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秘密のひとつやふたつ、誰だって持っているものである。それを誰に何処まで明かすか――それがある種信頼と親密さの値になる。逆に、知らせない方が相手のためになることだってある。だが或るふたりはその仲の深さ故すべてを相手に明かした。自分が知っている限りを、相手に伝えた。秘密を、共有した。

 空から人が降ってくる ―― という事象は滅多に起こることではない。加えて、地面に罅を入れる程の衝撃を与えた人影が何事もなかったかのように風景に紛れようとする様は、ひたすらに異様だと言わざるを得ない。更に、いくら硬さの見受けられないゴミが積まれているからと言って、そこへ仰向けの状態で飛び込んでくる人影が平然とその山から立ち去っていく様は二度見せざるを得ない。いつからこの街は超人見本市になったのかと、一般人諸君は溜め息を吐くのだ。

 玄関というものを、その家の住人はあまり使わない。大抵窓から出入りを済ませる。それが日常となるまで数ヶ月を要したが、逆に言えば数ヶ月でそれを日常としてしまう周囲の人々の順応力――或いは興味か、無関心――もなかなかに飛び抜けていると言えるだろう。

 その日は天気のいい、過ごしやすい一日だった。

「よお」

軽く手を上げて男が窓から部屋へ入ってくる。それを見止めた部屋にいた人物 ―― 黒いシャツにジーンズというラフな格好の青年は今日も今日とて変わらない淡い色のフードを被り黒い上着を着ている男に、呆れ混じりに言う。

「よお、って……たまにはお行儀よく玄関から入ってきたりしないか?」

青年がいつも羽織っている白いパーカーはダイニングテーブルのイスに無造作に掛けられている。

「それはお互い様だろ?」

悪戯っぽく笑いながら肩を竦めてみせる男に、もちろん悪びれる様子はない。青年の方も慣れているのか、特に言及することなく適当な相槌を打って済ませる。脚の短いテーブルに置かれていたリモコンを手に取りチャンネルを変える。どこかのレストランで料理の紹介をしている女性が消え、流暢に世間の様子を知らせるスーツ姿の男性が画面に映る。そんな画面を少しの間見詰めてから青年はテレビの電源をリモコン操作で落とす。プツリと画面が黒一色に変わる。それとほぼ同時に手中のリモコンをテーブルの上に戻し、ソファにゴロリと寝転がる。

「で? 今日は何してきたんだ?」

窓際に立ったままぼんやりとテレビへ視線を遣っていた男に、ニヤリと口角を上げて訊いてやるとようやくその目が動いた。

「あ――? 何って、別に何もしてないぞ。散歩してきただけだ」

「ふぅん? 別にいいけどさ、あんま目立つなよ?」

「なんだそれ」

青年の言葉をいまいち飲み込めていない男は小首を傾げる。そんな男に、青年は溜め息をひとつ吐いてリモコンの横――ソファの前に置かれている脚の短いテーブルの上に置かれていた雑誌を手繰り寄せ、パラパラと数ページ捲って男へ投げて寄越す。宙を舞った雑誌を難なく受け取った男はその紙面に眼を落とした。

「あー……ああー、なるほど」

そこには街を縦横無尽に疾走する男の写真が載っていた。周囲の小さな文字を眼で追いながら男が声を震わせる。

「これはよく撮れてるな」

「感心してる場合かよ」

「なんだ、俺が雑誌に載ってるのが気に入らないのか」

「な――いや、べつに、そういうわけじゃない」

「お前も載りたいのか?」

上がる口角を雑誌で隠しながらソファに歩み寄る。細められた氷色は青年を捉え続けていた。ソファに寝転がっている青年はごく自然な成り行きを装って両腕で顔を覆う。男の気配がすぐ傍まで来て、見下ろすように立っているのだと理解する。トントン、と腕が叩かれる。青年は腕を退けずに何だよと答えた。

「それとも、惚れ直した?」

「ばっ、なん、なんで俺がそんな!」

「さあ? 俺が知ったことじゃないが……オトナの勘?」

そぅっと腕をズラすと至近距離に楽しげな碧眼があり、青年は盛大に慌てる。うっかり浮き上がった腕を ―― 持っていた雑誌を放り投げて ―― 掴んだ男は笑みを浮かべたまま青年と視線をしっかり合わせる。

「っ ―― 、あぁそうだよ! スッパ抜かれたアンタが格好よかったから!」

自棄になって叫んだ青年である。それをどこか満足そうに受け止めた男はそうかそうかと頷いて、まずは額に唇を落とした。朱の滲む目元に薄らと涙を浮かべながら青年は男を恨めしげに睨めつける。床に落ちた雑誌の中、街を駆け抜ける男の澄ました横顔だけが、それからの室内の音を聞き届けた。

イチャ

アレデズへのお題:あいまい、あまい?/「失敗作ですか」/見ないようにしていたんだ

 

 スン、と鼻を鳴らすと微かに甘いにおいがした。木製の扉を押し開けると、カランカランとドアベルが軽快な音を奏でる。店内はいつも通り照明が絞られていて薄暗い。路地を少し入った場所にあると言うのに一定の客を獲得しているこの店は客を見ない時の方が少なく、今日も今日とて人影がいくつかグラスを傾けていた。

「なぁ、においが――」

適当なカウンター席に腰を下ろした男は被っていたフードを下げながらそう切り出した。

「いらっしゃい……で、におい? あぁー……悪いな」

バーテンダーの青年が苦笑しながら男の前に立つ。いつもの、と最初の一杯を頼みながら視線で続きを促す。慣れた手つきで一杯目を用意し始める青年は眉尻を下げた、人好きのする笑顔を浮かべながら促された続きを話す。

「まあ何て言うか、たまには茶請けの菓子でも作ってみようかなって思ったんだよ。けど、ちょーっとミスってな?」

「そうか。で、それは?どうしたんだ?」

「へ?作ったやつか? 俺が持って帰って食べるけど……?」

「……くれないのか?」

サラリと吐かれた言葉に青年の目が丸くなる。

「――は?」

気の抜けた音を漏らして、ポカンと男を見ている。店内に疎らにある人影たちも、カウンターで話しているふたりの様子を注意深く窺う姿勢に入ったことに、青年は気付かなかった。特に、次は何を言い出すのかと、男の方へ視線が集まっている。当の男は変わらぬ表情でジッと青年を捉え続けていた。手にしていたグラスをテーブルに置き、タオルで手を拭いてから青年は困ったように男に言う。

「あのな? 仮にもアンタは客なんだぞ? 客に失敗した食べ物出せると思うか?っていうか、出すと思ってんのか?」

「俺とお前の仲だろ」

「ああ。客と従業員のな」

行儀悪くも両腕をカウンターについて身を乗り出した青年はズイと人差し指を男に向けて言う。ム、と鼻筋に薄く皺を寄せた男に、青年は困ったような顔をする。

「……仕事で、疲れてるんだが?」

年の割に子供っぽい表情を浮かべて見せる男に、青年はウッと言葉を詰まらせる。ぐぎぎ、と唸って目蓋を閉じると、乗り出していた身体を起こして、腰に手を当てた。店内の騒めきは潮が引いていくようにいつの間にか引いていた。次のセリフを、客たちは耳を欹てて待っている。

「…………家に帰ったら、食べてもいい」

ボソリと諦めたように零された言葉に男は口角を上げる。項垂れていた青年は赤みの増したように思える顔を僅かに上げ、男の表情を目にする。そこで――ただでさえ整っている顔なのに、殊更――綺麗に破顔した男を目にして、青年は、今度こそ目に見えてわかりやすく顔を赤くした。薄暗いと言える店でも赤面しているとわかる青年を見た他の客たちは男へ恨めしげな視線を送る。ようやく周囲からの視線に反応した男の表情は、やはり勝ち誇ったものだった。青年に見せたものとは違う笑顔を周囲へ見せつける。

 カランコロンとドアベルが軽快な音で店から出て行くふたつの背中を見送る。閉じた扉の向こう側では、未だグラスを傾けている客たちが背中に哀愁を背負っていた。

 夜の街をふたつの影が往く。極彩色の光や文字が舞い踊り絢爛たる眩しさを溢れさせる大通りをなるべく避けて、繋いだ手をポケットに隠して寄り添いながら歩く。仕事鞄と小さな紙袋をそれぞれ繋いでいない方の手に提げて、白い息を零しながら今日あったことを話しながら家路を辿る。

「そろそろ雪降ってもおかしくないよなぁ」

「あー……降るかもな」

黒い空を見上げて笑う青年に、男も笑んで相槌を打つ。蹴飛ばされた砂利が街灯の光の中に落ち着いた。

「降って積もればいいよな」

「近所のガキと雪遊びでもするのか?」

「あ、今バカにしただろ。怒るぞ」

「してないしてない。で? 積もって欲しい理由は?」

「……まぁいい。うん、雪が積もったらさ、一面銀世界ってやつだろ? すげぇ綺麗なやつ。それ、アンタと見たいなって」

男よりも一歩前に出てクルリと回って見せた青年に、男はポカンと呆けた顔を晒す。後ろ手に指を組んだ青年は悪戯っぽく歯を見せて男を見て、そして、言葉を続けた。

「熱いココア――珈琲でも紅茶でもいいけどさ、淹れて、アンタと並んで」

その時の表情が至極やわらかなものになっていたのは、きっと男の気のせいではないだろう。

 青年と男が家に帰り着く頃には日付が変わろうとしていた。玄関で靴を脱ぎ、薄暗い廊下を抜けてリビングに入り照明を点ける。男は仕事鞄を、青年は肩にかけていた鞄をそれぞれソファや椅子の上に置く。青年が提げていた小さな紙袋はダイニングテーブルの上に置かれた。

 上着を脱ぎ、楽な格好に着替えて帰宅を実感する。一息ついたふたりは行儀よく食卓に就き持ち帰った紙袋からタッパーを取り出す。その中には些か不格好な焼き菓子が収まっていた。

「なぁ、ほんとに食べるのか? 失敗したやつだぞ?」

不安そうに青年が訊く。

「別にいいだろ。そんな変な色してるとか妙な匂いがするとかしてないんだから」

シレっと答えながら男が蓋の開けられたタッパーの中身に手を伸ばす。焼き菓子をひとつつまんで、口に運ぶ。自分も焼き菓子を齧りながら、青年が眉尻を下げながら男の様子を窺う。

「あまい」

「だから言ったろ、失敗作だって」

「失敗作」

「焼き加減にもバラつきがあるし」

少し、眉を寄せた男に青年が半目で言う。タッパーの、淡い色から焦げた色まで様々ある中身を覗きながら、頬杖をつく。

「いい。今の俺にはこれくらいで丁度いいから、気にするな」

最初こそ眉を顰めたものの、ふたつめからはモグモグと咀嚼し飲み込んでいく男である。

「ハァ……アンタさ、やっぱモテるだろ。長続きするかは別にして」

「? 俺にはお前だけだぞ?」

「…………甘いんだろ。珈琲、淹れてやるよ」

ガタガタと音を立てながらキッチンに消えていく青年の背中を不思議そうに見詰める男は、しかし焼き菓子をつまむ手を休めることはしなかった。もちろん、青年の耳や首が赤みを帯びていたことには気付いていない。そんな夜更けのささやかな茶会だった。

 風呂と寝支度を済ませ、もう何時でも就寝できる状態になったふたりはベッドに潜っていた。目蓋を閉じるつもりはまだサラサラないらしい。額を寄せ合いながらクスクス笑い合っている。帰り道の、あの距離だけでは足りなかったらしい。時折肌をすり合わせたり口付けを落としたりしている。ベッドの脇にあるランプを消した、慣れない目には闇一色に見える空間で、幸せな温もりに包まれている。

 その時間にも終わりは訪れる。いつの間にかどちらともなくウトウトとし始め、交わす言葉も少なになっていた。

「寝るのか」

「そっちこそ」

ふにゃりと笑って目蓋を閉じる。

「……お休み、また明日」

「……ああ、また明日、な」

 閉じた目蓋は現実と夢を隔てる壁。言葉通り目を瞑れば見たくないものを見なくていい。見てはいけないものも、見ることはない。故意か否かは本人にしか分からないことだが――このふたりには、互いに言及してはならないことがあった。互いのために、世界のために。それは変えようのない事実であるし、現実である。だから見ないようにしていた。真っ直ぐ、向き合うことがあるとしたら、その時は今の生活が終わる時になるだろうと、無意識に理解していた。だから眼を逸らしていた。けれど、その時というものはいずれ訪れるものだった。避けようのない、運命というものだった。

 暗闇の中でゆっくりと目蓋が開かれる。隣に眠るひとを起こさないようにからだを動かしてその姿を捉える。別れの時だと、せかいが叫ぶ。許された時間は終わった。

 彼は閉じていた目蓋を開く。浮かび上がるような意識の浮上。隣を起こさないようにそっと寝台から抜け出し、外行の服に着替える。そうして、身支度を整えて、最後に少しだけ健やかな寝顔を目にしようと再び寝室に戻る。あぁと吐き出された感嘆の震え。彼は焼き付けた愛しい顔を想い続け、きっと最期の時にも視るのだろう。

公私共にパートナー

 照明がすべて落とされ、閉じられたカーテンの隙間から射し込む月の光が静かに室内を照らす。

 足音を忍ばせて部屋に入ってきたのは、ひとつの人影。ジーンズを履き、いつもの上着を羽織ったその姿はこれから外に行くのだということを雄弁に語っている。足音を忍ばせ息を殺して入室してきたその人影は部屋の中央、寝台へと向かう。そこには最愛のひとが穏やかな寝息をたてて横たわっていた。

 ゆっくりと、なるべく寝台にかかる重さを急激に増やさないよう、そっと腰をその上に降ろす。やわらかなマットレスが沈み、キシリと微かに発条が唸る。昼間、天日に干していた布団に包まれ眠るその表情は幼い子供のそれだった。

 覗き込んだ人影は愛おしそうに、しかし苦しそうな表情を浮かべる。このひとを、ひとり残して行くのは心苦しい。けれど、そうすることが互いのためであり最善なのだ。などと、そう、決めた心が揺らぐ。独りは寂しい。それは自分でもよく解っているはずなのに、その痛みを大切なひとに味わわせるのか。だが、しかし。自問自答を繰り返す間にも、時間はいっそ残酷なほど穏やかに過ぎていく。淡々と廻る歯車が、人影を嘲笑うように世界を動かしていく。

 やがて、伏せていた顔を上げた人影は、もう一度その愛しい顔を見る。これを最後に、もう二度と会うこと――顔を合わせること――はないだろう、今までの生活で見慣れた顔。抱き締め、口付けたからだ。焦がれた存在。どうか幸せにとその未来を願う。短くも、満たされていた時を思い返しながら人影は笑んでみせる。

「 Have a nice dream, my sweet 」

そっと前髪を退かし、現われたきれいな額にこれで最後だからと口付け、呟いた。

 静かに扉が閉じられ、部屋には冷たい静寂と、ひと一人分の温かさが消えた室温が戻ってくる。寝台の上の人影がモゾリと徐に動き、被っていた布団を自身の上から退かして起き上がる。無表情にも等しい顔で部屋の大きな窓に近寄ると、閉じられていたカーテンを開き、夜でも幾らかの光を失わない街を眺める。そこは先程ここから出て行ったひとと出会った街。

 望んで共になったふたりが望まれざる理由で別れた舞台。そこに生えるように聳え立つ無機質な楼閣を、まるで飛ぶように駆け抜けていく人影を捉えた窓辺の双眸は細められる。かたちのいい唇が、バカだ、とそれだけを紡ぎ落とした。

 ただ、それだけ。たったそれだけの話。世界の危機が人知れず回避される、少し前にあったことだった。

sweet dream
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