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公孫樹

遥か昔から根差す樹木。扇形の葉を持ち、秋には黄葉する

しかし永い時の中でその仲間は全てが息絶えた

 

成長は早く、また強健である

 

葉や種子は薬として用いられるが、種子は摂取量によっては中毒を引き起こす

その種子は硬い種皮の色から「白果」とも呼ばれる。早期に収穫されるものは翡翠に似た緑色をする

 

 

 時空の裂け目を巡る一連の事件の後、天冠山の頭上に開いていた裂け目は閉じた。各地のキングやクイーンも、件の時以来落ち着いている。ヒスイの地に、日常が戻ってきていた。

 しかし未開の地には未だ謎が多く――時空の歪みと呼ばれる現象は度々起きていた。

 

 ある従業員がフラりと姿を消してしばらく。彼が担っていた各地への行商を、掘り出し物の仕入れを兼ねて男は行っていた。天冠山を越え、純白の凍土へ。シンジュ団の集落を目指していた。

 銀雪に覆われた大地は日の光を眩く返す。男は下方からの眩さにも目を細めた。ふとした瞬間に距離感が分からなくなる。一筋縄ではいかない道行きに、何度目とも着かない溜め息がこぼれる。それでも男は足元に注意を払いつつ雪原を進んでいく。

 そんな道中だった。男の前方。比較的安全な道として経路に選んだ道の上に時空の歪み――その前兆が現れたのは。

 男は目を細める。迂回すべきか否か。

 ここは商品と身の安全を――と考えたところで、いや、とも思う。時空の歪み内では普段見かけないアイテムが得られる、と聞いた。もちろん、野生のポケモンが現れることも、そのポケモンたちが通常見られる個体たちよりも攻撃的なことも、聞いている。考えるまでもなく、歪み内の危険度は高い。

 だが。

 男は前方を確認する。雪の積もる枯れ木。聳える切り立った崖。そして、屈めば身を隠せそうな草むら。ある従業員がまたフラりと発ち、未だに音沙汰の無いことからやや下方ぎみな売り上げ。

 商人の天秤は静かに傾いた。

 

 多少の探索(寄り道)を経て「前兆」の手前に着く頃には日が暮れ始めていた。

 異様な雰囲気。丸い器を被せられたような領域内では、時折風景が歪んで見える。悪酔いしそうだ、と男は顔をしかめる。

 とりあえず、深呼吸をひとつ。野生のポケモンたちを刺激しないよう草むらに身を沈めた、丁度その時だった。

 世界が暗転し、あちらこちらに光が瞬いた。

 瞬間、そこからポケモンたちが現れる。凍土では見かけない、棲息していると聞いたこともないポケモンの姿まで視認して、男は内心感嘆する。そしてどうやら気が立っているらしいことも、彼らの様子から察せられた。

 

 無数の目に見つからないよう、静かに時空の歪み内を探索する。なるほど確かに、珍しい物品が落ちている。用途の分からない透明な機械や特徴的な模様の石を拾いながら男は思う。赤や緑と言った色を持つ欠片は、何か古物の破片だろうか。

 そんな時だった。ふと視界の端に人影が映ったのは。

 反射的に、調査隊の人間だと思った。だって、ここは一般人が気軽に来られるような場所ではない。そうでなくとも――例えば凍土に暮らすシンジュ団の人間だって――時空の歪みに近寄ろうとはしないだろう。

 あるいは見間違いだろうか。人の姿に似た姿形を持つポケモンは珍しくない。

 まあ、わざわざ危険を冒して確かめることもあるまい――。微々たる可能性に男は首を振る。先程の影は、何かポケモンを見間違えたのだ。

 そう思い、岩陰から顔を出す。と。その目の前。比較的拓けた場所に――見たことのない服を纏った少年が、居た。

 男はぎょっとする。あの少年はどこから現れたのか。あの服はどこのものなのだろう。否。そんなことよりも――。

 少年の背後に迫る、大きな影へ、男はバリバリ玉を投げつけた。

 大した効果は無いだろう。しかし、それでも不意を突けたことは大きい。

 突然の音に周囲のポケモンが刹那固まる。その隙に男は岩陰から飛び出す。そうして、ポケモンたちと同じように固まっている少年の手を掴んだ。増えた人間にポケモンたちが気付き、敵意を顕す。それと同時に、今度はケムリ玉を、地面へ叩き付けた。

 

 雪に足が縺れる。冷たい空気が喉や肺を焼く。それでも立ち止まらなかったのは、ひとえに命が惜しかったからだった。

 

 偶然見つけた洞穴の中、ふたりは向かい合うことも隣り合うこともなく座っていた。中心には焚き火が置かれている。パチパチと爆ぜる音と光は眠気を誘う。が、見知らぬ人間と二人きりと言う状況は――特に少年の方だ――緊張をもたらしていた。

 小鍋を火にかけながら男はチラと少年を見遣る。見ていて寒そうだからと渡したブランケットにくるまっている。ブランケットの下は――やはり見慣れない服だ。神話の時代を思わせる。けれど。少年自体には、見覚えがあるような気がした。もとい、ここしばらく音沙汰の無い件の従業員に似ていた。

 ただ彼と違い、少年の顔に笑みは無かった。

 まあ、無理もないだろう。見たところあの時空の裂け目から落ちてきた調査員よりも年下と思われる。そもそも、この少年が彼の血縁だと決まったわけではない。彼自身である可能性は――あるのだろうか。

 「アナタは――」

先に口を開いたのは少年だった。

「誰なのですか。見慣れない服を着ていますが」

その声に男の目が僅かに丸くなる。その機微に、少年は気付かなかった。

「……自分は商人ですよ。行商人。イチョウ商会のギンナンと言います」

「行商人……」

「そうです。各地を渡り歩き、商いをする人間です。例えば、そうですね。こちらのスープなどいかがでしょう」

男は火にかけていた小鍋を少年へ寄越す。中ではフツフツと豆のスープが煮えていた。

「こちらに入っている豆類はこの辺りでは生育しない種類です。それを乾燥させたもの使って作りました。美味しいですよ」

どうぞ御賞味ください、とどう見ても一人分の食糧を男は勧めてきた。てっきり男自身のために用意されたと思っていた少年は、困惑を見せる。

「あの……ワタシ、お代としてアナタに渡せるような物を何も持っていないのですが」

「そうですか。しかしお代は今回いただきません」

「? それでは商売にならないのでは?」

「……先行投資、と言うヤツですよ」

その時だけ、男の眼が少年から逸れた。商人然としたそれまでの振る舞いからは、違和感のある表情。

 けれど少年はそれに気付かなかった。実質無償で暖かい食事にありつけると言う事実が大きかったのだ。男から木製の小匙を受け取り、少年はいよいよ破顔する。暖かい湯気に美味しそうな匂い。

「では、いただきます」

「どーぞ」

 

 「…………アナタ、笑うの下手ですね」

「……」

沸かした湯を入れたカップに口をつけていた男の動きが停まる。不意に発せられた少年の言葉は、幼さとはかけ離れていた。

「思うに、商人とは愛想が良い方が良いのではないですか? それなのにアナタは今さっき初めて笑った。だけでなく、ぎこちない」

小鍋から昇る湯気越しに細められた目は、あの従業員が時折見せるものとよく似ている。

「…………人は己を映す鏡と言います。し、人には得手不得手がありますからね」

「生業に難儀していそうですね」

そして、少年はニィと笑った。

「でしたら、ワタシがアナタの分まで笑って差し上げますよ!」

「あなた商会の従業員じゃないでしょう」

「そうでした。では雇ってください」

「採用基準となる年齢を満たしていませんね。今回は残念ですがあなたの採用を見送らせていただきます」

その遣り取りの空気は、やはり、ああ、彼とするものと似ている。

 「……強いですね、あなたは」

非常食として持ってきていた菓子も少年へ渡しながら男は呟いた。

 突然現れ自分の手を引いた見知らぬ男。そいつが纏う見知らぬ服。目の前に並べられる見知らぬ――だろう――道具の数々。それらを前に、少年は気丈だった。

 けれど、男の呟きを拾った少年は、泣きそうな顔をして笑った。

「そんなことありませんよ。現に「どうしてワタシがこんな目に」と思っていますし」

「…………そうですよね。軽率でした。申し訳ない」

「でも、こんな状況で傍に居てくれるのがアナタみたいな人で良かったです」

「……自分は――偶々居合わせただけです。感謝されるようなモノじゃありません。むしろ、」

それは本心であり事実だった。状況を変える糸口すら思い至らぬ、無力な人間だ。少年が現れた時空の歪みは、今ごろ既に収まってしまっているだろう。

 となれば寧ろ自分は――少年の帰り道を奪ったに等しい存在だ。

 「……むしろ、なんです?」

「……いえ。なんでも」

男は今度こそ逃げるようにカップの中身を啜った。

 

 日が暮れども外が仄かに明るいのは雪の白さだった。

「夜が明けたら、あなたの帰り道を探しに行きましょう」

焚き火に細々とした木の枝を投げ込みながら男が言う。アテなどあるはずもなかったが、動かぬ事にはどうにもならないと思ったからだった。

「そうですね……ワタシの帰る場所……帰る道……あると良いですね」

「あるでしょう。あなたには」

各地を渡り歩く行商である男には「帰る場所」が既になかった。昔はあったのかもしれない。けれどそれは、もはや海の向こうに沈み、見えもしない。しかし男――が束ねている商会――は、そこに身を置くものたちの「帰る場所」となっていた。

「そうですね。きっとありますよね。でも、もしなかったら、アナタがなってくれますか」

「――あなたが望むなら。自分はあなたの止まり木になりましょう」

そのくらいにはなれる。だろう。と男は思った。結局そこを羽休めの場とするかどうかは当人次第なのだ。自分はそれを、特段拒まない。それだけの話だ。

「あなたが疲れ傷付き、休息を求めてこのイチョウの樹に帰って来られたなら、温かいスープの一杯くらいは、提供させていただきます」

 行商人が出先から帰って来ないことなど、間々ある。野党に襲われるなり、ポケモンに襲われるなり、自然に呑み込まれるなり。そういう仕事だ。生きているにせよ死んでいるにせよ、報せが届くのは幸運なことだ。

 時空の裂け目の騒動の、正に直後。帽子を目深に被り、いつもは纏めている髪を降ろした彼が珍しく静かに、一礼だけをして村を出て行った。まるで別れのように。

 彼は、商会を抜けるとは一言も言っていない。故に自分も、彼を除籍していない。元より風来坊のきらいがあったのだ。今回も、おそらくそうなのだろう。

 だからきっと、男はその従業員の無事を望んでいるのだ。雇い主であるから。身内であるから。子供を気にかける親のように。

 この少年が、あまりに彼に似ているから。普段は忙しさに圧し殺せていた感情が、顔を除かせる。

 

 夜更け。周囲の空気の変化に気付いたのは、火の番をしていた男だった。この景色には、覚えがある。

 バサリと焚き火に砂がかけられる。その音と、突然失われた灯りに少年が何事かと顔を上げる。なんですか、と口を開いた少年へ「静かに、」と男の声が被さった。

 さてどうするべきか。

 今からここを離れるのは無謀と言える。だが、ここは袋小路の行き止まり。行くも退くも儘ならない。

 男は手探りに少年を探す。灯りのあった時、少年が居た方へ手を伸ばせば彼に貸したブランケットに触れた。それを小さく引けば、砂利の動く、身動ぎの音。やがて手繰るように触れられたのは、細く冷たい指先だった。

 「休むなら、傍でお願いします。できたら起きてて欲しいですが、無理にとは言いません」

洞穴の奥までジリジリと下がり、更に少年を背中へ。荷物は最悪置いていこう。命あっての物種だ。ケムリ玉やナイフと言った、最低限の装備を選んで身に付ける。少年にも幾つかを持たせる。

 時空の歪みの発生時間に規則性があるのかは分からない。けれど、その時は、前兆から発生まで、至極早く感じられた。

 世界が歪む。

 

*

*

*

 

 「――まあ、来るだろうと思ってはおったよ。遅かれ早かれ、な」

 「だが、やはりと言うべきなのはあの男じゃな。どちらかと言えば、あたしは来んと思っておったのじゃ。だのに彼奴はそなたが来るだろうからとあたしに諸々預けに来よった。菓子折りも付けてな」

 「なに。ちょいとな。村へ寄った際に話をしただけよ。そなたが他者の名を挙げたのが珍しゅうてなあ。覚えておった」

 「のう。筋は通すべきだとは思わんか。そうでなくとも、思うところは無いか? 此処はそなたの餌場にはなれど止まり木にはならんだろう?」

 「そら、預かり物じゃ。着替え……と言ってもただの制服のようだが。それとこれは――曰く、ノルマ分の商品、と言っておったかのう」

 

*

*

*

 

 崖――と言っても比較的小さなものだが――から落ちた。何のことはない。足を踏み外しただけだ。

 連れが居ないだけマシか、と男は思う。

 あの時空の歪み内で少年はその姿を消した。別れは一瞬だった。そこでポケモンたちが現れ、姿を消すように、少年は閃光と共にいってしまった。別れの言葉など、交わす暇も無かった。

 連れが居ないから、相手に負担を強いることもない。が、同時にこう言った非常時に頼る相手も居ないと言うことだ。

 ひゅうひゅうと自分の呼吸音がやけにうるさく聞こえる。ずきずきと痛むのはどの部位なのか、定かには感じられない。転げ落ちた際に岩肌かどこかでざっくりと切れた腕は熱を帯びている。だが、破れた袖からは冷気が這い上がってきて体温を奪っていく。まずいな、と思いつつ、重みを増す目蓋に視界は途切れがちだ。

 だから、ああ、視界に野生のポケモンが近付いて来るのを捉えてもどうにもできない。瞬きひとつの間に像は点から姿になる。それにほら、獰猛な唸り声まで聞こえてきた。万事休す。もし自分がこのまま帰らなければ――ツイリは怒るだろうなあ、なんて呑気なことが思い浮かんだ。

 

 「――!!」

 薄れ始めた意識の中、誰かの声が聞こえた。気がした。

 重い目蓋をこじ開ける。

 目の前に、久しく見ていなかった、銀杏黄葉。

 

*

*

*

 

 「おいていかないで」

 冷たい手を握りしめて呟かれた言葉は誰に届くこともなかった。

 

 目を開けると視界には天井と照明が入ってきた。寒さは感じず、身体を預ける地面――ではなく寝台は柔らかい。どうやら自分は生き延びたらしい。つまり意識を失う直前に見たあの背中は、幻なんかではなかったようだ。

 とりあえず此処がどこなのか、起きて確かめようと男は身体を起こそうとする。

 して――片腕が不自由なことに気が付いた。怪我をしたから動かすと痛む等ではなく、単純に動かしにくいのだ。まるで誰かに掴まれているように。なんだろう、と男の眼が自身の腕に行く。

 そこには綺麗な金色が広がっていた。まるで黄葉したイチョウのようだ。

 それが、腕――手をがっちりと握っているらしい。思わぬ色彩と状況に、男の目が丸くなる。

 寝台に突っ伏している金色――青年を起こそうと身動ぐ。その時、ふわりと土の匂いがした。また遺跡巡りでもしてきたのだろう。眠るならそれこそ布団へでも行くべきだろうに。

 そんなことを思っていると、掴んでいる腕の主が動いたことで、そちらも気が付いたらしかった。もぞりと、青年の肩の辺りが動く。

 ゆっくりと、青年が顔を上げる。ぼんやりとしていた目が、男を捉える。大抵ニコニコと笑みを浮かべていた顔は、迷子の子供のように翳っていた。雪雲から雨が降りそうだ。視線が合ったと思えば揺れ始めた灰色の目に男はそう思った。

 わな、と青年の唇がふるえる。それが、迷子が泣き出しそうな姿に見えて――。

 「おかえり、ウォロ。温かいスープでも食べるかい」

 

 下手くそな笑顔だなあ、と思った。

 困り顔にも見える顔だ。これでは、大体の客は物を買って行ってはくれないだろう。笑顔とは、己が浮かべるように、自然に朗らかで分かりやすいものであるべきだ。お手本を、見せなくては、と思う。

 思ったのだけど、顔の筋肉は言うことを聞いてくれなかった。

 顔だけではない。喉がひきつり、指先は握りしめた手を放そうとしない。身体が自分の物ではないみたいだ。そこに、まるで子供をあやすような言葉。

 晴れた日の海のようだ、といつか思った碧眼が、あふれるように滲んだ。

+++

 

 空から降って来た少年は、いわゆる未来人だ。ヒスイの地では一般的な着物も、少年からすれば「レトロ」な衣服になる。時空の旅を経たせいか、覚えていることは多くないけれど、感覚として残っているものがあるのだ。

 

 その日少年が宿舎から通りに出ると、何か違和感があった。見慣れた通りに、何かが足りないような。

 顎に手をやり首を傾げる。そして、もう一度ぐるりと景色を見回して――主に宿舎の隣で行商をしている商会が目に留まった。

 そうか、ここか。と少年は頷いた。

 いつもは二人いる行商人が、一人しかいないのだ。

 常と変わらず商いをしていると見える女性に近付き、もう一人はどうしたのかと訊く。もう一人――彼がいつも腰かけている椅子には、ちょこんと身代わりらしき人形が鎮座している。

 「やあ。うちのリーダーなら今日は休みだよ」

自分たちだって人間だから休養は大事なのさ、と女性は笑って答えてくれた。

 なるほど。少年は納得する。ならば今日は彼の顔は見れないか。少しの落胆を感じながら、少年は女性に礼を良い行商を後にする。そう言えば朝食がまだだ。調査へ出る前に腹ごしらえをしようと食堂へ足を向ける。

 と、通りに面した食堂の席に見慣れない人影。他の村人とは少し変わった風体は、見知った色彩を持っていた。

 興味の赴くまま、少年はそちらへ足を向ける。

 股引などを用いず、羽織も無し。見頃を上げていない、いわゆる着流しの着方。山高帽とはまた異なるらしい帽子――カンカン帽と言うらしい――は、やはり彼の前髪を隠している。

 「どーも。今日はお休みですよ」

 向かいの席に腰を下ろすと、イモモチをつついていた男は、それでも少年に反応してくれた。

 「現地のひとたちと商売をするなら、その土地の文化に触れておいた方が良いですからね。その一環です」

その恰好、と少年が訊くと、男はそう答えてくれた。

 少年はおもむろに財布を取り出し、幾ばくかを男の前に積む。眼福だ。対する男の方は困惑した。

 突飛な投げ銭を試みた少年へ「受け取れない」とお金を押し戻し、男は食事を続ける。そこで少年の目が、自身の腕へ注がれていることに気付いた。

 疑問符を浮かべながら視線を追う。何の変哲もない成人男性の腕。

 だが、自分の腕を眺めて、男は「ああ、」と気付いた。

 普段は制服で隠れていて見えない傷痕が、今は見えていたのだ。

 「……まあ、野党や野生のポケモンに襲われることもありますからね」

見ていて気持ちの良いものではないか。特段気にしてはいなかったが、これからは気を付けた方が良いか。少年に経緯を簡単に話しながら男は思う。

 腕だけではない。身体中に傷痕は残っている。それだけ長い間、各地で行商をしてきたのだ。

 ふとそんなことが思い浮かんで、色々あったなあ――等と感慨深くなる。

 けれどその感慨は、目の前の少年が何故かまた懐から財布を取り出したことで何処かへ吹っ飛んでいった。思わず「ヒエ」と声が漏れる。常々気前が良いなとは思っていたが、この少年はどういう思考回路をしているのだろう。

+++

 「ただいま」

 がちゃりと扉の開く音。相も変らぬ気だるげな声。キシリと鳴く床を引き連れて、家主の帰還を知らせる。

 男はマフラーを解き、コートを脱ぎながらリビングへ向かう。

 「ああ、ありがとね」

 途中、廊下まで出迎えに来てくれたルカリオにマフラーやコートを渡すと勝手知ったる足取りで片付けに行ってくれる。手持ちではないのにありがたいなあ、と頼もしい背中に思う。

 リビングへ続く扉にはすぐ辿り着く。小さく聞こえるテレビの音はニュース番組だろうか。

 「おかえりなさい。ご飯にしますか。お風呂にしますか。それとも、」

 「ご飯は食べてきたからお風呂かなあ」

 「……せめて最後まで言わせてくださいよ」

 扉に手を伸ばし、開けると同時に同居人である青年がひょこりと現れる。ダイニングテーブルの上には酒とつまみ。ひとりで晩酌していたらしい。

 「そっちはお風呂入ったの?」

 先に寝ててくれても良かったのに、と言えば青年は芝居のかかった仕草で両手で顔を覆って見せる。

 「そんな、健気にアナタの帰りを待っていたのに、そんなアッサリした反応なんて、あんまりじゃあないですか……!」

 「今日は他所の人たちと食事会って前々から伝えてたし、今日家出る時にも話したでしょ」

 「ええまあそうですね。そうですけど」

 スーツの上着を脱ぎ、ソファの背に抛る。ネクタイを外してシャツのボタンも外せばようやく肩の力が抜けていくような感覚。やはりこういう格好は苦手だな、と男は思う。

 「美味しそうだね。作ったの?」

 卓上の皿を見て男が青年に訊く。青年は「ええ」と頷いた。「もらっていい?」と再度訊く男に、青年は「どーぞ」と再度頷く。

 「ん。美味しいね」

 「食べてきた食事のが美味しいんじゃないですか? 今回もお高いところだったんでしょう?」

 「んー。まあ、高いところだったよ。でもああいう食事会って味あんまりしないから、お前や皆と行く居酒屋の方が美味しいかな」

 お前の手料理も美味しいよね、と男は何でもない顔をして言う。

 思わず、青年は大きな溜め息を吐いた。

 「…………アナタ、ホントそういうところですよねえ」

 

 「そう言えば妹さんが、」

 「やめてください。いいです。どうせ小言でしょう。もしくは偶にはお婆様に会いに来いとか」

 「そんなことも言ってた気がするね。でも今回は食事のお誘いだよ。久しぶりに遺跡観光してご飯でもって」

 「……ほう?」

 「今度あちらさん考古学展やるみたいだから、話聞いてくるのもいいんじゃない?」

 「……まあ、偶には付き合ってやるのも良いかもしれないですね」

 

(ヲさんとシさんが兄妹(育った環境は別)でギさんとデさんが親戚 / ギさんとシさんが会社なりの会長とか社長とかそんな感じの現パラ とか)

+++


「あなたはわたしに色々なものを与えてくれました」
「それは違う。それは、きみが気付いたんだ。おれはきみに何も与えちゃいないよ」

――ありもしない小説の一欠片

 後々聞いた話によれば、船の積み荷に紛れ込んでいたと言う小瓶の検分をしていたらしい。
 そも――得たいの知れないモノを口に含むなんて、好奇心にも程があるのではないか。
 うっすらと汗ばむ背中を見下ろしながら青年は思った。
 報告のためにと訪れた彼のテントに違和感を拾い踏み入った結果がこれだ。
 他のテントや荷車からいつもより離れた場所に置かれていると思えばそういう訳だと言うことらしい。テントの中、ブランケットにくるまっていると思えば、寄るな来るなと弱々しい声。
 覗き込んだ顔は熱っぽく――知らず、口角が上がった。
 自分に任せてみないか、等と。
 どこかで読み齧って知っていた。ついでに己も溜まっていた。都合が良かったのだ。
 そうして容易く相手を押し流し、その身を拓いた。
 件の小瓶の中身は十中八九媚薬の類いだろう。なんて凡庸な。しかしその効き目は凡庸とは言い難いようである。
 曰く、ほんの少しだけ舐めてみただけだと。小指の先程度。
 それで、この有り様とは。
 向かい合うのは嫌だと言うから後背位でしているが、抱き心地は悪くない。むしろ良過ぎるくらいだ。
 欲を収めた胎は熱く柔く、まるでこの行為に慣れているかのよう。
 無論、そう揶揄したら「そんなわけないだろう」と途切れ途切れに睨まれた。
 己が動く度にビクビクと跳ねる身体が厭らしい。シーツを握り締め声を圧し殺して、けれど確かに感じ入っている姿。乱れる銀糸から覗く耳は真っ赤で、普段の動じなさとはかけ離れた色合い。そして、それをいま己は見ているのだと頭のどこかが満たされるような感覚。
 これは良い好奇心だったと自賛する。面白いものが見られた。
 ああそうだ――見る、と言えば。
 もうずっとくずおれたままの背中へ意識を戻す。
 濃淡大小様々な傷が残る背。
 他の商会員も自分も、少なからずの傷はある。けれど、これ程までではない。
 事故。野党。災害。野生のポケモン。原因は様々だろう。
 眼前に曝された傷痕を眼で辿る。
 手持ち無沙汰に指先でなぞれば、ひくりと背が跳ねた。
 傷は、負えば痛む。ましてや痕が残るほどのもの。痛まなかったわけがない。行動にも支障が出ただろう。
 その時この男は――何を感じ、考え、思ったのだろう。
 どうして、等と思わなかっただろうか。降りかかった理不尽に腹を立てたりしなかっただろうか。
 熱い肉に揉まれ、未だ芯を保つ欲とは裏腹に頭の中は冷えていく感覚。
 平生泰然としているこの男が、僅かにでも世界を恨み、呪っていやしないかと。
 「ぃ゛ッ! ぁ、っひ、ィ……っ!」
 指先を引き留めた傷痕にそのまま爪を立てながら、そんなことを考えていた。

 過去を思い出していた。
 彼と身体を重ねたのは、結局あの時だけだった。
 薬のせいにして、互いの欲の発散のため。日が昇ればひとつの業務を終えたような空気で解散した。己も彼も、蒸し返すようなことはしなかった。
 今にして思えば――よくあの一度きりで済んだな、と言うのが正直な感想である。
 色々紆余曲折あって恋仲になり、そこからまた何やかんやあってようやく身体を重ねるまでに至ったのだ。
 本当にするつもりか。自分はもう歳だから。それとなく行為を回避しようとするのを懇切丁寧に「ぜったいにやる」と意志を示して幾夜。相手は遂に腹を括ってくれた。商会と言う公の場ではまず見られないだろう、歯切れ悪く躊躇する様子は、それはそれで好いものだったけれど。
 「――ッ、ァ、」
 あの時のようにへたりと沈んだ背中を見下ろす。
 今回は薬も何も無い、まったく素面の状態だ。彼が言動の端々に躊躇――不安を見せたのも無理はないだろう。己はまったく、それは杞憂だと確信していたが。
 だから、結局あの時と同じか、それ以上の状態になったところで驚きはしなかった。
 寝床も道具もでき得る限り整えて事に臨んだ。丁寧に閉じた身体を開き、ひとつになる。
 あの時と同じ状況。だけれど、あの時よりも満たされたような感覚。
 知りたかった知識や情報を得たときとはまた違う、胸の辺りに満ちる温かなもの。
 これが「愛しい」と言う心なのだろうか。
 自身の、ちいさな動きひとつにも愛らしい悲鳴を上げる肢体に熱が積もる。
 ぐち、ぐぷ、と音を鳴らして身体を揺らす。あたたかく、ふわふわとした感覚を味わっていたくて、ひと息ついてから暫時、ゆったりと過ごしていた。
 けれどそれは、どうやら相手には酷であるらしい。
 「――ッ、ァ、ぐ、ぅ……っ!」
 相変わらず圧し殺されている声。けれどその努力をすり抜けて鼓膜を揺らす音は確実に欲を刺激した。
 そろりと彼の腹に手を回す。そわ、と己の欲が収まった下腹部を撫でる。
 汗と精に濡れた肌、下生え。
 悲鳴のような抗議を流して軽く肌を押せば、肉越しに、己の熱に触れたような、気が。
 ああ、と感嘆。
 ずるりと結合を解く。突然の行動に悲鳴が聞こえたけれど、無視してとろけた身体をひっくり返した。
 「やめ……!」
 抗議の声が、真正面から向けられる。両の手が慌ててその顔を隠したけれど、赤く乱れた顔が、しっかり目に焼き付いた後だった。
 「大丈夫ですよ」
 相手の腕に触れる。観念して手を退かしてくださいと指先で促す。
 「大丈夫じゃ、ない……!」
 「何故?」
 普段こちらを子供のように扱う節のある彼が、今はより子供のように思えて顔がゆるむ。問いにモゴモゴと口ごもる様など、幼子のようで愛らしいではないか。
 「………………、は、恥ずか、しい、」
 たっぷり十数秒を費やして、しかしちゃんと答えてくれたのは、自分たちの関係が以前とは違うからだろう。以前ならば、きっと答えてはくれなかった。
 くふ、と笑みが漏れる。
 「大丈夫ですよ」
 顔の横に手をつき、耳元に口を寄せる。
 「もっと見せて、聞かせてください」
 彼が、声のない悲鳴を上げた気がした。
 ぐずぐずに解けた人間の隙を突くのは容易だった。
 両足を掬い上げ、その胎へ欲を滑り込ませる。散々に解されたそこは、むしろ迎え入れるように熱を呑み込んだ。
 反り返る背。突き出された胸の先を食めば、いやだ、やめろ、と泣きそうな声。胎はキュウキュウと嬉しそうに半身を締め付けているのに。
 「好いでしょう?」
 一旦口を離し、訊きながらツツ、と指先で頑なな腕を辿る。遺跡を埋める岩や石を退かすように、そっと手を取り顔を覗く。
 ちかりと、青い輝石が瞬いた。
 綺麗だなあ、と思った瞬間、青がフイと逃げる。代わりに、目の前には真っ赤になった耳。
 取ったままだった手を己の背へ導きながら耳と共に差し出された首筋に口を寄せる。
 なだらかな曲線に、赤い痕を残す。
 「――傷、痛くないですか」
 唇と指先で肢体をあやしながら、ふと気になって訊いた。背中もそうだけれど、腹側にも、残っている傷痕は少なくない。
 「ッ、ァ、いま、痛むのは、ない、っ、よ」
 だから気にしないで、と背中を撫でられる。そんなにひどい声が出ていただろうか。
 「みんな、や、商品、ッ、無事なら、安い、もの、だから、ァ……っ!」
 ゆらゆらと熱と欲と涙に揺れる眼が、それでも真っ直ぐに向けられていた。
 ぎゅう、と胸が締め付けられる感覚。
 知っていた。聞いていた。商会に属する人間の中には、彼に拾われた者も居るのだと。そして、分け隔てなく世話してくれたのだと。
 その肌に残る傷痕を辿る。指先に深く浅く引っかかる凸凹。
 まるで「拾う神」だ、等と――。
 同時に、以前には感じなかった、この傷痕を残していった有象無象に対する怒りのようなものが湧く。
 ガリ、と鎖骨の辺りに歯を立てる。ひぃ、と掠れた悲鳴が上がり、胎がキュウと締まる。明日のことなど、考えていなかった。それだけ夢中だった。
 「ッ――、なに、するの……!」
 「爪、立ててください。噛んでも、良いですよ」
 ジブンも、そうします。だから。
 「アナタの跡を残して」
 揃いにしたかったわけではない。ただ、相手が己に縋った――あるいはそこまで許したと言う――証が欲しくなったのだ。己は彼の「トクベツ」なのだと。
 それはきっと、幼気な恋にも似た独占欲で、ある種の征服欲で、甘く仄暗い歪んだ愛だった。
 粘質な水音が鳴る。獣のような息遣い。本能ばかりの汗と精のにおい。
 「ッア、ひッ、ひ、ぃッ! あっ! あァッ!」
 ゴツゴツと奥を穿つのに合わせて嬌声が押し出される。
 濡れた唇。白い歯列。その間から、赤い舌がテラリと覗いている。
 それに、熟れた果実に誘われるように、唇を重ねた。
 「ん――っぁ、む、」
 ちゅる、くちゅ、と舌の絡み合う音。閉じられた目蓋の端から、ぽろりと綺麗な涙が一粒落ちていく。背中に触れている手は、指先が立とうとして止めるを繰り返していた。
 思うまま、感じるまま、爪を立ててくれれば良いのに、と思う。そのためには、どのくらい理性を溶かしてやれば良いだろう。
 「ふぁ……ァ、んッ、」
 身体は蕩けきって、熱と悦に素直になっているのに、潤んだ目の奥にはまだ理性の灯が揺れていた。けれど不思議なことに、それに不満を覚えることは無かった。むしろ、これでこそ、なんて思ってしまう己が居た。
 心とは、斯くも理解し難いものだ。
 「ッ、は、ぁ……、わるい、かお、してる……ぅ、あァッ」
 気付けば薄っすらと開かれた青がこちらを見ていた。
 「……そういう顔をするジブンは嫌いですか?」
 「ア、アッ! ひっ、ィ、アッ……、ゃ、嫌、じゃ、ぁっ、ない、よ、」
 にっこりと作ってみた表情にだろうか、フ、と口端が微かに上げられる。
 「そ、いう……っ、おまえ、が、ァッ、すき、だよ、うぉろ、」
 ひゅ、と喉が鳴った。
 思わず身体が止まる。
 彼のことを、好きだと思っていた。
 思っていたのに。いま、胸を貫いたのは、それよりも強く、温かく、激しい感情だった。
 「――、」
 彼は己が求める神ではない。どこにでもいる、ただの人間だ。
 けれど彼は己を救う。当人にその気が無くても。己は彼に救われる。
 世界の再編を諦めたわけではない。そのつもりもない。しかし以前ほどの焦りは無い。それはきっと、彼が己を受け入れてくれているからだろう。
 そう、気付いてしまったのだ。
 「ええ――、ええ。ワタクシも、アナタが好きですよ。ギンナンさん」
 キュウと中が締まる。言葉よりも雄弁な反応。掠れた喘ぎ声をこぼした喉に歯を立てながら、胎を穿ち追い込んでいく。
 そうして、彼が登り詰めたとき。抑えられなくなった声が、高く舞い上がり儚く落ちていったとき。
 ガリリ、と。
 とうとう背中に熱が走るのを感じた。
 ふるえながら縮こまる胎に揉まれる欲。己でなければ聴けないであろう声に焼かれる腰。背を、頭を、理性を、甘い痺れが支配する。

 「……いいこと、あった?」
 後片付けをして、布団の中でゆるゆると過ごしていると、彼が不意に口を開いた。既に眠っていたと思っていたので内心驚く。実際、眠りの世界には半ば浸っているようで、こちらを見遣る碧眼はとろりと閉じかかっていた。
 「……何故です?」
 寝言のようなものだろうと思いつつ、問いの意図を汲もうと問い返す。
 「前と、違ったから」
 「それは――」
 どうやら以前身体を重ねたときと――時間も言葉も触れ合いも――違ったことが気になったらしい。
 いやむしろ同じように事が進むと思っていたのか。内心「ええ……」と戸惑う。
 「そうでしょう。あの時とは、違うんですから」
 ささやかな抗議も兼ねて、ぎゅう、と相手を抱き込めば「んー」とむずがるような声。己よりも年上。体格もそれなりの成人男性なのに愛らしく思えてしまうのは惚れてしまった故だろうか。
 「……そっか。そうだね」
 腕の中から、ふふ、と小さな笑い声。その穏やかさは肌に残った情事の跡とは正反対で。腰がジリリと熱を帯びる。そんな素直な身体反応を、ひどい大人だなあ、等と身勝手に責任転嫁。
 「ああ、あと――背中、ごめんね」
 若者の葛藤を知ってか知らずか、大人はなおもぽつぽつと話を続ける。
 「起きたら手当てするから」
 「、べつに、大丈夫ですよ。ジブンが望んだことですし」
 「……痛いでしょ」
 自身に頓着しないくせに身内――特に従業員と言った庇護対象――が傷付くのは嫌らしい。もちろん、己だって怪我をするのは嫌いだ。傷は痛むし、行動に支障が出るし、治療のための道具や資金だってかかる。
 しかし――この、彼から与えられるものは、それとはまったく別物だ。
 身内を大切にしている男が、己に縋って残した傷。この世で、己だけが持つモノ。
 その事実が胸を満たす。
 ピリリと走る痛みすら喜ばしい。
 「良いんです! それに――これから毎回手当てしてもらってたら際限がないですよ」
 「……? ――、っ!」
 にっこりと、しかし真面目な顔で言えば、彼の顔が一拍置いて赤に染まる。昼間と違い表情を様々見せてくれる相手に「やはり良いなあ」と思う。否。きっと己の前だから見せてくれるのだろう。
 「寝る!」と真っ赤な耳が言う。突き放すような言い方に反して背は向けられない。腕の中から出て行くようなこともない。
 世界は不条理で、理不尽で、儘ならないことばかりで、優しくない。
 けれど――ささやかな幸福と言うものは、確かに存在している。
 彼と出会わなければ、きっと知らないままだったそれは、今までの大志や感情に比べればちっぽけなものだ。だけれど、その小さな温もりを得てから、この世界で少しだけ呼吸がしやすくなった気がするのだ。
 腕を伸ばしてカンテラの灯りを消す。暗んだ世界は腕の中の存在を鮮明に伝える。口端がゆるりと上がる。
 「おやすみなさい、ギンナンさん。良い夢を」
 夜明けが楽しみだと思ったのは、いつ以来だろうか。

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少年と行商人
若い燕と会長
夜明けに抱擁
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