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無双のような

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 綺麗な弧を描く口元に、彼は気付いているのだろうか。己の周囲を赤で満たした彼は、未だ砂糖に群がる蟻――或いは好奇心に殺される猫――のような破落戸共を見据えて、笑みを浮かべている。四面楚歌という状況にも関わらず、余裕を持った、どころかこの状況を楽しむが如くかたちづくられた微笑に、破落戸共は恐怖を覚えた。空が薙がれる音がする。一蹴。正しく、一蹴である。うつくしく白鷺が舞う。目の前に、ただ居るだけとなった獲物を、演舞の如き美しさで切り裂いていく。獲物たちは、その美しさに魅入られて、否、逃げたところで無駄だと、本能で理解してしまっていた。

 今の彼を、彼を知る者が見たら何と言うか――それは、もちろん人によって違うだろう。例えば、孤鷲や紅鶴はそんな表情もできたのかと眼を細めるだろう。例えば水鳥は信じられないと目を丸くするだろう。例えば鳳凰ならば、彼は、白鷺をわらうだろう。

 駆け付けた彼の味方は周囲に広がった凄惨な光景に息を呑む。

 一面に広がる赤と、人間だったものの残骸。投げ出されたその欠片の断面は鋭利な刃物で裁たれたように見える。顔を覆いたくなるような光景の中で、唯一ハッキリと残った靴跡に気付いたのは誰だったか。おい、と誰かが声を上げて赤い靴の跡を指し示す。しっかりとした足取りが続くそれは、赤い海を越えて破落戸共の暴動がまだ続いている――騒乱の音が聞こえてきている――方角へと向かっていた。動く者のいない場所から、足跡を辿って幾つかの影が走り去っていく。

 盤それそのものをひっくり返して勝利を得るような展開に、それまで苦戦を強いられていた者たちは唖然とした。掃いて捨てるほどいた破落戸があっという間に消えていく。消していくのは、自分たちの属する場所の中、その頂点に立つ六人の中でも特に穏やかな人物なのだから、眼前の光景に目を見張るしかない。更に、そこに追い打ちをかけるのは、その表情。戦いを望まぬ、平和平穏を好いている者とは思えない、綺麗な微笑に、眼を奪われる。呆然と立ち尽くしている間にも、またひとりふたりと敵が散っていく。脚が振るわれ、時折腕が揺れ、虚勢すら碌に張ることのできなくなった敵を片付けていく。身体が捻られることでフワリと穏やかに靡くやわらかそうな色素の薄い髪が、場違いに思えた。

 すべてが終わり、敵味方すべての影が無くなった場所で、彼は静かに佇んでいた。赤く染めあげた足元を眺めるように俯いている。これまでの戦闘で高まった熱に歓喜し、それを抑えつけようとしている表情にも、今まで自分が何をしていたのか、考えたくないという表情にも見えた。

 楽しかっただろう、と誰かが囁いた。顔を上げ、周囲を確認しても他者の気配は無い。それなのに、誰かが耳元で囁く。楽しかっただろう、物足りないのだろう、まだ殺したいのだろう、と面白そうに囁く。

 囁く声は己のものとよく似ていた。それに気付いた彼は、うそだ、と、言葉を口端から滑り落とした。

 ザクリと足音がして、彼は音のした方向を振り返る。ピンと張っていた緊張の糸そのまま振り返れば、そこに立っていた水鳥の青年は、白刃を突き付けられたひとのように僅かに後退った。おれだよ、と笑って見せる青年に、彼はすまない、と謝罪を口にする。

「なぁ――大丈夫、か? なんか、疲れてるっていうか、しんどそうな感じだったけど、」

「いや、大丈夫だ。気にしないでくれ。少し……考え事をしていただけだから、な?」

「そうなのか。なら大丈夫、か……? 今回の件で話し合いが開かれるらしいんだが――」

「大丈夫だ。会合は開かれるだろうとは思っていた。呼びに来てくれたのだろう? 手間をかけてすまないな」

青年の言葉を皆まで言わさず、いつも通りの表情を浮かべた彼が言う。少しだけ、気掛かりそうな顔をした青年も頭を振って、素直に歩き始めた彼の後に続いた。

 平静を装う彼は、その時、どこからか感じる、細められた紅い双眸に、確かに歓迎と恐怖の念を抱いていた。

 

僕の修羅が騒ぐ

 

(じんせい 目覚めた後でもふとした瞬間にぶり返して来てこころを揺り動かすもの)

↑の続きのような

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 その話を聞いたとき、青年は己の耳を疑った。

 身の程を弁えぬ破落戸共が押し寄せてきたということで、それを迎撃せよとの決定に従い、表へ出ていくところだった青年は薄暗い廊下の端で数人の兵士が囁き合っているのを耳にした。白鷺が前線に立ち、破落戸共を屠っている。ただ屠っているのではない。その拳を惜しまず振るい、嬉々として修羅の如き戦闘を展開している。平生は柔和な表情を浮かべている顔に敵の赤を少量散らし、嫣然とした微笑を貼り付けている。とか。その時、青年は所詮人伝の情報だと――多少驚きはしたが――真に受けはしなかった。乱戦の只中で動転した新人辺りが鮮烈過ぎる彼の戦いを目の当たりにしてそう評したのだろう、と、誇らしくすら青年は思えた。

 表へ出ると、そこは粗方片付いてしまっていた。近くにいた兵をつかまえて話を聞くと、やはり彼が文字通り敵を蹴散らしていってくれたと言う。広がった赤と散らばった肉片から眼を逸らしているそいつを放して、青年は足跡を追って足を動かし始める。

 あちらこちらから聞こえてくる喧騒の音に、地を蹴る軽やかな音が混じる。

 行く先辿り着く先には敵の姿なぞ碌に見えやしなかった。時折、見逃されたのか見落とされたのかわからない少数の残党が物陰で怯えているのを見る程度であった。それ以外は、例外なく屠られていた。鋭利な刃物で裁たれたような切り口を曝して、切り離されたやわらかそうな塊が落ちている。これらを作り出した、冷たい月光を思わせる彼の太刀筋――と言うのもおかしな気がするが、実際切り裂いているのだから間違ってもいない気がする――を思い出して青年は流石だと思った。幼い頃から憧れた、あの丁寧な拳。優しく髪を撫でて頬を包んでくれる手と、同じ手が無慈悲にモノを切り裂いていく光景に、何度眼を奪われ息を呑んだことか。そして、ただ無情に切り捨てていくだけではなく、その相手に敬意を払う姿に、自分もああなりたい、と思ったのだ。だから、青年は今彼と肩を並べ謳われていることが嬉しく、誇らしかった。彼の作り出した優勢に畏怖を浮かべる兵士たちを一瞥して、青年は滑るように地を駆ける。お前たちが思っている以上に彼は強いのだぞ、と口元に笑みを浮かべて、地を駆ける。

 赤い足跡が続いていく先に眼を遣ると、無数の人影が見えた。ようやっと、彼に追いつけたらしい。青年は速度を緩め、多少胸を落ち着かせてから参戦しようとする。助太刀など彼には必要のないことだろうが、少しでも手伝いたいと思った。だが、青年は足をピタリと止めてしまう。止めざるを得なかった。

 シュッと空が薙がれる音がして、円を描いている人影の、中心に近い数十人分が崩れ落ちる。ドシャリビチャリと濡れた汚らしい音が、一拍ほど遅れて続く。未だ多勢を保つ人影が微かに怯み、後退った。

 青年は眼を奪われる。その美しい演舞に。圧倒的な力の差に。数多を屠ってなお表情を変えぬ彼に。

 彼は笑みを浮かべていた。笑みと言うよりも、それは微笑に近いものだったが――彼は確かに敵を葬りながら、わらっていた。青年の目が丸く開かれる。拳を振るい敵を砕いている状況、敵を殺すという行為そのものを、楽しんでいるかのような表情だった。それは彼の、青年が見たことのない、顔だった。ゾクリ、と何かが背筋を這う。彼に追いつけたと、嬉しさから上がった口角が、そのまま引き攣る。自分の出る幕ではないと瞬時に脳が理解した。青年は、楽しそうに敵を蹴散らしていく彼をそのままに、そっとその場を離れる。

 場所を移しても身体を這い回るあのゾクゾクとした感覚は晴れなかった。そしてそれは青年をひどく高ぶらせ――これは紛れもなく彼に対する好意、思慕なのだと確信させる。あの美しい白鷺になら、ころされてもいい、と思えるほど、垣間見たあの白鷺の姿は青年を惹きつけ、元より惹かれていたその心を打ち付けた。

 彼は今どんな顔をしているだろうか。ピンと張った糸を知りながら、青年はそうして彼に近付いた。ザクリと、土が鳴る。

 

「怖くなんか、ないよ」

 

(義仁 憧れていたひとが好きなひとになったのはそのギャップからでしたとかなんとか)

「怖くなんか、ないよ」

 あかい。それだけが、鮮やかに見える。荒れ果てた世界を色付けるその色の、なんと、かなしいことか。流れ溢れる生命を前にして、誰もが瞠目し絶句する。あぁ、と誰かが崩れ落ちる音が、どこか近くから聞こえてきた。

 衝動的に駆け出していた。名に負う鳥のように、飛ぶように駆け、彼の元へ向かう。自らを帝王と称する男が、尊い命を奪おうとしている。それを止めるよりも、男は彼の元へ往くことを選んだ。まだ間に合うかもしれない。自分なら、彼を救えるかもしれない――或いは、ただ、その傍へ行きたいと、思ったからだろう。聳え立つ石段を数段飛ばしで駆け上がっていく。はやく、はやく。間に合え。間に合わなければ。

 あと一歩。そこまで来た男は、手を伸ばす。彼の背後に立った者の姿など、見てはいなかった。祈りを捧げるように垂れていた頭がふっとあげられる。男と同じ、色素の薄い髪が小さく踊った。薄く開かれた目蓋の中から覗く、ぼんやりとした瞳と合うはずのない視線が、合ったような気がした。

 彼の胸に狂気が沈み込んでいく。ズブズブとその身を貫いていく。あ――と、おとが、こぼれおちた。

 赤が溢れる。その場の悲哀を嘲笑っているかのようにも思えるほど静かに流れ落ちていく。間に合わなかった男は、彼の正面で崩れ落ちた。膝立ちになっている彼の、腰元へ縋るように手を回す。鉄錆の臭いに湿った衣服が男の悲しみを煽る。あぁ、と掠れた息を吐けば、誰かの――彼の手が肩に触れた。赤に濡れたその指先は肩に触れ、腕を辿り、そのまま背中に回された。グズる子供をあやすように、ゆっくりと温かい手が動く。男は顔を上げた。その表情は歪んでいる。あなたはどうしてそんな、と男の双眸が潤んだ。沈められた凶刃に仰け反った身体を見上げていけば、男の方へ向いた世界を映さぬ眼が、穏やかな顔が、微かに笑んでいた。

 思わず、という風に漏れた笑い声は喉から。それはそれは愉快だと言わんばかりの声だった。カツ、と音がして、彼を貫いた凶器の先が地に届く。彼の髪を引っ掴んで己に注目を向けさせた将が、何かをその耳元で囁く。そして、下方の男をジロリとその青い目で見遣った。

 掻き抱いた身体が冷たくなっていく。彼の匂いに鉄錆の臭いが色濃く混ざっていく。指先に、ヌルリとした赤が付く。指が赤く、腕が赤く、胸が赤く、顔が赤く、染まっていく。男の白い髪や服を、流れ出た赤が染めていく。

 そろそろと、彼の、男の背に回していない方の手が、己を貫く凶器を辿って、それを握っている己を殺す者の手に触れた。

 パタ、と水滴が地を叩く。おや、と思うよりも早く次の水滴が落ち、それは断続的な音から継続的な音に変わっていった。パタパタという音が、ザァザァという音に変わる。空が、泣き始めた。その涙は砂利や砂埃と共に、男のからだを染めていた赤を洗い流していく。身体が冷えていく。頭が冷めていく。微かに震える息をひとつ吐いて、男はゆっくりと瞬きをした。呼吸するたびに、胸が詰まる。それでも、男は目蓋を開けて見据えなければならない相手がいた。

 上から見下ろす青と、下から見上げる青がかち合う。双方が――それぞれその質が異なってはいても――強い光を灯している。言葉一つ吐くたびに熱が引いていく気がした。

 応酬は雨音に紛れない。瞳に灯った光は雨に消されない。目の前に今立っている相手を、倒さなければ気が済まないと衝動が波打つ。男は、ひとのために振るおうと心に決めた拳を、そのとき己のために振るおうとしていた。勝機は十分にあると確信している。だが、相手を倒したとして、この心が晴れるのかと自問すれば、その答えは見つけられなかった。多少の気は済み、落ち着けるだろう。しかし満たされるかと言えば、否である。何をどうしたというところで、天を仰いでいる彼はもう笑わない。昏い曇天を映している綺麗な紅い――その持ち主曰く役立たずの――双眸は誰にも向けられない。すべて目の前の相手が攫っていってしまった。その手にかけることで己のものとする、まるで幼い子供のような――。

 この帰結に見えるものはおそらく、誰もが幸せにならない結末だろう。

 

赤、紅、アカ

 

(トキシュ 隙あらば殺すマンの話を次兄の方から見てみようと思ったんだ)

赤、紅、アカ

 大の大人を前に立ち回っていた少年が、ハッとして振り返った時、その兄と横に座っていた男は怪訝な顔をした。何故、と。少年は引き締まった表情のまま振り返った後ろの正面を真っ直ぐに見据え、背後から襲い掛かってくる相手を裏拳で難なく殴り伏せる。同じ舞台に立った相手よりも、気を向けるべき者が居る、と示した少年の様子に、周囲は確かに騒めいた。そうして、そんな少年の前にスッと立ったのが、少年の兄とその隣に座っている男の斜め前に座って少年の立ち回りを見ていた男だった。少なからずの驚嘆が場に滲む。少年の前に立った男は、まず少年に名を訊いた。それから、一言。囁かれた無粋な言葉を受け流して、相対する。

 呆気ない終わりは、当然と言えば当然の結果だった。相手が悪かった、と、それだけ。床に手をついた少年は自分を静かに見下ろしている男へ礼を述べる。己を負かした相手へ、面と向かって礼を述べた少年に、何を思ったのか。掟に従い敗者たる少年を殺そうと躍り出た者たちを、男は止める。少年を取り囲んだ者たちがたじろいで、少年の兄が僅かに目を丸くした。声を荒らげたのは、少年の兄と共に観戦していた男だった。彼は男を名指しで詰る。目の前の男が何を思っているのか、彼にはわからなかった。怒気を含んだ声、表情に、微かにでも動じない男は微かに笑んで己の両目をその手で潰した。ザブリとやわらかな肉が切り裂かれて、たった今消えた目の色よりも濃い赤が舞う。その場に居た全員が目を見張り息を呑む。ポタリポタリと滴り落ちる赤は肌や床だけでなく布も染め汚していく。そうして掟を黙らせた男は呆然としている少年を抱き上げて去っていく。

 思えばあの時から狂い始めたのかもしれなかった。

 どれだけ日が昇り日が沈み花が咲き雪が降ってもあの時あの場所で目にした赤の色濃さと鼓膜を震わせた肉の切り裂かれる音が忘れられない。だというのに当の本人は信じられないほど穏やかに笑っているし振る舞っている。穏やかに――それこそ憶えのない母を思わせるほど優しく、である。彼はそれが気に食わない。何故変わった。何故己以外に触れる。笑う。許す。傍を離れ、他者の手に曳かれているのか、と。そんな風に男が変わったことが、彼は気に入らなかった。自分だけを見ていればそれで良いというのに。心当たりはあの少年にしかなかった。あの日から男の宿した星が輝き始めた。そうとしか考えられなかったし、その確信があった。

 自身のお気に入りを奪っていったあの少年と、再度会う時は、今度こそ己の手で切り捨ててやろうと思った。だから彼は荒廃した世界を望み、受け入れた。自分たち南斗が乱れる時、あの兄弟たち北斗が現れるというならば、目の前に引きずり出してやろう、と。己から離れた男と相対することとなっても構わなかった。

 こびりついて剥がれない記憶を覆い隠すように塗れた狂気を纏った翼を広げて鳳凰は羽搏く。己を軋ませたくせに変わらぬ顔をして平然と佇んでいる白鷺に己の痛みを刻み付けるために。或いは、己のものにするために。

 その最期は、おそらく己が見届けるに相応しいものだろう。かつて自ら目を潰した時の光景よりも鮮烈に脳裏に焼き付いてくれることだろう。そうすれば、ようやくあの時の色を褪せた記憶にできるだろうか。あの日救った少年に救われることなく――つまり少年は命を救ってくれた恩人の命を救うことなく――この手で最期を与えるのだと考えるだけで、薄暗い期待が胸の内を満たす。あの少年も屠ってしまおう。もう二度と何かを奪わせないように、殺しておいてしまおうと彼は考える。仮令男に最期を贈ったとして、その後、その身体を自らの手で葬るためと奪われるのではないか。死して尚この手に入らぬというのならば、決して奪われないように――例えば石の下にでも隠れるようにしようか。それはまるで嫌いなもの、恐れているものから逃げる子供の様にも思えたが、同時に大切なもの、愛しいものを独占しようとしているようにも思えた。

 舞台は整う。終幕に向かい、歯車は廻る。役者は未だ結末を知らず、天が定めた筋書き通りに踊る。己の勝利を確信しているもの。世に安寧の光を求めるもの。それぞれが再びの邂逅を果たして、彼らの終章は始まる。

目を閉じても、耳を塞いでも

 

(将仁 色や臭いに囚われていたものは抜け出そうと足掻いて散文ちっくに失礼します)

目を閉じても、耳を塞いでも

 救世主は救えない。救いたいと思った人物を、世を救うと言われる者は救えない。

 伸ばした手の横を後方から飛来した一閃が通り過ぎていく。あと一歩、踏み込めば届いた場所にあった身体に、白刃が突き立つ。肉を、骨を貫く鈍い衝撃音が身体を揺らす。宙に舞う見慣れた赤が、ひどく悲しいものに思えた。

 掲げたそれを痛みだと言った。ならばその身に突き立っている矢が、槍が与えるものは何だというのだろう。何より、痛みを甘んじて受け入れるべき人物であるのだろうか。彼は、違うと思った。痛みを罰として受けるべき者ならば他に大勢いるではないか。この、今目の前で死に行くひとが何をしたのかと。ただ他者のために生きただけではないのかと。そして、その生き方は自分のものよりもずっと善いものではないのかと。あぁ、こんな最期は、酷過ぎる。

 あの日見た色と同じ目が、再び彼の顔を映す。まろくやわらかそうだった少年の顔が精悍な男の顔になって、見えぬ代わりに手で触れて視ていた息子の面影を持って現れる。最期の間際に叶えられた願いを純粋に喜び、死に行く運命を呪うでもなく、ただ優しく言葉を遺して息絶えていく。

 かつて自分を救ってくれた人物は、そうしてくだらぬ碑の下へ消えていった。フッと力が抜け、崩れ落ちる身体の上に重々しい音を響かせ地を揺らして碑が落ち切る。此処に眠ると、その名を石に刻むことも花を供えることもできない場所に頽れたひとを、彼は悼んだ。あの日、初めて会った時から慕っていた。その強さに、優しさに。それらがあまりにも暖かくて――こうして荒れ果てた乱世で再度会えるとは思っていなかったから、嘘か夢幻かと思ったけれど、あぁ本物だと解った時は純粋に満たされた。憶えていてくれた。自分の実力を認め、ひとりの人間として頼ってくれた、と。このひとのためなら、全力でこのひとの敵を葬ろうと思った。けれど、それが、この有様はなんだ。誰を助けることも出来ず、それどころかあの日のように命を救われ、自分は最期を最も近い場所で看取っただけとは、どういうことだ。これほど己が無力だと思い、恨んだ時は無いだろう。

 叫び声は空を震わせ挽歌と成る。亡骸の頬に触れるように冷たく硬い碑の側面にそっと触れ、拳を握り締める。この下にあのひとが居るからと言って、その上の碑に触れたところで、あのひとには届いていないのだと。寧ろ、これはあのひとを押し潰した憎むべき凶器である、と。

 ユラリと振り返り、見下ろす先には、あのひとが倒してくれと言っていた男。あのひとを殺した、張本人。実に満足そうな表情を浮かべて、此方を見上げている。胸が、目の奥が焼けるように熱いのに、身体の中心はスッと冷えていく。倒す、討つ、殺す。彼は思う。仇を、討たねばと。激情が渦巻く頭の中で、冷静にそんなことを思った。それはたぶん、鍛えられた彼の理性の実力であるし、或いは、どの人間にも在り得ることだった。感情に呑まれないように、彼は冷静な部分を尖らせて前を向く。

 瞳の中に灯った激情の光は、しかし凍てつくようなそれを持っている。真正面からその光を受け止めて、愉悦と狂気を含んだ表情を浮かべている男は尚わらう。風に踊っていた外套を抛り捨てて、男は彼の方へと歩いてくる。あのひとが碑を背負って歩いた、同じ、道を歩いて、彼を殺すと高らかに宣言して。かつてあのひとと並んで立っていただろう、男を、彼は相手がしたように確たる声音でもって殺すと宣言する。

 手を伸ばしても、どれだけ追いかけても、もうあの背には届かないことを、彼は信じたくなかったが、その現実を飲み下した。前に、前に進まなければ。自分は前に進まなければならない。過去に囚われ現在を見失い未来を潰してしまうなどという愚行を犯すわけにはいかない。あのひとの死を無駄にしてはいけない。自分の中で生かし続けることを決めたかつての少年は拳の基本を思い出すようにしっかりと構える。

 救世主は世を救う。救世主は文字通り世を救う者であるが、救いたいと思った者を救えるとは限らない。

 

伸ばす手は空を掴む

 

(ケンシュ 次に書くときは幸せな世界軸とか時間軸で書きたいです散文ちっくに失礼します)

伸ばす手は空を掴む
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