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 美しく――すべてを赦す聖者の如く跪いた白鷺の胸に、一本の槍が真っすぐに突き立てられる。走り寄る足音に顔を上げた時、背後から覗き込むようにその身を抱き寄せるように一筋の狂気が一つの命を貫いた。伸ばした手は、あと一歩、届かなかった。

 飛ぶ赤は存外少なく、それよりも槍を伝い切っ先から落ちていく赤の方が多い。コフ、と口端からも赤が溢れ、反らした上体に従って地面に落ちて行く。光を忘れた双眸は茫洋と虚空を見詰め続ける。

 あと一歩で間に合わず、腰元に縋り己の非力を悔やんでいる朱鷺の肩に、ソッと白鷺の手が触れる。肩、腕に触れて、その手は子供をあやすように背中に添えられた。歪んだ表情が張り付いたまま顔を上げると、天を仰いでいるその顔の口角は微かに上がっていた。細められた目の、ないはずの視線がこちらに向けられているような気がした。こんな時でもひとを気遣うのかと視界が滲む。

 そんなふたりを嘲るように槍の持ち主――鳳凰がわらう。更に深く槍を押し込み、その切っ先は遂に白鷺の身体を通過して地面に届く。溢れた赤が音を立てて地を濡らす。

「――おまえは、知っているか」

槍を握っていない方の手で髪を引っ掴んで注目を己に向けさせる。そうして、ひどくたのしそうに耳元で囁く。

「ある国の伝承ではな、鳳凰はその胸に仁の紋を持っているのだそうだ」

ジロリと澱んだ空色が足元から睨め上げている朱鷺を捉えて、現実を見せつけるように歪んだ。

「ならば返してやるのが道理だろう?」

堪え切れなかった笑い声が耳朶を打った。光栄に思え、と、不遜な声が弾む。

 昏い空が、白鷺を見るときだけは、うっとりと細められていることに、どれだけのひとが気付けただろう。何故この場所を最期の場として選んだ――用意したのか、態々鳳凰が訊いた者に語って聞かせたとして、理解はできても賛同はできない者の方が多いだろう。それはおまえのただのわがままだ、と――例えばその眼下にいる朱鷺が言うだろう。

 己の胸を貫く槍の柄を辿り、白鷺の手が鳳凰の手に触れる。もう、碌に力の入らない手で己を殺めている手を包んでやる。片手で朱鷺に、もう片手で鳳凰に触れた白鷺は、困ったように微笑んだ。

 雫が一粒、天を仰ぐうつくしい顔に筋を描いて落ちて行く。あ、と思う間もなく空からパタパタと水滴が落ちてくる。地を叩く雨音は歩くようなものから早足、やがて走るようなものになっていった。打ち付ける雨が軽い砂利や溢れ出た赤を洗い流していく。

「おい――貴様、何をしている。気安くこれに触れるな」

いつの間にか縋る格好ではなく、力の抜けた身体の、腰の辺りに手を回し、抱きとめるような体勢になっていた朱鷺を威圧する眼。槍を持つ手はそのままにもう片方の腕で刺し貫いた身体を支えていた鳳凰を射抜く眼が応える。

「何を言っているのか――このひとは、あなたのモノなんかじゃない」

雨に紛れない、凛と静かな声だった。その目に確かな怒りを宿して、人を殺す拳で人を生かす道を選んだ者が他人を見る。

「ほう。そんな眼もできるのだな。だが……何故だ? 何故、これに執着する?」

「ひとのことは言えないでしょう。南斗の拳士なら他にも大勢いる。なのに、何故あなたはこのひとを選んだのです」

冷たくなっていく。抱いている身体が。触れている指先が。周囲の空気が。スッと熱が引いていくように、冷たくなっていく。胸が軋んでいることは解ったけれど、思考も視界もただ冴えていくばかりで、確固とした世界が憎らしい。

 頭上を覆う暗雲のような暗い笑い声が響いた。迷子のような、無理に作ったような歪な笑顔が勝ち誇ったように吐く。

「言っただろう。これは俺のものだと。お前が知る以前から、これは俺だけの白鷺なのだ」

 

 

鳳凰についてWikipediaより

 「山海経」「南山経」では鶏に似ており、頸には「徳」、翼に「義」、背に「礼」、胸に「仁」、腹に「信」の紋があるとされた。

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