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いつぞやの診断さんの「喫茶店員と常連客の設定でプレゼント贈り合う」云々のやつ。

原型で喫茶店パラレル。​平和。サンクラくんの手が両方普通の手になってる。

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 リーン、と奥の座席で呼び鈴が鳴った。

 開店前で誰もいない――店長は食材や豆や茶葉の買い足しに出ていて、オーナーはまたどこかへふらりと出かけていて、自分以外誰もいないはずの店内に響いたその音に、店員は小さく肩を揺らして固まった。拭いていたタンブラーグラスを取り落とさなかったことは幸いだった。

 そうして、店員が固まっていると、もう一度リィンと音がした。その音に、今度は魔法が解かれたように店員は動き出す。手にしていたグラスと布巾を置いて、音のした方――店の一番奥まった場所にある座席へパタパタと向かう。自然に鳴ることなど有り得ない種類の呼び鈴が二度も鳴ったということは、間違いなく誰かが席についているということである。買い替えてからさほど経っていないから、誤作動などではないのは確かだ。けれど店の扉が、裏口も含めて、開いてはいない。それはカウンターで店を開ける支度をしていた店員がよく解っている。

「――あ、」

ようやく座席に辿り着いた店員が、ひょいとそこを覗き込む。するとそこには店員と同じように通路を覗き込もうとしていた常連客の姿があった。

「あんた……!」

「お邪魔している」

顔を突き合わせた、その瞬間は少しだけ、驚いた素振りを見せた客は、けれどすぐに片手を挙げて、ひら、と軽く振った。

 あまり人目に付きたくないのだと首を傾けた客に頷き、そのまま向かい側に店員は腰を下ろす。別の宇宙からわざわざ出稼ぎ――曰く、雇い主と言うか主人のような存在に、外の世界を見てこいとか何とか言われたらしい――に来ている客とその親友は瞬間移動に似た能力を持っていて、今日もそうして現れたのだろう。

「留守番をしていたのか。偉いな」

「留守番って……あんた分かってて言ってるだろ……まだ開店前なんですけどぉ?」

「ふふ。そうだな。だがここ以外に思い当たらなくてな」

わざと頬を膨らませて店員が言うと、バイザーの奥でオプティックを細めた客が返す。

 時計の針は開店時間の一時間と五分ほど前を指していた。

 向かい合ったふたりはそれぞれ楽な姿勢で座っている。

「――で? 今日はどんな用件で?」

店員が友人と接するような気安さで切り出す。

「うら若い店員くんと話がしたくなって……と言っても納得してはくれないか?」

客の方も特に気を害したような様子もなく――寧ろ気兼ねの無い雰囲気を好ましく受け止めている様子で、冗談めかした風に答える。肘をつき、組んだ指の上に乗せた顔が相手を窺うように傾いた様などは、気品を感じさせた。けれど、通りすがりの者がふと目を奪われるような仕草にも特に反応することなく、対岸の店員は頬杖をつきながら少しだけ唇を尖らせる。

「んー。そうだな。理由がその通りだったらすげぇ嬉しいけど、違うんだろ?」

「おや……君は…………思っていたより鋭いようだ」

「……まぁ、あんたのこと、それなりに見てたって自覚はあるからな」

前傾していた姿勢を僅かに起こして客が呟くように言う。かかっていた重みが消えて、組まれていた指が緩んだ。最後にぼそりと付け加えられた言葉は、届いていないようだった。

「どうせまたあの親友から逃げて来たんだろ?」

「逃げ――……人聞きの悪いことを言わないでくれ。私は息抜きがしたかったんだ」

仕切り直すように、悪戯っぽく言いながらズビシッと突きつけられた指先を、眼前からそっと退けて、客は肩を竦めて見せる。

「締め切りが近いことは重々承知しているのだが……あれは少しばかり心配性なようだ」

「へぇ? じゃあなんだ?その、締め切りまでに間に合う見込みはあるのか?」

「当たり前だ。私は馬鹿ではないからな。ペース配分や無理のない予定を立てることくらい造作もない」

それは明らかに高慢な物言いであったけれど――誇らしげに宣うその様子が、どこか子供っぽく愛らしく見えて、店員はそうかそうかと聞き流す。つまり、原稿の締め切り日が近く、本人は間に合うような予定を頭の中で組んでいるけれど、傍から見ているその親友は大丈夫なのかと心配で催促をしてきて、それが頻繁らしい。たぶん、口では言わずとも、滲み出る空気とか何気ない所作とかにもその心配性とやらが出てしまっているのだろう。

 大変そうだなぁ、と他人事の店員は一旦席を立ち、それからカウンターへ向かった。そこで何やらカチャカチャごそごそ音を鳴らしていたと思ったら、ティーカップとタルトを運んできた。白地に藍色の線が躍るティーカップからは、ふわりと品のある香りが広がっていて、白い無地の皿に乗せられたタルトには季節の果物がきらきらと艶めいていた。

「じゃあ、そんな大変そうなあんたに、オレからプレゼントだ」

カチャリと目の前に置かれたお茶とお茶請けに客の視線が釘付けになる。バイザーとマスクで顔が隠れているにもかかわらず、わかりやすく期待の空気を滲ませて手元と店員を交互に見遣る。

「え、あ、これ……い、良いのか?」

「良いって言ってるだろ。ほんとは店長に秘密でこっそり食べようと思ってたんだけどな。ふたつ買ってて――まぁ、つまりあんたには共犯になってもらうぜ!」

「共犯……ふふ。このタルトに似て甘美な響きだ」

言い終わらないうちにマスクが開かれ、ゆるゆるっと綻んだ口元が、ありがとう、と動いた。

 手に取られた銀の三叉が、少ない照明の光を反してなお瑞々しい果物に差し込まれ、そしてしっとりサクサクとしたタルト生地に埋もれていく。カチ、と小さく食器の擦れ合う音。それを、二度ほど。口へ運べる大きさにされたタルトの一山ができあがる。上品ともいえる所作で作り上げたそれを、その製作者はそっと口にする。水分の多い果肉が、甘味の控えられた厚みの生地が、咀嚼され飲み下されていく。

 タルトをもきゅもきゅと味わう様は餌付けされている小動物に見えないこともない。次いで薄く湯気の立っているカップに手を伸ばし、静かに口をつけて傾ける。仄かに色付いたように見える頬は、温かいものに触れたからだろうか。それとも。

 濡れた舌が唇をそっと撫でていく。

「美味しい。とても」

「そっか。良かった」

陳腐ではあるが――花も綻ぶ様な笑みを零してくれた客に、店員の表情もにへらと緩む。自分が作ったわけではないけれど、こんな風に幸せそうに食べてもらえて、こちらまでそんな気分になってくる。

 大した会話は無くとも、穏やかな時間が流れる。少しずつ、少しずつ――とは言え、意地汚く見える程の時間はかかっていない――惜しまれながら食べ崩されていくタルト。食べ進めている当人は、しかし優雅な手付きでもって甘酸っぱい山を崩している。

 そこで、不意に、スイと店員の目の前に一口分のタルトが現れる。

 へぁ、と間の抜けた声が店員の口から零れ落ちた。表情も、その時の表情を店長が見ていたら、店員の頭をスパンと小気味良く叩いていたかもしれない。まぁ、つまり、そういう反応だったのである。

「え……? あ、っと……?」

「私だけ、と言うのは悪いだろう? 食べてくれ」

たのむ、たべてくれ、と唇に触れる果実を、店員が拒む理由は無かった。

 甘さと酸味が混じり合った、やわらかな果肉が解ける。次に舌の上に広がるのは果実の甘さを邪魔しないよう、仄甘く味付けられたタルト生地がほろほろと崩れた欠片。その味のバランスに、美味い、と言葉が口を衝いて出た。知らず、上がった口角は隠しようもなく、向かい合うふたりは揃って肩を震わせる。

 そうして、タルトを食べ終え、カップの中も空になった頃、店員と談笑していた客が外を窺うような素振りを見せた。何かを聞いているような――声を潜めて、耳を澄ましている様子。そして、それから、再び店員に向き直る。

「さて。そろそろお暇しなければ」

「な――べ、別に、このまま居てくれても良いんだぜ!」

「気持ちは嬉しいが、あまり迷惑をかけるのは本意じゃない。礼と言っては何だが、これを受け取ってくれないか?」

そう言って取り出したのは一冊の詩集だった。何度も読み返されているらしいそれは、細かな傷や色褪せが見受けられたけれど、綺麗と言える状態だった。著者の名前は、昔学生時代に社会の歴史の授業で聞いたことがあるような、ないような。

「要らなかったら売るなり捨てるなりしてくれても構わない」

あまり厚くはないその本を綺麗に空になった食器の横へ添え置いて、客は席を立つ。

「それでは――素敵な時間をありがとう」

詩集に気を取られていた店員が引き留める間もなく、客の姿は、ごちそうさまの言葉を残して消える。あ、とか、ちょ、とか言葉になりきらない音を発しながら店員がガタガタとようやく立ち上がるも、既に店内には静けさが戻って来ていた。

 ズルいよなぁ、と自分を色々な意味で振り回してくれた客に対する独り言がこぼれる。けれどそれを楽しんでいる自分も確かにいて――店員は微かな寂しさを感じながらティーカップとタルトが乗っていた皿を片付け始める。贈られた詩集は、ササッと自分の荷物の中に紛れ込ませた。暇が出来た時なんかに読もうと思ったのだった。

 客が帰ってから数分後。店員が店の準備に戻って自然な格好になる頃、店の玄関でドアベルの鳴る音がした。それから、店内の床を叩く、神経質そうな足音。店長が帰って来たのであった。

 今日も今日とて自由に外をふらふらしているらしいオーナーへの文句を小さく零しながら、買ってきたものを棚や冷蔵庫なんかにしまっていく店長へ、おかえり、と声をかけるも、返ってくるのは気の無い返事である。店長は今日も愛想が無いな、なんて思いつつ店員の表情が柔らかいのは、言わずもがなあの客との時間があったからだろう。

 時計を見て、店員は立て看板を外に出し、店が営業を始めたことを外に知らせる。今日の日替わりメニューは店員が考案したものである。そして、店員は空を見上げながら、またふらりと、夕方頃なんかに、あの客が顔を出したりしないだろうか、などと考えながら、店の中へ戻っていった。

 

 

 

 それから数日後、店員が空いた時間に本を読んでいる姿が見られるようになり――店長が店員の読書をするその姿に驚いたり、読んでいるその本を件のオーナーも以前読んでいたことが判明したりするのだが、それはまた、別の話。

来たる春は甘くなるか

あなたは5時間以内に3RTされたら、パティシエと喫茶店スタッフの設定で公衆の前で告白する大帝音波の、漫画または小説を書きます。

春が来そうな喫茶店パラレル大帝音波に遭遇した語り手モブや噛ませモブが爆発しかかる話

 

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 ふわ、とフォークが生クリームを崩して柔らかなスポンジの中に沈んでいく。口へ運べる大きさに、可愛らしい見た目のケーキを切り崩す。含めばホロリとかたちを無くし、果実と砂糖と乳製品の甘さがするする解けていく。
 あぁ、これこそ至福、とわたしは自分の頬が緩むのを感じる。香りの良い紅茶は味も良い。食器も美しく店内も清潔である。
 この店は、流行りもの好きな知り合いに紹介されて訪れた店だったが、居心地の良さにもう半年は通ってしまっている。スタッフは男ばかりなのだが軒並み顔面偏差値が高い。服装は飾り気の無いシンプルなもの──たぶん最低限しか設けられていない服装の規定の結果なのだろう──であるはずなのに、夜の繁華街で煌びやかに存在を主張する店の人間か、と初めて来たときはツッコミたくなったものだ。
 店はカフェにケーキ屋が併設されてできている。カフェは朝から夕方までやっていて、店内でモーニングやランチを食べていくことができるし、サンドイッチをはじめとした軽食をテイクアウトできる。併設のケーキ屋で注文したものをカフェで食べることも可能である。もちろん、ケーキを買ってそのまま持ち帰ることも。並んでいた二つの店舗をぶち抜いて繋げたようなカフェとケーキ屋は、つまりいちいち外に出ることなく行き来することができるのだが――スタッフはどちらも同じだから、以前昼時に店を覗いてみた時などは実に忙しそうであった。
 基本的にフロアには四人のスタッフが出ていて、厨房には一人がいるらしい。時々フロアのスタッフは六人だったりするのだ。宅配係が駆り出されているのだと言う。そして、厨房に居るというそのひとを、わたしは見たことがない。聞いた話によると、そのひとはこの店のオーナーで、かなりの自由人で、何故かパティシエであるらしい。何故かパティシエ、である。店頭に並ぶ、ものによっては注文をすると厨房から運ばれてくる、ケーキや洋菓子たちの生みの親は、どうやらそれらがあまり似合わないらしい。
 わたしに幸福感をもたらすこの美味なるケーキの作者に一度会ってみたいようなこのまま知らずにいたいような――そんな益体のないことを考えつつ、今日の分のケーキを消化していく。週に2度ほど、客足の少ないであろう平日の昼過ぎを選んで来ているが、埋まっている席が半分以下の日など見たことがない。メディアには露出していないとスタッフの一人から聞いたことがあるけれど、今のご時世においてホームページもSNSアカウントも使っていないこの店を、皆どうやって見つけて来ているのだろうか。
 微睡むような陽光が照らす昼下がり、穏やかに揺らめいていた水面を波立たせるように、ちょっとした事件は起きた。
 店の中ほど、窓際の席で言い合うような声が聞こえた。
「――なぁ、だからさ、店員さん、俺とデートしよ? いいでしょ?」
「なにを言って……当店ではそのようなサービスは行っていない」
「店とかじゃなくてこう、個人的に?プライベートで!」
察するに、スタッフの一人が客にナンパされているらしい。時々スタッフへ熱い視線を向けている客を見かけることはあるが、直接口説きにかかる客と遭遇するのは初めてである。興味に負けて声のした方へ眼をやると、スタッフを口説こうとしている客は、その席からさりげなく離れようとしているスタッフの手をしっかりと掴み、逃げられないようにしている。軽薄な口調とは裏腹に意志は固いらしいことが窺われた。
「プライベート? 名前も知らない者同士でか?」
しかし、その通り――まったくスタッフの言う通りである。この店のスタッフは名札など使っていないからそれなりに通わなければその名前を知ることはできない。知っている者に聞こうと思っても、大概そのひとたちは教えたがらない。
「一目惚れってやつだよ、だから、なぁ、」
さぁどうだろう、とあくまで曖昧に笑んで見せるスタッフは客の言い分を呑み下すことはしない。それはきっと、わたしでもそうしただろう。互いの名前も何も知らないまま惚れた腫れたと言うのは心が下にあるとしか思えない。見たところその客は悪くない容姿をしていて、そういう相手に困ったことはないのだろう。いわゆる、百戦錬磨の、とかそういう人種だ。あの見目麗しいスタッフを侍らせたいに違いない。
「俺と店員さん、きっと上手くやっていけると思うんだよ」
だからたぶん、こうして食い下がっているのだろう。
「店員さん、俺のものになってみない?」
けれど、その客は、選んだ相手が悪かった。さらに言えば、相手にモーションをかけた場所が悪かった。
 事態を静観――というか、成り行きをそれぞれ作業しながら見守っていた他のスタッフたちが、客の言葉に反応を示した時、丁度その時、厨房から話に聞いたことしかなかった人が現れた。営業妨害に遭っているスタッフ含め、フロアに店側の者は既に四人が揃っていたから、自ずと厨房から出てきた者が何者なのかは解ってしまう。そうして、初めて店のオーナー兼パティシエの自由人を見たわたしは、なるほど甘味のイメージは浮かばん、と思った。
 パティシエと言うにはラフ過ぎる格好で現れたオーナーは、俄かに騒がしくなった店内を闊歩して、騒ぎの素となっている席へ真っ直ぐに向かって行った。
 そうして、客とスタッフのところまで来ると、唖然としている客を余所に、ぐいとスタッフの腰を自分の方へ引き寄せた。緩んだ手がするりと離れる。スタッフもスタッフで驚きからだろう、特にリアクションを見せることなく、大人しくオーナーに腰を抱かれている。その一連の流れは、実に見事だったとわたしは思う。
「小僧、これは俺のものだ」
次いでオーナーがそう言った時、パリーンと何かが割れる音がした。スタッフの一人が皿か何かを落として割ったらしい。珍しいこともあるものだ――とわたしが胸中で独り言ちていると、その音で我に返ったらしい客がオーナーへ言葉を返す。
「はっ――あんたのそれは店のものってことだろ! 俺は違う!俺は個人的にその人を――」
「何を勘違いしている」
「――え?」
「俺のものだ、と言っただろう。この俺から、俺のものを掠め取ることなど出来ると思うなよ、小僧」
傲岸不遜にオーナーが客をわらう。同時に、また何かが割れる音がした。今度はパリーンガシャーンと二つ分。今日は掃除が大変だろうなぁと思う。そして他のスタッフのその様子から、オーナーとあのスタッフが個人的なお付き合い――あるいは関係――をしていたことは当事者たちだけが知っていたらしい。腰を抱かれたまま大人しいスタッフの顔や耳の辺りは赤らんで見える。
 何も言えず、固まってしまった可哀想な客を鼻で笑い、オーナーはスタッフを抱いたまま店の奥へ戻っていく。その姿が消えて数十秒後、なんだってんだ、とやはり哀れな叫びを哀れな客が上げた。
 わたしは温くなってしまった紅茶を、なるべく周囲を見ないようにしながら、一口飲んだ。

 

春と嵐は唐突に

あなたは10分以内に9RTされたら、俳優と一般人の設定でいきなり告白されて戸惑うGFスタ音の、漫画または小説を書きます。

 

なんだか頭の悪い話になってしまった……というか俳優要素だいぶ薄いな……?_(:3」∠)_アルェー?

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 その日、青年は都会と呼ばれる場所へ来ていた。

 普段家やその周辺から離れない青年が、電車を乗り継ぎ遠路はるばる都会へ赴いたのは、他でもない唯一無二の親友が遊びに誘ってくれたからであった。

 役者になるのだと言って家を飛び出して行ったらしい親友と顔を合わせるのは久しぶりだった。メールや電話、時々手紙で連絡のやり取りはしていたけれど、直接会えるということに、青年の胸は前日から高鳴っていた。地元を離れても元気でやっている様子の親友に、寂しさを覚えなかったと言えば噓になるけれど、自分をこうして誘ってくれる程度には憶えていてくれたことに感動を覚える。誘いのメールの内容からしても、相手の中で自分の存在はまだ大きな位置を占めているのだ、と。

 テレビや雑誌と言ったメディアをあまり見ない青年は、物語の中で描かれるものや、時々思い出したように目を通す新聞の写真でしか、都会の風景を知らなかった。

 人の多い駅を歩き、改札を抜けた青年は目の前に広がる風景に数秒の間息を止めた。

 四方に高く直線的な建物が聳え、その足元では多くの人々が各々の目的地へ行こうと足を動かしているというのに、誰一人他者とぶつかる気配がない。視線を上に遣ると、多くの高層ビルが突き立てられた空は、醒めるような青一色に染め抜かれていると言うのに、やはり狭く見えた。

 感嘆の声を小さく漏らして、青年は肩にかけていたカバンから情報端末を取り出し、待ち合わせ場所までの道筋が記されている地図を呼び出した。

 都会と言うものは不思議なもので――似たような風景が続いているように、青年には見えていた。かれこれ数分は歩き回っている。メールで親友はすぐ辿り着けるだろうから心配するな、なんて言っていたが、辿り着けていない。地図に従っているのに何故だろう、と首を傾げる青年が見つめる件の地図の上では、目的地までのルートを赤の太線が辿ってくれているのだが、曲がるべき細めの路地も大きな通りと変わらない太さの線で辿ってくれているから、それを見落としていても仕方のないことだった。ちょっとした打ち合わせが入っていると言っていた親友に迷惑をかけるわけにもいかず、青年は都会の迷路を彷徨っていた。時間に少し余裕を持って家を出ていたことが吉と出たようだった。

 しかしさすがに見知らぬ土地で一人歩き続けるのは何の解決にもならず、青年は人に道を尋ねることにした。

 誰か適当に――と、青年は辺りを見回して、街路樹の傍で本を読んでいる男に眼を停めた。誰かを待っていて読書で時間を潰しているのなら、声をかけても大丈夫だろうと思ったのである。

 その男は、スーツの上にコートを羽織り──実に洒落た、いわゆるロマンスグレーの格好をしていた。

 遠慮がちに青年が近付いて行き、男に声をかけるより早く、文庫本へ向けられていた眼が青年を捉えた。

「俺に何か用か」

予想していなかった相手方の先手に、青年の身体は刹那硬直する。ともすれば冷たい印象を他者に与える男の眼に射貫かれ、また男が纏う雰囲気に懐かしいものを感じた青年は、ピシリと固まった。

「……困り事か?」

固まってしまった青年へ続けて声がかけられる。

「――え……、あ、あぁ……その、少し道を訊きたい、のですが、」

「道? 迷子か……それで、急ぐのか?」

「まっ…………いや、急ぎ……と言うほどでもないのですが、友人と待ち合わせをしていて」

此処なんです、と青年が端末を男に見せる。気恥ずかしそうに地図を見せて来る青年の、迷子、と言われた際の表情に男の口角が上がっていたことを、当人は知らないだろう。顔を見られていないのを良いことに、本に栞を挟んだ男はさも親切そうに差し出された地図を覗き込む。

「あぁ――なるほど。あの店か。それならこの通りを真っ直ぐ行って、次の角をあちらへ曲がればいい。店名は――と言って、店舗が入っているビルに店の看板が出ているからすぐわかるだろう」

「そんなルートもあるんですか」

「この地図の通りに行くのは通い慣れた者だろうな。ここで曲がる道は細いから大概は気付かん」

「そう、ですか……いえ、ありがとうございます」

何故か少しだけ寂しそうな眼をして、すぐにそれを覆い隠すように微笑して青年は男に礼を述べた。都会へ行った友人に誘われてここまでやって来たのだろう、と大方の予想は付く。当然、その間に自分の知らない友人が増えていく寂しさも。

「……連れて行ってやろうか?」

だからと言うわけでもないけれど、出来心と言うか悪戯心のようなものが芽生えてしまったのだと、男は誰にともなく胸中で言い訳をする。どうやらこの青年は自分が誰なのか気付いていない――と言うより、知らないらしい。しかし待ち合わせをしている友人の方は、あの店へ導く地図の道順からして都会に慣れ、おそらく自分のことも知っているだろう。何も知らない友人が自分と目の前に一緒に姿を現したら――どんな反応をするのか、見ものではないか、と男は思うのだ。

「え、え……いや、そんな、貴方も待ち合わせをしているのでは……?」

そんな男の思惑を知る由もない青年は、至極魅力的な申し出に、けれど困ったように眉尻を下げる。青年の言葉に、自分が声をかけられた理由を――当然、気にするほどのことではないが――男はそれとなく察した。

「待ち合わせ? 俺は人を待っていたわけではないし……まだ時間はある」

自分の携帯端末で時刻を確認して男が言う。

「ちょっとそこまでデートしようじゃないか、青年?」

同性から見ても見惚れてしまうような色気のある微笑と耳を擽る心地良い声音、余裕を見せる誘い文句をわざわざ繰り出してきた男に、思わず青年は表情を崩してしまう。

「ふ、ふふふ。貴方は、優しい人ですね」

「そうか?」

「ええ。それと――初対面でこんな事を言うのは失礼かもしれませんが、貴方は父に、育ての親ですが、父に似ている気がして……話していて落ち着いてしまいます」

面映ゆそうにそう語る青年は、もうそんな歳でもないだろうに幼げに見えた。

「そうか。ならばこうして出会ったのも何かの縁だろう。父と呼んでも良いぞ。敬語も止めてしまえ」

「えっ、いや、それはさすがに、」

男の、出会って数分とは思えない距離感の提案に青年は小さく仰け反る。

「本人が良いと言っている」

さぁ呼べ、と男が青年を覗き込む。静かな光を湛える男の双眸に捕らえられ、青年は逃げられないことを理解する。声に縫い止められたように、足が動かない。瞳に促されるように、舌が動く。

「お――お父、様」

囁くように、そう、男を呼んだ青年は仄かに頬を染めて恥じらった。

「……最近会えていないから、その、ありがとう。とても嬉しい」

「構わん。何度でも呼べ」

にやりと笑った男は事も無げに言って、ごく自然に青年の腰へ手を回した。そうして、また驚いた様子で男の顔を見た青年へチラと目配せをして、そのまま件の待ち合わせ場所へ向かおうとする。

 二つの背中がその場から遠ざかって行こうとした時、それを引き留める苛立たしげな声が――男の背に向かって――投げ付けられた。

「――ま、た、貴方って人は……! どこへ行くおつもりで?」

皮肉気な物言いに隠し切れない苛立ちを滲ませて背中をチクチクと突き刺す低い声に、男は小さく肩を下げて溜め息を吐いて立ち止まる。一緒に立ち止まることとなった青年は不安気に男を窺った。

「どこへだって良いだろう。休憩時間はまだあるのだし……時間までに俺が帰って来なかったことがあったか?」

「ないですけどね、ふらっと消えられるのは遠慮したいと何度も――というか、私は貴方のマネージャーではないのですが」

「休憩時間……?マネージャー……?」

振り返る際、気付けば隠されるように男の背中で声の主と隔てられていた青年が呟く。聞こえた会話が、目の前で話している二人がどのような関係なのか、男に訊こうとその服をクイと引っ張る。待ち合わせはしていないと言っていたけれど――もしも今話している人と先約があるのなら、自分は一人で大丈夫だと言わなければ。そう思い、青年が男に声をかけようとした時、話していた相手がひょいと男の背後を覗き込んだ。

「大体、背中に誰か隠しましたよね……一体誰を……あ?」

「あ、」

そして、そこで二人の眼が合う。男とのやり取りで機嫌が傾いたままのその視線は容易く青年を怯ませた。おそらく、その時の服装──濃い色を基調とした、ネクタイの無いスーツ姿──も、相俟っての反応だった。

 ひくんと首を竦ませた青年を見て、自身の眼の鋭さに一応の自覚はあるらしい彼――男を呼び留めた声の主――は、少し気まずそうに青年を背後に隠している男と向き直る。

「……それは誰です。エキストラの一人をナンパしたんですか」

「人聞きの悪いことを言うな。これは俺の子だ。つい先ほど再会した」

「えっ」

「ハ?」

「冗談だ」

揃って間の抜けた声――一方は明らかに不穏な声音だったが――を挙げた二人に男は肩を揺らす。もう隠す必要も無かろうと青年を抱き寄せれば、男を呼びに来たはずの彼の眼は目的であるはずの男よりも青年の方へ熱心に向けられる。それは不快感や敵意などから来るものではなくて――これはまた、面白いことになりそうだ、と男は一人口角を上げる。自分を呼び止めたこの共演者は、どうやらこの迷子に一目惚れでもしたらしい。

「――あの、先に声をかけたのは私の方で、この人は何も、」

「お前、」

青年が男を庇う言葉を言い終えることは、別の声に遮られて叶わなかった。

「俺と、付き合え」

瞬間、成り行きをそれとなく見守っていた男が盛大に噴き出した。げほごほと咳き込んでいる男の傍らで互いを注視し合っている二人は、それに気を留める余裕などないらしい。

 姿を現した時とは全く違う雰囲気で宣う相手に、青年の頭上には疑問符ばかりが浮かぶ。

「え、は、いや……え? な、なにを……? ひと違いでは……?」

「人違いなどしていない。お前に、俺と付き合えと言っている」

「あの、え、あ……だから、私と……なに……? いや、私はこれから待ち合わせ場所に……だから、付き合えとか、突然言われても予定が……え?あ、その、つまり……?」

今青年の頭の中では唐突にぶつけられた言葉がぐるぐる回っているのだろうなぁと他人事のように男は思う。急展開に頭が追い付いていならしいことが、口から溢れるまとまりのない音から窺える。対する、この事態を引き起こした張本人も、それなりに狼狽しているらしく、端正な顔の、涼やかな目元に朱を滲ませていた。

 双方の性格を把握しているわけではないけれど――見てくれ的には、まぁお似合いなんじゃないか、と勝手に考察する。青年は出会ったばかりだが、温和そうな物腰であったし、真面目と言えるこの共演者と上手くやれるのではないか、と。しかしこの青年、自分たちが誰なのか、やはり知らないらしい。そのことに、共演者は気付いていない――知らない――ようだが、それもまた、一興となるだろう。

 そんな風に二人のことを好き勝手考えていた男だが、次いで件の真面目な共演者の口から吐かれた言葉に、思わず目を見開くこととなる。

「――っ、つまり、私の、伴侶になれと言っている……!」

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