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 時折、声が聞こえるのだ。地の底から、目の奥底から。世界を呪う声が聞こえる。境遇を嘆く声が聞こえる。その度に、目が焼けるように痛むのだ。

 特に夜分は参ることが多かった。声がより近付いているような気がして。手を足を服を掴んで、闇の中に引きずり込まれてしまいそうな気がして。

 だから火はなるべく絶やさないようにした。ゆらゆらと揺れる炎は穏やかで、ぱちぱちと爆ぜる音は声を遠ざけた。

 大丈夫。まだ大丈夫。随分見にくくなったがまだ見えてはいるし、ひとと話せるだけの言葉も理性もある。まだ大丈夫だ。

 久しぶりに聞こえてしまった「声」に対処しながら、そんなことを考えていた。

 周囲は森で、不気味なほどに静まり返っている。大方道行く褪せ人だか旅人だかが食料として鳥獣を狩り、その仲間たちが息を潜めての静けさだろう。ぱちぱちと火の爆ぜる音と、大切な連れであるロバの息遣いや動きだけが聞こえる。明日には街道へ出て、ここ最近の拠点にしている教会へ辿り着ければ良いが。

 「……、…………、……、」

 耳元で「声」が囁く。耳障りなものだ。

 現状や境遇を嘆いたことが無いと言えば嘘になる。だが、「声」たちのように世界を呪うほどではない。それは確かだ。だから同じにしないで欲しかった。同胞同族と言えど、個はあるのだから。皆が皆、同じだと括られたくはなかった。

 そんな時だった。凪いだ水面に石を投げ込むような声が聞こえたのは。

 穏やかな遠吠えが夜空に響いた。

 野生の狼たちの遠吠えとは違う、馴染みのあるものに思わず口元が弛む。まさかこんな場所で聞くとは。聞こえて来たのは風下の方。遠吠えの主は、おそらくこちらに気付いている。それ故の遠吠えだろう。

 パチリと指を鳴らす。あの騎士は鼻も良ければ耳も良い。おまけに今宵の静寂。きっと、こちらの遠吠えも聞こえたことだろう。

 さてそれでは、と時間を潰すのも兼ねて楽器を構えた。声はもう、聞こえない。

 

 さくりと足音がした。微かな鉄さびと、獣のにおい。顔を上げる。ぼんやりとしたヒト型の影は、毛皮のようなものを纏っていた。

 けれどそこに立っているのがあの騎士ではないと、彼は解っていた。

 気配が違う。においが違う。足音が違う。呼吸が違う。

 判るのだ。見辛くなったからこそ、他の感覚がそれを補おうとする。

 人影は彼の正面、焚き火を避けるように近付く。それでも彼が動じなかったのは、覚えのある気配だったからだ。最近よく訪ねてくる褪せ人と同じ足音を耳が拾っていた。

 相手の顔は見えない。普段は陣取らない場所――柱の近く――でしゃがんだ相手を、彼は静かに待った。売買目的で来たわけではないようだと、その雰囲気で理解していたからだ。

 己の方へ微かに顔を向けど何も言ってこない商人に、相手も何かしらを察したのだろう。

 静かな衣擦れの音。そして、ざくり、と剣が地面に突き立つ音。

 付近に突き立てられた大剣に、しかし彼は動じなかった。

 次いで、周囲の空気が比較的大きく動く。視界の端で揺れる人影に、相手が傍にしゃがみこんだのだと察する。

 ツイ、と遠慮がちに指が伸ばされる。手甲を着けた手が、少しだけ躊躇うように手に触れた。それに応えるように弓から手を離すと、その手は今度こそ相手に掴まれた。

 手のひらを開かされる。そこに、やはり遠慮がちに触れたのは、硬い指先。こちらを傷付けまいとしているのが、触れ方から伝わる。

 ややあって、相手の指先が動いた。手のひらを走るこそばゆさに、反射的に手のひらが閉じかける。それを、相手の手が柔く咎める。

 相手の意図を図る。この行為の意味は――。

 手のひらを往き来する指先は、どうやら一定の軌跡を辿っている。

 何かの図形だろうか――と思ったときだった。それが文字を辿っているのだと気付いたのは。

 気付きを得れば、あとは意識するだけだった。

 そして、ゆっくりと綴られる文字は、追うことに然程苦労しなかった。

 “Forgive me”

 その言葉に、彼は目を細める。

 手のひらへ向けられた彼の視線に、言葉が伝わったらしいと相手も動きを止める。

 数秒の間、沈黙。

 先に静寂を破ったのは褪せ人の方だった。

 ざり、と土草を踏み、立ち上がる。その場から去ろうとしているのは、誰のみにも明らかな勢いだった。

 けれどそれを、商人は引き留めた。

 触れていた手をそのまま掴む。くん、と手甲に守られた手が引かれ、踵を返しかけた身体が止まる。

 思わぬ反応に、自ら仕掛けておきながら戸惑いの表情を浮かべた褪せ人の顔を、商人がはっきりと見ることはない。だが、その戸惑いを感じとることはできていた。

 大して強くもない力なのに、引き留められてたたらを踏んだ足音に小さく笑いが出る。言い逃げと言うのは、なかなか卑怯ではないのか。

 くいくいと手を引っ張り、傍へ戻るように促す。

 再び褪せ人が商人の傍に膝を折る。まるで跪く騎士のようだ。

 商人は、掴んでいた手をそっと離し、その腕を辿る。手甲を纏う逞しい腕。そして肩を通り、顔へ。ぼんやりと暗い色のそこは、触れればふかりと指が獣毛に沈む。被り物をしているのか。しかし、これは、このかたちは――。

 「……、」

 褪せ人の綴った言葉が誰に、どういった意味で乞われたものなのか、商人には分からない。ただ、褪せ人が「騎士」の姿形を模して己の元を訪れたと言う事実だけがある。

 この褪せ人は、人が好い。それなりの頻度で顔を出し、あまつさえ各地の商人へもわざわざ会いに行っていると言う。物好きとも言えるだろう。

 だからきっと、こんなことをした。

 ぽんぽん、と商人の手が褪せ人の頭部を撫でる。

 いつだったか――あの騎士にも同じことをしたなあ、と彼は昔のことを思い出していた。

 

 蹄の音がした。軽やかなそれは、どうやらこちらに向かってきているらしい。大地を蹴るのは街道や城門前を守る騎士たちが跨がるそれよりも太い脚の持ち主のようだ。そしてそれを駆るものを、彼は現状ひとりしか知らない。

 空気が大きく動く。教会内の草花がざわめく。迫る足音は――しかし眼前までは至らず、ばさりと翻る外套の音が舞い降りた。同時に、小さくカラリカラリと軽い木の枝が転がる音。

 また様々な場所を探索してきたのだろう、腐臭や死臭を微かに引き連れて、もはや慣れ親しんでしまったヒトのにおいが――。

 した、と、思えば、それは極近く。それだけでなく、身体に息苦しさが訪れる。

 霊馬から飛び降りた褪せ人に、そのまま抱擁されたのだと、ややあってから思い至った。

 視界が暗んでいる。薪の爆ぜる音が消えたことから、焚き火は褪せ人の着地と共に黙してしまったらしい。

 ぎゅう、と抱擁が強まる。息苦しさも強まる。けれど、他者にこれほど触れられたのは、何時以来だろうか。

 そんな、時に。ふわりと。呪いの、残滓、が。もう幾度も耳にした、同族の、怨嗟の、声、が。

 ああ――。

 商人の双眸が細められる。

 知ったのだろう。この褪せ人は。自分たち流浪の民のことを。知ってしまったのだろう。自分たちが、なぜ一ヶ所に留まらない――留まれない――のかを。

 相手が微かに纏う死腐臭と呪いの残滓が、黄色い種火をチラつかせる。

 あんた、と掠れた声がこぼれた。

 その声に、何を思ったのか。

 商人が二の句を紡ぐ前に、褪せ人が口を開く。掠れた声だった。

 “Forgive me”

 と。

 抱擁が強まる。

 この褪せ人が乞うべき赦しではない。そも、この商人は己の境遇を受け入れている。

 ぽんぽん、と、背中を叩く。ぐず、と耳元で洟をすする音が聞こえた。

 「……どうして、あんたが泣いてるんだ」

 背を優しく叩いていた手が、あやすように背を摩り始める。

 褪せ人の方は何をか言おうとして、けれど何も言えずを繰り返していた。言いたいことはあった。伝えたいことがある。しかし喉は詰まるし、舌がふるえる。想いは浮かべど言葉が選べず霧散していく。無力感。ただ目の前の、細い身体を抱き締めることしかできない。それは傲慢かもしれない。だが、他者を想う心であることに間違いはなかった。

 大きな子供に抱きつかれたまま、商人は温かいな、とどこか他人事のように思っていた。他人に抱擁されるなど、何時ぶりだろうか。まして、涙を流されるなど。

 じわりと視界が滲む。

 「放してくれ。お得意様を傷付けたくない」

 かつて「お前は温かい」と半狼の騎士に言われたことがある。それはそうだろう。あの騎士がどこまで知っていたのかは分からないが、自分――自分たち――は他と比べて温い。そうならざるを得ない。謂れの無い罪と罰に因る業。忌避されるべき、災禍。

 しかし褪せ人は「いい」と声を絞り出した。このまま、焼いてくれて良い、と。ただ肉の身を焼くだけの火ではないと知った上で。

 「……物好きだな、あんた」

 柔い拒絶と共に下ろされていた商人の腕が再び褪せ人の背に回る。

 細い腕だと褪せ人は思う。申し訳程度の肉が付いた、枯れ枝のような四肢。その腕で足で、どれほどの旅路を歩んできたのか。褪せ人には、想像もつかない。孤独でよい。顧みられず、捨てられるとも、何も求めるな。良いわけがない。

 だから褪せ人は商人の名を呼んだ。そして、自分を求めてくれ、と乞うた。

 小さく商人が笑う。背に回された手が、五指が、遠慮がちに褪せ人に縋る。迷子のような、しかし厚く広い背中。それはいつか失くしたものと似ている。ほろ、と商人の目から光の粒があふれた。

狭間の地の片隅に、小さな火が灯る。

+++

 愛らしい火の気配を感じたのだ。

 それなりに熟しているだろうに、未だ穏やかな火。

 興味が湧いた。

 双眸に火を宿す者は、同胞だ。憐れで愛しい輩。

 だから会いに行った。

 無害な隣人を装い、火の宿主は果たしてどのような者かと。

 まるで誘蛾灯のようだ。

 そうして、気配を手繰っていけば、この世界では稀有にも程がある、愛想の良い商人がいた。

 

 ジュル、と水音。

 眼下の肢体から、声にならない悲鳴が上がる。

 甘い。熱く、爛れた果実の甘さが舌に乗る。

 思わず感嘆の息を吐けば、下にある身体が逃れようといよいよ暴れ始めた。

 ああけれど。それは細い四肢だ。抑え込むなど、容易い。

 手で足で抑えつけて、地面に縫い留めて、腰に下げた小さな鞄を探る。

 目当てのものはすぐに手に触れた。

 小さな丸薬。

 それを、2、3粒。取り出して口に含む。ガリリと噛み砕けば、粒が粗い粉になる。

 抑えつけられた痛みに呻いていた相手の、口布を剥ぐ。

 顎を手で掴み、戦慄いている唇に噛みつき、鳥獣の親が子にするように口内のものを口移す。

 序でにぐちゃぐちゃと舌で相手の口内をまさぐれば、細い身体がふるりとふるえ、切なげな声が小さく漏れ聞こえた。

 面白くなって、もう少しだけもう少しだけと続けて――口を離す頃には、相手はぐったりとしていた。

 ツウ、と垂れた唾液を手の甲で拭って、そこに仄かに宿る熱に、笑みがこぼれる。

 さて。では。主菜の時間だ。

 先ほど味見して、やはり美味だった果実に、再び口を寄せる。

 相手は先ほどの行為で動く気力を失ったのか、あるいは先ほど与えた物で動けなくなったのか、抵抗の素振りを見せない。

 おとなしくなった獲物は、より美味そうに見えた。

 はく、と微かに息が吐きだされる。

 何を言おうとしたのか、知ったことではないし、関係のないことだ。

 「甘く、熱く熟した、きれいな眼球ですねえ。羨ましいことです」

 幾分虚ろになった果実に舌を這わせる。

 ひくりと枯れ枝のような足が跳ねる。

 ぴちゃ。

 じゅる。じゅる、り。

 じゅるる。

 舐めて、吸って、味わう。

 その度に、枯れ枝のような足や、手や、腹がひくりひくりと小さく跳ねる。

 きっと、先ほどの薬――鎮痛剤だか麻薬だか、あるいは双方の効能が強く出るように調合されたもの――を含ませていなければ、無茶苦茶に暴れて傷だらけになっていることだろう。

 「ねえ貴方。綺麗ですね。それなのに世は貴方たちを虐げ排する。なんとも酷い話じゃあないですか。だから、ねえ、狂い火を大切にしましょうね。これは貴方たちを守り導く光なのですから。私、シャブリリは貴方たちの幸せを願っておりますよ」

 じゅぞぞぞぞ。

 目の奥底に蠢く、うつくしい火を啜り上げれば、やはりがくがくと細い身体が跳ねる。

 痛み、と言うよりも、今まで味わったことのないであろう、未知の感覚に、掠れた悲鳴が上がる。

 わずかに、見開かれた目に、ぐるりと渦を巻いた自身の目が映る。

 否。目ではない。

 確かに目ではあるけれど、目ではなくて、炎だ。

 今さら、思わずわらってしまった。

 それも一瞬のこと。

 一際強い狂火を、至近距離で視てしまった相手が、嫌がるように顔を背けようとする。

 ぬるり、と舌先が目尻を滑った。

 渇いた肌は、果実のそのごく近くだと言うのに、まったく甘くなかった。

 それを、そこはかとなく残念に思った。

 思っていると、かさり、と草葉の揺れるような音が、小さく聞こえた。

 風は無い。獣の鳴き声も無い。

 だとすれば、もしや、客人だろうか――と、緩やかに首を回す。

 「――おや」

 振り返った、そこに。黒い人影。何か、おそらく、大剣を振りかぶっていた。

 その頭部がヒトとは違うかたちをしているな、と思うと同時に、大きな衝撃。

 暗転する風景を見ながら、ぐちゃ、とごく近いところから粘ついた音がしたのを聞いた。

 

 

 

 意識しなければ聞こえない程か細い呼吸音に足が急く。鼻をつく鉄さびのにおいに、手に力が入りかけては踏み留まる。こういうときに、治癒の魔術なり祈祷なりが使えたら良いのに――と思うが仕方ない。せめてと傷口に垂らした聖杯の緋雫が働いていてくれることを願うばかりだ。ぐったりと弛緩した身体を抱きながら騎士は狭間の地を駆ける。

 

 「律」が壊れた世界において、無秩序の光景を見ることは珍しくもない。だが、その中に知った者の姿があったとしたら、それは多くの場合、理性ある者には看過できないものとなる。騎士にとって、今回がそうだった。

 街道を少し逸れた林の中。

 朝靄の中から蹄の音が聞こえてきたと思えば、見覚えのあり過ぎる、痩せた有蹄類が現れた。意外なところで会うものだ、と苦笑しつつ顔を撫でてやると、しかし相手は喜ぶ様子もなく、むしろ急かすように首を振った。

 そこではたと思い至る。これの主人が姿を見せない、と。

 いつも傍らに居る姿が。いつもこちらに掛けられる声が。一拍置いても、二拍置いても、現れない。

 嫌な予感がした。平生ならば気に留めないような、微かな血臭にぞわりと毛が逆立った。

 鼻をかすめた血の臭いと、地面に残る薄い蹄の跡を辿って駆け出す。どうか杞憂であってくれと、芽生えてしまった焦燥を摘むように呟いた。

 林を駆ける。血の臭いがする方へ。糸を手繰るように。

 騎士は「探し物」が苦手であったが、「導き」がある上で手こずるほど要領の悪い者ではなかった。

 まして、知った血臭を追うとなれば。

 もはや一瞥もされない、地面に残る小さな蹄の跡。それを、騎士の足は逸れず違わず踏み消していく。

 ――果たして騎士は辿り着く。

 林の中。少し拓けた場所。

 そこに倒れる、見知った赤い色。

 そして、それに馬乗りになり、頭部に頭部を寄せている、人影。

 騎士の敏い耳が、じゅず、と何かを啜るような音を拾った。

 次いで、目が、血臭の元を、見つける。

 小さなダガーで地面に縫い留められた華奢な右手。

 薄い手のひらを貫通して地面に突き立つダガーを見れば、それは、知っている。

 友である商人が、赤を基調とした装束を纏った細っこい商人が、お人好しでお節介な友が、商品として取り扱っているスローイングダガー、そのものだ。

 そう、認識するが早いか。

 フッと。

 騎士の身体は動いていた。

 地を蹴ると同時に剣は抜いていた。

 勢いのまま振りかぶる。

 ゆるりと振り返る相手の姿は、まるで意思の無い傀儡を思わせて、どことなく気味が悪い。

 けれど関係のない事だ。

 相手が完全に振り向く前に剣を振り抜く。

 ぐちゃ、と熟れた果実が潰れるような音。

 チラと見えた相手の表情――薄笑いを浮かべたような口元やこちらを見ているようで見ていないであろう、黄色い、眼窩――を振り払うように剣を振り付いた赤を払う。

 嫌なものを見た、と鼻筋に皺が寄るのを感じつつ、そんなことよりもと未だに静かな友人の傍に膝をつく。

 頭部を失い頽れた身体はそこらへ投げて捨てた。

 友の顔を覗き込めば、常ならば迷わずこちらに向けられる視線が、合わない。

 「カーレッ」

 呼べば、ぴくりと反応する身体。

 けれどそれは、どちらかと言えば与えられる刺激から逃げようとするものだった。

 魔力の尽きかけた人形のように、ぎこちなく、顔が背けられる。

 ふわ、と空気が動き、嗅ぎ慣れない、薬のようなにおいが微かにした。

 それで、どうして友人が静かだったのか、察した。

 おそらく、いま目の前に誰が居るのか、判っていない。でなければ、この男が自分から逃げるような素振りをするなど――。

 「……下衆が」

 やけに濡れている目元の辺りを指で辿れば、ぬるりと滑った。それは丁度、唾液のような。

 それとほぼ同時に、ひ、ひ、とか細くしゃくりあげる声が聞こえ始める。

 その中に、痛い、嫌だ、やめろ、と今にも掻き消えてしまいそうな言葉。

 ほろ、と双眸からこぼれ落ちるのは水分ではない。

 「ぁ、ア、ッぅ、ぐ、ぅぅッ、」

 ほろほろと溢れる黄色い光を、涙を拭うようにしたいのだろう手が、しかし満足に持ち上げられずに地面へ落ちる。

 その、時に。スローイングダガーで貫かれた手も動かそうとするのだから、血臭が深まった。

 「落ち着け、傷が酷くなる」

 手のひらで双眸を覆い、耳元に口を寄せる。そしてもう片方の手で小さく暴れる手を抑えた。

 声が、届いているかは分からない。

 けれどそれ以上に、手のひらを焼く友の涙の熱さと、指先を浸す友の血の冷たさに歯痒さを覚えた。

 どうして、お節介焼きなお人好しがこんな目に遭う、等と。

 「――……、カーレ、」

 堪らず、友の名を呼んだ。

 「…………、……、」

 それが、騎士の声がようやく届いたのかは分からない。だが、その名を紡いで幾度目か。傷など無視して身じろいでいた身体が、おとなしくなった。

 「カーレ?」

 呼吸はある。意識を手放したのだろうか、と騎士は様子を確認するために相手の顔に置いていた手を退かす。

 熱に舐められた手のひらが空気に触れてヒリついた。手甲越しにこれなのだから、直にこの熱を――それも繊細な粘膜の内に――感じざるを得ない彼らの苦難はどれほどだろう。

 半ば祈るように顔を覗き込む。何を祈ったのかは騎士自身にも分からない。

 退かした手の下から現れたのは、落ち着いた眼だった。

 そして、その眼が、ゆる、とこちらを向いたのが、わかった。

 微かに細められる双眸。小さく動く唇は音を成さなかった。けれど、名を呼ばれたことは、解った。

 それを最後に相手は静かになる。

 閉じられた目蓋。くたりと力の抜けた肢体。今度こそ意識を失ったようだった。

 そこから、騎士の動きは速かった。

 「お前はよく怪我をするから」と持たされている手当て用の布を聖杯の緋雫で濡らす。それから赤にまみれたスローイングダガーを地面と友の手のひらから引き抜き、手早く用意した布で傷口を縛る。次いで身体を抱き起し、同じく用意していた緋雫の手当て布で目元を覆う。そのまま細い身体を横抱きに、すっくと立ち上がる。周囲にはちらほらと商品と思しきアイテムや、放浪の民が大切にしている楽器が落ちているが――後回しだ。自分が行える、行ったのは、所詮応急処置に過ぎない。早く、早く安全な場所に連れて行ってしっかりと治療を受けさせねばならない。

 だが、それは、それができるのはどこだろう。

 騎士は円卓の者ではない。仮令騎士が円卓へ行けたとて、そこに友である商人を連れて行けるかどうかは別だ。

 当然、「律」を失った世界にまともな宿屋や病院などもはやあるはずもない。

 だとすれば、頼ることができるのは――。

 

 「イジー!」

 「おかえりなさい。お客人が……、ふむ。急ぎか。では早く部屋へ。安静にするのが一番だ」

 

 私室の寝台に抱いていた身体を横たえると、知らず詰めていた息が吐きだされる。

 幻影壁を抜けた先、関所代わりとなっている鍛冶師の元に林で置き去りにしてしまったと思った友のロバ――おそらくロバ――が居たのは驚いたが、探して連れてくる手間が省けたのは幸いだ。壁前にいる狼たちは、おそらく騎士のにおいを嗅ぎ取って襲わなかったのだろう。

 「軟膏と包帯を持ってきた。傷に塗って、包帯を替えた方が良い」

 ぬっと窓から入って来た大きな手が、小さな容れ物と真白な包帯を騎士に寄越す。

 「……できるか?」

 布の結び目が手のひらに来ている処置跡が目に入り、鍛冶師は思わず騎士に訊いた。

 案の定、騎士は心外だと言いたげな表情を浮かべ「できる」と言い切る。

 自分の怪我を扱うのとはわけが違う、と言おうとして、それはころころとした笑い声に阻まれた。

 「私が見ておこう。それならば惨事も起きまい?」

 「ラニ様!?」

 「ラニ!」

 弾かれたようにふたりは声の方へ視線を遣る。と、簡素な椅子に腰かけて、彼らの主が愉快そうに目を細めていた。

 「騒がしいと思えば……珍しいこともあるものだ。ふむ。放浪の民か」

 小さく床を軋ませて、魔女は寝台を覗き込む。

 「ラニ、こいつは、」

 「良い。お前の気の済むようにしろ」

 「……良いのか?」

 「では訊くが、お前はどうしてこいつをここへ連れてきた?」

 月夜の氷を思わせる目が騎士を捉える。しかしそこに灯っているのは親愛と穏やかな興味だ。騎士が、それに気付いたかどうかは、定かではないが。

 「それは――……、こいつが……、友……、だから、だ」

 「……ほう?」

 わかりやすく視線を泳がせながら言葉を選んだ騎士に、魔女は口端を上げる。

 「まあ、良い。つまり、そういうことだ。お前が友として連れてきた者を、それも負傷した者を、どうして放り出せと言えよう」

 軟膏と包帯、それらと商人を指差し、手当てを進めるよう促せば騎士は魔女の視線から逃げるように寝台へ向き直った。

 騎士が「友」の手当てに取り掛かるのを見つつ、魔女は寝台の端に腰かけた。

 大きな手が慎重に古い布を取り去る。赤黒く汚れた布の下から、痛々しい傷が現れて騎士の鼻筋に皺が寄る。

 聖杯の緋雫のおかげで傷自体は閉じかけているようだった。

 真新しい布で軟膏を掬い、傷口に当てる。傷は、きっと残らないだろう。それだけが幸いな気がした。

 「結び目は傷を避けた方が良い。きっと障る。意識が戻った後も不便だろうしな」

 魔女の声にハッと手元が鮮明に映る。騎士の両手は平時よりも色をなくした手のひらの上に蕾を作ろうとしていた。

 己の傷の手当なら、おそらく気にせずそのまま結んでいたことだろう。

 大きな背中を丸めて、大きな手で慎重に結び目の位置をズラす騎士に、魔女はやはり微笑を浮かべる。「友」に触れるにしては、やけに気を遣うではないか。

 そんな魔女の視線に騎士は気付かず、その手を顔の布へ伸ばす。

 頭部を支え、するりと目を覆っていた布を外せば、目蓋の傍に薄く火傷の痕。金輪草にも似て、けれどそれを燃やし得る瞳は隠されていた。

 少しの逡巡の後、騎士は手甲を外す。指先で軟膏を掬い――。

 「……いくら細かろうが、ひとのからだはそう簡単に壊れるものではないよ」

 だから、早く塗ってやれ。

 何故だかひどく穏やかな主の声に、しかし背中を押されて騎士の指先が火傷痕に触れた。

 古い布を外す際に脱がせた帽子は枕の横に置かれている。普段あまり見ることのない額に髪がかかり、寝顔を幼く見せていた。

 丁寧に軟膏を塗り、保護のために包帯を巻く。眼球の方も診てやりたかったけれど、閉じられた薄い目蓋をこじ開けるのは憚られて、触れられなかった。

 

 「ふむ――後は目が覚めるのを待つだけか」

 一通り作業を終えて、騎士が小さく息を吐く。ゆるりと下がる肩を見ながら、魔女が言った。

 その声を聞いて、騎士は改めて主へ向き直る。

 「……ラニ、感謝する」

 「私は何もしていないが?」

 「だが、」

 僅かな不安と多大な安堵を綯い交ぜにしたような、珍しい表情を浮かべている騎士に魔女は内心苦笑する。

 「なあブライヴ。お前は私の影だろう? ならば影たるお前の友は、私の友だと言ってもおかしくないのではないか?」

 それを、どのような思惑で魔女が発した言葉なのか、誰にも分からない。

 おそらく、魔女にも分からない。思惑と呼べるような意図など無かっただろう。あるとすれば、ただ「嬉しく」感じるものがあったからだ。己の影として生きる、弟のような半狼の騎士に、自分達以外に気を許せる者が居たことが。弟が、健全に外界との関わりを築いていたことが。

 きっと――嬉しかったのだ。

 「……イジーにも礼を言っておくように」

 でなければ、あの軍師が見知らぬ客を招き入れることはなかっただろう。

 後日、「外で知り合いどころか友人を作っているとは、このイジーの目をもってしても……」と冗談めかして魔女に語る軍師がいることを、おそらく騎士が知ることはない。

 こくりと頷く騎士に背を向けて魔女はその部屋を後にする。

 こっそりと、放浪の民に深い眠りの魔術をかけたのは礼のひとつか、ただの気紛れか――。

 兎角、神人直々の魔術は夢も見せない眠りへ商人を誘う。魘されることも、苦しむことも、飛び起きることもない。次に目覚めるのは日が高く昇った、暖かな頃合いだろう。それはちょうど、生き物が冬の眠りから覚めるのに似ていた。

 

 騎士が所用を片して私室に戻ると、中から何やら話し声が聞こえてきた。

 まさか――と思い、逸る気持ちを抑えつけながら扉を開けると、室内には意識が戻った友の他に、主である魔女の姿があった。談笑するふたりの姿を捉えた騎士の目が丸くなる。

 「おかえり、ブライヴ」

 勢いよく開けられた扉へふたつの顔が向けられ、くすくすと穏やかな笑声と共に、騎士の帰還を歓迎する言葉が贈られる。

 「た、ただいま、戻った、が……、」

 状況が呑み込めず、頭上に疑問符を浮かべながら寝台へ寄ってくる騎士を、その友は両目を布で覆ったまま見上げた。

 「レナ嬢から聞いた。ここはあんたの部屋で、ここまであんたが連れてきてくれて、手当てもしてくれたと」

 友の口から出た名前に、騎士は魔女を見る。魔女は静かに笑みながら、人差し指を一本、口元へ遣った。主従の静かな遣り取りに、商人は気付かない。

 「世話をかけた。ありがとう、友よ」

 「――、俺は、当然のことを、したまでだ。が、その、良かった」

 言いながら、騎士は寝台の傍に膝をつき痩せた頬へ手を伸ばす。その動きを察して、商人は大きな手のひらへ微かに擦り寄った。無意識なのだろうが――それを見た騎士は反射的にグッと目を閉じた。ヘタ、と耳が少し下がる。

 「それで、どうしてラ……レナがここに?」

 顔に熱が集まるのを感じつつ、騎士が魔女に訊けば、魔女はふたりを滅多に見ない表情で見ていた。面白がっている――と騎士は直感する。

 「いや、なに。客人の目が覚めた時に一人では心細かろうとな? お前には仕事があったわけだし、イジーはこの部屋に収まらぬ」

 事実、目覚めた直後の商人は混乱していた。無理もない。得体の知れない男に薬を盛られ、眼球と言う繊細な部位を弄ばれた後なのだ。仮に意識を失う前、見知った友の姿を夢現に見ていたとして、目覚めて最初に見るのが知らぬ天井であったなら、どうして混乱せずにいられよう。

 それを留めたのが客人の様子を見に来ていた魔女だった。無論、ずっと部屋に居たわけではない。再訪するつもりも無かった。だが、客人が放浪の民であることと、騎士が「帰りが少し遅くなりそうだ」と連絡を寄越したから――念のためにと。

 判断は正しかった。目覚めた商人は置かれた状況を把握しきれず、寝台ひいては部屋から逃げようとしたのだ。耳も鼻も、寝起きでロクに働いていなかったのだろう。それを、魔術も用いて止めた。

 最悪騎士が戻るまで再度眠らせておくことも考えたが、幸いなことに客人は存外すんなりと落ち着いてくれた。

 勧める通りに寝台へ戻り、用意した着替えに腕を通した。着替え終える頃合いを見計らって、軍師が作り置いてくれた粥を運んでやれば、戸惑いつつも素直に口にした。騎士の名を出したのも、客人が素直な行動を取ってくれた一因だろう。

 そして、それから少し、話をした。他愛のない話だ。踏み入らぬ程度の互いの話と、後は、商人が旅して来た各地の話。それは魔女にとって興味深いものだった。書物や文献では知れぬ人々の営み、その風景を、商人は物語を読み聞かせるように語ってみせた。

 ちなみに商人の荷物は昨夜のうちに騎士が回収して部屋の隅へ運び込んでおいた。ロバは部屋の窓の傍にいる。

 そんなことが、騎士の居ぬ間にあった。

 「そうか……感謝する」

 「気にするな。面白い話も聞けたことだしな」

 「面白い話?」

 「放浪した各地の話を聞かせてもらった。なかなか興味深くて良い」

 「そうか。ラ……レナが望むなら俺が外の世界を案内するが」

 「迷子に気を付けろよ」

 くすくすと商人が笑う。騎士の手は彼の頬から剥され、膝上に移されていた。やわやわと握られたり撫でられたりしている。それを好きにさせている騎士を見て、魔女はやはり訳知り風に顎へ手を遣り話を変える。

 「ところでカーレよ。お前さえ良ければしばらくここに居ると良い。ブライヴも、その方が良いだろう?」

 魔女の提案に商人の手が止まった。驚いているな、と騎士は友の機微を拾い上げる。

 「良いのですか。私は商人で、放浪の民でありますが」

 「関係あるものか。しばらくここに居ろ」

 食い気味に「友」を留めようとする騎士の反応を前に、その主は刹那目を丸くして――それから静かに笑みを深めた。まったく、面白くて仕方がない。

 「だが……、俺は……、俺には返せるような対価が、」

 「対価なぞ要るか。ここの主が良いと言っているんだ、大人しく世話になれ」

 対価――借りを気にするのはその生業からだろうか。しかし対価と言うのならば、魔女としては既に貰っているようなものだ。書物では知り得なかった各地の話。「弟」の健全な成長。釣りを返しても良いくらいのものを、この短時間で商人はもたらしてくれた。

 だが、それでもなお対価の要求を望むと言うのなら。

 「……では、今後もブライヴをよろしく頼ませてもらおうか」

 

 その翌日には、包帯は外された。聖杯の緋雫と王家に伝わる薬のおかげか、傷は残らなかった。両手で友の頬を包み、親指で目元をなぞりながら騎士は安堵する。

 「痛みは無いか」

 「無いよ。平気だ」

 騎士の手に手を重ねて商人は苦笑する。

 「それよりあんた、良いのか? ずっと俺に構ってる気がするんだが」

 騎士の体躯に合った寝台は商人の痩躯で埋まることはない。寝台代わりの長椅子が部屋にあるわけでもないため、昨夜は同衾したが目覚めてからずっと商人は騎士に構われている気がした。

 「すべきことは片してある。急ぎの用もない」

 つまり今日は一日自由らしい。自分なぞに構わず、したいことをしてくれれば良いのに――と思うが、騎士が傍に居てくれることを喜んでいる自分が居ることもまた事実だった。

 不安が無いと言えば、嘘になる。一人で居れば、あの声に、目に、また遭ってしまうような気がしていた。

 そんなことは、ありえないだろうに。

 「――レ? カーレ?」

 一瞬遠のいた世界を引き戻したのはやはり騎士の声だった。

 ハッとして瞬きをひとつ。相手が自分を心配そうに窺っているのを感じ、安心させるように口端を上げる。

 「カーレ? 大丈夫か? やはりまだ痛むか?」

 「悪い。少し考え事をしていた」

 「考え事?」

 「ああ。俺の荷物……紐に風切羽がふたつ付いた麻袋はあるか?」

 ギシ、と寝台の軋む音がして、空気が動く。どうやら騎士は気付かないでいてくれたらしい。寝台から少し離れた位置でごそごそと衣擦れの音。

 そうして、それが止むと、「これか?」と言う声と共に騎士が戻って来た。

 商人の手を取り、持って来た麻袋に触れさせる。商人の手は麻袋の形を辿り、その口を閉じている紐を確かめる。指先に触れる風切羽の数はふたつ。注文通りのものだ。

 騎士に礼を述べて商人は袋の口を開ける。自分の荷物とは言え、慎重に手を入れるのは中に入れたものが商品として客に出す前の物で、物によっては硬かったり尖っていたりするためだ。己の手と商品の、双方に傷が付かないよう、商人は注意を払う。

 騎士は商人の手が袋の中を探るのを見ていた。袋の中からはカチャカチャと小さな音が鳴っている。重さもややあった。中には金属の類も入っているのだろう。では、そんな袋の中に、友は何を探しているのだろうと好奇心が湧く。

 ややあって、「あった」と商人が小さく呟いた。するりと袋の中から出てきた細い手を、ひょいと騎士は覗き込む。

 その、手の中には、小さな四角い箱があった。

 微かに金属のにおいを漂わせるそれに、騎士は首を傾げる。

 「それは……?」

 戦いを生業とする騎士は、調度の類に疎い自覚があった。無論、「王家」に仕えている以上、そこらの貴人や褪せ人よりかは造詣は深いのだろうが――商いを生業とする商人と比べれば赤子のようなものだろう。

 だが、常ならば首を傾げる騎士に、それが何であるかを教えてくれる商人は。

 「……分からん」

 困ったように首を傾げた。

 「海岸で拾ったんだ。触ったことのないかたちをしていたから……箱の中に円筒?と金属の板があって……箱の側面にゼンマイ?があるだろう? 回せるかと思ったが錆びのせいか回らなくてな……どういう代物なのか、いまいち分からないんだ」

 物は試しと騎士に見せたらしい。

 お前が知らぬ物を、俺が知るわけがない――と思いかけて、否と首を振る。商人である友が知らぬ戦道具を、騎士である自分が知っていることは間々ある。

 それに、何より、自分に訊いてくれたことを、嬉しく思った。

 「……イジーなら、分かるかもしれん。分からずとも、錆びを落として使えるようにはしてくれるだろう」

 だから、騎士は友の期待に応えたいと思ったのだ。

 騎士は呟くと、商人が何か言う前に部屋を出て行った。

 

 ややあって、騎士が戻って来た。ほぼ同時に、窓の外に大きな気配。

 「具合は良さそうですね。何よりです」

 おはようございます、とまずは挨拶をして、窓から大きな鍛冶師が覗く。

 「改めまして、私はイジー。鍛冶師をしております」

 「イジー殿。ご足労をかけて申し訳ない。私は商人をしております、カーレと言うものです」

 春の日向のような、穏やかな挨拶。理想的だ。

 だが。

 そこはかとなく、このまま放っておけばただの世間話が始められてしまいそうな気がして――騎士がそわりと身じろいだ。

 キシリ、と床板が小さく鳴る。

 騎士の様子に気付いた鍛冶師は鏡兜の中で小さく苦笑する。商人の方も、似たようなものだった。

 それに鍛冶師自身も、呼ばれた理由である、小箱に興味があった。

 本題へ、舵を戻す。

 「さて。では早速ですが、件の箱を見せて頂いても?」

 「ええ、お願いします」

 窓から差し出された大きな手のひらに、小さな箱が乗せられる。その、質量に「これはこれは、」と鍛冶師が声を漏らした。

 「ふむ……これは……魔具、ではないな……暗器の類も仕込まれていない……魔術、祈祷の気配も無い……ふむ…………」

 小さな箱を摘まみ、器用に検分する姿を、室内のふたりはすべて見ることはできない。けれど、窓の外でこぼれる真剣な声はしっかりと聞こえていた。

 そして、さして時間をかけず鍛冶師は提案する。

 「用途は分かりませんが、物騒なものではないと思われます。どうでしょう。まずは錆を落としてみても?」

 窓の外から大きな手と小箱、棒型のヤスリが入ってくる。

 「……恥ずかしながら、私にこの箱は小さすぎますので、ご協力をお願いして良いですかな」

 なるほど確かに、と商人は小さく笑う。「ええ、ぜひ」と了解して、小箱とヤスリに手を伸ばし――その手がふたつを取ることはなかった。

 「俺がやる」と騎士の声。横からひょいと伸びてきた手が、道具を掴んだ。

 「あぶないからな。俺がやる」

 「ただの棒ヤスリだが」

 「こっちの箱が突然爆発でもしたらどうする」

 「しない。が、まあ、良い。壊さないようにな」

 「壊さん」

 騎士と鍛冶師のやり取りに、仲が良いのだなあと商人はふたりの会話を聞きながら思う。騎士が、自分を気遣ったのか自身の好奇心に従ったのか、定かではないけれど、その雰囲気が穏やかで楽しそうだから、行き場を失った手も「まあ良いか」と膝の上に戻ったのだ。

 

 時折ぽつぽつと鍛冶師に指示されながら騎士は金属部分の錆を落とす。最後に油を1、2滴垂らしてやれば、そのゼンマイは何とか動くようになった。

 普段大剣を扱う武骨な手が、小さなゼンマイを巻く。キリキリキリ、とも、キチキチキチ、とも付かない音がする。

 そうして、手を離す、と。

 「――、」

 円筒部が回り、そこに生えている突起を、櫛のようになっている薄い板が弾いて――音が、鳴った。

 ほう、と誰からともなく感嘆の声が漏れる。

 「音楽を自動で演奏する品でしたか……それにしてもこの動力は興味深い」

 「だが聞いたことのない曲だな。曲名なんかは書いてないのか?」

 騎士が小箱――オルゴールを見回す。だが、それらしいものはなかった。箱の内に、何か紙が貼りつけられていたが、ほとんど破れ落ち失われていたし、そこに書かれている文字も辛うじて「文字が書かれている」と判る程度の残り方で解読はできそうにない。

 「外つ国の物だったりしてな」

 褪せ人が狭間の地の外から来るように、このオルゴールも外の世界から流れ着いたのではないかと商人は思った。

 夜に灯される灯火のように跳ねる音。たどたどしく思える旋律は幼子がむずがる風にも思えて、その逆、親が子をあやす足取りにも思える。そうと言うには些か寂寥感が強い気がするが――その曲は子守唄のようだった。

 「しかし、良かった。この箱が何なのかを知れて――感謝します」

 ありがとう、と商人はふたりへ礼を述べる。鍛冶師が、こちらこそ、と反応した。

 「こちらこそ、珍しい物を見せて頂きありがとうございます。我々のようなものは、特にこういった物を見て、手に取る機会がありませんから」

 そこでふたりの視線は、未だ手中のオルゴールを見ている騎士へ向けられる。目を輝かせるとはこのことだろう、とキラキラした双眸がオルゴールの底から中まで見回している。

 「それで、その箱なのですが、」

 「はい?」

 「お礼……にはとてもならないでしょうが、せめてもの気持ちとして、受け取ってはもらえませんか」

 直していただいたところ恐縮ですが、と商人は言う。鍛冶師は、微かに驚いたようだった。

 「良いのですか。外つ国のものは、それなりに貴重だと思われますが」

 「良いんです。おそらく今私が持っているものの中で、一番価値のあるものがそれなのです。だからどうか」

 鍛冶師がごく普通の鍛冶師であったなら、音が鳴るだけの小箱など何の役にも立たぬと受け取らなかっただろう。

 だが、この鍛冶師は「王家」に仕えていた。

 戦いに用いる道具ばかりが重要ではないと。調度や嗜好品の類もまた重要であると、知っていた。

 なによりこの小箱は、粗雑に扱うべきものではないと直感が訴える。

 「では――受け取らせて頂きましょう。きっとレナ様もお喜びになります」

 

 それから数日、商人は騎士の元で療養生活を送った。

 いくら騎士の主――らしい――である魔女から許可を出されていると言えど、商人個人としては、意識を取り戻したその日のうちに発つつもりだった。だが、騎士に何やかんやと引き留められたのだ。ふらりと顔を出す魔女や鍛冶師は騎士の言い分をうんうんと聞き入れるだけで微塵も咎めない。この場に商人の味方はいなかった。だから傷が癒えた後、リハビリまでもこの安全な場所で行えたのだ。

 「……放浪の民としてダメになりそうだな」

 草を食んでいたロバに、何とはなしに独り言を漏らせば、長い首がフイと持ち上がり大きな瞳が商人を映す。慣れた動きでロバの頬を撫でれば、フスンとむずがるように鼻を鳴らされた。商人は苦笑する。

 そこへ、騎士と鍛冶師がやってくる。

 ほとんど反射のように、商人はふたり――特に騎士へ顔を向けた。

 「おかえり、ブライヴ」

 「! っあ、ああ、今、戻った」

 「イジー殿。お世話になっております。今朝も食事を運んでいただいて」

 「気になさらないでください。今朝はブライヴが外へ出ておりましたから」

 商人からのたった一言で纏う空気を和らげる半狼の騎士に鏡兜の中で目元を緩めながら、鍛冶師は言葉を続ける。

 「それよりも、カーレさん。ご提案があるのですが……貴方の持つ楽器の弓を護身用に打ち直してみませんか。見たところ、材質はしっかりと硬いようですから、仕込み杖のように刃を仕込んで――」

 「不要だ。カーレたちの楽器はそもそも武器じゃない。だいたい、刃を仕込んだら重量が増すだろう」

 「しかしいつもお前が駆け付けられるわけではないだろう? 短剣や投擲用のナイフでは心許ないと思わんか」

 「それこそ直剣か刺剣辺りを誂えてやれば良い。わざわざ弓を武器にする必要はない」

 「新しく誂えた武器こそ荷物になるのではないか。商人、それも放浪しながらとなれば、荷を増やすべきではない」

 「だが――」

 どうやら心配されているらしい――と商人はふたりのやり取りを聞きながら思った。

 それを、幸せだ、と思った。

 ひとに想われている。気にかけられている。黄金の祝福は無く、成れ果てにはおそらく墓も無いだろう、放浪の民である己が。

 それが如何程の幸福なのか、商人は解っている。

 騎士と出会ったことで得た幸福。同時に、いつかその幸せを失う痛みも得た。きっと狂おしいほどの痛みなのだろう。絶望の囁きを聞くのだろう。

 けれど、不幸だとは思わない。

 世界を呪おうとは、思わない。

 商人――カーレは世界に愛されていないけれど、愛を向けてくれる者がこの世界に居ることを知っているから、それで「良い」と思うのだ。

 生きていく。病も業もすべて受け入れて、カーレはカーレとして生きていく。

 そんな夢を、冷たい月夜に見たのだ。

残夢
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