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 恵みの雨。或いは、欝々とした雨。外で駆け回りたい盛りの青少年たちには疎ましい長雨が明けた。

 梅雨が明けた日も学校は滞りなく運営される。変わり映えのない時間割、授業内容に目蓋を半分落としつつ、窓の外へ眼を向けると、灰混じりの雲が多い空が見えた。どうせならば青一色であればいいものを、と欠伸を噛み殺しながら思った。

 そういえば梅雨が明けたのだと、今朝のラジオで言っていたな、と彼は教師の解説に耳を傾けながら思い出す。窓から見える空は雲混じりで――窓際で舟を漕いでいる幼馴染なんかは、雲一つない青空の方が良いのに、等と思っていることだろう。髪が湿気に躍らされなくなっただけマシだと、彼は自分の髪を一房、指に巻き付けて微かに口端を上げた。運悪くお預けとなった校庭での体育も、天気予報が外れなければ――しばらくは安泰であることだろう。前方の黒板の上に掛けられた時計の針が、終業の時刻を指して、生徒たちが授業ごとに待ち望んでいる音が、安っぽいスピーカーから流れてくる。

 午前の退屈を戦い抜き、ようやく昼休みの時間である。今日を終えれば休みが待っている。近所のコンビニで買ったパンを机の上に用意していると、空いていた前の席に見慣れた姿が就いた。僅かに寄せられた眉間の皺が、不機嫌なそれではなく、眠気からだと察せられるのは、幼馴染である彼だからだった。幼馴染は当然のように彼の机の上へ自分の昼食を載せる。

「梅雨が――明けたと、言っていた」

「そうだな。今週は晴れ間が続くと聞いた」

自分のスペースを幼馴染に勝手に使われることにも慣れているようで、彼は特に気にすることなく会話を続ける。

「グラウンドが使えるようになるからな。また陸上部に呼ばれるんじゃないか?」

「縁起でもないことを言うな…………大体、新入部員にでもやらせれば良いだろう。投げるだけだぞ」

「皆がお前のように投げられると思うんじゃない。まったく、お前と言うやつは……」

決して簡単に出来ることではないことを簡単に言う姿と、以前助っ人としてズルズル引っ張って行かれた姿を思い浮かべて、彼は苦笑を零す。所属している部活は違えど、結果として適材適所になっているのでは良いではないか。目も当てられない結果ならばまだしも、素晴らしい結果を残しているのだし――本人も、それに満更ではなさそうであると、指摘してみるのも一興か。珍しく湧いた悪戯心を表に出さないようにしながら、彼は話題を逸らした。

「そういえば、晴れの日が続くのだし、前話していた――水族館?だったか?に行けると思うのだが」

春頃に話していて、考査やら大会やらで後回しになっていたことだった。街の古い水族館が改装されたから行ってみたいものだと、どちらともなく言い出したのだ。彼としては何気なく発した話題だったのだが、幼馴染の反応は意外なものだった。

「は――、あ、あぁ……そうだな、行けるな、うむ……」

夏の空のように鮮やかな碧眼が丸くなった、かと思えば、何やら真剣な顔をして頷き始める。彼は内心で首を傾げた。そして、何か続けるべきだろうかと考えた。もすもすとパンを食べながら、それとなく相手の様子を観察する。退いてはいるが、剣道部に所属していた頃に養った、相手を観る眼は衰えていないはずである、と。そうして彼は再び口を開く。

「なんだお前、一緒に行きたい相手が居るのか? それならそうと言ってくれれば良かったのに」

「なんっ、おま、何をほざいて……はァァ?!」

暗に好いた相手がいるのだろうと言ってやれば、案の定そのようだった。

「え? いや、だから、誘いたい相手がいるのだろう? その、いわゆる、デート?に……?」

けれど、幼馴染の反応に――自分から仕掛けておいて――多少怯んだ彼は椅子を滑らせ、少しだけ机から離れて言い直してみる。幸いにも、至る所で生徒たちが話に花を咲かせている教室で、彼らの会話を耳にしていた生徒は居ないようだった。

「お前とっ! 行くならお前とふたりで、と端から決めている!」

 

長かった雨の終わり

 

(将→仁 幼馴染は近くて美味しいポジションだけどそういう対象として見られ難いのが難点で)

 土曜の昼下がり、大通りから一本路地に入った場所にある喫茶店。店内の人影は少なく、静かな空間を客に提供していた。読書や書類の作成に勤しむ客の、紙擦れの細波に耳を傾けながら彼は会う約束をしている青年を待つ。待ち合わせ時間の十分ほど前に来た彼は珈琲を含んでいた。そうして、待つこと、十五分。

 カランコロンとドアベルの揺れる音がした。彼の名を呼ぶ声が出入り口の辺りから聞こえる。その声は、走ってきたのだろう、途切れ途切れで、相手に対する申し訳なさと無事に合流できた嬉しさが滲んでいた。

「――っ、は、悪い。講義……補講だけど、長引いて、っ、すまん、遅れた」

「学業はお前の本業だろう? 気にしなくてもいいじゃないか」

入店した青年は足早に彼の居るテーブル席へ足を進め、肩にかけていた鞄を下ろして向かいの席に座る。バツが悪そうに眉を下げる青年に彼はメニューを手渡す。パラパラと受け取ったそれを捲って眺めた青年は、そして店員を呼び止めてカフェラテと昼食代わりのサンドイッチを注文する。詰めていた空気を一気に吐き出すように、大きく溜め息をひとつ吐いて、ズルズルと――ソファよりは小さいが大人二人は腰を下ろせる大きさの――椅子に背を預けた。

「もうさ……なんて言うんだ? 補講なのに延長するとか……しかも講義と関係ない話で……おれ疲れた……」

学生らしい恨み言に彼は微笑ましげな表情を浮かべる。

「あー、笑ったな? 他人事だからって! ほんとにおれ退屈で死ぬかと思ったんだからなー?」

「すまない。そんなつもりは――ふふ、いや、良い学生生活を送っているのだな、と」

「そりゃまぁ、な、うん。こうしてふたりでお茶出来るって思えば、苦じゃなくなるから」

運ばれてきたサンドイッチを頬張りながら朗らかに笑う青年に釣られて、彼もまた、そうか、と破顔した。

 九十分と五分の講義、それから移動時間に七分と、昼食へ八分ほど時間を割いている。走ってきたから――という理由だけではなく、早まっている鼓動を、いい加減落ち着けたいと青年は平静を装いながら思う。あぁそうだ。今日はそのためにこうして会う約束を取り付けたのだから。

「あの、さ――」

何か、意を決したように口を開いた青年に、彼の方も微かに居住まいを正す。テーブルの周りの空気が、ほんの少しだけ張ったような気がした。それでも切り出したのだから引き下がっては男が廃ると青年は続ける。

「好きなんだ、おれ……ずっと、ずっと前から、友達とか先輩だからとかじゃなくて――シュウのことが、好きなんだ」

時折震える声は、初めて耳にする真摯さを持っていた。それは青年の――俗にいう――一世一代の告白だった。声は震わせても、真っ直ぐに向かいの相手を捉え続けていたことでその決意の固さは十分に伝わる。青年の言葉を聞いて、最初こそ目を丸くした彼は、しかし、青年が言葉を終える前に表情を和らげていた。双眸は伏せ気味で、口角は仄かに上がっている。相手の答えを待つ青年はその表情の意を掴みかねて小さく息を呑む。そして、静かに彼は口を開く。

「すき――お前のことが好きだよ、私も。お前が好いてくれていることも、気付いていた」

「なら、なんでっ、おれ一人でドキドキしてなんか……っ!」

「しかし、お前はまだ若い。これから素敵な女性と出会うこともあるだろう。それなのに私のようなのと居たのでは――」

その、言葉の途中で、ズビシッと青年が相手の眼前に指を突き出して、啖呵を切った。

「だからっ!あんただから! これからとかじゃなくて、今、おれはシュウと幸せになりたいんだって……!」

おれが養うとまで言う若い輝きに、繕った仮面は砕かれる。音も無く、溢れた一滴が彼の頬を濡らして落ちていく。

「あぁ……レイ、頼むから、そんな、嬉しいことを言わないでくれ。幸せ過ぎて、私は、泣いてしまいそうだ」

 

飲み込んだ2時間

 

(義仁 想うから攫いもするし想うから迷いもするけれど結局幸せを求めた方に女神は微笑むらしい)

飲み込んだ2時間

 香ばしい匂いに目が覚める。耳を澄ませば、油が跳ねる小気味の良い音が、部屋の外から聞こえてくる。閉ざされた視界に眩い白日の光は届かない。それでも、シーツに映える血色のいい肌を照らす陽の暖かさで、今が昼に限りなく近い午前だろうと見当がつけられた。昨夜の跡が未だ残る肢体を起こして伸びをひとつ。傍らのシーツを手で撫でても温もりは残っていない。しかし仄かに、自分の身体に残ったものと同じひとの匂いが残っていた。口角を上げながら、彼女は服を探す。

 よくある日曜日の光景らしい平穏さである。自分のものよりも大きいシャツに袖を通し、裾を引きずるスウェットパンツの紐を締めて、寝室を出る。リビングへ向かう前に洗面所へ行き、身嗜みを整える。そうして、サッパリと眼を覚ましてから、先程から良い匂いを漂わせている団欒の部屋に向かった。カチャリと、廊下と部屋を隔てる扉が開かれる。

「おはよう……と言うには、遅すぎるか? すまないな、用意させてしまって」

「あぁ、起きたか。呼べば世話してやったものを…………いや、気にするな」

キッチンへ顔を出した彼女に、彼は瑞々しい野菜が盛り付けられたボウルが置かれた場所を伝え、テーブルへ、と言う。はいはいと快諾した彼女は片手に言いつけられた食器を、片手に準備万端といった状態のコーヒーメーカーを、それぞれ持ってテーブルへ持っていく。テレビではなく、つけっぱなしにされたラジオからは流行りの歌が流れている。テーブルの上に出されているマグカップへコーヒーを注いでいると、丁度、コンロのガスが切られる音が聞こえた。おそらく――フライパンだろう、コンロにかけられていた鍋から皿の上へ食材が移される。

 彼がふたり分の皿を持ってキッチンから出ると、ちょこんと椅子に座って彼を待っている彼女が見えた。事故で視力を失っている筈のその女性は、真っ直ぐに、彼の方を見遣る。閉じられていることの多い目蓋が薄く開かれ、紅い目が覗く。

「食べよう。一日を、いい加減、始めなければ」

「もう半分が過ぎているのにか?」

「良い。ふたりで朝を食べて――あぁ、この場合は昼になるか? それで、食事をして、私の一日は始まるんだ」

「面倒なことだな。まったく、お前らしい」

互いに肩を震わせてから、一息。呼吸を整え、空気を落ち着かせて、手を合わせる。食前の一言を発して、ふたりは遅い朝食を摂り始めた。流行りの歌を吐き出していたラジオは交通情報や気象情報を得意気に喋っている。

 既に正午近い時刻だが、今日の予定はどうするのかという話題になった。のんびりと食べ物を咀嚼しながらふたりでその日の予定を組んでいく。日曜だからあの店は混んでいるだろう。そろそろ洗剤の備蓄が無くなる。靴下を買い足しておきたい。そういえばあの店のチラシが入っていた。食材も少なくなっていていたな。思い出せば思い出すほど、買っておきたいものが出てくる。ふたりの間で多くの言葉が飛び交い、結局その時に予定がすべて決まることはなかった。

 綺麗に片付いた皿とボウルが片付けられていく。多くはない洗い物を彼女が片している間に彼はコーヒーを淹れ直す。シンプルなデザインの、白と藍色のマグカップに芳ばしいコーヒーが注がれていく。コトリとテーブルにコーヒーメーカーが置かれた背後で、キュッと蛇口の閉められる音がした。タオルで濡れた手を拭って、キッチンから出てきた彼女にマグカップを手渡して、彼は彼女の何も持っていない方の手を曳いてソファへ向かう。家具の傍まで来ると、背凭れに握っていた手を触れさせ、自分は先に腰を下ろした。同じソファに座るかどうかは彼女自身が決めれば良いということだろう。けれどここまで手を曳いてきたということは――。彼の意を察した彼女は、背凭れを手で辿り、肘掛を指先でなぞる。それから、ギシリとソファが軋む。彼の隣が僅かに沈み込んだ。示し合わせたわけではないのに、マグカップを同時に呷る姿が、黒いままのテレビの画面に映る。ついでに手にしていたカップをローテーブルに置くタイミングもほぼ同時だった。重なる音に、ふたりは顔を見合わせて噴き出す。そして、これからの予定について、ポツポツとどちらからともなく、口を開くのだった。

 

遅めの朝食を君と

 

(将仁 君という存在に包まれて過ごす日々のなんと愛しく平穏なことだろうとでも謳えそうな)

遅めの朝食を君と

 例えばそれは気紛れのようなもので――或いは、無意識の内に抑えつけていた願望であったのかもしれない。そうでなければ、最低限の化粧や装飾品しか身に纏わないひとが、店内の商品を見せる透明なガラスの前で、立ち止まるはずがない。先週は通り過ぎた店の前に青年は立っていた。なんでもない、とあの時あのひとが視線を逸らした靴は、まだ静かに外を眺めている。明らかに男一人だけで入店するような雰囲気ではないが――青年は店内に足を踏み入れた。件の品物を手早く手に取り、女性の多い店内を真っ直ぐにレジへ向かって歩く。若い店員が、何かを察したように口元を綻ばせ、青年は気恥ずかしさを覚える。代金を払い、どうぞ、と差し出された品物は案の定、丁寧にラッピングされていた。

 その週の月曜日は祝日で、ふたりの休みが重なっていた。午前中から映画を見たり本屋で新刊を見たり気になっていた喫茶店を覗いてみたり――先週よりも歩き回った。その日も落ち着いた服装のひとは、けれど、丈の長いスカートを穿いているから、彼女なりに女性らしい格好をしてくれたのだろうと青年には解る。頻度は多くないが、平日の午後に落ち合う際にスカートを穿いている姿など、今までに見たことがない。ふわふわ揺れる彼女の髪を視界の端に捉えながら青年は口端を上げる。大っぴらに言うことはないが、歳の差を気にしているらしいひとが愛しい。自分の隣を歩く姿の、素晴らしさを、当人だけが解っていない。翻る裾を従える優美な歩きや穏やかに風景を捉える紅眼が道行く人の眼をどれだけ惹いているか。実際、眼を惹いているのは彼女だけではなく――その隣を歩く彼も、である。言ってしまえば、お似合いの男女だな、と周囲から思われているのであった。けれど人の心を読み取るなどという能力を持ち合わせていない彼は、自分から離れないように彼女の手をそっと握った。彼女の紅い眼が彼を見上げ、それからふっと和らいで、今度は彼の手を彼女の手が握り返す。

 軽めの昼食を摂り、彼は自宅へ彼女を誘った。道中で買った鈴カステラを齧りながら小首を傾げ、彼の言葉を飲み込んだ彼女はコクンと頷いた。

 大きな窓から射す陽光が部屋を照らすリビングには、物があまり多く置かれていない。私物は自室にまとめて置いていた。先に寛いでいてくれと彼女をリビングに通し、彼自身は部屋へ向かう。この日のために買っておいた――所謂、贈り物を、持ってこなければ、と。そうして、彼は綺麗にラッピングされた贈り物を抱えて、彼女のもとへ向かう。

「お言葉に甘えて寛いでいるよ。すまないな――……? それ、は……?」

開いた扉に、入室してきた彼に笑みながら振り向いた彼女は、彼の腕の中の物を見止めて、キョトンとした。

「あなたへと、思って、少しだけ。どうぞ、受け取ってください」

ソファに腰掛けている彼女の前へ回り、態と従者のように恭しく抱えていた物を差し出す。戸惑いながらそれを受け取り、包装を解いていく彼女は、その中身を眼にして、彼を丸くなった双眸で見詰めた。

「これ……っ、な、なんで、どうして……? いや、え、そんな、良いのか?」

「えぇ。だから、あなたへと言ったはず。さ、履いてみましょうか」

清楚な花があしらわれた履物――それは世間一般で言うところの、ミュール、と呼ばれるもの――を、スルリと片手に持ち、彼は行儀よく揃えられていた彼女の脚をスイと持ち上げる。右足に履かせ、左足にも。誰かに靴を履かされるという、御伽噺のような状況に彼女の耳は赤く熟れる。眼下にある伏せがちな顔が、窓から射す陽に照らされて、眩しい。彼女の両足に贈り物を履かせた彼が伏せていた顔を上げると、至極可愛らしい顔をしたひとが自分を見詰めていた。

「気に入ってもらえたようで、良かった」

悪戯っぽく囁く彼はやはり綺麗な笑顔を浮かべている。彼の言葉に首を縦に振る彼女の手を掴んで、床に膝を付いていた彼はソファに腰掛けていた彼女と一緒に立ち上がった。突然の行動と、慣れない履物の高く細い踵によろめいて、彼女は彼の胸に縋る形になる。少しだけ縮まった身長差すら愛おしく感じる。そっと両腕を回して、柔らかな身体を抱き締めた。

 

ミュールは花柄だった

 

(トキシュ ただ喜んでくれればと思ったのにその先まで手を伸ばしてしまうなんて)

ミュールは花柄だった

 火曜日の夜は満月だった。高いビルの合間に浮かぶ黄金色の光は、けれど、人工的な光に遮られて人々の眼に留まることは殆どない。自分たちで光を得る術を手に入れた人間に、月明りなどもう必要ないのかも知れなかった。

 高架下に在る、小さな屋台の暖簾を潜り、椅子の一つに腰を下ろす。無愛想な店の親父は相変わらず無愛想だった。チラと一瞥して、らっしゃいと呟くような声で客を迎える。初めて暖簾を潜った時は驚いたものだが、今ではもう慣れてしまっていた。そうして、青年は研究室で詰めた息を解きながら、目の前に並ぶおでんの具を品定めする。透き通った飴色の汁の中に浮かぶ――はんぺん、がんも、こんにゃく、たまご、だいこん、しらたき、エトセトラ。さて何処から手を付けてやろうかと青年は顎に手をやる。腹の中で早く食い物を寄越せと虫が鳴く。そして青年が口を開こうとした時――横から注文が入れられた。しかもそれは自分の分の注文ではなく、青年の分の注文だった。青年の視線は、無論、声の主に向く。

「あの、すいません。あなたは一体何を勝手に――って、もうすっかり出来上がってる!!」

聞き慣れた声を辿ると、そこには案の定、見慣れた顔――会社帰りのサラリーマンが、いた。手元に徳利を置き、片手に猪口を持ち、目元を仄かに赤く染めて、もう片方の手をヒョイと挙げてみせる。誰が言うまでもなく、酔いが回っていた。

「あれやこれやと悩むより、さっさと頼んだ方が、良い。うむ、良い。大丈夫だ。好きだろう? 大根と、餅巾着」

何が大丈夫なのかまったくわからない。だが、頼んでくれたものは、嫌いではない具で――やはり何も言わずにズイと具を載せた皿を親父が差し出す。それを青年は苦笑しつつ受け取り、皿の縁に芥子を絞り出して、箸を持つ。夜の帳に映える、白い湯気を立ち昇らせる――まずは――大根にスッと箸を入れる。煮込まれ、軟らかくなっていた大根は素直に二等分された。軟らかさ故、ほろ、と小さく崩れる角を、未だ口に放り込むには大きいそれよりも先に口へ運ぶ。出汁がジワリと舌に染みた。小さな欠片でも、腹に落としてしまえば後は早い。手早く大根を一口サイズに分けてハフハフと咀嚼していく。時々芥子を付けて、ツンと鼻に来る刺激を楽しむ。おいひぃ、と思わず言葉が零れた。

「ん。こういう日は、美味い食い物と美味い酒に限る。ほら、遠慮するな」

「うわあぁぁ……ちょ、やめてください。何をしようと……勝手にお酒頼まな――親父さんも出さなくていいから!」

「む……私の酒が飲めないと言うのか? 年下のくせに生意気だな……?」

いつもより酔っている男に絡まれつつ夜食を腹に収めていく。週に何度かこの屋台で同席するだけの関係だが、それだけの接点でも数ヶ月となれば相手のことを多少なりとも知るようになる。こうして酔うのは、大抵仕事で嫌なことがあった時だった。でろでろと呪詛のように吐き出されている愚痴へ青年は適当に相槌を打つ。静かで、暖かな夜が更けていく。

 自立してはいるが、眼は座ってしまっている男と共に屋台を出た青年は、吹き抜けた風の冷たさに息を吐く。高層ビル群から少し離れ、空に突き立つものの数が減っている場所からは真ん丸な月がよく見えた。月光を翳らせる雲は欠片も見えず、久しぶりに見上げた月は、日々の多忙で磨り減っていった胸の内を、先程の夜食と男との他愛のない会話と共に、癒してくれるような気がした。月面に浮かぶ兎の影は、幼い頃によく見上げていた時のまま、餅をついていた。そこで、目の前でフラフラと揺れているくすんだ乳白色の髪とその色を肌にまで滲ませたような真朱の眼を、思い出す。

「今宵は、兎も跳ね回るのが楽しい晴れの日だったはずだろうに――」

「……? なんだ、おまえも、月でたのしく、あそびたいとでも、言うのか?」

酔いで潤んだうさぎの眼が、青年を捉える。夜の色に溶けない、男の持っている色が、息の詰まる世界で褪せずに見えた。屋台から少し離れた壁に男の身体を押し付けて笑って見せる。酒の回った頭は回転が鈍っているらしく、小首を傾げるばかりで抵抗する気配も逃げる気配も感じられない。こんなことを――自分もまた、酔っているのだろうとは、思った。けれど。

「ええ、まぁ、そんなところで。ふふ……どうです? 私と、月まで跳ねてみたりなど、」

 

うさぎが飛ぶ条件

 

(トキシュ 酒に酔った相手に何をと考えた自分はきっと月に酔わされていたのだろうと後に)

うさぎが飛ぶ条件
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