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 自分よりも幾つか歳を重ねていそうな少年が走っていく。すれ違う、その時、チリンと軽やかな鈴の音が聞こえた。

 師に手を引かれ訪れたのは、いわゆる花街と言われる場所だった。普段は人里から距離のある場所で慎ましやかに暮らしているというのに何故だろうと少年は首を傾げる。その、怪訝な眼に気付いた師は、静かに笑みを浮かべて少年のやわらかな髪を撫でた。師の背後、少年の目の前には、漆喰の白壁と朱塗りの柱が眩しい楼閣が聳えている。

 大きな背を追って足を踏み入れると、薄暗い屋内には妖しげな光を灯す行燈が置かれていた。ものによっては吊り下げられている灯りは確かに幻想的な空間を創っている。四方を囲む障子には見えずとも艶めかしい影が映っている。師が出入りする雰囲気ではない場所の風景に、少年は微かに眉を顰めた。場に満ちる香の匂いも気に入らない。こんな下卑た場に、己の師は相応しくない、と。それなのに当の師は奥から出てきた男――おそらく店主だろう――へ慣れた風に言葉を投げる。男の方も、こんな場所の人間にしては人の好さそうな笑顔で頷くのだからよくよく解らない。おいで、と師が手を差し伸べた。小さな不満を抱えつつ、大好きな師の手を握って、少年は妖しげな場所の階段を上る。

 階段を上がり、やはり薄暗い廊下を進むと、突き当たりで店主が立ち止まり頭を垂れた。どうぞ、と腕が伸ばされ、襖が内側から開けられた。師は慣れた様子で部屋に入っていく。それに続くと、背後から店主の、ごゆるりと、なんて言う声が聞こえた。その声に何となく振り返ると、スッと閉じられる襖と柱の間に下げられた頭が見えた。足元で何かが動く気配。少年の視線はそちらへ向く。青い双眸が自分より少し年上に見える男児を捉えた。極力影を潜めるように部屋の奥へ戻っていく男児を追うと、最後に少年の眼は己の師と相対する美しい男性を捉えた。

 俗に花魁と呼ばれる女性の着物を男性向けに、少しだけ仕立て直されたものを纏うその男性は師と同年か、少し上に見えた。清流の流れる屏風を背にし、肘掛に凭れている姿は川辺で憩う白鷺を思わせた。

 その男は綺麗に笑んだ。己の前に腰を下ろした師と幾つか言葉を交わし、それから少年の方へ眼を遣り、笑みを見せた。

「お前が噂の秘蔵っ子か……なるほど、なるほど。ふむ…………こちらの話が終わるまで外の話でも聞かせてもらいなさい」

目を細め口元に手を遣る仕草すら流れるようで――少年は見惚れていた。男に、そう、言葉を渡された、先程の男児が再度己の前――足元――に額づくまで固まっていた。少年は我に返った時、反射的に背後の襖を開け放って勢いよく退室した。

「あまり揶揄ってやらないでくれ。ひとが悪いぞ。まったく……ところで、お前の秘蔵っ子はどうした?」

「あぁ……あの子なら、お遣いに行ってもらっている」

だから、少年が退室した後、そんな会話を師と男が交わしていたことを、少年は知らない。

 音を立てながら建物の外まで転がり出ると、大きく息を吐いた。肺で渦巻いている香をすべて吐き出すように大きく深呼吸をして、改めて背後を振り返り建物を見上げる。清楚にすら見える朱白の楼閣が、花街を穏やかに眺めるようにして聳えていた。華やかなくせに憂いているような、そんな雰囲気を、漂わせていた。

 師が出てくる様子は無く、少年は楼閣の脇で砂利を蹴りながら過ごす。その間、様々な男や女が暖簾を捲って出入りする。あぁ詰まらない。そう、少年が口の中で言葉を解いた時だった。視界を白鼠色の髪と、真っ赤な袖が横切った。自分の顔と近い位置にある横顔が流れていく。チリンと澄んだ鈴の音が後に続く。見たことのない色と綺麗な鈴音に眼が釣られる。そうして、その姿を追えば、赤い着物は楼閣の中へと消えていった。息を呑む。師と共に踏み入れた部屋で見た男児のみならず、あんな人間まで身を置いているのか。微かな香の匂いを纏った横顔が、ひどく印象的だった。

 何故あのような場所に行くのかと、少年は帰ってきた師に問うた。香の匂いが染み付いた上着を脱ぎながら、師は笑う。

「何も遊ぶだけがああいう場所の使い方ではない。多くの人間が出入りする場所は、その分多くの情報も集まるのだ」

 数年後、師の跡を継いだ少年は花街を情報収集の場として利用するようになっていた。

 

結んで開けば

 

(将と仁 はじめての花街と気付かずに遂げられた邂逅の意味を知ることになるのは何時)

 何時、何度来ても好きになれぬ場所だと男は眉を寄せた。人を選び、指名して部屋まで赴けど情事には及ばないのは、ひとえに情報収集の場としか花街を見ていないからだった。媚びるような眼が、誘うような四肢の動きが、嫌悪を齎していた。袖を引く相手に側近を宛がい自身は部屋を出る。そんな利用方法を繰り返す男に、趣向を変えてみないかと声を掛けたのは、男と同じく先代の跡を継いだ若い店主だった。

 通された廊下はひどく薄暗い。表の方も薄暗く妖しげな場所だったが――こちら側は、怪しい。陰に蠢く物の怪でも飼っているかのような雰囲気。聴けば、表には置けない人材を、手放すのも忍びないと、この裏側に置いているらしい。それでも客はそれなりに入るというのだから物好きは少なくないと見える。

 人影を映す障子の間を歩き、店主が立ち止まったのは廊下の突き当たりだった。ふと、既視感。褪せた記憶を引き出す前に、店主が襖を開ける。それまでに幾つか障子を開いて中を見せられたが、特に興味をそそられるものはなかった。

「あぁ――いらっしゃいませ、お客様?」

それなのに、この、最後の障子の向こうにいた者には、懐かしさを覚えた。

「――……店主、下がれ」

男の言葉に、店主は小首を傾げて訊き返す。先代と違い手間を掛けさせる現店主に鋭い視線をくれてやる。すると短く引き攣った悲鳴を漏らしてすごすごと去っていった。情けない背中を見送ると、何の躊躇も無く部屋に足を踏み入れた。

 後ろ手に襖を閉める。そして、その場から動かず男の様子を窺うだけの相手を眺めた。纏う服は表で並ぶ者たちよりも幾分か簡素なものだが――これは今までに見た者たちも同じようなものを纏っていた。ただ、それらよりは豪奢である。部屋の位置が廊下の最奥ということを考えても、目の前の男が裏側の花魁ということだろう。額から頬にかけて走る生々しい三対の傷痕が、裏に回った――回された――理由か。すぐ傍まで近寄り、しゃがんで手を伸ばしても従順な人形のように動かない。きれいに形作られた微笑も崩されることはない。

「……何故笑う。何故、笑っていられる」

「私たちは生きるために笑う。見も知らぬ者に、今日を生きるために笑顔を向ける。訊かずとも、解っているだろう?」

「媚びるのか。どんな相手にも、金を払われれば身体を許すのか」

「どうとでも取ると良い。身体を許すことと心を許すことには天地程の差がある。それに、身体を許すのは二度目からだ」

頬から首筋に添えられた手にも動じない相手の言葉を、男は口の中で繰り返す。二度。二度目、から。表の方では、三度の顔合わせの後からだったはず。怪訝に眉を寄せた。その様子を、見えずとも感じ取ったのだろう、答えが寄越される。緩やかな、喉の膨らみが、震えながら上下する。

「キズモノのくせに三度分も金を落とさせるのか、と――な?」

弧を描く唇には、薄く紅が引かれていた。己の首を掴んでいる手を辿り、男の顔へスイと手が伸ばされる。

「さて、それで……どうする? 今日はもう帰るか?それとも私と一晩過ごすか?」

「――……いや、出直す」

懐かしさを感じさせる顔が、嫣然と笑み、吐く誘いに眩暈を覚えて立ち上がった。互いの手はごく自然にスルリと離れていく。仄かに色付いている唇からは、そうかと短い言葉が発せられた。人が去っていくことに、慣れているようだった。男は再び眉を顰める。ヒラヒラ振られる手に背を向けて、部屋から出、廊下を歩いて店主の元まで行く。代金は要らないと言う店主に金を握らせて耳打ちをする。その内容に目を丸くして間の抜けた声が漏らされた。そうして男はまた来ると言い捨てて、店主を振り返りもせずに店を出て行く。

 

ぼんやりと輪郭

 

(将仁 ようやく歯車が噛み合って動き始める丁度その時かその直前か)

ぼんやりと輪郭

「これはお前の仕業か!」

盲目の彼の部屋に訪れた男は、部屋の主に開口一番そう言われた。

「似合っているぞ」

それなのに、あっけらかんと素直な感想を述べたおかげで今度こそ、お前は馬鹿かと罵られた。

 以前店主に渡した金で男は豪奢な着物を、彼のために用意させていた。それも、女物の着物を。訳も分からず客の要望だからと着せられた彼の心境は推して知るべし、である。着慣れぬ衣服を纏い、動くことが億劫なのだろう、何時かの白鷺のように肘掛に凭れたまま男の方へ顔を向けていた。

 褪せていた記憶が色付き始める。あの日、師に連れられて訪れた時のこと。服や髪に移る香の匂い。靡く白鼠の髪。横切る赤い着物。揺れる鈴の音。刹那の接触が鮮やかに浮かび上がる。

 衣擦れの音がして、男が彼を立ち上がらせた。掴まれた手首の痛みに眉を寄せて見せるも、男には効果が無いようだった。

「滑稽だと笑うのだろう? 今まで色々な好きモノを見てきたが、お前も相当だと見受けた」

「のさばる下衆と同視するな」

振り払われた手に何か言うことは無く、グルリと佇む彼の周りを回ってその姿を眺めた男は、ふむと頷く。己の眼が正しかったことを、再確認しているような頷きだった。彼の正面に戻ってきた男は、美しい帯が巻き付いた腰を抱き寄せる。着せた服を脱がせたいと宣う輩の言い分が、解ったような瞬間だった。

 不満げな表情を浮かべていても唇を合わせれば素直に応じるのは身体に染み付いた職業病のようなものだろう。水音を立てながら舌を絡め、熱を煽っていく。その間に一枚ずつ着ているものを剥がしていく。緩く結われていた髪を解き、足元に広がった着物の上に身体を倒す。合わせていた唇を離せば、壁際の小引き出しの中に情事に必要なものが揃えられていることを知らされた。彼を寝かせたまま件の小引き出しに手を伸ばし潤滑油を拾い上げる。

「精の処理は如何する」

避妊具が見当たらず男は彼に訊く。女と違い生殖行為をするわけではないが――中に出せばそれなりの負担にはなるだろう。

「好きにすればいい。半数以上の客がそうする」

それなのに平然と負担を受け入れていると暗に言う彼に眉を顰めた。この鳥籠の中というのは、男が思っているよりも随分不自由な場所らしい。初めて訪れてから数回経っているが、何も知らなかったのだと思い知らされる。

 拾い上げた潤滑油を片手に横たわる身体の元へ戻ると、切り裂くようにして残っている着物を脱がせていく。触れるだけの口付けをして、首筋から鎖骨、胸へ欝血痕を散らす。胸の飾りを舌で濡らせば鼻にかかる吐息が漏れた。そうして、秘部を融かそうと手を伸ばせば自分でやるからと止められる。上体が起こされ、膝立ちの彼と向かい合うかたちになる。要求された通り潤滑油を手渡すと、慣れた風に自ら後孔を拓き始めた。

 色を感じさせはすれど、性を感じさせることは無かった相手の、性的な姿に小さく喉を鳴らした。俯いたことで表情は見えない。だが、湿った吐息には、痛みの中に快楽の欠片が垣間見えている。衝動的にその唇に食らいつき、片手は腰へ、もう片手は首を擡げた熱芯へ回した。突然の直接的な刺激に思わず彼の手が止まる。男の口端が上がり、腰へ回されていた手が、彼の指が埋まっている場所に向かう。クチ、と粘着質な音。焦ったような、制止の声が僅かに離れた唇の隙間から溢れかけ、結局成ることはなかった。先に挿し込まれていた自身の指と共に掻き回してやる。狭く熱い孔の中、隆起したしこりに触れると、重なっていた唇が離れ、片手ながら彼が男の身体に縋りついた。伸ばされた髪が肌を擽り、飲み下しきれない嬌声が鼓膜を揺らす。そうして、重なっていた心音が跳ね上がった。

となりに天使

 

(将仁 着せても結局脱がすんだから意味とか無いんじゃないかって思っていた時期があったりなかったr)

となりに天使

 ふたりが身体を重ねる回数は、それほど多くない。だが、金は落としていってくれるので、店側は彼の部屋や彼自身に僅かな乱れが無くとも何も言わなかった。どころか、他の客を通すなと余分に代金を置いていく男を丁重に扱った。無論、お得意様の指示通り、他の客は通されなくなっている。

 白い波間に身を横たえたまま彼が口を開いた。

「お前は、優しいのだな」

その言葉に男は、は、と怪訝な声を漏らす。心外だとでも言うような反応だった。

「……それは、どういう意味だ」

けれど、すぐに彼の言葉が気にかかった。その、中身を聴くことは躊躇われたが――好奇心には、勝てなかった。不躾だとは思ったが、男は訊く。

 少しの沈黙。彼の纏う雰囲気が、微かに張り詰めたような気がした。やはり踏み込んではいけない場所だったか、と男が内心舌打ちをしかけたところで、隣の空気が和らいだ。

「表の者たちと同じように、ヒトとして、お前は私を抱いてくれるだろう? だから、」

彼が言う、表の者たちを抱いたことは無いが――それでも、その口ぶりから今まで酷い抱かれ方をしていたのだと解った。そしてそれは、彼に限らないことだとも察することができた。同時に、異常だ、とも思った。

「もう良い。もう、何も言うな」

まだ動こうとする彼の口を止めさせて目蓋を閉じる。そうかと微笑しながら素直に従うのは彼の人柄からか、或いは、そう躾けられたからか。前者であると、男は思いたかった。籠の中から出して、陽の下に出してやれば、この鳥はどんな姿を見せるのか、知りたくなった。

 彼が身を置く場所は紛うことなく花街でありそういう店である。だが男がそこをそういう目的で訪れる回数はかなり少ない。ただ、彼に会いにという名目での訪問はそれなりに多い。

 店の営業時間がら、男が彼の元を訪れるのは陽が落ちてからの時分しかない。その日も彼の元へ足を運んだ男は、窓際に飾られた影に眼を留めた。随分通ったことで気兼ねの無くなった軽口を交わしながらさりげなく、窓際のそれは何だと訊く。見えぬ男に花を贈るなど、どのような人物なのか。否、その前に――自分以外の客は通させていない筈だ。

「お医者様が――あぁ、私たちのような者のために、店専属の医者がいるのだがな、そのひとが」

「見えぬお前に花を贈るとは……何を考えている、その医者とやらは。そもそも世話が出来んだろう」

「他意なんて無いだろうよ。ただ綺麗だから摘んできた。それだけだろう。それに、世話はシバがしてくれている」

ふわりと甘やかな匂いを広げる白い花を、穏やかな声音が語る。

「シバ――そういえば、シバは息災か」

裏に回るよりも前。表に立っていた彼を指名した女性が産み落とし店に渡したという子供が、彼の世話をしているという。数奇にも思える歪な関係に、この世界と外の世界が相容れないことを実感する。

「ああ。おかげさまでな。お前が、甘やかしてくれると言っていた」

廊下や広間で時折顔を合わせる少年は父親と同じ髪色をしている。面影もまた、色濃く浮かばせていて――小さな彼を見ているようで、無下にはできなかった。優しいのだな、と再度彼が言う。彼は外で男が何をしているか知らない。だからそのようなことが言えるのだろう。どこか苦々しげに思える声音になったのは、当然と言えば当然だった。

「…………優しく、しているだけだ」

優しくしたいだけ

 

(将仁 だって好きなひとには良い恰好したいし何より嫌われたくないって思うじゃないか)

優しくしたいだけ

 青年は町医者をしている。人を助けられる人間になりたいと思い、医者を志したのだ。暖かな陽射しの下、朗らかな町民たちと触れ合う仕事を、青年は好いていたし誇りにしていた。

 切欠は弟だった。育ての親と兄にくっ付いて外に出た際、不幸にも事故に巻き込まれたことで、青年は――おそらく生涯世話になることはないだろうと思っていた――場所に通うこととなった。身内が出掛け先で事故に遭ったと聞いて家を飛び出した青年は現場の名前を聞いて眉を寄せた。情報を集めるための場を覚えさせるためなのだろうが、まだ年端もいかない弟を花街に連れていくのはいかがなものかと。そうして、足を動かして、辿り着いた現場には、赤く染まった煌びやかな着物が広がっていた。腰を抜かしている弟と険しい顔の養父、兄。散らばる角材や瓦で、何らかの理由で建物の一部が崩れ落ちてきたのだと解る。見たところ、弟や身内は出血しているような怪我を負っていない。つまり、その、瓦礫の中に見えた人影が、広がった赤の持ち主だろう。フラフラと立ち上がり、己の店へ帰ろうとしている人影の腕を半ば衝動的に掴んで、自分は医者であるから怪我を見せろと声を上げたのはいい思い出である。

 最初は、そんな使命感やら責任感やらで――相手の怪我が治るまでだと考えていた。それなのに気付けば完治した後も経過観察とか他の患者を診たついでにとかの理由で通ってしまっている。その頻度は良ければ店の専属医として出入りしてくれないかと店側から提案される程度だった。このような店にしてはやけに人間臭い店主に、建物を出かかった際ごく自然に言われた言葉へ、青年は自分でも考える前に首を縦に振って、諾と返事をしてしまった。店か件の人影かの魔に絡めとられたのだろうと冷静になってから思う。だが、それを後悔することは無かった。

 白い昼時に訪れたにもかかわらず、楼閣内の裏の部屋は表の部屋よりも薄暗い。陽光を取り込む窓の側に見覚えのある影――先日贈った花――が見えて、口元を綻ばせる。まだ、枯れていない。

「気に入ってもらえたみたいで何よりだ。また花を持ってきたのだが、追加しても?」

「ああ。折角だから世話をしてもらってな? ふふ。おかげで妙な勘繰りをされてしまった」

そこで青年は、あぁやはり――と目を細める。贈った花は、以前なら日を跨いで見ることはなかった。投げかけた言葉に、以前なら自然な微笑はもちろん返事が返ってくることはなかった。ある客の言いつけで不特定多数の客を通さなくなったと、代替わりをした店主から聞かされた頃からだと青年は思う。顔を合わせるたびに表情は柔らかくなり感情を表に出すようになっていった。この変化に、店側は気付いているのだろうか。

「今活けてある花は白なのだろう? 今度は何色を持って来てくれたんだ?」

ごく自然な笑顔にツキリと胸が軋んだ。それを押し隠して青年もまた笑顔で応じる。持ち込んだ花々が持つ言葉は、きっと青年しか知らない。

 果たして喜ぶべきか悲しむべきか――青年は未だに決めあぐねていた。彼がヒトらしさを持つようになったことはもちろん喜ばしい。だが、その変化を齎したのは自分ではない。自分に出来なかったことを、彼から己以外すべての客を遠ざけた不遜な客がやってのけた事実に、青年は胸の痛みを覚える。

 無論、そんな青年の胸中など知る由もない彼は朗らかに口を開くのだ。

「そういえば件の客が身請けしてくれるらしい。冗談かと思ったがどうやら本気らしくてな――ふふ、あなたの仕事も減る」

良かったな、なんて嬉しそうな顔で言うのだ。青年は泣きたくなる。結局、このふたりと言うのは両想いなのだ。そうでなければこのひとがこんな顔をしながら身請けしてくれるなどと言うはずがない。曖昧な相槌を打ちながら、青年は彼の幸せを願った。気付いたら大きく膨らんでいたこの想いを、今更相手に打ち明けることはできない。花瓶に持参した花を活けながら青年は唇を噛む。相手を想うなら、見守ることもまた愛のかたちであると、自分に言い聞かせた。

眠れない白昼に

 

(トキ→シュ きっと自分が幸せにするのだと思っていたし出来ると思っていたのに終わりは突然で)

眠れない白昼に

 シャン、と華やかな鈴の音が聞こえた。まだ日のある時間帯、花街の街路は俄かに騒がしさを帯びていた。はて何事だろうと道を急ぐ青年は足を速める。その騒めきは、店に近付くにつれて大きくなっていく。鈴の音の合間に、カランコロンと下駄の音がした。規則正しく立ち並ぶ建物の間を駆け抜けて、青年は大通りへ出た。

 通りの両脇には多くの人が見物に来ていた。やんややんやと踊り出しそうな、お祭り騒ぎである。人混みの間から華やかな音の正体を確認しようと青年は首を伸ばした。

「――……あ、」

その、ひとの頭部の合間から見えた光景に、思わず声を漏らした。青年の、あおい目が、丸くなる。

 ゆったりと、悠然と道を往くのは花魁道中。ただその主役の顔には大きな傷痕があり――見物人の中にも物珍しさに声を上げている者が数人居る。好意の眼も奇異の眼も、すべてを受け止めながら陽の下を彼は歩いていた。涼やかな寒色を基調として誂えられた着物を纏って威風堂々と道を往く。傍らには彼によく似た禿が居て彼の手を曳いていた。やわらかそうな髪と面差しに、少年が手を繋いでいるひとの面影を見る。その後ろに続いているのは、あの店の者たちだろう。店主の顔も見えた。花街でも稀にみる大行列に、人々は沸いていたのである。華やかな行進が緩やかに目の前を通り過ぎていく。

 見えていない彼は青年の前を素通りする。声を掛けようにも人垣で距離があり過ぎた。何より、声が出なかった。

 身請けを、されると言っていた。それは知っていた。だが、それが何時だとは、聞いていなかった。だから、青年にしてみれば唐突な出来事に、唖然としていた。するしか、なかった。

 青年の足が動く。行列の先頭を歩く彼と並行して青年は歩き始める。晴れやかな顔で、凛と前を向いて綺麗に歩く彼の姿を、少しでも長く捉えていようと観衆の後ろを早足で進む。せめて最後の、別れの言葉だけでも、伝えたいと思った。最後に顔を合わせて交わした言葉は、他愛のない世間話だ。けれど、結局一声も上げられないまま、ただ風景だけが流れていく。

 パタリと人の列が途切れる。花街の出入り口の手前のことだった。そこで、彼の名を呼ぶ、声が聞こえた。群衆から一歩抜け出して、声の主を見遣ると、ひとりの男が立っていた。その存在を知った彼は立ち止まって微笑を浮かべたことだろう。そうして、ユルリと振り返り、瀟洒に腰を落とすやり方の一礼をしてみせた。観衆からワッと歓声が上がる。男の方へ向き直った彼は後方の参列者を置いて、手を曳いている禿と共に男の元へ歩いていく。

「――ふふ、なんだ、迎えに来てくれたのか」

「距離は大して変わらんからな。それに、俺はあまり気が長くない」

腕一本分も無い距離で仲睦まじく言葉を交わす双方の、その表情を見て青年の頬が濡れた。あぁ、なんて、しあわせそうな顔をしているのだろう、と。手にしていた花が滑り落ちていく。ポロポロ雫を溢れさせる青の双眸には、ヒョイと抱き上げられる美しいひとと、そのひとを軽々と抱き上げるひとの姿が映っている。

「わっ、ちょ――いきなり何を、じゃなくて、重たいから下ろしなさい」

突然抱き上げられ、あたふたする彼の足から下駄が転げ落ち、軽やかな音を立てる。それを禿が苦笑しながら拾い上げた。

「お前は重たくないだろう…………あまり暴れるな、手が滑る」

ブワリと一陣の風が吹く。人々の髪が靡き衣服が翻る。白い花弁が、青い空へ舞い上がった。

 陽光を集めて梳いたような頭と月光を集めて紡いだような頭が動いて、それから肩が震える。時々そのふたりの間に星の光を集めたような頭が何か言葉を挟み、また肩が揺れる。見えない両腕は、大切に下駄を抱えているのだろう。スイと彼の手が伸びて禿だった少年の髪を優しく撫でた。その手の動きに、自由を謳歌する鳥の翼が風を掴む風景を、青年は幻視する。背後で賑わう人々の声は遠く、ただ遠ざかっていく後姿だけが鮮やかに青年の網膜に焼き付いていた。

いずれはこの願いすら

 

(将仁←トキ 涙に溺れたこの日すらいつか美しい思い出にしてしまえるのだろうか)

いずれはこの願いすら
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