
ドイッチュラント級
ヴェルサイユ条約下で設計された通商破壊艦。戦艦を振り切り、巡洋艦に対応できる能力を持つことからポケット戦艦とも。後に重巡洋艦に類別変更されている。
当時本級を補足し撃破できる能力を持つ艦は英に3隻、日に4隻あるのみだった。
機関に大型ディーゼルを採用し船体を電気溶接することや装甲厚を犠牲にすることで排水量を抑え、航続力の増大に当てた。
バルト海においては海防艦と同等か、それ以上に渡り合えるものだったとされている。
3隻が竣工したが、一番艦と二番艦以降では設計にやや相違があり、区別しやすくなっている。
一番艦「ドイッチュラント」は艦橋が棒状となっているが、二・三番艦は塔状になっていたり、船幅が1m程多いなどする。特に三番艦「アドミラル・グラーフ・シュペー」は装甲を60mmから80mmに増強している。
第二次大戦開戦時には一番艦と三番艦が戦闘可能な状態となっており、開戦より前に海へと繰り出していた。この時二番艦「アドミラル・シェーア」はエンジントラブルに見舞われていた。
艦橋がシュッとしてるのがドイッチュラント。してないのがアドミラル兄妹。
男性名詞で影が薄めだけど最優秀なのがアドミラル・シェーア。
着底しても砲撃し続けるのがドイッチュラント。小破でも孤立無援で自沈するしかないのがアドミラル・グラーフ・シュペー。
改名したのがドイッチュラント。艦名を偽装してたのがアドミラル・グラーフ・シュペー。
一番艦:ドイッチュラント(リュッツォウ)
基準排水量11,70t、28cm三連装砲×6門、15cm単装砲×8門、10.5cm連装高角砲×6門、53.3cm四連装魚雷発射管×8門、速力28ノット
旧式戦艦「プロイセン」の代艦名目で建造された。キール工廠。当時の大統領であったパウル・フォン・ヒンデンブルクの手で進水した。
船体は電気溶接で、機関は56,800正味馬力のディーゼル・エンジン等の設計によってヴェルサイユ条約制限下の10,000tに収めたと宣伝されたが、竣工時の基準排水量は11,700tだった。
1937年5月29日、イビーザ沖に錨泊中、西共和国軍機からの爆撃を受け、死者31名、負傷者78名を出した。この報復として二番艦「アドミラル・シェーア」が南へ派遣され、アルメリアへ砲撃を行った。
第二次大戦開戦時の補給艦は「ヴェスターヴァルト」。11月15日に祖国の名を冠した艦が沈むのはよろしくないということで「リュッツォウ」と改名している。
南極海の捕鯨船団襲撃のために南大西洋へ進出することを含めた九ヵ月にわたる作戦任務を申し渡されていたが、他の諸艦艇とともにノルウェー侵攻(ヴェーゼル演習)作戦へ加わるためにオスロ上陸担当の機動部隊第5部隊に編入された。この際、オスロ部隊の任務を完了し次第大西洋へ脱出するように艦長へ言い渡していた。
その後も部隊を転々とされ、トロンヘイム襲撃担当の第二部隊へと落ち着いた。しかし出撃の十時間前にエンジンの台座に重大な罅割れが何ヵ所か見つかり、オスロ上陸担当の第5部隊に戻った。
英空軍機の雷撃を受け、1942年1月まで現場復帰できなくなった。
バルト海で練習艦として使われていたが、敗戦間近の1944年に二番艦「アドミラル・シェーア」、重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」とともに陸軍の撤退作戦支援に参加を認められた。
この時に復帰を認められた部隊は第二戦闘部隊。前艦長のアウグスト・ティーレ中将指揮下の部隊だった。
露(ソ連)の攻撃を退けつつ、ヘラ半島に孤立した軍隊も撤退させるためにクメッツ提督が集めた小型艦船を掩護しつつ、燃料や弾薬を補給するためにシュヴィーネミュンデへと退いた際、4月14日に英軍機が投下した12,000ポンド爆弾と1,000ポンド高性能爆弾により着底した。
4月27日までには戦闘復帰し、露(ソ連)軍への砲撃を続けていたが、5月1日の夜に電気系統で火災が発生し艦を破棄せざるを得なくなった。しかしその後15cm副砲の弾3,000発が見つかり、砲手たちが艦にとって返し露(ソ連)軍へ砲を向けた。
連合軍の無条件降伏要求を受け入れた5月3日の夜に爆破命令が下り、翌5月4日の午前0時12分に自沈した。
艦名は国名。改名後の名はプロイセンの軍制改革者から。
艦長:パウル・ヴェネッカー大佐→アウグスト・ティーレ大佐→ルドルフ・シュタンゲ大佐→クライシュ大佐
二番艦:アドミラル・シェーア
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。旧式戦艦「ロートリンゲン」の代艦名目で建造された。基準排水量12,100t、速力28.3ノット
通商破壊最優秀艦。補給艦は「ノルトマルク」。1940年10月から翌1941年3月までの通商破壊戦で17隻113,223tの連合国船舶を沈めた。なぜか男性の定冠詞。
第二次大戦開戦時はエンジントラブルで数ヵ月間ヴィルヘルムスハーフェンで分解修理改造を繰り返していた。9月4日に英軍機からの爆撃を受けたが、艦に当たった爆弾は一発も炸裂しなかった。
1940年10月23日にゴーテンハーフェンを出港し、大西洋で通商破壊を行った。荒波に水平二名をさらわれたのは秘密の話。
ノルトマルクとランデヴーしつつ、時折補給船「オイロフェルト」や元商船で遠距離通商破壊用補助巡洋艦「トーア」と行動した。他にもトーア同様、元商船の「ピングイン」「コルモラン」「アトランティス」と合流もした。
トロンヘイム・フィヨルドに投錨中、士官が何者かに海岸から発砲されて死亡している。
一番艦「ドイッチュラント(リュッツォウ)」、重巡洋艦「アドミラル・ヒッパー」「プリンツ・オイゲン」とともに参加した撤退で、何週間にもわたる砲撃で擦り減った砲身の内部を旋条を施し直すためにキールへ戻る際に800名の避難民と200名の負傷兵を乗せてゴーテンハーフェンを出港した。
キール工廠のドックに入っていた時、至近距離に集束弾が炸裂し、沈没。乗組員の大半は陸上の防空壕に居て無事だったが、艦に残って重要な機材を守ったり対空戦闘を戦ったりした者のうち32名が死亡した。
艦名は第一次大戦の海軍中将から。
艦長:テオドル・クランケ大佐→メーンツェン=ボールケン大佐
三番艦:アドミラル・グラーフ・シュペー
ヴィルヘルムスハーフェン工廠。旧式戦艦「ブラウンシュヴァイク」の代艦名目で建造された。速力28.5ノット
紳士的海賊行為に定評のある艦。補給艦は「アルトマルク」。紳士的に殺さなさ過ぎて艦内が大変になったことは言うまでもない。
進水は名前の由来となった故伯爵フォン・シュペー中将の娘、フバータ・フォン・シュペーの手で執り行われた。割と多くの観艦式に参加している。
ラプラタ沖海戦で自身も損害を受けラプラタ川に向かった。川をさかのぼり中立国ウルグアイのモンテビデオ港に入港。72時間の寄港を認められたが艦の修復は叶わず、また英国艦隊がラプラタ川周辺に集結しているとの情報により帰国を断念。この情報はガセであったが12月17日にモンテビデオ港を出港したグラーフ・シュペーはラプラタ河口で自沈。
その三日後、12月20日に自沈の責任をとり、ラングスドルフ大佐は第一次大戦時の独海軍旗を纏い、ピストルで自決した。艦長は第一次大戦時に「グローサー・クールフュルスト」に乗船し、ユトランド海戦にも参加していた。
短い通商破壊の中で非戦闘員はひとりも殺していない。計9隻、50,089tを沈めた。
艦長:コンラート・パツィヒ大佐→ハンス・ラングスドルフ大佐