あ――と思うよりも早く、視界が真っ白に塗り潰された。
地雷を踏んだのだと少年は身体を起こしながら他人事のように考えていた。周りを見れば相変わらずの荒野で何の変哲もないいつもの世紀末。まだ気を失っている様子の少女に声をかけながらその肩を揺らす。息はしている。目立った外傷もないし、大丈夫だろう。
そうして、しばらくして、少女が小さな声を漏らしながら目蓋を開く。
「ここは――」
「移動はしてねぇよ。地雷踏んだとこそのままだ」
乾いた砂がサラサラ風に飛ばされていく。周囲に人影は見えない。その場に腰を下ろしたまま、ふたりは首を傾げた。
「地雷……そうよ。わたしたち地雷を踏んだはずなのに、」
「そうなんだよなぁ……五体満足でピンピンしてんだよなぁ……」
(鏡の国のバットとリン)
身に着けているものはそれぞれバラバラで統一性などない。けれど不思議と誰もが似たような姿に落ち着いている。荒れ果てた世界を歩くには大人しいと言えるその集団には、見覚えがあった。しかし何故だろう。以前出会った時とは雰囲気が違う。口元には嫌な感じの笑みが張り付いている。ゴーグルの向こう側にある目はギラついていて――正しく、獲物を狙う捕食者だった。ふたりが逃げられないように周囲を包囲しているその集団は、どちらかと言えば、かの暴虐な極星が従えている軍の姿に近く見えた。
餓えた獣のような集団が仄かに騒めき始めた。何事かと振り返れば群れの中に何者かが踏み込んで来ているようだった。海が割れるように人が左右に分かれ、悠然と歩く人影が見える。歩きながら、片手を軽く上げている。小さく視線を左右に遣ってから上げていた手を下ろすと、構えられていた凶器が下ろされていく。あぁありがたい。そう思ったのも束の間。この群れを率いている人物が、目の前で立ち止まり、ふたりを見下ろす。その姿は、紛れもなくあの優しい白鷺。その、はずなのに。
「これはまた――可愛らしいのがかかったものだな?」
その顔に浮かべられている笑みは。あの時に見た笑みと同じ顔の、はずなのに。頭の中の警鐘が、鳴り止まない。
背の低いふたりと目線を合わせることなく、まるで罠にかかった哀れな野ウサギを品定めでもするかのように光を失った双眸で見下ろしている。引き攣れた目蓋は薄くしか開いていないが、開かれたその隙間から覗く紅色には鈍く危うい光が灯っているように感じられた。傾げられた小首に、ヒッ、と喉が鳴る。白鷺の近くにいた男が上機嫌に媚びの相槌のような報告をしている。その間も、表情が変わることはない。緩やかな口元の弧は動かない。細められた目。穏やかな口元。何もかも同じであるはずなのに、受ける印象は正反対なものだった。
恐ろしい。生存本能が素直に叫ぶ。優しい姿を知っている分、余計にそう思う。それでも必死に身体を動かし、少年は少女を自身の背後に隠す。四方を囲まれているが、一番危険な存在は、この目の前の白鷺だと解っていた。それ以外は烏合の衆と言ってもいい程度だろう。震える身体を叱咤する。腕に置かれた少女の指先は震えている。この指先は自分が守らねば、と少年は思う。いつもの頼れる青年がいない今、この少女を守れるのは自分だけなのだから。そんなふたりの姿を捉えて、未だ微笑んでいる白鷺は、おや、と零した。それはどこか嬉しそうな、楽しそうに聞こえる声だった。
「……そうだな。こんなところで立ち話をするのも、邪魔が入ってしまう危険がある。場所を移そう。お前たち、丁重に扱え」
邪魔、が誰――或いは何を指すのか、ふたりはわからなかったけれど、逆らうことはしなかった。すぐに殺されることはないらしい。ならば、いつものように機会が来るまで大人しくしていることが賢明である。歩み出てきた男にそれぞれ腕を掴まれ、立たされる。白鷺は既に背を向けて歩き始めている。大きな背中も、記憶にあるものと同じだった。否。何かが違うはずなどないのだ。この荒廃した世界で、烏合の衆をまとめる、盲目の武人などあの白鷺しかいない。それなのに。彼以外に、いるはずがないのに。
(エスジンセイコワイネー)
「見えない、ということに不便をしたことはないのだがな」
彼はどこか拗ねた子供のように語る。
「それでも、悲痛に染められた声を聞いたり見苦しく生に縋りつく言葉を聞いていると、絶望に浸かった人間の最期はどんなだろう、と少なからず焦がれるのだ」
机上に並べられた凶器のかたちを危なげなくなぞる指先は、盲人のものとは思えない。他者を害する部分は綺麗に手入れがされている。欠けたり剥がれたりしている壁や床は最低限の手入れしかされていないのだから、いっそ清々しい。また、持ち手や装飾部分もおざなりになっていて、彼らが何を最優先に考えているかが分かりやすい。
「――特に子供は良い。良くも悪くも素直だからな。恐怖や憎悪を大人よりも鮮やかに体現してくれる」
その時だけは、恍惚とした声音だった。その瞬間のことを思い出しているのだろう。
「しかしそれらを記録しておけるものがなくてな。以前ならば困ることはなかっただろうに――記憶と言うものは消えていくものだから、上書きして、忘れないようにしておかねばならないだろう? 動きやすくなったことは良いが、手間が増えてしまった……何事も、一長一短だな」
けれど彼は何かを思い出したように眉間に皺を寄せた。否、と小さな声。
「否。アレの邪魔は一短とは言えないな」
苛立たし気に、凶器から離れ机上に置かれていただけの手が、ぎゅっと拳になる。ギリギリと握られる手の中に緊張の糸の端があるかの如く、場の空気が張り詰める。
「極星だか将星だか知らないが私の邪魔ばかりする……腹立たしい。保護など無駄なことをして何になる?何にもならぬはずだ。少なくとも、アレにとって得となるようなことは何もないはずだ。自身が師父に拾われ育てられたからか?くだらん」
やはり至極苛立たし気に吐き捨てて、彼はゆっくり肺の中に溜まった空気を吐き出した。薄く開かれた目蓋の奥に紅色。
「――……まぁ、目下の問題はアレをどう斃すかだな。いつまでもアレに生きていられては困る」
(隠れ家の中にて)
チリリと鎖の擦れる音。身体中が痛くて、視界には自分から流れ出た赤と冷たいばかりの硬い床と、それから、赤い飛沫が模様のように絡み付いている爪先、脚が見える。地面に這い蹲り、刻一刻と忍び寄られている男は恐る恐る視線を上げていく。ハッ、ハッ、と浅い呼吸音が忙しなく繰り返される。ゆっくりと、けれど確実に見上げた、その先には、不気味なほど落ち着いた雰囲気を纏った足の持ち主。盲目であるはずのその男は、哀れな死に損ないを、確かに見下ろしていた。
「あぁ――」
そして、世間話でも始めるかのような声を漏らす。その手には、重量感のあるモーニングスター。
「すまない。手が、滑ってしまった」
合うはずのない視線が合った――と思ったら、視界から鈍器が消えた。今までそれを握っていた手は、悪気無く開かれている。動けない男が、あ、と思うよりも早く、力なく投げ出されていた手の、指先に、衝撃。
「あ、あ、ぁあ”あ”ああああ”!」
ゴキャリ、ベチャ。と指先が潰れる音がどこか遠くで聞こえたような気がした。
碌に動かない身体を必死に丸めて潰れた指先を抱え込む姿を、愉快そうに盲目の男が眺めている。
(事後報告)
「なぜ私欲のために人を殺す!特に、子供を、何故殺す!?」
「素直だからだ。悲鳴には恐怖が、言葉には憎悪が。それぞれよく出るからな。聴いていて至極心地が良い」
「これからのことを、未来を思ったことはないのか!」
「未来?未来だと? そんなものはない。あるわけがない。お前も分かっているはずだ。この世界の何処に未来がある?希望を持てる?何処にもない。現在だけがすべてだ。ならば今を己のために生きた方が有意義ではないか」
「貴様――ッ」
「寧ろ、早くに死んでおけた方が、この時世では幸せではないか? なぁ、」
(将星と仁星)
聳える墓標を見上げるように仰いで内心溜め息を吐く。あぁ面倒臭い。面倒なことこの上ない。いっそあのまま嬲り殺してくれた方が良かったのに。満身創痍と言った様子の男は微かに眉を寄せた。最後の最後まで邪魔をしてくれる。
「いいか! その碑は今までに死んでいった者たちへの手向けであり貴様への罰!地に付けることは許されんぞ!!」
あぁうるさい。ならば自分で運べばいいだろう。投げ返してやろうか。背後から聞こえてくる声に対して、そんなことを考えるも、散々痛めつけられた身体はダルさを訴えて思うように動いてはくれない。大きく一息吐いて、男は整然と石が積まれて出来た陵墓の段を上がり始める。何かを考えることも億劫だった。
「その石段はこれまでに死んでいった者たちの無念だ。背負った痛みと共に、一段一段、踏み締めるがいい」
背に投げ掛けられる言葉に一瞥すら返さず、男は石段を上がっていく。ポタリパタリと赤い雫が乾いた石を濡らして染みを作る。その姿はかつて聖人と謳われた、宗教の教祖の姿に重なるものがあった。けれど、果たして、その中身は。
(結局聖碑を積む)