top of page

 異国の鐘の音を模した、時刻を知らせる電子音が青い空に響く。朝早くから校庭で練習を行っていた運動部は既に切り上げて各々の教室へ戻り、今窓から見えている校庭にいる生徒は、始業のチャイムに滑り込もうと必死に足を動かす生徒と朝の挨拶運動を実施している生徒会と委員会の面々だけである。

 太陽が高く昇り始める一歩を踏み出す頃、男子生徒にしては襟足の長い青年が校庭を疾走していく。軽そうなスクールバッグを肩に引っ掛け、腰に巻いたカーディガンを靡かせながら昇降口へ向かう。急かす教員の怒鳴り声が響く。

 校舎は地下含め五階建てで、下の階から順に高学年が教室を持つ。三年生の教室には、それこそ窓から侵入できてしまう。

 昇降口へと至る道中、青年は校舎の方へと眼を向けた。立ったり座ったり――思い思いに過ごす、様々な生徒の姿が見える。その中で、三年生の教室の方を見遣ると、窓際の席で誰かと談笑している、よく見知った顔を見つけた。青年は思わず、その生徒の名を叫ぶ。

「シュウ!」

外から届いた大きな声に、校舎内の視線が一瞬校庭に向く。だが、その意図や意味にはさして興味が無いようで、すぐに自分たちの世界へと戻っていく。大声で名前を呼ばれた生徒と、その生徒と話していた生徒だけが外に居る青年をしっかりと捉え続けていた。突然の呼びかけに驚いたようで、その双眸は大きく丸くなっている。しかし満面の笑みで手を振る青年を見て、すぐに平生通りの優しいものになった。困ったような笑顔を浮かべて、控えめに手を振り返す。青年のモーションに比べればごく小さな反応だったが、それでも十分だった。嬉しそうな――青年の同級生曰く、締まりのない腑抜けた――表情が青年の顔に浮かぶ。昇降口へと向かっていた足は、もちろん止まってしまっている。

 前方から生活指導の教員が怒鳴る声がした。青年は当初の目的を思い出し、また慌てて走り始める。

「……何なんだあいつは」

「かわいい後輩、だろ?」

そんな後輩の姿を微笑ましく眺めながら、訝しげに眉を顰めた学友を宥める窓際の生徒はメールの受信を知らせる携帯電話に手を伸ばす。メールの受信ボックスには、件の後輩から届いた新着メールが一通。

「なんだ、お前らアドレス交換していたのか」

「……ひとのメールを覗くものじゃないぞ」

ヒョイと覗き込んできた相手に呆れを見せるが、それを気にしてくれるほど繊細な人物でないことは長い付き合いで知っていた。隠したところで無駄だろうと思い、未開封のメールをその場で開く。件名は空欄。本文には、会いに行く、と一言。いつ会いに来るのかを明記していないのは、時間がなかったからサプライズを狙ってなのか――わからない。だが、待つ楽しみが増えたことは確かだった。

「青臭い真似を――」

どこか苦々しげに吐かれた言葉を穏やかに笑い受け流して、携帯電話をサイレントモードにし机の上から片付ける。始業の合図まで、もうあまり時間は残されていない。かわいい後輩は今頃階段を駆け上がり廊下を全力で駆け抜けているだろう。

 授業時間は五十分。休み時間は十分。階差は一階分だが、教室が位置している場所はほぼ対岸である。次の授業の準備や移動教室の時間も要るだろう。そうなると、やはり昼休みに来る可能性が最も高いだろうか。鳴り始めたチャイムを聞きながらそんなことを考えていると、後ろの席から手が伸びてきて、髪を引っ張られた。痛いと抗議の声を上げれば、面白くなさそうにフンと鳴らされた鼻が応える。振り返れば、案の定拗ねた子供のような顔をした幼馴染が机上でダレていた。構って欲しいのか、と苦笑して陽光を紡いだ色を持つ髪を撫でてやる。今日も一日、平和に過ごせればいい。

 

さえぎるものをこえて

 

(義仁 後輩と幼馴染は友人以上らしいんだけどなんかそれ面白くないぞって思ったとか)

 薪と、ついでに山菜や木の実を集めながら山を歩いていた男の目の前が不意に拓け、白波と深い青が美しい清流が現れた。澄んだ水が日の光をキラキラと反射して、人の心を圧倒する。男はザクザクと枯葉や折れた枯枝を踏みながら川岸まで降りていく。周囲に人の気配は無く、こんな場所があったのかと小さく息を吐いた。川の中を覗いてみればいくつもの魚影が見える。手を差し入れた水は冷たく、暑い夏の日はここに来て涼むのもいいだろう。川を辿り、もう少し上流の方へ行こうと再度足を動かし始めたところで、おや、と男は立ち止まる。

 ひっそりと、茂みの中で身を潜めている獣ように、その鳥居は川岸から少し離れた場所に立っていた。意識を向けなければ朽ちた木々と萌える草花の影に隠れて素通りされてしまうような鳥居だった。けして大きいとは言えないそれは、しかし小さな階段や社が見えることから、確かに何かが祀られているらしい。

 時に置き去られたようなその鳥居の方へ男は足を向けた。生い茂る緑が影を落とす中へ踏み入っていく。苔むした石段を、滑り落ちないようにゆっくりと上がっていく。その、途中で、力なく倒れ伏す人影を見てしまった。

「――大丈夫ですか!?」

思わず駆け寄り、うつ伏せになっていた身体を仰向けに転がす。鳥の羽毛を思わせる、やわらかそうな髪は蒼を帯びたような不思議な白練色をしている。纏う青藍の着物は薄汚れ、べったりと赤黒い染みが付着していた。気を失っているらしいその人物は、小さく呻き声を漏らす。そして、現れた相手の顔に男はハッと息を呑む。

 ザックリと、大きな三対の切り傷が、額から頬にかけて走っていた。視力には期待できないだろう、と医者を志したことがある男は眉間に谷を作った。なるべく刺激しないように傷の側を指で辿れば、出血は止まりかけているらしいことがわかった。呼吸は規則正しく行われている。背負っていた籠を下ろし、上着を脱いで丸め、石段の角が当たらないように首の下へ置く。そうして、腰に提げていた手拭いを手に、川の方へ駆け戻る。木綿の布を水に浸し、両手で絞る。石段へ舞い戻ると、男は丁寧に傷の周りの血や汚れを綺麗に落としていく。顔が終われば、首や手と言った目立つ部分を一通り拭う。そうしていると、ピクリと指が動いた。男の表情が、幾分か和らぐ。

「あ……気付きました? 大丈夫ですか?」

優しく手を握りながら声をかける。が、その手は勢いよく振り払われた。ズザザと音を立てて青藍の着物が後退る。目蓋が閉じられているせいで表情が読み取り難いが――その顔は怯えているというよりも、警戒しているといった方が近く見えた。相手に見えてはいないのに、両腕を上げて危害は加えないという意思を表す。

「お前は――誰だ」

案の定、男を警戒する声が薄い唇から発せられた。それはこちらの台詞なのだが――と出かかった言葉を飲み下して、相手を刺激しないような言葉を選んで会話を試みる。

 相手の問いに答えようと口を開きかけたところで、当の相手が小さく呻き俯いた。傷は閉じていないのだから、痛みがあるのは当然だろう。眉をハの字に下げ、男はそっと手を伸ばす。

「あぁほら……無理はするものじゃないですよ」

「――ッ、」

ジワリと赤が滲む傷口へ、まだ使っていない面へ折りなおした手拭いを当てる。その刺激で僅かに肩が跳ね、手を振り払おうと弱々しく抵抗が起きる。それを優しく咎め、顔を上げさせる。そして、幼子に言い聞かせるように、宣言した。

「私は、通りすがりの者ですが、怪我人を放置しておけるほど図太い人間じゃありません。ので、せめて傷が治るまで、あなたのお世話をさせてもらいます。いいですよね?」

 

振り払って振り払って

 

(トキシュ うっかり迷い込んだ人間と忘れ去られていた神様がくっつくまでのなんとやら)

振り払って振り払って

 下から吹き上げる風が彼の髪を踊らせる。擦れ合い、子供がはしゃぐ声を思わせる枯葉の騒めきに撫でられ、思わず腕で顔を覆った。振り向けば黄金色の大地に朱鳥居が連なる空。朱色の合間から見える青は色付き硝子のように澄んでいる。前を向いても風景が一変することはなく、広がる黄金と跨る朱ばかりがどこまでも続いていく。幼い頃から慣れ親しんだ山道を歩いていた筈の彼は、臙脂色の双眸を見開いた。

 わけのわからない状況に、得も言われぬ恐怖と不安が足元から這い上がってくる。ザッと踏まれた落ち葉たちが擦れ合う。前へ進むべきか後ろへ退いてみるべきか、迷う視線が左右する。

 何かが色付いた落ち葉の広がる地面を踏み締めながら近付いてくる音が、背後から聞こえた。気のせいか、獣のような荒い息遣いまで聞こえてくる。緩やかな弧を描いている道の、見ることが出来ない死角から聞こえてくるその音に、彼は反対方向へ――逃げるように――駆け出した。黄金色の落ち葉が蹴り上げられてキラキラとヒラヒラと宙を舞う。

 朱色の鳥居の下を駆けていく彼の姿を見ているものが、ひとり。

 上等そうな着物を纏った、人ならざるものが鳥居の上から彼を見ていた。それは、世間一般で言うところの、神様だった。整った顔に不敵な笑みを浮かべ、頭上に広がる空よりも幾分か濃い青の双眸を細めている。眼下の彼が走り出すと、神様もまた同じ方向に足を向ける。フワリと鳥居を蹴って、彼の半歩後ろを――頭上から――ついていく。鳥居の回廊から抜け出そうとしている彼がどこまで行くのか行けるのか、面白がっているようだった。淡い象牙色の着物と艶やかな梔子色の頭髪が、青い空によく映えていた。

 上がった息を肩で整えながら終点の見えない前方を睨み付ける。クソ、と思わず悪態が口をついて出た。どうしてこんなことになった。背後から迫ってくる気配はもうないが、誰かに見られているような気がする。しかし振り返ってみたところで視界に入るものは通ってきた変わり映えのない風景だけ。恐怖よりも焦燥の方が勝ってくる頃だった。

「――っ、何なんだ、一体」

そう、零した時だった。ボトリと赤く熟れた林檎が、目の前に落ちてきた。彼の目が驚きにギョッと丸くなる。土が剥き出しになっている地面よりは柔らかい、落ち葉の絨毯の上に転がった紅玉を凝視してから、それが降ってきた方――頭上へ視線を遣る。その先には、無論青い空が広がっているだけだった。

「食え。腹が減っただろう?」

愉快そうな声は前方から聞こえた。いつの間にか、林檎を挟んで向こう側の、彼の目の前に見たことのない――明らかにひとではないものが立っていた。己の優位を確信している、不遜な笑みを浮かべ、腕を組んで仁王立ちをしている。非日常と、いよいよ対面してしまった彼はいつか母親から聞いた言い伝えを、ふと思い出す。そういうものに連れていかれたら、戻ってこられない。だから――連れていかれないために、触らせないこと、掴ませないこと、そして、出されたものを食べないこと。そんなことを、幼い頃に聞かされた。

「……い、いらんっ!」

走っていたおかげで喉は乾き、腹も多少は減っていたが、自分に言い聞かせるように、彼は叫んだ。素早く身を翻し、来た道を駆け戻ろうとする。兎に角、目の前の存在から距離を取りたかった。

「ほう――何処へ行くというのだ?」

だが、踵を返して再び走り出そうとした彼の目の前には涼しい顔をした神様が既にいた。わっ、と声を上げて彼は仰け反る。

「お前は此処から出られない。俺が放してやらん限りは、な」

彼が勢いで背中から倒れてしまわないようにその腕を掴んだ神様は、きれいな青い目を細めて言った。

 

逃げ出すように駆け出す

 

(将仁 気に入った人間をつかまえた神様とつかまった人間のはじまりとかそういう)

逃げ出すように駆け出す

 南斗には美しい鳥が集う。鮮やかなもの、艶やかなもの、煌びやかなもの。様々な姿形を持つものが集い、舞う。その中でも、特に美しいと謳われた五羽とすべての拠り所と成り得るものを、ひとは敬意と畏怖の念を込めて、六聖と呼んだ。

 鳳凰は今日も今日とて特に何事もなく過ぎていく時間に暇を持て余していた。そして、そういう時は決まって白鷺の元へ向かい、ちょっかいを出していた。つまり、その足は現在進行形で白鷺の部屋へと向かっているのである。人気のない、薄暗く長い廊下を、外套を靡かせて悠然と六聖の将が往く。

 入るぞ、と言いながら部屋の主の許可が出る前に扉を開けば、案の定その部屋の中には困り顔に笑みを浮かべた白鷺が、数枚の書類を手に鳳凰を出迎えた。

「サウザー、あのね、せめて返事は待つものだよ」

まるで自室のように遠慮も何もなく入室し、その手から書類を取り上げる鳳凰を優しく咎める。

「ならば鍵をかけておくんだな。かけてないということは、つまりそういうことだろう?」

もう何度言われたかわからない小言を鼻で笑った鳳凰は目を細めて白鷺を見た。夏の空にも似た、青い色が白鷺の秋の夕暮れを思わせる赤を射抜く。顔に熱が集まるのが、感じられる。

「それに、私が態々こうして出向いてやるのはこの部屋くらいだ」

あとは向こうが出向いてくる、と平然と言い放った鳳凰に、今度こそ白鷺は顔を赤らめた。ぶつかっていた視線がそっと逸れ、違える。白鷺のその様子をしっかりと見ていた鳳凰は取り上げた書類を扇のように使い、口元に浮かんだ笑みを隠した。

 手にしていた書類を机の脇へ置きながら、白鷺が腰掛けている椅子の方へ回る。ふっと落ちた影に顔を上げた白鷺の手を掴んで引き、立たせる。そして、熱の冷めきらない顔をした白鷺を壁に押し付けた。勢いが付き過ぎたのか、一度壁に触れた背が僅かに浮き上がってから落ち着いた。ダメ、と鳳凰を叱る声とは裏腹に、その肩を押し返す手の力は弱い。二本の脚の間に脚を一本割り込ませて、笑みを深める。

「――物欲しそうな顔をしおって」

「そんなこと――ッ……ちょ、ゃ……ひとが、んンッ、」

重なった唇は角度を変え、相手を味わうように侵していく。鳳凰の舌が白鷺の口内に差し込まれ、水音を立てて動き回る。自分の身体から生まれていく、羞恥を煽る音と自分を貪るような相手の熱に、腰が疼き震える。加えて、両脚の間に入れられた脚が曲げられ秘部を押し上げ刺激している。

「は、ァ――んぁッ、だめ……も、だめ、だから――ぁ、ん」

唇が角度を変え、僅かに離れる時に零される声は熱に浮かんで上擦っていた。そんな弱音を再度唇を重ねることで追いやる。口が離れる時には薄っすらと開かれ、合わさる時にはギュッと閉じられる目蓋が、面白い、と思った。肩に触れている白鷺の指が、時折縋るように動く。振り払おうと思えば振り払うことのできる口付けを受け入れているくせに、まだ快楽の熱に溺れまいとしているらしい。この間柄で何を今更、なんて思うと同時に、あぁこれだから、とも思った。そして鳳凰は、壁についていた手を徐に動かし、身体を震わせながら口付けを享受している白鷺の胸へと伸ばした。

 不意に、胸を包み揉み拉いてきた手に白鷺は肩を跳ね上げる。ズレた唇の端からツゥと銀の雫が垂れていく。やわらかな胸の感触を楽しむように動く手や指を非難するような眼が、そっと開かれた目蓋の中から現れる。が、潤んだその双眸はすぐに熱に溶け、身体を這い上がってくる快感を何とかしてくれと言わんばかりに目の前の鳳凰を映した。

 ほぼ衝動的に――壁に触れていた背へ手を回し、未だ書類や筆記具が乗ったままの机へ押し倒す。上気した顔を覗き込むように顔を近付ければ、生娘のように視線が逸らされる。触れ合う胸のやわらかさと互いの甘い匂いに、喉が鳴った。

 

細い背中をたぐりよせ

 

(将仁 先天にょただよ世紀末前だよ水鳥の女の子は間に合いませんでした行数が足りなかtt)

細い背中をたぐりよせ

 古ぼけた紙とインクと、目には見えない黴のにおいがフワリと鼻をくすぐる。ドアベルの軽やかな音を聞きながら扉を押し開けた青年は、今日も変わらない室内の香りに表情を和らげた。日向で動けば少し汗ばむが、吹き抜けていく風は冷たくなってきた頃である。なるべく冷たい風が室内へ入らないようにスルリと身体を滑り込ませて扉を閉めると、暖房の利いた温かい室内の空気がジワリと顔や指先なんかの、露出している素肌を融かした。

 端から端まで本の詰まった棚は天井ギリギリまで大きい。けして広くない空間に、場所あらばと積まれているのは、やはり無数の本。古今東西を問わず集められた本が手に取れるこの古書店を、青年はいたく気に入っていた。

 寒い外から暖かい店内に入って、ホッと一息吐いて目を細める。

「いらっしゃいませ」

ドアベルの音を聞いたのだろう、店員が、店の奥から出てきて青年に向かって来店を迎える声を上げた。青年は身体を傾けて、本棚が遮った店の奥へ視線を遣る。例に漏れず本が積まれたカウンターの向こう側に、柔和な笑顔を浮かべた店員が座っている。

「こんにちは」

「その声は、トキか」

えぇ、と店員の言葉を肯定し、クスクス笑い合いながら慣れた風に言葉を交わし、青年は樹のように聳える棚を物色し始める。日に焼けたりして色を変えているのは背表紙だけではない本を引き抜き、中身をパラパラと眺めながら取捨していく。

「そういえば、今日はケンシロウも来ていた」

思い出したように呟かれたのは、青年の弟の名前だった。ほぅ、と青年が興味を示す。

「何冊か買って行ってくれた。本当に、勉強熱心な兄弟だよ、お前たちは」

カウンターに積まれている本を一冊ずつ確かめるように脇へと積みなおしていく店員の言葉に、青年は微妙な顔をする。弟が本を購入していった理由は、勉強云々以外だと思った。確かにこの古書店に置かれている本は研究や勉強に役立つ種類のものが半数以上である。弟も、勉強熱心だと言えば勉強熱心だが――参考書等ならばもっと近い場所に本屋がある。そうなんですか、と適当に相槌を打ち、週に数回のペースで通い始めて、そろそろ三か月になろうかという青年は話題を逸らした。

「あなたは――この店以外で働いてたりって言うのは、」

目当ての分野が集められた棚から選んだ本を数冊腕に抱えながら、青年はカウンターへ向かう。

「あー……そうだな。まぁ、私は目が見えないし、この顔だろう? 雇ってくれる場所は稀有だ」

「あっ、その、すいません……失礼、でしたよね」

「いいや? 気にしないでくれ」

カウンターに乗せられた本に触れ、数字の形が薄っすらと隆起した値札で値段を確かめながら、店員は笑って言った。見えていないというのに、その手は止まることなく作業をこなしていく。

「それに、今の生活を私は気に入っている」

これもまた古風な、最近では見かけなくなった年期の入ったレジが本の代金を要求する。肩に提げた鞄から財布を取り出し、少し多めに代金を渡す。釣銭が渡される時に、ふたりの手が触れ合った。その手を、青年は思わず釣銭を持っていない方の手で摑まえる。一瞬キョトンと頭上に疑問符を浮かべた店員は、しかしすぐに口角を上げて青年の指と自分のそれを絡めた。自分で仕掛けたというのに、悪戯っ子のような穏やかな微笑に青年は眼を奪われる。あぁ、わたしの、すきなかおだ、と。

 青年は、この古書店をいたく気に入っている。

 

絡めた指をはなさないで

 

(トキシュ アイエエエお題がアイエエエ小さな古書店に常連が多いのはアイエエエ)

絡めた指をはなさないで
bottom of page