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「You, always mistake... aren't you?」

赤に塗れて尚美しいこの世界の女王は微笑しながら打者にそう言った。打者は黙して語らず、ただジッと女王を見詰め、そして女王の傍らに跪いた。

「あいしているのよ」

あなた、と艶やかな唇が紡ぐ。ほんとうよ、と紡ぐ。

 

---

 

麗しい銀糸を赤い水溜まりに翼のように広げた女は、己に赤く塗れた凶器を突きつけている男を見詰めて微笑を浮かべていた。男の服に付いている赤はどちらのものだろうか。

微かに動いた唇に誘われるように男が女の傍に膝をつく。頬に伸ばされる綺麗な手を、男はそっと握った。あなた、と笑う、意味は。

赤い。赤が広がっている。広がる赤を背負って、女王は打者を見上げていた。

「さぁ、いいのよ。終わらせるの。それがあなたの役目でしょう?」

満足気にすら見える笑みだった。彼女は間違いなく終幕を迎え入れていた。けれど打者はそれを良しとしなかった。彼女の額にキスをして、おやすみと囁いた。

140-2

バタクイへのお題:それこそ見逃してきた一瞬の泣き顔/「負けでもいいよ」/敷き詰めたのはしあわせです

 

「知らないでしょうけど、あなたと同じ、きれいな眼をしているのよ」

目蓋を閉じる前に、この世界の女王は世界の破壊者に向かってそう言った。囁くほどの、小さな声だった。女王の最期にすべての神経を注いでいた破壊者以外には聞こえなかっただろう。

 打者の格好をした破壊者は己の目元に手をやった。赤い飛沫が散っている手が視界に大きく入ってくる。そのまま目蓋をなぞっても、反射シールの上の辺りを触れても、もちろん己の眼などわからない。けれど、女王の言葉が、見慣れた風景に紛れ込んだ小さな違和感のように気になったのだった。

「鏡、は――……ない、か」

ボソリと独り言ちる。それから動かなくなった女王にスイと眼を遣る。長い髪が翼のように広がっている。その表情は長い髪に隠れて見えないけれど、口元には満足気に見える笑みが浮かんでいた。その微笑を見て、女王を手にかけたものはその姿を思い出す。

 いつから、等という疑問は考えるだけ無駄なのだろう。気付いた時には其処にいた。いることが当たり前だった。最初から何者かに仕組まれていた関係なのかもしれないが、それでも女王に対して好ましい想いを、確かに今その横たわる身体の前にいるものは持っていた。その動きは崇高なる使命のために止めたけれど、その後は。

「…………どんな眼なのか、分からないんだ、クイーン」

傍らから手を伸ばして、そして、触れることは躊躇われた。伸ばされた、男らしい骨ばった手が数秒の間、宙を彷徨った。

 けれど彼は思った。世界の終幕が近い此処で、もう喋らない笑わない彼女を前にして、消えゆく世界の一部である自分は、自分に許されたのはもうこの時だけなのではないかと。正しく、さいご、である。だから、彼は終に手を伸ばした。服で適当に手を拭ってから、壊れ物に触れるようにそっと手を伸ばして、彼女の表情を隠していた髪を両サイドに分ける。サラリとした、やわらかな髪の触り心地。遠い何時かの時に触れたことがあるような気が、した。そうして、顕れた表情は、やはり美しいものだった。長い睫毛が縁取る目尻には小さく光る雫が一粒。それを見た彼の胸が、音を立てて軋んだ。

 永く知っているつもりだったが、初めて見た。否、永く知ってはいても傍にはいなかった。見てはいなかった。彼女の言う通りだった。何も――何も知らなかったのだ。きっと今までもこうして双眸を潤ませていたのだろう。あぁ、と彼は思った。結局、自分は、彼女の何を知っているのだろう。

 最期の時、彼女は確かに彼には負けまいと全力を尽くしていた。しかし最後の彼の攻撃を、自ら迎え入れたように見えた。優雅に広げた腕で、包み込むように。彼女は何処かで解っていたのかもしれない。それでも最後まで縋り、覆されることのなかった事実に縋っていたすべてを手放したのだろうか。彼は、彼女がどれだけのものを抱き締めていて、どれだけのものを遺そうとしたのか知らない。彼女は彼が壊してきたものを知っていたけれど。

 倒れるその身体を、彼は抱きとめることをしなかった。ただ見ているだけだった。平生の如く静かに凪いだ水面を思わせる双眸を野球帽のツバの下から向けていた。

 世界の女王がそうして倒れた後、文字にはならない、所謂残留思念というヤツが、フワリと弾けた。

「あなたの勝ちだわ……ああ、残念。でも、きっと、私が、私があなたに勝利する世界は想定されていないのね。だから、これは何度目になるのかしら……? いいえ、此処では、初めて? 何度も何処かでこうして繰り返すのね――あなたに、こうして倒される……。ええ、きっとあなたは何も思わないのでしょうね。けれど、けれどね、私、思うの。何度繰り返しても私とあなたはこうして向かい合う。何度繰り返しても、同じ相手に辿り着く。それ以外の道が無いとしても、これは浪漫的なことじゃないかって。ああ――きっと、これもバグね。逸脱だわ。でも良いの。今は幕間。観客には見えていないんだもの……さぁ、あなた? また何処かで私を殺す愛しいひと……コーヒーを、飲んでは行かない?」

生き生きと、それこそ未だそこに居るかのように広がった彼女の想いはそうして滲んで消えていった。

 許されるならば――このひとの隣で眠りに就きたい、と思った。きっと彼女には赤い水溜まりなんかじゃなくて、花が似合う。白くて綺麗な花が似合うだろうと彼は思った。それを敷き詰めて彼女を横たえる。きっと、とても美しい。目蓋を閉じた彼は、その風景に自分と彼女と、そしてもうひとつ人影があることに気が付く。それは小さな人影。思い当たる者はひとり。この後に会いに行くもの。あぁそうだ、思い描く絵は幸せだ。うつくしい花や、あたたかな木漏れ日、あいするものたちのために、何か――。

 破壊者は目蓋を開く。目の前には殺伐とした風景。自分が作り上げたもの。敷き詰め、積み上がっていくものは四肢を合わせた諸々。見た夢には程遠いもの。

 パタリと落ちた雫の色は。

like your eyes

 目蓋を開くと其処は平凡な公園のグラウンドの脇だった。ジリジリと照り付ける太陽の光は白く世界を染め上げるよう。ユラユラと揺れる蜃気楼の無効では白いユニフォームを纏った子供たちが元気に汗を散らしている。

「――どうかしたか」

不意に、隣から声がかけられた。静かに必要最低限のことだけを訊くその声は低くやわらかい。

「いいえ。何でもないわ」

「……そうか」

互いに視線を合わせることはないけれど、言葉、声に込められた親愛の情は紛れもなく双方が双方にとってなくてはならない存在なのだと語っていた。

 親たちの視線の向こう側、グラウンドの中央でバットを振りベースを駆け抜ける子供たちと同じように野球のユニフォームを着ている男と、白いロングのワンピースを着て、やはり白いストローハットを被った女が簡素な青い長椅子に並んで座っている。

「暑くないか」

「大丈夫。夏って、こういうものだわ」

「……そういうものか」

「そういうものよ」

視線が合うことはない。どちらもジッとグラウンドで動き回る小さな影を見詰めている。男の方は目深に野球帽を被っているせいでよくわからないが、それでも女と同じように双眸を愛しげに細めているのだろうことは、想像に難くない。

「――あ、」

カキン、と小気味の良い音がして、ボールが高く高く空へ吸い込まれていく。

「……ホームランだ」

 午前の試合は予定通りの休憩時間と相成り、子供たちが木陰やグラウンド脇にいる親の元へ帰っていく。男と女の元へ駆け足で帰ってくる子供も、もちろんいた。

「ヒューゴ!」

子供の目線に合わせるように女はしゃがんで飛びついてくる小さな身体を受け止める。そのまま勢いを付けて抱き上げると、男へクルリと向き合う。ニコニコと女に今日の成果を報告していた子供は男を見た途端に表情を強ばらせた。男の方も――先程までのやわらかな表情と打って変わって――仮面のような無表情で子供を見ている。ふたりの間に、なんとも言えない空気が流れる。

「表情が硬いわ、ふたりとも。そんなところまでそっくりじゃなくても良いのよ」

数秒。ともすれば数分見詰め合うだけだったふたりの石化を解いたのは女の言葉だった。双方を見遣って、軽やかな笑みを浮かべて見せる。

「ふふ……今日は大活躍だったわね? ねぇ、あなたも見ていたでしょ?」

「あ――あぁ。そう、だな」

そう、呟くように言って、男はその右腕を上げる。突然動いた男に驚いたのか――或いは怯えたのか――子供がビクリと肩を竦めた。その反応に少し寂しげな表情を浮かべた男は、しかしそれを一瞬で塗り潰して右腕を子供の頭に乗せた。野球帽を被ったそのまま子供の頭を撫で、輪郭をなぞるように頬まで手を下ろす。

「午後の試合も、頑張るんだぞ」

目元に伝っていた汗を指で拭ってやり、男は子供の目を見詰めて言った。子供の方も、不器用な男なりに自分を褒め、応援してくれたのだと意識の何処かで察して、ようやく笑顔を浮かべた。勢いよく頷いて見せる。

 グラウンドの中程でチームの監督が子供の名――ヒューゴを呼んだ。

 子供たちの輪に加わっていくヒューゴの背中を見ながら、彼をその腕から降ろした女は男の隣に並んで立つ。

「よかったわね」

「あぁ」

「もう、大丈夫かしら?」

「……あぁ」

「ねぇ、あなた、」

「、クイーン」

何かを言いかけた女の言葉を遮って、男が言った。女は口を噤んで男を見る。男は相変わらずグラウンドの方――正面を睨むように見ているけれど、女の方に拳を向けていた。女は、それだけで男が何をしたいのか理解したらしい。同じように拳を作って男に向ける。

「おとこのこって、やっぱり分からないわ」

ふふふ、と微笑する女の拳に男は己の拳を少し乱暴に押し付けた。コツン、とふたつの手が触れ合う音が小さくした。

「……おんなのこの方が、分からないだろう」

男が帽子のツバを下げながら言う。顔が熱いことは自覚している。けれどその場を離れることはせず、女の隣に留まった。女の方は愛しげにその視線をグラウンドへ向けている。それは、少し面白くないと男は思った。下ろした右腕が動いて、下ろされた女の腕に触れる。

 触れ合った両手は再度触れ合い、離れることはなかった。

白い昼

(バッターさんは「She's mine」とか真顔でサラッと言いそう)

 

 キョトンとした眼を向けられたその男は相も変わらずの仏頂面で小さな箱を女に突き出していた。

 ふたりがひとつの屋根の下で寝食を共にするようになってから幾ばくか。そこには新しい、小さな命が増えていた。男は相変わらず無愛想なままだったけれど、付き合いの長いものが見ると、おやまぁ、なんて口元を綻ばせてしまう程度に丸くなっていた。女の方は特に変わった様子などは見受けられなかったけれど――その左手には銀色の輪が輝いていた。

リビングに繋がる扉を開いた男は、そこに広がっている光景に盛大に眉を顰めた。

「……これは、」

「あら。おかえりなさい、あなた」

ちいさな子供を抱いて、女は男を振り返る。子供は男から逃れるように身体を前に向けているが、その眼はしっかりと男を捉えている。まるで、このひとは自分のものだと言わんばかりに。

「……」

小生意気なその眼は女には見えていない。男はムッとした感情を隠さずにその眼に浮かべた。そして、女から子供を離そうと手を伸ばした。女は、男も子供を抱っこしたいと思ったのだろう、やわらかな微笑そのままに子供を渡そうとして――どうしても離れようとしない子供を見て、あらあら、と困ったように男を見た。付けっぱなしになっているテレビから、ドッという笑い声が聞こえてきた。

 子供は離せないと判断した男は女の左手を取った。右腕だけで子供を支えることになった女は、けれど男に手を惹かれてテレビの前に置いてあるソファに深く腰を下ろした。

「……ねぇ、あなた?」

正確には、ソファに腰を下ろした男に抱えられるように、その脚の間に腰を下ろした。しっかりと腰に腕を回されてしまっては身体の自由が多くない。問うても黙り込んだままの男はもちろん答えずに腰に回した腕に力を込めたり首筋に擦り寄ったりしている。猫や犬がマーキングしているよう、と女はふと思った。

 女の手が自身の自由を制している男の手に触れるとカツンと小さな硬い音がした。

「大丈夫。私はあなたのものよ」

ふたりの左手が触れ合い絡み合う。そうして丁度女の目の高さまで持ち上げられて左手は、そこで動かなくなる。

「同時に、あなたは私のものだけど」

そう、うっとりとした声音で咲った女は首筋に擦り寄っていた男に答えるように己の頭部を僅かに動かした。男は当然のようにその動きに答え、その髪に口付けをひとつ、音を立てて落とした。

「ああ、当然だ」

左手の指輪
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