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35型水雷艇(T1級)


 基準排水量859.2t、10.5cm単装砲×1門、37mm単装機銃×1門、20mm単装機銃×2門、55.0cm三連装魚雷発射管×6門、機雷×30発
 主機関ワグナー缶×4基、ギアードタービン×2軸、出力31,000hp、速力35ノット
 10.5cm単装砲と37mm単装機銃は未装備で初期艦は竣工している。
 北海やバルト海で行動可能なSボートよりも航洋性と航続距離に富む水雷艇の必要性から発した。
 1930年のロンドン軍縮条約における600t条項を利用して、600t以下の艦艇を無制限建造した。が、実際に本級においては守られていない。
 ただ、その条約を遵守しようとしていたことは著しい軽構造となっていることから読み取れる。案の定強度不足気味である。
 主な兵装は魚雷で、砲兵装は副次的なものとされ、主砲は後甲板上に1門のみを配し、隠密雷撃後の撤退戦に最大限使用できるようになっていた。
 1942年のツェルベルス作戦に参加した後は暫定措置として後部魚雷発射管を陸揚げし、20mm四連装機銃×1基を装備し、せめてもの対空兵装とした。
 艇によってはバウ・チェイサーとして20mm単装機銃×1基も装備している。
 主檣は減高の上で三脚式とされ、可能な場所へ角形救命ゴムボートを積み込んだ。前没癖克服のために大戦初期に艦首形状を鋭いクリッパー状へ改装している。
 1942年中頃には、活動中の各艇は後部魚雷発射管を再装備し、20mm四連装機銃を後部主砲前の甲板室上へ移設し、艦橋ウイングに20mm単装機銃を装備した。
 連管群中間の中部プラットフォーム上に20mm単装機銃×1基を備えた艇もある。
 大半の艇が水雷学校での訓練任務に戦時の大部分で従事していたため、終戦間際まで改修は多くなされていない。
 多くの艇でレーダーの搭載が1945年と遅れていたが、逆探アンテナの方は装備されていた。
 対空兵装総合強化策による装備予定は、バウ・チェイサーに37mm連装機銃(M42)×1基または37mm単装機銃(43M)×1基、艦橋ウイングに20mm連装機銃×2基、海図室上に20mm連装機銃×2基、中部・後部甲板室上にそれぞれ37mm単装機銃(43M)×1基、というものだったが、案の定全面的に履行された例はない。
 1944年11月までに第2水雷群で稼働していた全艇は何らかの対空防御力強化を受けている。
 設計上、ローシルエットと高速力の2点が基準尺度として重視され、後者に関しては要求速力を満たすべく高圧蒸気タービンを採用したが、前の34型駆逐艦と同じように、頻繁にトラブルに見舞われることとなった。
 特に船体寸法が小さい本級ではそのトラブルが殊更厄介なものとなり、修理整備の便が極端に悪くなった。
 また、就役後に主缶が出力不足で計画速力を確保できないことが判明している。が、この是正はかなり後になってからのことだった。
 初期の洋上行動でも航洋性の不足と艦橋設備の全般的な不備も露見し、これら諸問題を解決するために貴重な造船所スペースと時間を多く費やすこととなった。
 第1・第2水雷群を編成していたが、各艇が相応実用に耐えうる状態となったのは1940年末だった。
 当初はスカゲラックで行動し、引き続いて北海での機雷敷設任務にあたった。1940年9月に仏へ派遣されている。
 本級が水雷艇として企図された通りの任務に出撃したのは1940年11月6月の1度のみ。第1水雷群は1941年8月に解隊され、全艇が第2水雷群へ所属替えとなっている。
 第2水雷群諸艇は1941年中ソビエト侵攻作戦に参加し、年明けとともに仏へ転じて護衛任務についた。1942年2月のツェルベルス作戦では大型艦の直衛を務めた。
 1942年内のその後は諾、仏、本国水域に別れて行動したが、1943年中頃にはバルト海で全艇が水雷学校での雑役に従事した。
 1944年に入るとバルト海やフィンランド湾での船団護衛任務についた。

 

 ・T1
  シッヒャウ社。
  1942年中頃の改装ではバルト海で雑役に従事していたためか、プラットフォーム上に架台を設けて前檣上の探照灯を移設している。
  1944年7月に対空兵装総合強化策で後部魚雷発射管を撤去して37mm単装機銃×1基と換装している。
  1945年4月にキールで空襲を受け沈没。

 

 ・T2
  シッヒャウ社。
  1940年、仏へ回航中に損傷を受けている。
  1944年7月29日にブレーメンへの空襲で沈没し、9月27日に修理のために浮揚し、シッヒャウへ曳航された。

 

 ・T3
  シッヒャウ社。
  1940年9月18日の夜にル・アーブルで被爆沈没。その後浮揚修理され、1943年12月12日に水雷群に復帰している。
  1945年1月4日にソ連潜水艦「S4」を体当たりで沈め、3月にダンツィヒ湾で触雷して「T5」とともに沈没した。

 

 ・T4
  シッヒャウ社。
  戦後に米へ引き渡され、丁に売却された。現役復帰は叶わなかった。

 

 ・T5
  デシマーク社。
  1945年3月にダンツィヒ湾で触雷。「T3」とともに沈没。

 

 ・T6
  デシマーク社。
  本級が水雷艇として企図された通りの任務に出撃したのは1940年11月6月の1度のみ。この際に英国東岸で英側が敷設した機雷に触れて沈没した。

 

 ・T7
  デシマーク社。
  1944年7月29日ブレーメンで空襲を受け沈没。10月25日に浮揚されたが曳航はされなかった。

 

 ・T8
  デシマーク社。
  1944年7月に対空兵装総合強化策によって大規模な改修を実施された。
  1945年5月に自沈。

 

 ・T9
  シッヒャウ社。
  1944年7月に対空兵装総合強化策で後部魚雷発射管を撤去して37mm単装機銃×1基と換装している。
  1945年5月に自沈。

 

 ・T10
  シッヒャウ社。
  対空兵装総合強化策ではバウ・チェイサーに40mm機銃を搭載している。
  1944年12月28日、ゴーテンハーフェンで入渠中の浮ドックが被弾し沈没。

 

 ・T11
  デシマーク社。
  終戦時の対空火器は、バウ・チェイサーに40mm単装機銃×1基、37mm単装機銃×2基(うち1基は後部発射管跡)、中部甲板室上に20mm四連装機銃×1基、艦橋ウイングに20mm連装機銃×2基、煙突後部に20mm連装機銃×2基、8.6cmRAGロケットランチャー×21門だった。
  第2水雷群に所属し、1940年9月19日の晩に仏のル・アーブルで被弾。損傷した。
  大戦を生き延び、仏に引き渡され「ビル・アケイム」と改名されたが、就役はしなかった。

 

 ・T12
  デシマーク社。
  戦後は露(ソ連)に引き渡され「ポドヴィシヌイ」と改名。1960年代に解体された。

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