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 その日は雨が降っていた。昼から雨が降ってきていた。朝の天気予報を、気紛れで信じて良かったと思う。とっぷりと日の暮れた、夜の街を男は家に向かって歩く。家で待っている家族はいないが、それはそれで気楽で良い。自分の生活リズムで生活できて楽だ。同居人も、居なくていい。ひとりでも生きていける。男はそういう人間だった。それなのに――自宅まであと数百メートルというところで、出会ってしまった。

 薄暗い路地にぽつねんと佇む街灯の下に、小さな影が見えた。普段ならばそのまま通り過ぎたのだろうが、前を通り過ぎる際、視界に入ったくすんだ灰色に男は足を止めた。街灯の冷めた光を遮る傘の上へ、バタバタと雨粒が降り注ぐ。小さな影の正体は子供だった。色素の薄い髪を汚れでくすませた、所々擦り切れた簡素な衣服を纏う子供だった。いわゆる体育座りをしていた、その薄汚れた子供は、目の前で立ち止まった男に気付いたらしく、顔を上げる。茫洋と、水分で色濃くなったアスファルトの地面を見詰めていた双眸が男を見上げた。無感動な韓紅だった。男はその眼に、何故か苛立ちを覚えた。

「 ……貴様、行くアテはあるのか」

年端もいかない子供相手に、視線を合わせることもせず、普段通りの口調で問う。眼下で頭が横に振れた。訊かずともわかっていたことだった。濡れそぼった髪の先から滴り落ちていく雫が肌に筋を描いていく。

「光栄に思え。俺がお前を拾ってやる」

男がそう吐くと、子供は半ば閉じかけていた目を丸くした。組まれていた腕が緩まる。子供が返事をするのを待たず、男は鼻を鳴らして再び歩き出した。付いてくる足音が無いと気付いた三歩目で振り返ると、相変わらず子供が大きな目で男の方を見ていた。それから、慌てたように立ち上がって走り寄ってきた。その時初めて男は子供が裸足だと気付いた。隣に並んで歩き始めた子供の頭を横目で見下ろして息を吐く。こんなものを拾ってどうするのかと。車道側の手へ鞄を持ち替え、反対側の手に持った傘を傾ける。先程まで、辛うじて濡れていなかった肩が濡れていった。

 家に着くと男は上着を脱ぎ、鞄をソファに抛り、玄関で待機させていた子供を抱え上げて風呂場へ向かった。既に浴槽には湯が張られている。ボロ布と言っても差し支えない服を剥ぎ取って浴室へ放り込む。細かな擦過傷や小さな傷は見られたが、大きな傷は見られなかった。シャツの袖とスラックスの裾を捲り、シャワーを手に取るとザブザブ子供を洗っていく。湯や石鹸が傷に沁みるのだろう ――小さく漏らされる声も無視して洗っていく。一通り洗って、湯船の中に放り込む。その間に濡れた廊下を掃除しようと考えたのだった。屋内事故死のトップ、と何時かの夕方のニュースで聞いた言葉が脳裏に過ぎったが、振り払う。どうせそこまで酷い濡れ方ではない。そうして数分後、タオルを洗濯機に突っ込んで浴室へ戻ってきた男が見たものは、浴槽の縁に凭れ掛かって睡魔に身を委ねる子供の姿だった。なんとか浴槽から脱出させ、身体を拭ってやっていると ――そこで限界が来たらしく、フッと崩れ落ちるように男の腕の中に収まった。そのままバスタオルに包んで抱き上げると、その子供は夢見心地にふにゃりと笑った。ほんの数十分前、自分を無感動に見上げたものと同じ色だとは思えない、やわらかな紅色に、目を奪われた。すぐに閉じられた目蓋と、聞こえてくる規則的な呼吸音に、今度こそ止めていた呼吸を再開する。明日が休みで良かったと思った。寝室のベッドの上にバスタオルごと乗せ、上をかけてやり、今度こそ風呂で息を吐く。ソファの背凭れに投げ掛けた上着はそのままで、鞄だけ退かして、その日男はソファで眠った。

 翌朝目が覚めると、瑞々しい韓紅に覗き込まれていた。男が昨夜のことを思い出すより早く、子供は寝室へ繋がる扉の影まで逃げていた。バスタオルを羽織って、扉の影から男の様子を窺う姿は、野生の動物を思わせた。拾ってやったと言うのに何故警戒心を剥き出しにするのかと男は内心首を傾げる。これは躾けねばならないのだろうか。だが、その前に。

 子供の腹が鳴いた。それを聞いた男はソファの上で行儀悪くも胡坐をかき、ニィと口角を上げる。

「何も取って食ったりなどせんぞ …………それよりも、お前。腹が減っていないか」

人を困らせて楽しいか

 

(将仁 どっから来たのかどんな人物なのかまったくわからないのに拾ってしまったのは)

 子供が着ていた服は脱がせたその直後に捨てた。靴は最初から履いていなかった。家にある衣服は成人男性のものばかり。かと言ってずっとバスタオルのままで置いておくわけにもいかない。軽めの朝食を揃って摂った後、男は結局自分の――過去に使っていた――室内着を着せることにした。上下揃って丈が余っているというレベルではなかったが、仕方ない。いずれこの同居人用の服も買いに行かねば、と考えて、子供を傍に置いておくつもりの自分に気付いて苦笑する。視界の端に映る子供は長い丈の袖を捲りながら腕を動かしていた。下を履いていなくとも問題ないような、と子供の姿を見てふと思った。

「裾を踏んでこけるなよ」

ズボンの紐を締めて結ぼうとしている子供に声をかける。子供は男の方へ顔を向けて、首を縦に振った。ふわふわ揺れる髪は洗われ、今では綺麗なやさしい白練色になっていた。そして、程なくしてズルズルと折っても上がりきらなかった裾が引き摺られる音が聞こえてきた。一度逸らした視線を戻すと、子供がソファで雑誌を捲っている男の側へ来ようとしている。距離もさほど無い。男は再び雑誌に眼を落とした。その数秒後、どべちっと子供が盛大にこけた、鈍い音がした。

 大丈夫かと、思わず丸くなった碧眼が訊く。のっそり起き上がった子供はむくれたように見える表情を浮かべていた。先程のように縦に振られる頭の、額の場所は仄かに赤くなっている。

 携帯電話を手に取った男は、服飾関係の職に就いている知り合いに電話を掛けた。電話口で子供の身体の様子を教え、下着や室内用や、外出用の衣類と靴を仕入れて来てくれと伝える。何処の誰かもわからない子供を拾ったと言った時、電話の向こう側で、驚いたような呆れたような、頓狂な声が聞こえた。表情も、おそらく、そんな顔をしているのだろうと思った。背後の騒めきから、仕事場で電話を受けているらしい知り合いは、それ以上何も言わず、待っていろとだけ残して通話を切った。そして数時間後、大きな紙袋を両腕に引っ掛けた知り合いが男の自宅に訪れる。

 玄関の扉を開けた男の足元に付いて来た子供の姿を見た知り合いは眼を剝いた。どうにも邪魔なら脱いで良いと言った、男の言葉のままにズボンを脱いだ、トレーナー一枚の姿だった。何をしているのかと怒鳴られ、小気味の良い音を立てて頭部を叩かれた男は、唐突な暴力に目を白黒させた。ガサガサ紙袋を揺らしながら、男の脇を通り、子供の手を曳いて部屋の中に上がり込んでいく。そちらこそと、声を上げる前に知り合いの背中は遠ざかって行った。

 テキパキと服を着せていく知り合いと着せられていく子供を眺める。時々丈の足りないものや余るものがあったが、殆どの服は子供に合ったサイズだった。デザインの方は落ち着いたものが多かった。靴も、少し余裕があるが、問題は無い。

 二、三時間程でファッションショーは終わった。合わなかった服を無造作に紙袋へ突っ込んで、知り合いは立ち上がる。

「気紛れか何か知らんが、拾った以上はお前が責任を持てよ。犬猫なんかのペットとは違うんだぞ」

そして、ソファで珈琲を啜っていた男に近付き、耳打ちをした。返されたのは、一瞥と微かな笑いだった。

「――っ、あ、の。今日、は、服、ありがとう……ござい、ました」

玄関まで来ると、早速身の丈に合った室内着を纏った子供が、男の後ろに隠れながら、知り合いを見上げて言った。慣れていなさそうな言葉の後に小さく頭が下げられる。眼下の小さな姿に、思わず目の前の男に詰め寄った。

「責任を、持てよ。拾ったと言っていたが、またコイツが拾われるようなことには、なるなよ。貴様がコレを手放すなら、このおれが貰い受けてやる。だから、その時は連絡を寄越せ」

「貴様如きに言われずとも、手放す気など無いわ。俺は己の選択を無かったことになどしない」

長く伸ばした赤髪を風に踊らせながら男の知り合いは帰って行った。

 子供は既にリビングへ戻っていた。まだ出されたままでいた衣服を片そうと拾い集めていた。その時、気付かずに踏んでいた衣類の裾が床を滑った。男は慌てて手を伸ばす。その日二度目の、鈍い音は聞こえなかった。

 

言った傍から何故転ける

 

(将仁+妖 まさかとは思ったけど馬子にも衣裳とか灰かぶりなんてレベルじゃなかった)

言った傍から何故転ける

 白いシャツが赤く染まっていく。腕の中の重みが、時間と共に軽くなっていく気がする。駆け上がる階段の一段一段がもどかしい。迎えは呼ばれているはずだから――せめて建物の出入り口まで行って、すぐにこの腕の中の子供を、迎えに来た者へ引き渡せるようにせねば。そんなことを考えながら、男は血塗れになった子供を抱えて、長い階段を駆け上がっていた。

 子供一人を家に残すことが不安で、男は社交の場に子供を連れて行った。家でも静かな子供は、やはり外でも静かに、行儀よくしていた。遠い親戚の子供だとその場凌ぎの嘘を吐いても柔軟に対応し、余計なことは言わずにペコリと頭を下げるだけの姿に、有り難いと思いつつ、年相応ではないよなと違和感を覚える。忙しなく歩き回り、重役や他企業の役員たちと言葉を交わして回る男の後を、子供は隠しきれない緊張の色が滲む顔でついて回る。男はトテトテとついてくる小さな足音に、少なからずの安らぎを得ていた。いつもは息の詰まる社交場が、少しだけ、楽しく感じられた。

 それが――そうだったのが、ほんの数時間前。今まで独りで来ていたものだから、古臭い悪趣味を持っている人間も居ることを、男はすっかり失念していた。少し目を離した隙に連れ去られるなど。参加者の一人――若くして成功を収めた青年――の協力を得て、寸でのところで取り返すことができたから良かったが。

「……っ、ぁ、すま――すま、ない」

「喋るな。傷に障る」

歯噛みする男の焦燥を感じ取ったのだろう。子供が口を開いた。拾ってからしばらく経ち、敬語を使わずにモノを言う程度には慣れてきたが、それでも今回は殊勝に謝ろうとしている。男の目の届く範囲から出たことで、叱られると思っているようだった。紛うことなく被害者であるのに人が好い。心に刻まれた傷は、時が経てば消え、或いは薄れるだろう。だが身体に刻まれた傷はそのまま残り、跡が残るだろうと、現在の様子を見て思った。

 その中年男性は大企業の重役だった。そして、もちろん公には知られていないが、幼児愛好趣味者だった。参加者の多くが大人で、偶にその小さな家族が居ても父母のどちらかが目を離さない。一昔前ならばここまで餓えることもなかった。しかし今宵は普段とは違った。必ず大人の目が離れそうな子供が居た。虎視眈々と狙いを定めた男性は、子供の傍に居た男が他会社の役員に呼ばれ、子供から離れた、その瞬間を見逃さなかった。側近に命じて、大きな部屋の隅で静かに佇んでいた子供を攫わせた。そうして、大きな建物の、地下にある部屋で、下拵えをしようとした。久々の獲物に男性はひどく興奮していた。男ひとり程度、黙らせておくことは容易いと思った。そもそもあの男がこの子供を大切にしているとは、思えなかった。それが誤算だった。あと少し。いいところで、というタイミングで、部屋の扉が蹴破られた。

 突然の訪客に驚きひっくり返った――男が言うところのクズ――中年男性を手際よく拘束した青年は、やはり手際よく迎えを呼んだ。表沙汰にしたくない件であるということを汲んだらしく、知り合いが経営している診療所へ連絡してくれたようだった。若くして立ち上げた会社を、大きく豊かに育てた実力者は通話を切り、子供を抱き上げた男に早く行けとぶっきらぼうながら言葉を投げる。サラサラと綺麗な金色の長髪が揺れた。

 建物の出入り口には一台のバンが停められていた。その傍にはガラの悪そうな青年が立っている。

「話は聞いてるぜ! さっさと乗れ!」

子供を抱きかかえた男の姿を見止め、その青年は声を上げる。後部座席の扉を開き、患者とその付き添いを車に乗せ、自らもまた運転席に乗り込む。急な呼び出しだったせいか、車内に診療所の人間は運転手以外、ひとはいなかった。

「悪ぃな。急だったもんだからよ。まぁ時間はそんなかけねぇし、受け入れ態勢も、兄者たちが整えてくれてるはずだ」

だから、大丈夫だと、真剣な声で運転手が言う。

 車を飛ばしたおかげで、青年の言った通り診療所までさほど時間はかからなかった。

 

自分の心配だけしてろ

 

(将仁+三男(+殉) このご時世にそんな前時代的な事件に巻き込まれるなんて思っても)

自分の心配だけしてろ

 挨拶はしておいた方がいい会社の人間たちに手招かれて男は溜め息を吐いた。今までの相手と違い、短い会話と会釈だけで離れられないあの大人のグループに子供を連れて行くのは、酷だろうと思った。連れて行けば不躾な詮索が好きな社会人に根掘り葉掘り聞かれることは間違いない。出会いからして何処から来た何者なのか訊くことを憚られるというのに。溜め息をひとつ吐いて男は膝を折る。子供と目線を合わせて、動かずに待っているよう指示を出す。いつものようにコクンと縦に振られた頭を撫でて、男は立ち上がり、大人たちの輪に歩いていった。

 数分で戻ってきた男は眼を剝く。動かずに待っているよう言いつけた子供が、姿を消していた。随分打ち解け、慣れてきた証である生意気さを見せるようにはなったが、それでも素直従順と言える子供が、言いつけを守っていなかった。或いは、と考えながら周囲へ視線を飛ばす男に気付いたのは、ひとりの青年だった。その業界では、誰もが一度は名前を耳にしたことのある青年だった。白が眩しい礼装一式を纏った青年は、男女関わらず人の眼を奪う長い金髪を靡かせながら、どうかしたのかと男に訊いた。慣れ合いを好まないと聞いていた青年からの声掛けに、多少は驚いた男も、一人では埒が明かないだろうと事情を話す。同時に、この青年は信用するに足ると、直感で思った。

 あちらこちらへ回り、それとなく聞いてみれば、ようやく或る企業の重役――その側近が何かを抱えて部屋を出て行く姿を見たという証言が得られた。決して多くはない足取りの痕跡を拾い集めながら、ふたりは建物の地下に辿り着く。古い建物であったから、地下があること自体にはそれほど驚かなかった。しばらく使われていなかったようだが、そこでは確かに、日の下には曝せないような趣向の遊びが、嘗て展開されていたのだと、開け放たれていく部屋の内装や間取りが語っていた。

 ひとつ開け、次を開け、を繰り返し、最後の扉の前にふたりは立った。スイと片足を持ち上げ、力任せに目の前の扉を蹴り飛ばす。青味のかかった廊下の蛍光灯が薄暗い部屋に射し込んだ。中に居た人間は突然の騒音と乱入者に驚愕している。即座に反応した男性の側近二人を、揃って難なく伸すと、時代錯誤も甚だしい鉤爪付きの手袋をはめた男性が、子供に覆い被さりながら、唖然と背後を振り返っていた。鉄錆の臭いを漂わせる、赤黒い液体が、目に入った。

「――誰の、許可を得て、ソレに、触れている?」

綺麗に口角が上がり弧を描く。歪な笑みは、餓えた獣を思わせた。

「答えろ、クズ」

だが、その男性の答え――声を聞く気など、男には毛頭なかった。短い悲鳴を上げた男性の脇腹を、器用に豪快に蹴り飛ばす。飢餓からほど遠い体形が宙に浮き、そしてゴロゴロ転がり、硬い壁と衝突して止まった。滅多に体感しない衝撃に、意識を失ったらしく、起き上がってはこなかった。青年が壁に掛けられていた縄を手に取り、男性の手足を拘束して放置する。

 服を開かれ、痛々しい傷が這う細身を曝している子供は、息を殺して身を強張らせていた。その近くには小さな注射器が落ちていて――幸か不幸か、傷の痛みを感じていないようだった。手を縛っていた縄を解いてやると、自由になった手が、震えながら男に触れた。赤い幕に閉ざされた世界で、少し前まで見ていた世界を確かめるように、輪郭を辿っていく。

「……知り合いの所に連絡した。すぐに迎えを寄越すと言っていた」

携帯端末を仕舞いながら、青年が口を開く。

「礼は、」

「構わん。早く行け。おれはこの三流を処理する」

刺激を与えないよう、慎重に子供を抱き上げ立ち上がった男を、青年は無愛想な顔で見ていた。ぶっきらぼうな言い方だったが、男の不利益になることは決してしないと、纏う空気が物語る。そして、男が部屋を出る前に、もう一言、付け加えた。

「もし、もしそのつもりがあるのならば……その子供の経過だな。それを知らせろ。それで良い」

 

うちの子に何か用ですか

 

(将仁+殉 ひとつ失いひとつ得てが常だと言っても失わないに越したことはなかったのに)

うちの子に何か用ですか

 迅速に、腕の良い医者の元へ運び込めたおかげで一命は取り留めた。だが男が危惧した通り、身体の、特に顔の傷は残ることとなった。子供を診た医者は、まるで自分の子供のことのように憤り、そして悲しんだ。

 青年に、報告がてらそのことを知らせると、何故か見舞いに来た。本人曰く近くまで来たついで、らしいが――タイミングが良すぎることに加えて言うならば、この近くに花屋は無かったはずである。子供に声をかけることはせず、その姿を眺め、病室の外で男と幾つか言葉を交わして帰って行った。その次には、何故か服飾関係の職に就いている、あの知り合いが顔を出した。知らせた記憶は無いのに何故、と疑問を口にする前に、ツルリと病室へ滑り込まれた。あっと言う間に遠ざかって行った背中に既視感を覚える。そして知り合いの、悲嘆の声が聞こえてきた。

「おま、お前――なんてこと……! 顔に傷など!しかもこんな大きな……おい貴様! 何故貴様が居ながらこうなった!」

かと思えば、ツカツカ高いヒールを鳴らして詰め寄って来て――再び既視感を覚えると共に、忙しいヤツだ、と。

「聞いているのか!よりにもよって顔に傷を負わせるなど言語道断だぞ! クソ、また服を合わせてやらねばならん……!」

「身長が変わったわけでもあるまいし、服なぞ変えずとも良かろう」

「なにを言っている。ファッションを舐めるなよ。キズモノになったとは言え、まだイケる。それを見せてやろう」

「キズの有無で見るな。どんな服を着ていようがアレはアレだ。それは変わらん」

何時かと違い、数分の間は額を突き合わせていた彼らだが、ふと男の方が纏う空気を落ち着けた。ふたりは病室の外で言い合っていたわけだが、言い合いを始め直後に病室へ入って行った人影が、何故子供のベッドで楽しげに話しているのか、と。

「……そういえば、あの小僧は何だ」

包帯だらけになった子供と話している黒髪の青年を指さして、不満そうな表情を浮かべて男が言う。

「あぁ……いや、ここへ来る途中に出くわした知り合いだ。そんな急いで何処行くんだと呼び止めるものだから、つい口を滑らせてな……知人の子供が怪我をして病院に担ぎ込まれたから見舞いへ行くところだ、と」

「言ったのか」

「言った」

目の前の赤髪が縦に揺れるのを見て、男は大きな溜め息を吐いた。片手で目元を多い、その指先は、蟀谷に当たっていた。

 病室の中へ戻ると、一人の青年が子供にその整った顔を指先で辿られていて――デレデレと目尻を下げていた。子供の方も何やら楽しげで、警戒を解かれるまで数日かかった男としては、面白くない。足音で二人に気付いたらしい、子供と青年が、聞こえた足音の方へ顔を向ける。包帯で覆われていても朗らかだとわかる子供の様子に、毒気抜かれる。

「へぇ?あんたがこの子の保護者? 驚くほど似てないな」

「ころすぞ」

青年の第一声に殺意を芽生えさせた男だった。この青年は今売り出し中の歌手らしい。新進気鋭の新人で、雑誌なんかのインタビューにも、答えているという。もちろん、男には関わりのないことだった。

「小僧、さっさと帰れ。キャンキャン騒がれては治るものも治らん」

「……お前、そういえば今日は妹と会う約束しているのではなかったのか?」

「あ――ぅぐ…………ま、まぁいい。まだチャンスは……うん。じゃあ、また来るからな。元気でな」

知り合いの援護射撃もあり、青年は子供の頭をクシャリと撫でてから病室を出て行った。青年に向かってヒラヒラ子供が手を振っていたことには、目を瞑った。窓から射し込む陽光に輝く白いシーツが眩しい。柔らかな光に包まれる子供の表情は、以前よりも柔和になっているように感じられた。酷い事件に巻き込まれたというのに――強い子供だと、思った。

 

身内贔屓

 

(将仁+妖+殉+義 気付いたら知り合いが増えているような気がするしまだ増える気がしてならない)

身内贔屓

「こんにちは。今月もよろしくお願いします。ね?」

玄関の扉を開けると、そこにはやはりあの診療所の医者が立っていた。

 案の定、幾つかの傷は跡として残ったものの、数週間で子供は無事に診療所を出ることが出来た。だが大きな傷――特に顔に残ったもの――は、念のためにしばらく経過を見せて欲しいと言いつけられ、月に一度、診療所へ診せに行くことになっていた。だが男には仕事があるし、何より、既に血も止まっていることだし、消毒や保護だけで良いのではないかと思った。そしてそれを口にしてみると、延々と子供の体力の無さや繊細さを述べられる事態となり、必ず診せに来いと言い含められ――そうになったので、男はあろうことか、それほど言うのならばそちらが診に来い、と言い放った。売り言葉に買い言葉、とは少し違うが、似たようなものだった。良いでしょう、と笑みを浮かべた医者は男に住所を訊ねた。

 通常の経過観察と違い、医者が男の家に訪れるのは夕方から夜の、診療所の営業が終了した時分だった。同時に、男の仕事が終わった後の時間にも、訪問する時刻を合わせてくれた。何故そこまでするのかと男が訊けば、まだ年若く見えるその医者は一瞬考えるような素振りを見せて、何故だろうと困ったような笑顔を浮かべた。

 診たいなら診に来いと言った手前、追い返すことも出来ず――何より素人なのだから不用意に子供の傷に触れられない――男は、渋そうな表情を浮かべながらも医者を家に上げる。

「今回のお土産はロールケーキです。後で食べてくださいね」

テーブルの上へ白い箱を置き、ソファに座って待っていた子供へ笑いかける姿は、医者と言うよりも保育士か何かに見えた。何より、毎月毎月持ってくる菓子やら茶やらの土産は何なのかと。そのせいかどうかは判らないが、子供も医者に懐いているようにも、思える。自分の考え過ぎか否か――密かに頭を抱える男だった。

 確かに医者であると、そう改めて実感させる、滑らかな手の動きで、子供の目元を覆っていた包帯が解かれていく。スルスル伸ばされた包帯の内側は、仄かに消毒液と滲む血の色で色付いていた。抉られた肌は引き攣れ、無傷の場所よりも薄い肌色になっている。眼球は無事の様だが、その眼が世界を映すことは、二度と無いという。

「……痛みは?」

肩にかけていた医療用バッグを、ソファ前のローテーブルの上に置いた医者が訊く。子供は静かに首を横に振った。洗剤で洗われた手の、指先が、そっと目元を押し下げて中に収まる眼球を露わにする。潤んだ紅眼は以前と変わらないように見えた。覗き込む医者の青が紅の中に落ちて溶ける。

 清潔なガーゼに変え、新しい包帯を巻きなおす。経過は順調らしい。ごみや広げた薬をバッグに突っ込んで医者は立ち上がる。診察代は受け取らないと宣う医者に、男は二千円程を押し付けて玄関へ追いやった。

「では、来月また。連絡をしてくれ」

「まだ来るつもりか貴様……執心でもしているのか」

扉の前に立った医者が、子供に対しては使わない、敬語を取った、おそらく、本来の口調で言う。そんな相手に、男は呆れたように悪態のようなものを吐いた。

「それは、まあ……もう少し?」

患者の家に通うことなど面倒極まりないだろうに、どこか嬉しそうに首を傾げた医者は、更に続ける。

「もし良ければ、此方が預かって、大事無しと判断できるまで世話する、ということも――」

「さっさと帰れ」

そうして最後まで和やかな表情をしていた医者にお帰り願った。土産のロールケーキは、確かに美味だった。

私の半分はお節介でできています。

 

(将仁+トキ 気にかけてくれているのは重々承知だけども)

私の半分はお節介でできています。

 その日も雨が降っていた。昼間は晴天で、天気予報も一日通して晴れると言っていた。けれど昼を過ぎ、太陽が傾き始めた頃から、青い空に灰色のかかった雲が広がり始めた。日が落ち仕事が片付き帰宅する時分には、傘無しで帰ることが憚られる程度にまでなっていた。夜の帳が降りた街を彩る人工の光に、空から落ちる雫が煌めき落ちていく。同じ建物に入っているコンビニで傘を買って行くか、と鞄を片手にロビーへ下りていく。

 人の出入りが少なくはない一階へ下りると、行き交う大人たちの影に混じって、小さな人影がひとつ、目に入った。帽子を目深に被って、傘を二本抱えて、ベンチに腰掛けている。地に付かない爪先がユラユラ揺れていた。俯きがちで顔は見えない。帽子から零れている髪の色には、見覚えがあった。家で留守番を任せているはずの、子供の髪色に、よく似ていた。まさかと思い、男はベンチへと歩み寄る。見下ろす頭部の、露出した肌には、大きな傷痕が見えた。

「……何をしている」

確信を持った声で話しかけてやると、フッと眼下の頭が上を向いた。

「迎えに来てやったぞ。傘、持っていないだろう?」

すっかり男に慣れた口調と少しだけ誇らしげな笑顔が答える。色々と言いたいことはあったが――とりあえず、頭に手を乗せて帽子ごと撫でてやった。妙な鳴き声と文句のようなものが聞こえた気がするが、気にしない。

 自分で歩くと言い張ったので、鞄と傘で、塞がった手の代わりに、服の端を掴ませて帰路に就く。子供が視力を失ってから数ヶ月。不思議なもので、当初こそ手探りの状態に恐る恐るの体を成していたが、一月と数週間も経てば以前と然して変わらない振る舞いをするようになった。それでも見てる方としては不安は拭えず、出来る限り目を離したくないというのが本音だった。

「そういえば、どうやって会社まで来た? まさか一人でではあるまい?」

「あぁ――まぁ、道を訊きながら? 丁度この建物で働いているというひとに会ってな?」

失明している子供が道を訊くだけで辿り着けるか――と思わないでもないが、この子供はやってのけたのだろう。

 傘を叩く雨音と、水が跳ねる音が、会話に賑やかさを添える。少し前の自分からは考えられない家路だと思った。誰かと並んで帰路に就いたり、自宅の扉を開けて帰宅を知らせる声を上げたりなど、長らく縁遠い生活だった。相変わらず拾った子供が何処の何者なのかはわからない。だが、だからと言って何か問題が起きたりはしていない。むしろ、年に数度、連絡を取るかとらないか程度の知り合いと月単位で連絡をとるようになった。業界でその名を馳せる青年との付き合いも出来た。これはついでだが――絶賛売り出し中の若い歌手とも、不本意ながら、交流が出来た。規模は小さいが、腕は確かな診療所というかかりつけ医も得ることが出来た。心なしか、ここのところ仕事が早く片付く日が続いている。

 チラと視線を落とせば、鞄と一緒に提げた上着の端を掴んで歩いている子供の頭が、時々左右に振れる傘の下から覗く。視力を失っているとは思えないほど、その足取りはしっかりしている。歩く度に揺れる伸びた髪は上機嫌そうに揺れていた。

 控えめな雨音に紛れて、ジジ、と何かが焦れるような音がした。そこは、自宅まであと数百メートルという所だった。不意に子供が立ち止まる。掴まれていた上着が引っ張られて男も立ち止まった。街灯の光に濡れた傘が照らされている。そして、子供が、ここを憶えているか、と呟くように男に訊いた。

「……あぁ。憶えている。数か月前、お前を拾った場所だ。あの時も今日のように雨が降っていたな……それが、どうした」

「いや。少しな。そういえば、と思い出しただけだ。ふふ。礼を言わせてくれ。すくってくれてありがとう、と」

やはり外見と似つかわしくない、生意気そうな口調で子供は言う。男を見上げる子供の表情は悪戯っぽく綻んでいた。氷が解けたようだ、とらしくないことを考え――咄嗟に頭を横に振って思考を散らす。そして、帰ったら風呂に入ろうと思った。

判りにくい愛情

 

(将仁 違うベクトルでそれぞれ不器用だけど互いを大事にしてるってことは互いによくわかってるって)

判りにくい愛情
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