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 小さな村のはずれには、白い屋敷が建っている。村の大人は子供たちに、決して近付いてはならない、と言い含めている。近付けば神隠しに遭うだとか、鬼に攫われるだとかとよく言い聞かせている。そのおかげで、白亜の壁や瓦を持つ家屋に近寄る者はいなかった。村が出来た当時から、代々受け継がれているというその家は、村の触れてはいけない部分であった。しかし子供の中には好奇心に負ける者が、もちろんいた。例えばそれは黒い髪を持つ愛らしい少年であったり、仲良く兄と野山を散策して回る少年であったりだった。残念ながら建物に近付いた、前者の少年は、近くで薪集めをしていた大人に見つかり、あえなく家に帰された。後者の少年は、運良く近付き――中に入るところまで出来た。

 遠目から見てもそれなりの大きさだと思っていた建物は、近寄って見てもやはり大きかった。おそらく、村で一位二位を争う大きな家――屋敷と言っても差し支えないだろう。子供心に、名主の家とどちらが大きいだろうと思った。大きい割に人気の無い屋敷の、裏手の方へ回り、塀に空いていた穴へ顔を寄せ、中を覗き見る。古ぼけ、白んだ木の板が見えた。硝子のはめられた引き戸に、やはり色褪せて見える草木。中庭と、縁側のようだと、少年は目星を付ける。そこで、複数人の足音が聞こえた。パッと身を隠せるような物陰は無く――少年は咄嗟に、覗き込んでいた穴の下方を掘り崩し、身体を押し込んだ。柔らかな土は、子供の力でも掻き分けることが出来た。衣服や素肌を汚して、少年は中庭へ転がり込む。

 立ち上がった少年は、服や肌に付いた土を軽く払い落として、ぐるりと周りを見回した。外から眺めるばかりだった建物の、敷地内にいるのだと思うと、ほんの少し胸が高鳴る。同時に、敷地内ですら閑散としている建物の雰囲気に、冷や汗が出た。ふくらんだ梅の蕾にすら寂寥感を覚える。ゴク、と少年が喉を鳴らした時だった。縁側の奥の方から、サリ、と何者かが畳の上を歩く音がした。出かかった声を、口元へ慌てて両手を持っていくことで抑える。

「誰だ? 客というわけでは、ないようだが」

サリ、サリ、と静かな音と共に、日の届いていない、縁側の奥の部屋から、少年よりも幾つか年上に見えるひとが、現れた。村ではまず見かけない、真っ白な、狩衣のような着物を着ていた。何より眼を惹いたのは、顔を隠している、やはり白い布だった。肌の血色は良いが、身に纏う白に肌の大部分が隠されていて、やはり全体的に白いひとだ、と思った。

「お前は、村の子供か? なぜこの屋敷に――……あぁ、そうか。その穴から入ってきたのか」

小首を傾げていたそのひとは、少年の背後に立つ塀の足元に空いた穴に気付いて、面白そうに肩を揺らした。和毛のような、色素の薄い髪もふわふわ揺れる。

「あ――いや、その、ボク、別にいたずらしに来たとかそういうのじゃ、なくて……っ」

「良い。さ、誰かに見つかる前に、早く家へ帰らないと……怒られるのは嫌いだろう?」

「怒られるのが好きなひとなんていないよ!」

「それもそうだ。ほら、早く。子供とは言え、他人の敷地に無断で入り込むのは、あまり良くない」

縁側まで出て来て、けれど庭に足を下ろさないひとは少年に早く帰るよう、何度も促す。盗人よろしく屋敷に入り込んだ少年を、気遣っているということはわかった。己の住まう家を、村の人々が遠ざけていることは、知らないようだった。屋敷から出たことがないのだろうと少年は思った。怒られるのが嫌な少年は、いそいそと膝を折って入ってきた時と同じように、穴から出ようとする。その時、そうだと良いことを思い付いて、しゃがんだ格好のまま縁側の方を振り返る。

「ね、ボク、またここに来るよ。今度は、果物とかお花とか、お土産持ってくるから。それで、おしゃべりしようよ」

「何を言って――だから、無断でひとの家に入るのは良くないと、」

「大丈夫だよ。だって、あなたがもう、ボクが来ることわかってるんだから! ね、いいでしょ?ここ、塞がないでね?」

無邪気に笑う少年に、相手はキョトンと肩を下げていた。呆気にとられ、次の言葉を紡げない相手の無言を了承と受け取ったらしい少年は白い壁に空いた小さな穴から外へ出て行く。ややあってから、フッと静かな笑い声が中庭に溶けて消えた。

 それをきっかけに、少年は度々人目を盗んで屋敷に入り込むようになった。小さな木の実を持っていったり、淡い色の花を摘んでいったりした。綺麗な白壁に空いた穴は、もちろんそのまま直されず、放置されている。

 物心ついた時から屋敷に居るのだというひとは名前を教えてくれなかった。世話役――親の代わりらしい――から、決して他人に名と顔を明かしてはいけない、と言われているのだと言う。名前以外は、答えられるものについては答えてくれた。年齢や好きな食べ物や好きな植物、苦手なにおいなど、色々なことを答えてくれた。少年の方も、自分のことや、強くて頼りになる兄がいること、弟がふたりに仲良くして欲しいことなど――家族のことを話した。もちろんそれだけではない。春には青い空に桜の薄紅色が舞う美しさ。夏にはきらめく海の青、木々が揺らす碧の鮮やかさ。秋になれば色付いた紅葉と熟れた果物の素晴らしさ。冬は凍り付いた川や、あらゆる命が枯れ落ちる厳しさ。それらを、身振りや手ぶりを交えて語って聞かせた。少年の思った通り、屋敷の外に出たことがないらしい相手は、興味深そうに面白そうに少年の言葉に耳を傾けた。名前も顔も知らなかったけれど少年は構わなかった。大人たちの言葉や当初の恐怖心など、気にかからなくなっていた。

 そんな、幼いささやかな交流は数年の間続いた。少年は既に青年と言えるまで成長していた。中庭へは――足跡が付かないように草履を脱いで――塀を乗り越えて入るようになっていた。

「外へ……屋敷の外へ、出たいとは、思わないか? ふたりで、外の世界へ、」

いつものように縁側にふたり並んで座り、談笑していた時、ふと訪れた静寂。その中で、青年が口を開いた。青年の手は、相変わらず白一色の着物に通された相手の、手に重なっていた。少し、戸惑ったように相手が青年の顔を覗き込む。

「外、へ……? しかし私は、ずっと、外に出てはならないと――」

「私があなたの手を曳く。だから、私と共に此処から出よう」

重ねた手に力を込める。相手は何も言わなかったけれど、握られた指先に力が込められ、キュッと丸まった。

 まだうら若い彼らの無謀な挑戦が成されることはなかった。当然と言えば当然の結果だった。屋敷を抜け出し、山道を走っているところで、大人たちに見つかり捕まったのだった。太陽が山の向こうへ落ち切った直後、黄昏の時分に行動を起こしたことが、失敗の最たる原因だろう。村へ連れ戻されたふたりは、あの屋敷へと引き摺って行かれた。取次ぎに放り出されたふたりを見下ろして村の大人たちはどうするかと囁き合う。結論は数十分とかからずに出された。青年が腕を掴まれ、冷たい三和土まで引き出され、跪かされる。ユラリと歩み出た大人の手には、鉈が握られていた。躊躇なく振り上げられた鉈の刃は、松明の明かりを反射して赤くテラテラ光って見える。

「ちが――違う! その男は関係ない! 私が、私が言い出したのだ! 誰か外に連れ出してくれと!中庭から走り書きを石に結んで外へ投げて、それを偶然その男が拾って――だから、その男は何の関係もない!」

取次ぎの上で、大人たち数名に抑えつけられていたひとが叫んだ。

「空の青が綺麗で、もっと沢山の色を見たいと、私が思ったから……! だから、もう見ないから、それで、許してくれ」

鉈で青年を斬り殺そうとしていた大人が腕を下げる。項垂れたそのひとを抑えていた大人たちも、その手を離していた。床に手をついていたそのひとの肩は微かに震えていて――泣いているようだった。

 そして、白装束のひとは顔を上げる。取り巻きの大人の一人が、そのひとの顔を覆っている、白い布に手をかけた。同時に青年の視界が暗くなる。誰かの手か、布で両目を覆われたのだと気付くのに、数秒を要した。ふ、と誰かが小さく息を吐く。その後、ざりざりぐじゅ、と嫌な音が聞こえた。

 夜が明けきらないうちに青年は家族と共に村を出た。追い出されたようなものだったが、不思議と生まれ故郷を離れる寂しさは感じなかった。けれど、村の中にポツンと佇むあの白い屋敷の方を、青年は歩きながら何度も振り返った。

 

引き千切られる、心も体も

 

(トキシュ 若かったからどこまでも行けると思っていたどこまでも行きたかった)

 夏の間でもヒヤリと涼しい洞窟を進むと、ぽっかりと拓けた場所に出る。丸く半円を描く天井には大きな穴が開いていて、そこからは、自然光が柱か垂れ幕のように降り注いでいた。穴の開いた丸天井の下には澄んだ水が溜まっている。中央――丁度穴の下に当たる場所には、小さな陸地が顔を覗かせていた。そこには、匣がひとつ、置かれている。広間の出入り口からその陸地までの間には、木で作られた橋が架けられている。

 キィ、と木の板を軋ませながら、白装束を来た人々が、二列を作って橋を渡る。皆一様に無表情で、一言も口を開かずに足を進めていく。しかし、先頭の者だけは顔に白い布をかけていた。参列者の持つ錫杖が、シャン、シャン、と単調な音を奏でる。先頭の者が中央の小島に足を踏み入れた。だが、その後に続く者はおらず、二列に並んだ参列者たちはそれぞれ左右に分かれて、ざぶりと透き通った水の中に入っていった。一人、また一人と水の中に入っていき、小島を囲むように一定の感覚で立ち止まる。そして、二列の、最後の二人が水の中に入った。先頭と同じように、最後尾に立っているのは一人だった。何も持っていない先頭と、錫杖を持った参列者たちとは違い、殿を務めていた者は、飾り気のない槍を手にしていた。二十を過ぎた、次代の名主だった。他の者と同様、口は開いていないが――無表情ではなく、眉間に皺を寄せていた。

 錫杖が一斉に水底を叩く。洞窟の中に金属の擦れ合う音が広がる。鳴り響く音を合図に、若い次期名主が歩き始めた。飽和する音の中、木の軋む素朴な音を微かにさせながら、その場で唯一光の中にある舞台の方へ歩いていく。陸地の手前まで来ると、列の先頭を歩いていた者の前で立ち止まる。その背後には、精緻な装飾を施された、匣。

 俯きがちな、そのまま目の前の者が跪く。簡素な、しかし鋭さだけは本物の槍が、静かに持ち直された。ゆるりと、跪いた者が顔を上げる。槍を手にした者を見上げるようなかたち。見下ろしている者の表情は、相変わらず、険しい。けれど鳴り止まぬ周囲の音に、槍を構える。その刃先が捉えるのは、跪いた者の、白い着物に覆われている胸。誰にも悟られぬよう、下唇の内側を噛んだ。錫杖の音が耳障りだと思った。

 ぞぶ、と槍が刃先から白に沈んでいく。肌を裂き、肉を割り、骨を砕き、ひとの身体を貫く。溢れる赤が滲み広がり、白装束を染めた。力を失っていく身体を、槍を持っていない方の手が支えていた。顔を覆っていた白い布が捲れて、その下の、大きな傷と刺青の走る素顔が露わになる。紅色の目が大きく見開かれ、己を覗き込むような体勢になっている次の名主の、青い目が映り込んでいた。あ、と小さな音が、零れ落ちる。その音は、もちろん、すぐ傍にいた者にしか、聞こえなかった。錫杖の音は既に止んでいる。なに、と訊き返す前に開かれた眼は光を失った。広がっていく赤に彩られながら世界は閉じる。

 槍を引き抜き足元に置いて、生命を失った身体の、背と膝の裏に腕を差し入れ、抱き上げる。目蓋は、開かれたままで、ぽっかり開いた天井から覗く青空を見ていたが――気付かれることはなかった。抱き上げられた身体はすぐ背後に置かれている匣の中へと収められる。膝を折り曲げ、三角座りをするような体勢で下ろされる。その際に、捲れていた布がふわりと浮き、再び顔を覆った。そして、中身を得た匣の蓋は閉じられる。パタリと呆気ない音がした。ヌラリと赤く濡れた槍を拾い上げた名主――今日この時を以て正式に役割を継いだ者――は振り返りもせずに広間から出て行く。その後を、やはり無言のまま、小島を取り囲んでいた者たちが追う。一人、また一人と水から上がり、橋を渡ってその場から離れていった。

 村に異変が起きたのは、その日の夕暮れ時からだった。

 最初は小さな異変だった。慣れ親しんだ裏山に入った男が道に迷って夜更けに帰宅しただとか、蔵に置いていた作ったばかりの保存食が既に腐っていたりだとかの程度だった。それが、日を跨がぬ、数時間の単位で、不自然なほど悪い――おかしなことが立て続けに起きるようになっていった。ある家の旦那が突然子供と妻を包丁で切り殺した後、自分の喉を裂いて果てた。談笑していたある女が徐に自分の首を自分の手で絞めて死んだ。ある老人が狂ったように笑いながら自分の目を抉り、眼窩に手を突っ込み、中を掻き混ぜて逝った。陽が動くにつれて、そんな狂ったことをする村人が、村全体に現れるようになった。そして、一週間と待たず、村民の姿は消え、村は暗澹とした闇に包まれた。

 家族と共に村を出た青年が戻ってきたのは丁度その数日後だった。ひとり旅と称して、ひとりで家を出、数年ぶりに生まれ故郷に訪れていた。村に入る前、遠目からでも、あの白い屋敷は見えた。まだ、あの頃と同じように佇んでいた。

 あの白いひととまた会えるだろうかと、小走りに村の方へ近付く。けれど、近付くにつれて暗く重たくなっていく空気に、青年は眉を顰めた。村人の姿は、人っ子一人見当たらず、飼われていた犬や鶏の姿もない。それどころか、微かに漂ってくる、鉄錆のような臭い。胸が騒ぐ。村内へ踏み入れると、その臭いは強まった。心なしか、村全体がどんよりと澱んでいるような気がした。顔を顰めながら村の中を歩いて回る。そうすれば、鼻をつく嫌な臭いの元に、嫌でも気付いた。畑の中に、小川の辺に、開け放された家の玄関に、至る所に、屍が転がっていた。それらはどれも異常な姿をしていた。

 青年は口元を抑える。身体の中からせり上がって来る不愉快な何かを抑えているようだった。不思議と虫は湧いていない亡骸の脇を通り抜け、あの屋敷へと向かう。周囲の惨状からして、無事だとは思えないが――もしかしたら、と。

 あの頃とは違い、真正面から青年は屋敷の敷地内に入る。薬医門をくぐり、見上げる屋敷からは、威圧感を感じた。建物の中へと続く玄関に入る。多少の汚れはあれど、荒れてはいない屋内を見回し、青年は三和土で靴を脱いでから取次ぎに上がった。キシ、と床板を小さく鳴らし、幾つもある部屋の中を覗きながら廊下を進む。時折、息絶えている人を見かけたが、知っている顔はなかった。そうして、あちこち覗きながら歩き、青年は懐かしい場所に辿り着いく。彼の人と出会った場所――中庭だった。記憶の中に残っている、そのままの風景だった。昔、自分は塀の向こうから入り込んで、出てきたその場に立っていた。あのひとからは、縁側からは、こんな風に見えていたのか、と思った。それからこの縁側に並んで座るようになって、色々な話をしたな、と。無意識に詰めていた息を吐き出して、青年は再び歩き始める。

 ある障子の前に来たとき、中からカタリと音が聞こえた。自分の服の擦れる音と足音以外聞こえなかった所に、突然聞こえてきた音。青年は肩を揺らして立ち止まる。耳を澄ませば、微かに物音が聞こえた。意を決して障子に手をかける。

 引っかかることなく開いた障子の向こうは宴会場のように広かった。室内をぐるりと見まわした青年は、上座の方に人影を見つける。床の間の、中央の辺りに座り込んでいた。他に人影は見当たらず、音の主はこの人物か、と静かに近寄る。

「――……名主、さんのところの……?」

そして、その顔を見て、絞り出すように震える声で訊ねた。

「お前は……あぁ、そうか……村を出た、あの家の子供、か……」

答える相手の声もまた震えていた。見るからに血色の悪い肌を赤黒く汚し、日の光とよく似た金の髪もまた草臥れて見える。子供の頃に見た、自分こそが世界だと言わんばかりに堂々と振る舞っていた姿とは、かけ離れていた。よくよく見てみれば、肌や服、髪に付いた赤黒いものは、相手自身の、脇腹から溢れたものだとわかった。一体何があったのかと、青年は訊く。けれど返ってきた言葉は、何故失敗した、おかしい、こんなはずでは、という要領を得ないものがほとんどだった。そして相手は、その身体の傍に転がっていた槍へ眼を遣って言った。

「にど――二度、ころす。俺には、できない……できなかった。あれを、あれに、もう一度、これを突き立て……貫いて、殺すなど、おれには――」

そこで、ゴキン、と嫌な音がした。え、と青年の口から音が零れる。つい今まで話していた相手の、名主の首が、ダラリと垂れ下がった。血色の悪い肌の上を、黒い影のようなものがスルスルと滑っていく。その影は人間の手のように見えた。次いで、くすくすと笑い声が聞こえてきた。思わず槍を掴んで青年は後退る。そして床の間の壁の中から浮き出てくるように人影が現れた。事切れた名主の頭部を両腕で包み抱えるようにして、その耳元に唇を寄せて笑っていた。吊り上がり弧を描く口元と炯々と輝く紅眼に、狂気を感じたけれど――やわらかそうな髪には、知っているもののような、懐かしさを感じた。

 

もう一度だけでいいから

 

(トキシュ(←)将 こんなかたちでまた会うことになるなんて誰が想像できただろう)

もう一度だけでいいから

 そうして、人の首をへし折りながら、ゆるりと現れた人影は、笑んだまま、青年へ視線を遣る。鈍い光を宿した紅い眼は、初めて見るものだったけれど、不思議と恐怖よりも悲哀の方が色濃く胸に広がった。名主――だったもの――の頭部に回していた両腕を解き、人影は緩慢に立ち上がる。人間ではありえない登場の仕方を目の当たりにした青年は、まだ畳の上に尻餅をついて、立ち上がった人影を見上げていた。震える呼吸音の中に息を呑む音が紛れた。

 見下ろしてくる目は紅く、顔面には額から頬にかけて大きな傷跡と、不思議な紋様を描く刺青が走っている。緩やかなくせのある髪は、かつてこの屋敷の中庭で会っていたひとのものとよく似ている。けれどその髪色は彼の人の色よりも汚れ――黒ずんでいる。煤や炭を被って汚れたような印象を受けた。纏っているものは狩衣ではなく、簡素な着流しだった。そしてその上に、丈の長い羽織を、一枚羽織っている。衣服も髪と同様に、白かったものが何らかの理由で黒く汚れたように見えた。そんな、禍々しさすら感じる姿から目を離せないでいると、青年の視界に丸く開いた穴が入ってきた。人影が背にしている、床の間の壁が見えている。その穴は丁度、胸の辺り――否、胸に開いていた。何か棒状の、そう、例えば、今手元にある槍のようなもので開けられたような、穴だった。

 誰かが何かを呟いているような気がして青年は耳を欹てた。そと。外の世界。色を。もっと。そんな言葉が、前方から、聞こえた。まさか、と青年は紅色の目を見上げる。

「まさか――あなたは、あの時、の……?」

恐怖と期待と、悲愴が混ざり合ったような声が、震えながら落ちていった。

「私は……ただ……もう一度だけ……もう一度……それだけ、」

けれど青年の声が届いている気配はない。浮かべている笑みとは裏腹に、頭上から降って来る声は一途に何かを願っていた。その声は、記憶にある。そしてその視線は、青年を見ているというよりは、ただ床の方を見ているという印象を持つ。

「これで……外に……出る、出られる……もう……誰もいない……誰にも、止められず……」

黒ずんだ着流しの裾が揺れた。一歩、前に踏み出したひとに、思わず後退る。影にも似たそれに足の爪先が触れた。裾が撫でたその場所にゾワリと悪寒の花が咲く。引き攣った声を出してしまったのは、仕方のないことだろう。そのままゆっくりと、自分の隣を通り過ぎていくひとを、どうするべきか青年は迷った。

 名主の言葉から察するに、概要はわからないが、何らかの儀式が失敗に終わり、村があの凄惨な状況になったのだろう。そしてこのひとは、失敗する原因となった、儀式の要を担う者だったのだろう。儀式の中で一度は死んだひとが何らかの理由で甦った。事態を収めるためには、あるべきものをあるべき場所、姿に戻すしかない――と。

 槍を握り締めて青年は部屋から転がり出る。一度、頭の中を整理する時間が欲しかった。振り返らずに屋敷の中を走り抜ける。背後に気配は無く、あのひとは追ってきていないらしい。靴を指に引っ掛けて門をくぐり敷地の外へ出た。誰もいないと言っていた、あの言葉の通りならば、この村に生きている人間はもういないだろう。他人の家に勝手に上がり込むことは気が引けたが――ひとまず、青年は名主の家へ行くことにした。儀式とやらの情報があるとしたら、そこだろうと思った。

 果たしてその予想は正しかった。母屋へ入る前に、蔵の方へ引き寄せられるように青年の足は向かった。そして、そこで件の儀式の資料を見つける。古ぼけた和本の紙を一枚捲る度に、なんと身勝手な行為だと憤りを覚えた。何故こんな仕打ちが出来るのかと恐れを抱いた。そして、何より、このことを全く知らなかった自分に嘲笑が浮かんだ。自分がこの惨劇を引き起こしたようなものだと思った。あのひとの幸福を願うことは罪だった。けれど願わずには、今でも、いられなかった。

 元は淡い色だったのだろうが、今では赤黒く染まった一枚の花弁が、ヒラヒラと何処からか屋内に舞い込んできた。それは一瞬、赤い蝶に見えた。

 

紅いのは蝶も貴方も

 

(トキシュ ただ共に生きたいだけだったのだと今更気付いたところで後戻りなど)

紅いのは蝶も貴方も

 名主が所有していた資料に目を通した青年は、件の屋敷に戻ってきていた。解ったことはふたつ。失敗した儀式をやり直し、終わらせねばならないこと。そして、それは彼の人自身のためであるということ。儀式は、もちろん一人でやらねばならないため、惨劇前のように、錫杖を持った取り巻きたちはいない。行う場所は、言うまでもなく洞窟の奥。屋敷の中に、洞窟へと続いている通路があるらしいが、青年はその通路のある場所を、紙面でしか知らない。それでも青年は屋敷の中へ再度足を踏み入れた。改めて、目的地を持って踏み入れた大きな屋敷はさながら迷路を思わせる。

 まずは、例の場所を把握しておこうと、極力足音を殺して移動する。外へ行きたいと願い、それを村の人々に阻まれたことを未練として彷徨い、村人を狂わせて全滅させたなら――考えたくはないが――村内で生きている人間は恨みの対象となるだろう。先程の様子からしても尋常ではない。理性なんてものが残っているようには見えなかった。きっと、自分のことも、誰なのか判っていないのだろうと青年は思った。

 なるべく彼と接触しないように進む。外と接している場所はあるのに――壁は抜けられるのに、彼は外には出ないということがわかった。あんなに焦がれている外へ、死してなお出られないのかと思うと、不憫で堪らない。引き倒された箪笥や穴の開いた屏風の裏、几帳の影に身を潜めながら青年は薄暗い屋敷の中を往く。畳には黒ずんだ染みがあり。所々、掻き毟られたように毛羽立った井草がチクチクと肌を刺す。白かっただろう襖や壁にも大小様々な染みが飛び散っている。障子も破れたり枠が折れていたりしている。場所によっては割れた硝子の破片が散乱していた。

 そんな風に、屋敷の中を移動している彼をやり過ごしながら進んでいくところで、彼は屋敷の殺風景さに気付く。家具や家自体に凝らされた技巧はどれも精緻で美しい。しかし生活に必要なものしか置かれていない。娯楽のための玩具――例えば独楽や、お手玉なんか――が、一切見当たらないのだ。見つかった、それらしいものと言えば、偶然引き戸の奥や引き出しの奥から出てきた、和本の紙を使って折ったと思われる折り紙や、やけに細い紐で作られた綾取りくらいのものだった。それらと一緒に出てきた、萎れた草花には見覚えがあった。自分が持ってきたものだった。持ってきた数よりも残っている数が少ないな、と思ったが、すぐに大人に見つかって没収されたのだろうという想像に行きつく。自分が持ってきたものを物珍し気に見ていたり、食べられるものはその場で口に運んでいた理由がその時にわかった。

 洞窟への入り口は屋敷の奥にあった。廊下の突き当り、他と比べて軽い音のする壁を壊すと、注連縄のかけられた扉が現れた。そのまま注連縄を外そうとしたら静電気のようにパシリと弾かれたため、青年は手にしていた槍で半ば無理矢理切り落とす。どうせもう使われなくなる。二つに切られた注連縄が垂れ下がった扉に手をかけて勢いよく開ける。開いた扉の中には、土や岩が剥き出しになった洞窟が口を開けていた。設けられた小さな階段は、屋敷の廊下と洞窟を、直に繋げていた。

 生温い風が、洞窟の奥へ引き込まれていく。あのひとの黒い裾が、爪先に触れた時に感じた、悪寒とよく似たものを感じる。フルリとひとつ身震いをして、青年は薄暗く陰気臭い階段を降り始めた。名主の蔵で見た資料によれば、ここから先は目的の場所まで真っ直ぐ一本道だったはずである。足を踏み外さないよう、階段を慎重に降りていく青年は――扉を開けたそのままだということを失念する。そして、儀式を行う場所含め、洞窟もこの敷地の一部だということも、忘れていた。

 辿り着いた終着点は、以前は美しい場所だったのだろう。半円に近い、天球のような上部の頂点に近い場所は穴が開いていて、外の光が柱となって下方へ足を下ろしている。水底は辛うじて見えている。けれど、そこに溜まっている水は酷く汚れていた。大人の腰より少し低い水嵩で溺れることはほぼ無いと思うが、今の水に触れれば――引き摺り込まれ――無事ではいられないだろうと思った。木の板を軋ませながら橋を渡り、青年は中央に浮かぶ小さな陸地へ向かう。

 陸地に踏み入れる一歩手前で、青年は立ち止まった。目の前には、ポツンと寂しげに置かれた匣。これをどうするべきか青年は思案する。蓋は開いている。中には、何があるのだろう、と。見るべきか――そもそも見てはいけないのか。

「……させ、ない…………それ、を、閉じさせない」

そして、背後で、声がした。

「――ッ!」

息を呑み振り返ると、橋の上に、彼が、立っていた。笑みは消えていた。

 何故――という疑問が頭に浮かんだが、すぐに、そういえば、と思い出す。此処へ続く扉を閉じた記憶は無い。屋敷の土地から、出た記憶も、無い。彼は此処に来られるのだ、と。下見をして、それからどう動くかを考える予定でいた青年は、予期せず訪れた最終局面に冷や汗を浮かべる。音もなく橋の上を移動してくる彼を目の当たりにして、やはり既にこの世のものではなくなっているのだと、鼻の奥がツンと痛む。あぁけれど――終わらせねば。もう一度、彼を死なせなければ。

 短く息を吐き、陸地へ駆け込む。儀式をなぞらねばならないと言うのなら、贄は陸地に置かれた匣の前、執行者はその贄と向かい合うかたちにならなければならない。橋の上で相手を躱すのは、少々不安だった。

「いやだ……嫌……もう一度、私は……わたし、は……、」

紅い眼に不安と焦りの色が見えた。青年は左から匣の後ろを周り、彼の脇をすり抜けて、橋と陸地が接している場所まで舞い戻る。勢いよく手を伸ばし、けれど何も掴めないまま失速してつんのめった、彼の背が見えた。

「――終わらせよう。あなたの、ために」

カンッと槍の石突きが地面と接して乾いた音を立てた。ゆら、と背が揺れて彼が振り返る。そして、今度こそ青年を――目の前の生者を捉えようと、手を伸ばす。動きが緩慢になった瞬間を、青年は見逃さなかった。彼の肩を掴み、抑えつけて膝を折らせる。決して快くはない、憎悪や悔恨を煮詰めたような悍ましい感情が、彼に触れた手から染み込んできた。吐き気がせり上がり脂汗が滲み出る。眉間に深い皺が寄った。それでも青年は歯を食いしばりながら槍を持つ手を振り上げる。

 ぞぶ、と槍が刃先から彼の胸に沈んでいく。一度貫かれ、風穴が開いているはずなのに、肉体を穿つ感触を、青年は確かに感じた。

 槍を突き立てた勢いで抱き締めるようなかたちになっている。耳元で、懐かしい声が、意味を成さない母音を漏らしていた。肌を擽る髪は柔らかい。刃の切っ先を突き立てる瞬間に閉じた目蓋を開けば、黒ずんでいた髪色や服の色が白んでいっていた。布に染料が染みていくのとは逆に、染みていた黒が、潮が引くように消えていく。青年は思わず身体を離した。

「…………また、会えた、」

目の前には、懐かしい、白い姿があった。大きな傷と刺青の走る穏やかな素顔は、ひどく高潔なものに見えた。

「すまない……私の顔は、うつくしく、ないな」

何も言えず、口を開いたまま沈黙している青年の反応をどう取ったのか――頬を撫でながら苦笑する。その、指先にも、刺青が走っていた。羽が休められる場所を見つけられない蝶が、ふらふらと彷徨っているような指先を掴み、自分の頬に押し当てる。違う、とてもきれいだと、掠れた声で言いながら首を振った。再び顔を合わせて、言いたいこと話して聞かせたいことは山ほどあった――はずなのに、上手く言葉がまとまらない。気の利いた言葉のひとつも出てこない。

「私は――ッ、知らずに、あなたの枷になっているなんて……っ!」

「あなたを、枷などと思ったことは、ない……誰かと居る、楽しさと、安らぎを、知ることができた……あの、屋敷だけが、世界のすべて、だった……私は、あなたのおかげで、世界は、美しいもの、だと、思えた」

かふ、と時折口端から血を流しながら、彼はそれでもどこか満足そうに言葉を紡ぐ。

「たとえ、村を救うための、贄、として、終わっても……構わないと、あなたと過ごした、日々を、抱いて逝けるなら、それで……十分だと、思ったのだ」

 

力を込めて、苦しめないで

 

(トキシュ 何事も終わりほど呆気ないものは無くて切なくてやるせなくて)

力を込めて、苦しめないで

「何ひとつ、外を知らず、籠の中でしか生きられぬ、私が、ひとの……役に、立てるのならば、と、」

彼が、絶え絶えに絞り出す言葉は、懺悔のようにも聞こえた。

「思った、のだが……最期に、思い、出してしまった…………貫かれた、時に、おそらく、その、衝撃で、潰した目が、再び、世界を、私に見せた……私を、映した青に、あなたと見上げた、空を……あなたの、青を、思い出して、しまって……決めていたのに、未練など、無く贄となる……ならねばならない、なると、決めていたのに」

潰した目――。青年の耳にこびりついた、あの、嫌な音。嗚呼と青年は顔を歪める。やはり、あの時の音は、そうだったのだ。彼の言葉からも、わかっていたことだったが、それでも実際に聞かされると胸が痛む。そして、青年は後に、あの時視界を覆われた理由が、贄――巫女とも、言われていたらしい――の顔を見せないようにするためだったと知る。おそらく、あの場にいた者は全員、目を瞑るなりして彼の顔を見ないようにしていたのだろう。

「……私は、私の最期を映した青に、あなたを……、……もう一度、会いたい、触れたい、外へ、共に、出たい、と」

最後にただ一目だけでも会いたかった。その言葉に青年は憐憫と歓喜の、ふたつの感情を持つ。ずっと覚えていてくれた。今際の際に想ってくれた。叶わぬと解っていて。吐露された想いに、青年は静かに嗚咽を漏らし、顔を歪めた。

「私も、ずっと、会いたかった。一度だけでもいいから、あなたに会いたいと、思っていた……!」

「ありが、とう……私は、幸せものだ」

触れ合う肌は仄かに温かく、呼吸と共にゆっくり動く腹や肩は生者のそれと同じように思われる。けれど、胸に穴を開けながら未だ事切れていないという事実が、彼を生者ではないのだと物語る。槍は引き抜かれ、ふたりの傍に転がされていた。大丈夫なのかと、槍を引き抜く際に青年は彼に問うた。彼は、今の自分は実体を持った念のようなものだから大丈夫だと答えた。失敗させてしまった儀式の収拾を付けるまでは、という一心で実体を保っているらしい。

「……確認、させてほしいこと、が」

向かい合うかたちから、腰を下ろし彼の上体を支える体勢になって、青年は睦言を贈るように、静かに口を開いた。

「名主の家の、蔵でこの儀式についての資料を見た。あなたが居た屋敷は代々贄が儀式の時まで生活する場所だということ。贄には、けがれない象徴である白を持って生まれた子供……白い髪の子供が選ばれること。屋敷が白い理由も、贄をけがれから遠ざけ、無垢のまま育つことのできる空間にするため。もちろん、外部との接触も経つ」

耳元で聞こえる青年の声を、くすぐったそうに聞いていた彼は、困ったように微笑する。

「そう、だな……顔と、名前を、隠す、理由……も、外界と、けがれと、接触、させない、ため、だと、教えられた」

「……行われる際には名主継承の儀ともなる、儀式の目的はけがれの清算と封印。言葉の通り、汚れであったり穢れであったりの、けがれを無垢である贄に託して黄泉へ捧げ、村の平穏と安泰を願う。供物となる贄の全身には、無垢であることの証となる刺青が、儀式の日までに刻まれていく。数代前の記録には、白髪の子供が生まれたにも関わらず儀式を怠った年に、ひどい飢饉と流行り病で多くの人が死に、夜な夜な鬼の笑い声が聞こえた、とあった…………これは、すべて、」

「さて……過去のこと、について、は、何とも…………私が、自分の役目を、知った、のは、あなたの背が、私の背を、越した頃、だった」

「…………あなたは、自分がどうなるのか、解っていた。それなのに、あの時、私の手を取って外へ出た……っ! なぜ、」

思わず声音に激情を滲ませた。ただ死を待つだけの運命に抗おうとしたではないかと、青年は言おうとして、言葉を詰まらせる。相手も、青年の言いたいことはわかっているのだろう。身を委ねた青年の身体に――猫や犬が甘えるように――頭を、弱々しくも、押し付ける。困ったような顔は、相変わらずだった。

「そう、だな……あの時は、確かに、外へ行ける……行くのだと勇んでいた…………若さ、だな」

当時を懐かしむように彼の目蓋が閉じられる。

 こふこふ、と赤を零しながら咳き込んだ彼が、青年を見上げた。瑞々しく潤んだ紅眼が青年を映す。

「最後に、ひとつ……頼みがある」

「……?」

「私を、抱き上げて、その、背にある匣へ、入れて、くれないだろうか」

儀式のための場所。鎮座する匣。開かれた蓋。皆まで言わずとも、その意味は自ずと察せられる。閉じさせない、と彷徨っていた彼は言っていたじゃあ、ないか。

「けがれは、あなたが祓ってくれた…………あとは、私が、持っていく…………出て、しまった、ものは、元の場所に……あるべき、場所へ、戻さねば」

青年が、彼を横抱きにして、立ち上がる。一度目――あの若い名主が彼を殺した時も、こんな風に彼の身体を抱き上げたのだろうかと思った。

 抱き上げた身体を、そっと匣の中へ下ろす。三角座りというには、少し緩い体勢。人一人分の空間しかない匣の中は、漆だろうか――艶のある黒一色で、塗り潰されていた。外側に施された、漆黒に映える年季の入った銀の金具や金の装飾は、褪せることなく、精緻で美しい。匣の中に腰を下ろした彼が、ほう、と息を吐いた。それから、彼を下ろしたそのまま、匣の傍に膝をついて、彼を見つめている青年の方を見る。

「最後まで、手をかけさせて、すまないな」

「この、はこは……?」

「寄与之匣、という……、名前の、通り、村や黄泉の、神々に、寄与するもの……贄、が、収められる、匣だ」

匣の中から伸ばされた二本の手が青年の顔を包む。指先は、青年の顔のかたちを確かめるように、肌を擽る。

「ありがとう…………あなたに、もう一度……逢えてよかった」

そんな言葉が、聞こえた。かと思えば、青年の顔を包んでいた手が離れる。トン、と肩の辺りを押されて青年の身体は仰け反った。匣と青年の間に僅かながら距離が開く。その瞬間、パタンという呆気ない音を立てて、蓋が閉じた。

 青年が周囲の異変に気付くのに、さして時間はかからなかった。四方八方から、どす黒い何か――否、村に残っていた、けがれ、が流れ込んでくる。岩盤の壁であろうと、水が染み出すようにその姿を現す。渦を巻く奔流のように向かってくるけがれを前にして青年は両腕で顔を覆った。特に何も考えずに、反射的に動いたのだった。そうして、今に押し寄せるだろう負の奔流に備えた青年は、しかし、いくら待っても何も訪れないことに気付く。恐る恐る腕を下ろし、咄嗟に閉じていた目蓋を開けてみると、黒い奔流は青年を避けて匣へと真っ直ぐに向かっていた。匣を取り巻く奔流は、不思議と減っていく。まるで匣の中へ収められているようだった。

 匣を取り巻いていた黒い奔流が消える。轟々とうねっていた音が失せて静寂が降りる。ゆっくり立ち上がった青年は、辺りを見回した。汚れていた水が澄みわたっている。場の空気も、心なしか澄んで、呼吸が楽に出来ている気がする。身体の向きを変えるために、足を少しだけ動かした時、チャリ、と爪先に硬質な何かが触れた。視線を落とせば、そこには砕けた槍――だったものがあった。砕けた欠片たちが長物の形を成している。これもまた、役目を終えたのだろうと思った。

 橋を渡り、薄暗い洞窟に入る手前で青年は振り返った。光の柱の中にキラキラと細かな粒子が舞っている。その、柱の中に、ポツンと匣が見えた。差し込む光に、此処へ帰って来てからまだ半日も経ってないのだと、青年は思い出す。

 眠っているかの如く、静かな生まれ故郷を振り返る。清々しい風と光が、青年の髪を踊らせて、吹き抜けていった。

 

恐怖さえ写しこむ

 

(トキシュ しあわせもかなしみもすべて焼き付けて抱いていけたら永遠でいられるだろうか)

恐怖さえ写しこむ
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