top of page

39型艦隊水雷艇(T22級)


 基準排水量1318t、10.5cm単装砲×4門、37mm連装機銃4門、20mm単装機銃×6門、55.0cm三連装魚雷発射管×6門、機雷×59発
 主機関ワグナー缶×4基、ギアードタービン×2軸、出力32,000hp、速力33.5ノット
 前級(37型水雷艇-T13級)や35型水雷艇-T1級のデザインがSボートの拡大版と見なされるものであったのに対して、艦種呼称が反映するような艦隊任務を考慮されて開発された。これによって砲兵装が著しく強化されている。
 機関部にユニット配置方式を採用したことで煙突が2本になった。機関自体は前級と同じ。
 計画馬力は前級とほぼ同じとされていて、机上の計算では65%増大した排水量分で2ノットの速力低下と見ていたが、就役後に機関部の補助設備の中でも特に動翼回転促進ポンプが二次導設管より過大に蒸気に消耗することが判明。タービン用の蒸気圧が十分上がらないことから、実用上の最高速力が31ノットまで低下した。連続運転時には28.5ノット。
 また、このような主機関の構造的非効率性の副作用として、実動状態での航続距離が19ノットで2058浬、31ノットで765浬という著しい低下があった。
 船体構造は前級と同じく、縦肋骨方式とされたが、満載排水量での船殻重量比が32%と高くなり、より負担が軽減されていた。
 10.5cm主砲の最大仰角は70度。高射指揮用の設備は搭載されていなかった。平射用射撃指揮装置は駆逐艦に準じていた。対潜兵装としては爆雷投射機と投下台を4基ずつ有していた。レーダー、ソナー、聴音機も装備していた。
 1939年11月10日にエルビングのシッヒャウ社に対して造船所番号S1481~1489の9隻が発注され、この時点の予定では他に、ブレーメンデシマーク社へT31~48、キールのゲルマニア社へT49~52を発注することになっていた。T53~60は建造所未定だった。
 ただ、実際に建造作業を続行したのはT22~30のみだった。それに加えて、1940年6月の段階で竣工予定日まで決まっていたのは最初の二艇だけとなっていた。T31~36は実行段階でシッヒャウ社への発注となり、1941年1月20日に実施した戦時体制下にあって建造容易とするために艦首ナックルを廃止する等の船体構造を若干簡略化した。
 一番艦たるT22の竣工が1942年2月となったため、対空防御力増強の必要性は既に認識されており、20mm四連装機銃1基を後部の良好な射界を得られる場所へ搭載した。ただし竣工直後に装備した。
 対空兵装総合強化策計画の作成が終了した頃の生存艦はT23、T28、T33、T35、T36のみとなっていたが、各艇に対する装備計画は、艦首両舷に20mm連装機銃×2基、艦橋ウイングに37mm43M単装機銃×2基、中部に37mmM42連装機銃×2基で、更に20mm四連装機銃を撤去して37mmM42連装機銃×2基を装備し、両舷の機雷敷設軌条の上に20mm連装機銃×2基、というものだった。ただし他の級同様完全に装備できた艇があったかどうかは不明。可能性はかなり低い。
 最初の8艇は新編された第4水雷群に編入された。1944年頃には残存艇と新造艇で第5・第6水雷群を再編したが、その後の損失で全艇が第5水雷群へ編成し直された。終戦間際の、陸上部隊の退却支援任務へ向かっている。

 

 ・T22
  シッヒャウ社。
  軽対空火器の構成は、37mm機銃×1門、20mm四連装機銃×1基+20mm単装機銃×3基、13.2mm機銃×2丁、MG34軽機関銃×2丁。
  艦橋ウイングの20mm単装機銃は1943~44年中に連装のものと替えられた。
  前檣上には「スマトラ」逆探のダイポール・アンテナ2基が取り付けられていた。1基はファンネル・キャップ直上の高さで後方を向いていて、もう1基はレーダー支持架前面にあった。
  この2基は後日一旦撤去されているが、2基を追加した上でクロスツリー直下へ再設置され、前後左右をカバーするようになった。大半の艇はこのアレンジをとっている。
  後部探照灯位置に「ホーエントヴィール」レーダーを設置した艇もある。
  新編の第4水雷群に編入され、1942年10月に仏に到着。追々他の艇と合流していった。
  主な任務は輸送船団や封鎖突破艦、Uボートのビスケー湾通行の護衛。
  1944年1月中旬に「T28」「T29」へ場を引き継ぎ「T23」とともに本国へ帰投し、必要とされていた修理を行った。
  その後、第6水雷群としてフィンランド湾へ進出したが、1944年8月18日にナルワ湾で触雷し、沈没。

 

 ・T23
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。1942年11月に仏に到着。1944年1月中旬に「T22」とともに本国へ帰投。
  第5水雷群に編成し直された後、陸上部隊の退却支援任務に従事し、大戦を生き延びた。その後は英に引き渡されたが、仏に再譲渡され「アルザシアン」と改名され就役した。1954年に処分が決定した。

 

 ・T24
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。1943年6月に仏に到着。
  連合軍のヨーロッパ侵攻の際はビスケー湾から出撃するも侵攻部隊の作戦海面まで到達できずに終わり、その後の8月24日にジロンド地区で連合軍機からロケット弾を受けて沈没した。

 

 ・T25
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。1943年6月に「T24」とともに仏に到着。
  封鎖突破艦送還作戦中の1943年12月28日に英軽巡洋艦「グラスゴー」「エンタープライズ」と交戦し、艦橋、上甲板、前方ボイラー室、艦尾の構造物が破壊され残骸と化していたところに更に英軽巡洋艦「エメラルド」が現れ、同艦の魚雷により沈没した。

 

 ・T26
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。1943年8月末に西仏へ進出。
  「T25」とともに封鎖突破艦送還作戦中の1943年12月28日に英軽巡洋艦「グラスゴー」「エンタープライズ」と交戦し、沈没。

 

 ・T27
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。1943年8月末に「T26」とともに西仏へ進出。
  連合軍のヨーロッパ侵攻の際、1944年4月29日に加駆逐艦によってブリタニィ海岸に擱座。

 

 ・T28
  シッヒャウ社。
  第4水雷群所属。ごく短い期間ノルウェーに配備された後、1944年1月中旬に「T29」とともに仏へ来着。「T22」「T23」と交代した。
  連合軍のヨーロッパ侵攻では、7月末の侵攻エリア突破作戦を敢行し、戦い抜いた末無事に本国へ帰還した。
  第5水雷群に編成し直された後、陸上部隊の退却支援任務に従事し、大戦を生き延びた。その後は「T23」と同じく英に引き渡されたが、仏に再譲渡され「ロレーヌ」と改名され就役。1959年に処分が決定した。

 

 ・T29
  シッヒャウ社。
  第4水雷群に編入された。1944年1月中旬に「T28」とともに仏へ来着し、「T22」「T23」と交代した。
  連合軍のヨーロッパ侵攻の際、1944年4月26日にブリタニィ沖で加駆逐艦隊と交戦し、沈没。
  (1944年4月25日に「T24」「T27」とともに仏のサン・マロから機雷敷設小船団の護衛任務中に軽巡洋艦「ブラック・プリンス」を旗艦とした駆逐艦「ハイーダ」「アサバスカン」「ヒューロン」「アシャンティ」で構成された英加混成戦隊と交戦し、艦尾への命中弾を受け、舵を損傷、操舵不能となり英戦隊の方向へ転舵したと見て取られ、案の定集中砲雷撃を浴びた。命中弾により後部煙突が吹き飛び、砲弾が炸裂する中、残された全砲で反撃した様は英海軍の報告書に「T29は勇敢に戦った」と述べられるほどだった。その後前方ボイラー室、タービン室、第三・第四砲塔、艦橋、全観測機器が破壊された。特に前方魚雷発射管は直撃弾を浴びて艦外へ吹き飛ばされていて、辛うじて射撃を続けていたのは艦尾の対空砲だけだった。艦橋に砲弾が命中したことで艦長は戦死したため、総員退艦を命じたのは次席の中尉だった。午前4時20分沈没。)

 

 ・T30
  シッヒャウ社。
  第6水雷群所属。1944年8月18日ナルワ湾で触雷し、沈没。

 

 ・T31
  シッヒャウ社。
  第5水雷群所属。1944年6月に特殊任務を帯びてフィンランド湾へ出動したが、20日にソ連魚雷艇に雷撃され、沈没。

 

 ・T32
  シッヒャウ社。
  第6水雷群所属。1944年8月18日ナルワ湾で触雷し、沈没。

 

 ・T33
  シッヒャウ社。
  大戦を生き延びソ連へ引き渡され「プリメルヌイ」と改名された。

 

 ・T34
  シッヒャウ社。
  第5水雷群所属。アルコナ湾で砲術練習中に触雷し、沈没。

 

 ・T35
  シッヒャウ社。
  第5水雷群所属。大戦を生き延び米に引き渡されたが、結局部品取りとして仏に引き渡された。1952年に処分が決定された。

 

 ・T36
  シッヒャウ社。
  対空兵装総合強化策では艦橋前方へ20mm連装機銃×2基を装備している。
  第5水雷群所属。終戦間際にシュヴィネミュンデ沖で触雷し、損傷。その後1945年5月4日の空襲で沈没。

bottom of page