黒いコートを翻してフェロは本気で兄に回し蹴りを仕掛けた。
「うひゃ! 危ないよフェロ!!」
慌てて屈むもカリルの白い制帽はフェロの黒い革靴に蹴り飛ばされてギアステーションの端へと吹っ飛んで行く。それを最後まで見届けずにフェロは舌打ちをする。外したか。眉間にさらに深い皺が刻まれる。
対するカリルは怖い怖いと言いながらも笑みを絶やさずに、寧ろそんな弟が愛しいというように目を細めていた。
「フェーロー危ないよーコケたらどうすんの!」
「黙りなさいこの愚兄……アナタは自分の身を心配した方がイイですよ」
どこまでも余裕そうな兄にフェロはこめかみに青筋が立つのを感じた。腰のボールに手を伸ばす。
とそこで初めてカリルの笑みが引き攣った。仕事をしないオマエが悪い。
「え、ちょ、ストップ、ストップ。それは無いよフェロ……!」
「嫌なら…カリル、わかっていますね…?」
「…………」
「…オノノクス、」
「わーっ!やるっ!やるからっ!! ダイレクトアタックだけはヤメテ!!」
そうしてカリルは久々に事務室へと足を踏み入れた。紙とインクの香りが広がっている。前方の机には高々と書類が積まれていて向こう側が見えない。いつも弟はコレを一人で片づけているのか、と思うと、とても申し訳なくなった。
「――カリル?」不意に呼びかけられる。ぼうっとしていたらしい。フェロが一枚の書類を持って怪訝な顔をしていた。
「ん、ごめん。ちょっとぼうっとしてたみたい」
「甘味の摂り過ぎですね。少しは控えた方がいいですよ…あとこれに目を通してサインをしておいてください」
そんな馬鹿な。甘味の摂り過ぎで呆けるなんて。書類を受け取りつつ思っていると名案が浮かんだ。
「そうだよ!フェロ、疲れた時には甘いものだよ! 休憩しよう!」
「は? 何言ってるんですかアナタ何のために此処に来たのです、」
言い終わらないうちに床に押し倒される。兄はとてもいい笑顔をしている。嫌な予感しかしないので、なんとか抜け出そうと抵抗するが逆に手首を掴まれて体を固定されてしまう。とても、よろしくない状況である。
此処は事務室で鍵など掛けておらず、また他の鉄道員も、もしも何か自分たちに用があれば入ってくるのだ。
「カリル……やめ、」
拒絶の言葉は最後まで言えず喉の奥へと落ちて行った。歯列をなぞって舌が入ってくる。鼻に抜ける甘い香り。呼吸の全てを奪っていくような口付けに視界がぼやける。いけない。このままだと、
「ね、フェロ、ちょっと休憩しよ!」
お前なんて大嫌いだ!!
(仕事しやがれこの愚兄)(することした後なら、まぁ、)
「――っ、ん、はッ、」
事務室には不釣り合いな、というより、するはずのない水音が響く。その合間に漏れる酸素を求める声。
脳髄へ届く甘い痺れにフェロの視界はぼやけ、意識は朦朧としていた。
抵抗など無いに等しく、カリルはさらに深く口付ける。怯えるように奥へ逃げるフェロの舌を捕らえて己の舌と絡め全てを攫うように吸い優しく甘噛みをするとその度にフェロの身体は敏感に反応を返した。そんな弟に兄は笑みを深くする。
「ふふふ。今日も甘いね!」
たっぷり数分は経ってから唇を放すと真っ赤な顔で睨まれた。その目は涙で濡れている。
相変わらずキスに慣れていない彼は唇が離れた後、肩で息をする。十分な酸素が意識をはっきりとしたものに戻していく。しかし顔に宿った熱は逃げていかずに、寧ろ兄を見るとさらに熱くなった。
フェロは他の人とキスをしたことがないので実際どうなのか判らないが、おそらくカリルは上手いのだと思う。いくら逃げようとも、こちらの舌を器用に絡め捕り主導権を握る。いつも飴を舐めているから、あんなに舌が動くのだろうか。
「はっ、――~ッ、の……!」
「うん。フェロ、とってもヨさそうだったね?」
唾液で濡れたフェロの唇は淫靡に赤く、よく熟れた甘い果実をカリルに彷彿とさせた。
「じゃあ、もっとイイことしよう?」返事を待たずに耳元で低く囁けば、びくりと身体を震わせる。手首を掴んでいた手を放してもフェロは動かなかった。目を潤ませたままこちらを見つめる姿はまるで処女のようだとカリルは思った。
「、ぁう、カリ、ル、やめ」
リボンを解いて抜き取りジャケットの前を開けてシャツに手をかけると、小さく制止の声が聞こえた。
「ん?なぁに? 言いたいことがあるならハッキリ言わないと」
悪戯っぽく口角を上げたままちらりとフェロを見ると手の甲を自分の口に押し当てて、ぽろぽろと涙を流していた。
羞恥故にだろうが、その姿はとても煽情的でカリルはつい服の上から脇腹や内股を撫で回す。
その度に声を出さないようにする弟に愛しさが募る。
「フェロー?」
「ふッ、ッ、いじ、わる…!」
そっと口を塞いでいた手を退ければ、白い手袋は濡れていた。
「ね、フェロ。どうしてほしいのか言ってよ」
制帽を取り、その朽葉色の髪を優しく撫でながら訊くと彼は視線を彷徨わせた。理性と本能が戦っているのだろう。
もう一押しとカリルは再度、耳元で囁いた。
「 」
それは悪魔の囁きにもよく似た、
(たまには休憩も必要だよ!)(あぁ、また仕事をし損ねてしまいます…)