彼の日常は簡単に崩れ去った。
事の発端は今朝。期末テスト間近のため徹夜で参考書や教科書、プリント等とにらめっこをしていた彼が眠気を紛らわすためにつけていたラジオから流れてきた言葉だった。
「本日を持ちまして世界は終わります」
最初は、もちろん、どこかのラジオ局の悪戯かと思った。
しかし、そうではない、と外の喧騒で気付いた。
放送の後。しばらくして、外にひとの気配が溢れ出す。
飛び交う怒号や笑い声。
どうやら先程のラジオの言葉は本当らしい。
これは丁度いいと彼は手にしていたシャープペンシルを机に放り、着替えて、音楽プレイヤーとほんの少しの貴重品を引っ手繰って外に出た。
ヘッドフォンを耳にして、音楽プレイヤーの電源をオンに。
『生き残りたいでしょう?』
途端に、曲ではない声を吐き出した。頭上を黒い鳥たちの群れが通り過ぎていく。
周りの祭りのようなどんちゃん騒ぎも彼には聞こえなかった。
所詮この世界は小さな箱庭に過ぎないのだ。
“世界”と言うラベルを張られている箱に過ぎない。
時計の針も事象の軸も動くことは無い。
曲名もアーティスト名も不明を表示したままの音楽プレイヤーは相変わらず謎の声を吐き出し続ける。
『あの丘を越えましたら、20秒でその意味を嫌でも知ることになるでしょう。疑わないで下さいまし。耳を澄まして20秒先へ』
否。口調こそ違うが、声は自分の声に酷く似ていた。
大通りの交差点に出ると、普段ひとびとが重んじているような秩序なんてものは無くなっていた。
信号は赤にもかかわらず直進してくる大型車。それに轢かれないように対岸へ渡ろうとする歩行者。
老いも若きも性別も関係なくなっていて、様々な音が世界を埋めていく。
さぁさ、もっといっぱい舞ってください。
そこは元から意味など持たない世界なのです。
ただ、そう、あの世界に意味があるとしたら、“試”でしょうか。
私は気紛れで彼を世界の端へと案内する。
彼は疑いを持ちながらも私の言葉に従い道を行ってくれる。
それは、つまり。かつて世界が水に飲まれたときに唯一生き残ったノアのように、おそらく彼は“あの世界の人間”として唯一あの世界を外から見ることになるのでしょう。
そのとき彼は、はたしてどんな表情をするのでしょうか。
あぁ、私はどの世界が終わろうと関係ございませんよ。
『あと12分ですよ』
ヘッドフォンから依然として声がする。
このまま世界が本当に終わってしまえばテストも宿題も面倒くさい人間関係もなくなって、彼は万々歳であった。
が、道を行きながらヘッドフォンの隙間から耳に入ってくる家族や恋人、友人を呼ぶ声に涙目になる。
なぜじきに終わってしまうのに他人をそんなに大切そうに呼ぶのか。
10秒を掠めた。誰がどう考えたって終わりは避けられないようだった。
人類は最後の最後に声を張り上げる。
『お気になさらず。さぁ、駆け抜けて。残り1分でございます』
自分の息遣いでその声ももう聞こえないくらいに、彼は走っていた。
もうそろそろ着きますでしょうか。
変わらず私一人だけが存在する世界で私は幼子のように手を打つ。
「耳を澄まして、ちょっと聞いてくださいまし」
「歌って踊って狂って、どうぞ、世界が終わるその瞬間まで」
息も絶え絶えに彼が辿り着いた丘の上。
そこで彼は呆然と目を丸くする。
そこに、否。ここに空は無かった。
青に浮かぶ白。よくよく見ると板の繋ぎ目が見える。
その壁の向こう。手を打つ白衣の、科学者であろう男たちが、素晴らしい、と唇を動かした。
声は疑うなと言った。けれど、そんなのは無理だった。
やはり、彼は思った通りの顔をしました。
つまり、つまりそういうことなのです。
世界なんてものは案外狭いモノなのです。
全てを疑い全てを信じてくださいまし。それが世界です。
さぁさ舞って。さぁさ笑って。叫んで喚いて喉を潰して涙を涸らして酔い潰れて、そうして再び目を開けた時に。
あなたはこの世界をもう一度、理解するのでしょう。
ランデブーなどと俗世的なことは言いません。私があなたの手を引いて差し上げましょう。
ですが、しかし。
「もう不必要だ」
投げ込まれた黒い物体を追って振り返った彼は、丘の上から自分の住んでいた街(世界)を見る。
物体が街に落ちていく。その直後。街から真っ赤な炎が上がる。
まるで、実験施設のような、ミニチュアのジオラマのような風景だった。
現実感なんてものは摩耗してしまっていて、彼は炎に飲まれていく街だったモノを呆然と見つめる。
「(あぁ、今までボクは、こんな小さな世界でずっと生きてきたんだ)」
その彼の耳元で。ヘッドフォンの、その向こう側から、声がした。
「ごめんなさい」
BGM:ヘッドフォンアクター×マトリョシカ(nm17347372)
張り付けられた白の笑みに問われる。
セオリー通りってボクらに似合うかのナ?
その目は期待に光り、その声は熱を孕んで耳を穿つ。
「さて。私には分かりかねますが、」
あなたのお好きなように、と黒が答えを返せば嬉しげに眼を細められる。
その顔はまるで捕食する獣のような優雅さを持ち合わせていて、背中が少し、粟立った。
じりじりと身体を這い上がる熱に思考回路が落ちていく。
熱に浮かされた思考は曖昧な回路を結ぶ。
けれど。そこで簡単に堕ちてしまうのは、面白くない。
極力、表情を変えないように装う。
しかし白にはそんなこと見通されているようで、微笑まれる。
あぁ、それならば。「どうぞ、」こちらから、仕掛けてやる。
堕ちる直前に、黒が僅かに口角を上げる。
鮮やかな、舌が這った。
白いシーツの海に縺れ合うように、溺れ沈んでいく。
脳裏に浮かび耳に響くのは、はじめて白い彼と過ごした、あの夜の彼の聲。
なんて倒錯的なのだろう、と彼は内心でわらう。
意味など無い。意義など無い。
ただ、ひとりぼっちが二人、寄り添って、手を取り合って踊るだけ。
踊りながら、妖艶に微笑む黒い彼は、その顔に僅かな仄暗さ――微小の背徳感を浮かべる。
鏡写しのような姿形の相手に煽られる。
その色香に、抗うことなど出来ない。
否。皆、鏡写しのようだと、自分たちを表現するが、違う。
相手は、自分なんかよりも数倍、数百倍の魅力を持っている。
そしてそれを知っているのは自分だけでいい。
血が繋がっているだから禁忌だとか同性だから禁忌だとか、そんなどこぞの宗教が決めた常識なんて関係ない。
好きな相手と結ばれる。それが幸せなことなのだと白は思う。
淡く甘く、“ボク”という毒で追い詰めていく。
筋書き通りの時間を過ごし、筋書き通りの結末に、白は満足そうに無邪気に笑う。
その屈託のない笑顔には背徳感などなく、幸福感に満ちていた。
欲しいと願って手に入れた黒は、紛れもなく自分の兄で、同性であった。
しかし、それでも、弟は個人として兄を好いていた。
「(きっと。また同じように生まれ変わっても。ボクは、)」
互いの熱で互いを隔てる境界線が解けていく。
その先にあるのは、叶わない願いだと、知っていても。
白いシーツの海で手に手を取り踊る兄弟は、それでも幸せだった。
世間一般で言う常識を乗り越えた彼らの関係は甘ったるい駄菓子のようなもので、普通と分類される人々からみたら間違いなく、腐り堕ちた、と嗤われるのだろう。
けれど。それでも。兄弟は幸せなのだ。
「ボクたちさ、もう溶け合って一つになっちゃえば良いのにネ」
「それは、とても素晴らしい」
投げ出された四肢に口付けて、微笑む。
一人では意味を成せない不完全な彼らは、二人でないと立てないから。
「では、一つになってしまいますか?」
私でよろしいのなら、と目を細める兄に、弟は、ぽかん、と呆けた顔を見せる。
しかし、それも一瞬。
「うん。キミじゃなきゃダメ」
そうして最後に二人が浮かべた笑みは何に対しての笑みか。
答えは、決まっている。
BGM:チェックエンチェイス(カラスヤサボウ)
「…」
「あれ」
おかしいな。
ここにかけてあったハシゴが、外されている。
「ごめんね」
君に、見せたい景色がこの先にあったのに。
「いえ、」
ボクらは帰路につく。
「今、キミのお葬式をしてる」
『そんなわけあるはずないでしょう』
『言いたいことなど無いのでしょう?』
黒電話を片手に棺の中のキミを見る。
キミは棺の中で白い花に埋もれて、ボクを見る。
キミとボクの多数決に終わりはない。
過半数が無いから。
いつの日か。過半数を取ったらどうなるんだろう。
振り返ってはいけない。
昨日のボクが、今日のボクを狙っている。
終わりの見えない螺旋のように、それは続く。
「すきだよ」
悩んだ果て。その挙句のストレート。
「はぁ、」
見送られ続けて今日もノースリー。
彼はどうやらボクの“すき”の意味を取り違えているらしい。
今日もボクらは多数決を執り行う。
けれど。今日も例に漏れず、満場一致、同数、票無し。
背後の気配は、相変わらず殺気立っている。
今日もボクは螺旋から抜け出せない。
いつか伝えなくちゃ、きっと彼は永遠に気付いてくれない。
だけど。ボクには伝える勇気が無い。
年月を一緒に重ねれば重ねる程。伝えるタイミングが分からなくなっていく。
そして、今日も伝えられない。
だからボクは、昨日のボクに狙われる。
BGM:tower of sunz(すんzりヴぇrP)