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無双のような

 

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「嘘を吐いているわけではないんだ」

乾いた大地の上で、渇いた眼が懇願するように非難するように言うものだから、男は口を開く。

「ただ、まだ、そうはなっていないだけで――彼が、私たちの前に現れていないだけで、」

だから嘘ではないのだと、紡がれる言葉は己に言い聞かせているようにも聞こえた。

 文化的で平和的な秩序が崩れ去った後、力の掟が世界を支配している中で、彼らは力の無い者たちを助けることを選んだ。自分たちを率いるはずの将は成すべきを棄て覇を唱えた。他の者も身に付けた力を己のために使うことを選び、荒廃と乱世に拍車をかけている。各所で略奪と搾取が繰り返され、凄惨な光景が幾つも出来た。そんな、戦禍に喘ぐ人々へふたりが手を差し伸べたのは、守るべき者が身近に在り、それを失う辛さを想像することが出来たからだろう。

 少しでも、僅かにでも人々を救いたいと東奔西走する毎日の中で、ふと訪れる何もない時間に、心が揺らぐのだ。

「おれたちがしていることに、意味はあると思うか?」

端正な顔をクシャリと歪めて青年が言う。

「だっておれたちは――……救えた人間より救えなかった人間の方が多い」

「だが、まったく救えなかったわけではない」

「救われた方も――いや、残されたやつらの方が、辛いんじゃないのか? あの時一緒に逝っておけば良かったと、救ったやつを、おれたちを恨むんじゃないのか?」

「ならば見殺しにすれば良かったと思うか? 救えた命を、お前は、見殺しに出来たのか?」

問いだけがグルグルとふたりの間を回る。見慣れた、やさしげな顔に、僅かな悲哀を浮かべて男は言う。その言葉を、否定し撥ね付けることも、肯定し受け入れることも出来ない青年は呻く。

「おれは――おれはただ、皆が笑っていられれば、そういう世界にまた、少しでも戻れればと、」

「ああ、わかっている。十分に、知っているよ。お前が頑張っていること」

頬に手が触れる。その温かさは相も変わらず優しくて、青年の双眸が潤んだ。いっそ叱り飛ばしてくれた方が良い。それなのに、この優しいひとは、抱き寄せてくれまでするのだから。

 背丈が逆転する前のように青年は男の身体に回した腕へ力を込める。ちいさな子供のようだとは思ったが、身体を離せそうにはなかった。

「…………ごめん、おれ、辛いのはおれだけじゃないのに」

囁くような声で言った。閉じた目蓋の、震える睫毛が濡れて、そっときらめいた。

「良いんだ。謝らなくていい。わかっている」

そんなことを言わせてすまないと謝る男の、ユルリと癖のある髪を見詰めながら青年は、しかし思う。こんな時代、世界だからこそ、自分はこのひとと一緒に居られる。ずっと傍に居られる。必要とされる。頼られる。以前ならばどれだけ望んでも叶わなかっただろう、ことばかりが、今この荒廃した場所で叶っている。

 そう考える思考の歪みに気付かず、仄暗い満足感に青年は薄く笑みを浮かべた。すまない親友、おれは嘘を吐いた。おれは案外この世界に感謝している。弱者を虐げることに憤りを覚えているのは、紛れもない事実であるが、それでもどんな理由でも、青年は男の傍に居られることが嬉しかった。

「……もう、大丈夫だ。ありがとう。うん、そうだな、まずは、救えるところから救おう。おれたちふたりだけでも」

言いながら青年はようやく身体を離して向かい合う。見えない男へ、きれいなきれいな笑顔を向けて、そう吐いた。

 

嘘ばかり云うの

 

(義仁 相手を傷付けるばかりが嘘ではないし露わにする嘘ばかりではないというはなし)

 焦がれて追う背は、追っても追いつけない蜃気楼のように思えた。

 嘗て、顔を合わせた時と変わらない――否、幾分かまろくなったように思える空気を纏ったひとは、その時もただの飾りのように残った欄干に手をかけて、風景を臨んでいた。赤みの強い橙色に照らされる荒野は、物悲しげに見えた。戦禍に遭う前は多くの人で賑わった街だったのだろう。割れたネオンや文字の消えかけている看板が当時の活気を静かに物語る。

 細かなコンクリートの欠片を踏み砕く足音は、それほど大きなものではなかった。それでも、しっかりとその音を捉えたひとは穏やかに振り返る。顔に残る大きな傷痕を見る度に、傷を負っていないはずの自分の顔が微かに痛む。それを、そのひととの繋がりだと思えば、大切にすら思えた。霞を抱いているような己に、苦笑するしかない。けれど、そんな微かなものですら握っていたいのだから仕方がない。

「どうか、したのか?」

背にする風景に似合わない、朗らかな微笑が訊く。別段用など無く、ただ会いに来ただけなのだが――それは零されることなく、青年の口からは曖昧な返事が漏れた。

「まぁ……慣れるまで地下は過ごしにくいだろうな」

近付いてくる青年に、優しげな苦笑を浮かべたひとは、少しズレてスペースを作る。青年が手をかけ、キシリと錆びた欄干が鳴いた。眼下に広がる風景を前に、このひとは何を思っていたのだろうと、そっと、盗み見るように横顔を窺っても、凪いだ水面のような穏やかな表情があるだけだった。

 以前行動を共にしていた、戦友とも言うべき親友の、親友だと言った。それは、何時からのことだろうと、ふと思った。自分と初めて顔を合わせた時には、既に親友だったのだろうか。そして親友は何故このひとのことを何も言わなかったのだろう。自分とは会う筈がないと、面識がある筈がないと、思ったのだろうか。何よりこのひとは、親友に自分の事を何も言っていなかったのだろうか。そんな、色々な疑問や、思いが浮かんでは消えていく。

 乾いた風が、サヤと髪を揺らす。何か、言葉を交わすことなく、ただ静かに並んで、沈んでいく太陽を眺めていた。

 昼間は汗ばむ程の気温でも、燦々と照る陽が落ちてしまえば寒さに身体が震える。夜の帳が降りた荒野には、ピンと緊張の糸が張り詰めている。崩れかけた建物に時々チラつく光は、周囲を警戒する仲間のゴーグルかヘルメットが月明りを反射したものだろう。

 今までの野宿よりは安心して眠っていられる環境である。粗末ながらも用意された寝床に身を寄せ合い、眠りに就いたふたりの子供を確認してから、青年もまた身を横たえる。すぅすぅと、周囲から聞こえてくる寝息に誘われて、目蓋はストンと落ちた。そして青年は夢を見る。覚めてしまえば欠片も残らぬ、泡沫の夢を見る。それは幸福なものだった。内容は、甘い靄の中に溶けて掴むことはできなかったけれど――その夢の中で自分は笑っていたように思う。傍に居たひとたちも笑っていた気がするから、きっと幸せな夢だったのだと思う。

 何か、良いことの残滓を感じながら目を覚ますと、そこはやはり荒れ果てた世界だった。空間を満たす暗さと静けさに、未だ夜が明けていないのだと知る。

 のっそりと身を起こした青年はフラフラと外へ向かった。日暮れに、子供の頃焦がれた背中を見た、その場所へ、知らず、足が進んだ。夜更けに誰かいるわけが、と思っていた場所には、数時間前と同じ先客がいた。闇夜に溶け切らない、頭上に浮かぶ星の光で染めたような髪が、綺麗だと思った。無意識の内に気配を消し、足音を殺していた。あぁ、まだ、醒めていない、と青年は目の前の背に手を伸ばし、腕を回しながら思う。まるで子供の様なことを吐いているとの自覚もまた。

「あなたを、助けたい。今度はおれが、あなたを救うから。だから、もう少しだけ、」

 

夢ばかり追うの

 

(ケンシュ こうなればいいのにと描いた未来を夢とも言うけれど運命が許さなかっただけの話)

夢ばかり追うの

「愛故にと、それで全てが許されるのなら、あなたに今こうして無体を働いている私も許されるのか」

馬乗りになり、薄く開かれた目蓋の中を覗き込むように顔を近付けた男は呻くように言葉を吐いた。首を捉えている手は微かに震えている。真綿で絞めているような、気道を閉ざし切らない力加減に、不思議と恐怖は覚えなかった。傷を負った獣のような、濡れた殺気は、迷子になった幼子の涙にも似ている。

「愛しているから、等と言う理由で、例えば今このまま私があなたを殺めても、許されると、」

「許されるとして――許されたとしても、あなたは、自分を許さないのではないか?」

「……あぁ、私は、わたしは、ただ、あなたに幸せになって欲しかった。だと言うのに」

「確かに、辛いことが多かったと思う。だが、私は、それでも幸せだったと言える」

見えてはいないはずの双眸が、潤む双眸を見詰めていた。ぼんやりと浮かんでいる眼下の褪せた紅は、ひどく穏やかで。吐かれる言葉も穏やかで――男は、そうじゃないと首を振る。

 視界の端で何かが動いた、と思えば、頬に掌が添えられた。片やひとを押し倒しその首元に手を添えている姿。片や己に馬乗りになっているひとの頬へ手を添えている姿。遠目に見れば、互いに首を絞め合っているように見える。

 何故抵抗しないのかと呟けば、好いているからだと返された。

「あなたは、おかしい。愛だからと、それだけの理由で何もかもが許されるものか」

平時は物静かな男の、腹の中で渦巻いている感情は苛立ちか――或いは、恐怖に思える。そんな男が零した、詰るような言葉は、けれど相手に縋っているようにも聞こえた。

「そうだな。体の良い免罪符ではないし、そう在るべきではないな」

男の顔を包んだ手が引かれ、コツンと額が合わさる。その際、首元に置かれていた手は身体を支えるために離れていった。

「しかし、あなたを受け止めることくらいは、出来るつもりだ」

ごく近い距離で、青と赤が絡み合う。歪に笑んだ顔は何方のものだったか。

 力無い笑い声が、思わず零れ落とされていく。男が纏っていた、剣呑に思えるものは、いつの間にか霧散していた。今はただ、温もりを感じない陽だまりのような雰囲気だけが横たわっている。

「ならば少しの間、このままで」

首筋に埋められ、少しくぐもって聞こえる声が囁く。男の頬から頭の後ろへと回された手が、当然とも言うべき答えだった。

 己の思考が内側に沈み込んでいるという自覚はあった。自分のためではなく、終始他人のために生きた目の前の男を、殺したいと、確かに思った。自分はこんなにも相手の幸福を願っていると言うのに、この男は、他者の幸福を己の幸福としている。ならばいっそのこと、この手で殺めてしまえば報われるだろうかと。そして、きっと相手ならばそれを許してくれるだろうと、甘んじて受け入れてくれるだろうと、そう思った。事実、手にかけても良いかと言う問いに、相手は良いと、許すと答えた。のみならず、その後のこと――屍の前に座り込み自責する己を言い当てた。

 結局のところ、ただ一人の、この人物からの愛が欲しかったのだ。好いているとではなく、愛していると、他でもない自分に対して吐いて欲しかったのだ。自分こそ相応しいと、そう、心のどこかで思っていた。

 押し隠してひた隠して最後まで誰にも見せずにいようと思っていたのに。伸ばされた手に、その考えは呆気無く解かれ棄てられてしまった。きっと眉を寄せながら指に込める力を加減しながら、苦しげに言葉を吐いているのだろう、相手を想うだけで胸が躍る。まるで悪い子供だと見えないところで笑みを零す。確かに自分は可笑しいのだろうと、男は笑った。

「ああ……しばらくは、このまま、ふたりでいよう」

 

愛ばかり縋るの

 

(トキシュ ただ一つだけを求めて欲して互いの歪みに気付かないふりすらするふたりの噺)

愛ばかり縋るの
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