最新艦ということは否めない。
 装甲甲板の厚さは80mm~120mm。前後に170m離れた二枚の装甲横隔壁の間を縦に走っている。
 四層の甲板から成る上部構造は重巡洋艦と酷似しており、後部上部構造は三層からなっている。
 前檣楼は前部艦橋上に置かれ、その先端に対空火器及び水上用兵装の双方に指令を発する中央指揮所が置かれている。
 総重量の9%は推力設備が占めている。3基のタービン・エンジンと、これらに高圧蒸気を供給する12基のボイラーからなっている。3軸の総出力150,000hp、最高速力30.8ノットをスピードテスト中に記録した。
 電動操舵装置等により膨大な電気を消費するため、500kwディーゼル発電機2基と蒸気式ターボ発電機6基からなる発電装置4基が用意された。220vで合計約7,900wのエネルギー供給が可能となった。
 燃料タンクの最大容量は8,700t。また蒸気タービン機関を採用したことにより高航続距離を持つことから、通商破壊に適した戦艦という評価をされることもある。
 主砲は38cm連装砲×4基。艦前部に2基、艦尾に2基の計8門。最大仰角35度で、最大射程は36,200m。25秒間隔で発射可能。
 副砲は15cm連装砲×12門。両舷に3基ずつ配置。最大射程は23,000m。1門につき一分間に10発発射可能。
 対空火器は10.5cm連装速射式高角砲×16門(最大射程18,000m)、3.7cm連装速射式高角砲×16門、10挺の単装及び四連装2基の2.0cm機関砲計18挺(二番艦ティルピッツは一番艦ビスマルクよりも対空火器を増強させ、2.0cm機関砲――20mm機銃の数が80門となっていた。また、55.3cm四連装魚雷発射管×2基が追加された)。
 水面下の装備としては、磁気機雷及び魚雷への対抗手段として消磁装置が施されていた。
 各指揮所内部には2~3台の照準計算機が用意されている。照準計算機はほとんどの他国海軍とは異なり、半球状回転ドーム内ではなく、その下の射撃指揮所内に設置されていた。
 光学式測距儀が収められている頭上の半球状回転式ドームはいずれもレーダー・アンテナの台座としても使用されている。
 ターゲットの距離測定に使われるレーダーは探査距離が短く、方位測定の精度も光学装置に劣っていた。
 夜でも荒天時でも正確な距離を弾き出した光学装置は、しかし重量砲発射の反動で狂いが生じるほど感度がよすぎるという欠点を持っていた。
 艦載機はAr196水上機×4機。偵察等の他にも軽戦闘機として使用できた。飛行整備員と共に空軍所属。整備員は空軍の制服を着用していた。
 サーチライトを前檣楼中段前縁に1基、主格納庫上に2基、煙突両側の高所に4基の、計7基が搭載されていた。
 総統がこの艦の設計・戦闘能力を根拠も無く批判した際には提督が辞任を申し出る一幕もあったという。
 次級(H級-フリードリヒ・デア・グローセ級)が竣工されなかったため、第一次大戦後に独が建造した最初で最後の本格的戦艦であった。
 

 

 クレーンが外側にあるのがビスマルク。内側にあるのがティルピッツ。
 処女航海で沈むのがビスマルク。暇過ぎて脱走兵が出るのがティルピッツ。
 仕事が早まったのがビスマルク。仕事が来ないのがティルピッツ。

 

 一番艦:ビスマルク
  「もう一つ。今後、ビスマルクのことを話す際には、乗組員は男性形代名詞をもって呼びかけるように。このように力強い艦を呼ぶにふさわしい言葉は“彼”であって“彼女”は似つかわしくない」
  艦長のこの言葉が有名な独海軍屈指の戦艦。命名には鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクの孫娘ドロテア・フォン・レーヴェンフェルトが進み出た。もちろん艦名の由来は鉄血宰相から。
  ブローム・ウント・フォス社。
  また、進水式の祭には艦長が同宰相の演説の一節「政策とは演説や射撃の催し、もしくは歌などによってもたらされるものにあらず、ただ鉄と血によってのみもたらされるものなり」を引用した。
  同時に座右の銘「この身を焼きつくしてでも余は祖国のために尽くす」を引用、実践した人物でもあったという。愛用の煙草はスリーキャッスル。
  造船作業が進水式後も続いていたため、大半の乗組員は宿営船「オツェアナ」「ゲネラル・アルティガス」に分宿していた。すべての工事が完了したのは1941年1月24日。
  標柱浬航走を終え、ゴーテンハーフェン港に入りかけた際、操舵機構にちょっとした故障が生じたため艦を止めていたら魚が獲れすぎた漁船に助けを求められ、それに応じた。翌日の食卓は魚料理で飾られた。
  1941年5月5日にゴーテンハーフェンで二番艦「ティルピッツ」と共に総統の査察を受けている。
  訓練ではダンツィヒ湾で軽巡洋艦「ライプツィヒ」と帯同での偵察行動及び戦闘演習を実施したり、バルト海で新造潜水艦U556との合同演習を行ったりした。
  U556は同じくブローム・ウント・フォス造船所の生まれ。艦長は“騎士パルジファル”の異名をとるヘルベルト・ヴォールファルト少佐。
  1941年2月に予定されている就役式で巨大な隣人たるビスマルクの軍楽隊に演奏してもらいたい(Uボートにはその用意が無く、就役式で音楽が無ければ恰好がつかないと考えたため)と考え、ビスマルク艦長の快諾を得た。その際、代わりにU556がビスマルクの親代わりとなるという宣誓をし、手描きの養子縁組証書を渡している。その養子縁組証書はビスマルク艦内に掲げられた。
  ビスマルク戦没の一ヶ月後、1941年6月27日に北大西洋でHMS Nasturtium、Celandine、Gladiolusに撃沈された。
  戦闘訓練では仮想敵に英巡洋戦艦「フッド」が用いられた。
  ライン演習作戦でのリュッチェンス提督指揮下の戦力は戦艦「ビスマルク」、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」。北・南大西洋を作戦水域とするUボート各艇。五月末以降にはハリファックス=イングランド輸送路を作戦区とするUボート四隻も参加。偵察艦「ゴンツェンハイム」「コタ・ペナング」、補給艦隊二隻と油槽船五隻。また、補給船として「エルムラント」、艦隊油槽船として「ハイデ」「ヴァイセンブルク」「ブレーメ」「エッソ」「イル」「スピヒェルン」「ロートリンゲン」が使用可能とされていた。補給船「ウッケルマルク」はリュッツォウと帯同での作戦展開となっていた。
  アルコナ岬から大ベルト海峡まで改造掃海艇13号、31号が機動部隊を先導し、以後は第5掃海部隊にスカゲラック機雷原の護衛行を依頼。その先の護衛は駆逐艦「Z23」「Z24」「ハンス・ロディ」「フリードリヒ・エックオルト」で編成された駆逐戦隊となる。
  アイスランド沖で英巡洋艦「フッド」を撃沈し、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を中破させた後は執拗な英の追撃により、10万分の1の確率でしかあり得ないと言われた舵機への損傷を受け、英艦隊の只中へ単艦で進んで行くこととなった。この際、トーヴィー司令長官はサマヴィル提督へ「砲弾にてはビスマルクは撃沈不可能である」と連絡電文を送っている。
  1941年5月27日の戦闘において英側は航空母艦二隻、戦艦五隻、巡洋艦三隻、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦七隻、駆逐艦二一隻、航空機五〇機以上をビスマルク一隻のために動員した。
  沈没した理由については、英国側の魚雷によるものとも、独側の自沈によるものだとも言われ、定かではない。
  アイスランド沖海戦以後、ビスマルクに向けて発射された砲弾は戦艦「ロドニー」から40.6cm砲弾380発、15.2cm砲弾716発。戦艦「キング・ジョージ5世」から35.6cm砲弾339発、13.3cm砲弾660発。重巡洋艦「ノーフォーク」から20.3cm砲弾527発。重巡洋艦「ドーセットシャー」から20.3cm砲弾245発。計2876発。
  魚雷は空母「ヴィクトリアス」艦載機より8本。空母「アーク・ロイヤル」艦載機より13本。駆逐艦「コサック」より4本。駆逐艦「マオリ」より4本。駆逐艦「ズールー」より4本。駆逐艦「シーク」より4本。戦艦「ロドニー」より12本。重巡洋艦「ノーフォーク」より8本。重巡洋艦「ドーセットシャー」より8本。計65本。うち、最低5本が命中。
  ビスマルク追撃戦にて提督、艦長ともに戦死。艦長については沈みつつある艦の旗竿の先端で敬礼しながら艦と共に沈んでいくのを見たという証言がある。
  総勢2,206名いた乗組員のうち、生き延びたのは115名だった。
  艦内新聞の名前は「ディ・シッフスグロック(船の鐘、の意)」
  提督:ギュンター・リュッチェンス大将
  艦長:エルンスト・リンデマン大佐

 

 二番艦:ティルピッツ
  ヴィルヘルムスハーフェン工廠。一番艦「ビスマルク」よりも幾分か大きかったり装甲が若干薄かったり機関の最大出力が異なったりする。建造中にソ連に売り飛ばされかけたとかそんなことない。
  仕事をしていないというよりは仕事をさせてもらえないという印象。暇過ぎて脱走兵が出る程度の出撃頻度。クリスマスには甲板にツリーを立てていた。就役前に爆撃されたりと割とツイていない。
  1939年4月1日の進水式にはフォン・ティルピッツ提督の孫娘フォン・ハッセル夫人が出席した。艦名の由来はもちろん海軍相。
  主砲、副砲は一番艦と変わらないが、対空火器は105口径砲×6門+37口径高角砲×16門+20口径機銃×80門と一番艦よりも多かった。竣工後に55.3cm四連装魚雷発射管×2基が甲板上に追加装備されている。
  1941年の夏に行ったバルト海でのテスト中にヴェルナー・ハルテンシュタイン少佐のU156と並んで航行している。U156はこのあと1943年3月8日にカリブ海のバルバドス前面で米機の爆弾により沈没した。2月中トロンヘイム・フィヨルドの中で訓練を続けた。
  1942年1月28日から29日にかけてハリファックス九機とスタイアリング七機の夜間爆撃を受けるも損傷無し。
  2月21日に重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」とポケット戦艦「アドミラル・シェーア」を迎える準備を整える。駆逐艦に護衛された両艦はベルゲン南方のグリムスタフィヨルドに無事投錨。プリンツ・オイゲンが23日の午前6時にトロンヘイム・フィヨルド附近でG・M・スレーデン艦長の潜水艦トライデントに雷撃され、損害を被ったが、午後11時には無事トロンヘイムに到着。シェーアは22日の午後に到着した。
  英輸送船団迎撃に「ヘルマン・シェーマン」「フリードリヒ・イーン」「Z25」の駆逐艦三隻とともに趣いた。3月5日のことだったが、会敵には至らず13日にフェテンフィヨルド泊地に帰投している。
  その途中で英空母「ヴィクトリアス」から発艦した雷撃機アルバコア一二機と交戦したが、対空軽火器兵員三名の負傷以外に損害はなかった。一番艦の時同様、提督と艦長の間の空気があまりよくない。
  また、敵駆逐艦八隻から一発、潜水艦から一発の魚雷を放たれていたが、モスケネーストラウメン水道で回避している。
  その後は駆逐艦二隻と合流し、ボーゲンブクト湾に投錨。駆逐艦に重油と水、食糧を補給した。3月12日に出港。
  4月21日にアドミラル・ヒッパーが到着。また、4月27日、真夜中近くにも爆撃されたが、被害はなかった。
  1942年7月7日、シュニーヴィント中将の長官旗を掲げた重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」をはじめとした、ポケット戦艦「アドミラル・シェーア」以下、駆逐艦「フリードリヒ・イーン」「ハンス・ロディ」「カルル・ガルスター」「テオドール・リーデル」「フリードリヒ・エックオルト」「エーリヒ・シュタインブリンク」とともに貨物船数三四隻のPQ17船団迎撃に参加。
  1943年9月22日に英側の潜水艦に攻撃を仕掛けられ、修理のために工作艦「ノイマルク」、商船旧「ニューヨーク」「モンテ=ローザ」が回航された。後者の二隻は洋上ホテルとして使われた。
  潜水艦乗組員はそれだけのことをした、ということで丁寧に扱われた。艦の修理中は各々スキーをしたり、芝居や艦内で上映される映画に興じたりした。修理後、艦の本来の速力は戻らなかった。
  ネズミ狩りも盛んに行われ、シュテーデ少尉が作戦指揮を執り、ネズミの尾五本をネズミ退治士官(R・A・O)ことシュテーデ少尉に見せるとブランデー一本の褒美だったという。
  1944年1月10日から11日にかけての夜間に一五機程のソ連爆撃機から攻撃を受け、うち四機から2,000ポンド爆弾四個を投下されたが損傷はなかった。
  1944年3月27日に四九隻からなる大輸送船団JW58がスコットランドを発ち、その後英海軍は「タングステン作戦」を計画。30日黎明に第一艦隊(航空母艦「ヴィクトリアス」、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」「アンソン」「ベルファスト」)がスカパ・フローを出航した。4月2日の午後に第二艦隊(大型航空母艦「ヒュリマス」、軽巡洋艦「ロイヤリスト」「シェフィールド」「ジャマイカ」「エンペラー」「スカーシャー」「パシェアー」「フェンサー」)と合流し、4月3日未明ティルピッツに第一回目の攻撃を仕掛けた。
  1,600ポンドの侵徹破壊爆弾一つを抱いた一〇機、500ポンド侵徹破壊兼用爆弾三つを抱いた二二機、対潜爆弾を搭載した一〇機の計四二機のバラクーダが参加。直掩にはコルセア二一機、ヘルキャット二〇機、ワイルドキャット一〇機があたった。
  この作戦において1944年4月3日にティルピッツが受けた命中弾は不発弾も含めて、左舷上甲板に1,600ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊爆弾1発と500ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊兼用爆弾4発と500ポンド水中爆発爆弾7発、左舷上部構造物に500ポンド水中爆発爆弾3発、左舷装甲甲板に1,600ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊爆弾9発、煙突に500ポンド水中爆発爆弾8発、中央上部構造物及び上甲板に500ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊兼用爆弾11発、右舷装甲甲板に1,600ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊爆弾12発と500ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊兼用爆弾14発、右舷上甲板に1,600ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊爆弾6発と500ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊爆弾7発と500ポンド水中爆発爆弾10発と500ポンド装甲鋼鉄侵鉄兼用破壊13発(右舷側に500ポンド水中爆発爆弾もしくは500ポンド装甲鋼鉄侵鉄破壊兼用爆弾)の計95発。うち14発は命中確実とされている。
  攻撃は二回行われ、第一回の攻撃で戦死者は108名。負傷者は284名。4月3日の夕刻の終わり頃には戦死者122名、負傷者316名に上っていた。
  沈みはしなかったが、二度と輸送船弾攻撃には参加せず、さらに洋上要塞に改装されることとなった。
  ノルマンディー上陸の翌日――6月6日に最後の提督ルドルフ・ペータース少将が着任。戦闘艦隊の指揮を執った。
  1944年11月12日、トロムセにてランカスター三二機より攻撃を受け、12,000ポンド爆弾により転覆。英側の公式報告によると三分間に12,000ポンド爆弾18発が艦上やその周辺に投下された。命中弾3発、至近弾1発と推定されている。
  転覆後、艦内に取り残された乗組員を救うために酸素アセチレン吸管が、艦を穿つために使われた。取り残された乗組員が最期に国歌を歌っていたという記録は無い。
  1944年11月12日の最終結果は、1600名いた乗組員のうち助かったのは800名。100名程は使役や公用、もしくは上陸許可で上陸していた。犠牲者は700名。
  その後艦は10万クローネでノルウェー政府からノルウェー人愛国者に買われ、解体売却されている。その一部は独本国にも売却された。300kg以上の艦の一部がノルウェー人から英国に贈呈されている。
  本艦の主砲が実戦で砲火を開いたのは、巡洋戦艦「シャルンホルスト」と駆逐艦一〇隻とともにスピッツベルゲン島の陸上施設を破壊するために出撃した9月8日だけだった。
  艦内新聞の名前は「デア・シャインヴェルファー(サーチライト、探照灯、の意)」
  提督:オットー・チリアックス中将→ルドルフ・ペータース少将
  艦長:カール・トップ大佐→ハンス・マイヤー大佐→ヴォルフ・ユンゲ大佐→ロベルト・ヴェーバー大佐

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