目の前の青年を、愛らしいと思った。初めて見る衣服、姿にも関わらず、愛しいと思った。相手は透けているのだから、触れられないことは解っている。けれど触れたいと思った。触れて、撫でて抱きしめたいと思った。美しく澄んだ琥珀の双眸を独占したいと。あぁ、世界など、そう思う程度に、魅せられた。
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あ――、とふたりは見つめ合ったまま息を飲んだ。互いに互いがその場に居ないと思っている。一方的に相手を視ていることを永く続けてきた青年は、これもまた視ているだけだと思った。対する男は初めての事態思わずに、口を開いた。かつて見た女が言っていた者が、この目の前にいる愛らしい青年か、と。
見慣れた夢から目が覚めるとそこには、夢の中で背中を追っていた人物が居た。
青年は寝台から両目を丸くして飛び起きる。周囲に居るはずの仲間と父親の姿を探して――青年と同じように突然の訪客に目を剥いている三人の姿を捉えた。誰にとっても予想外想定外のことらしい。
「あぁ――お前が、デズモンド、だな?」
誰にとってもトンだ出来事のハズだが、唯一人、この状況を受け入れて、且つ歓迎している男が居た。
青年が身を引いて距離を取るよりも早く、男は青年との距離を詰めその身体を抱き寄せた。すっぽりと、男の腕の中に青年の身体が収まる。
「なん、なんだよ……! っていうか、アンタ、なんで此処に、」
「そうだな……林檎の奇跡、とでもしておこうか」
困惑し続ける青年を抱きしめながら男は、そんなことよりも、と言葉を続ける。
「ようやく会えた。会って、こうして触れられた」
顔は見えないけれど、声音だけでもひどく喜んでいるのだとわかった。そんな男に毒気を抜かれたのか、それともよく″知っている相手″だからか、青年は抵抗をすることなく身体の緊張を解いてその身を委ねる。弛んだ空気に、周囲の者たちも釣られるように行動を素早く起こせるようにと構えていた身を起こす。小さく息を吐く音が聞こえた。
何が起きたのかはサッパリわからないが――あたたかい人肌に好意を持って包まれるのは、悪くない。一時の夢幻かもしれないが、幸福を感じている自分が確かに其処に居ることを青年は自覚する。
「アンタ――いや、今はそうだな……これから、どうするつもりなんだよ」
どこか遠慮がちに男の背中に腕を回す青年が訊く。
「まだ考えていない。だが、そうだな。今は、しばらくこのままでいたい」
背中に触れた温もりに応えるように、男は回した腕に力を込めた。
(ロミジュリが数日間の大恋愛ならこういうのも許されるんじゃないかtt)
思いもよらない同居人が増えてから数週間。それなりに触れ合い、スキンシップを重ね打ち解けて軽くいジョークを飛ばせる間柄になっていたが、ふとした瞬間に相手の視線が左手に注がれていることに、青年は最近気が付いた。尤も、唐突に増えた同居人に対して警戒心がようやっと薄まってきたのは青年の方で、件の同居人はそれよりも数十日早く青年を気に入り、心を許していたのだが――それを青年が知る由はない。
元居た場所に帰る気はないらしい同居人は今日も今日とて青年の様子を観ている。手頃な場所に腰を下ろして威風を纏うネコ科の如く双眸を細めてその姿を追っていた。
「――で? アンタは俺に言いたいことか、何か用があるわけ?」
ジィッと見ていた青年の背中が大きく振れて、暇潰しのために選んだのだろう本を片手に乗せた青年がユルリと両腕を広げて振り返った。
「そんなアツい視線でジッと見られると俺も恥ずかしいんだけど?」
「おや。バレていたのか」
「ここのとこずっと見てただろ。気付かない方が、アレだな」
見ていたことを否定せず、寧ろ青年が振り向いたことが嬉しいと言わんばかりの笑顔を浮かべてみせる男に、青年も釣られて口角を上げる。
誘われるように男の前へ向かい、その一歩手前で立ち止まった青年に、男は両腕を広げて迎え入れる意思を示す。青年も、いつもの戯れだろうと広げられた両腕の間に入っていく。
「それで、何なんだよ。家に帰りたくなったか?」
互いの身体が触れ合いそうな距離。広げられていた腕は青年を離すまいというようにその身体に這っている。
「まさか。今更お前を残して帰るなんて、考えられないな」
「どうだか」
時折下の方へソロリと伸びる男の手を、青年の手が優しく叩き落とす。けれど叩き落とされた手はそのまま萎らしく息を潜めずに、青年の太腿を捉えた。先ずは右脚を開かせながら引き寄せ身体を跨がせて身体の右側へ。次に左脚。それぞれ身体の両側に膝を付かせ、軽く乗り上げるような格好に。そうして最後に腰を引き寄せ、ストンと己の膝の上へ青年を座らせた。青年は呆れたように男を見ているが――その視線すら愛しげに受け止めて笑っている。
「これでも俺が帰りたいと?」
男の言葉に降参だ、というように両腕を頭の横に挙げて見せる。
「ハイハイ」
「そろそろ渡したいものがあるんだ……受け取ってくれるかな?」
「ハイハ……え?」
カパリと小さな箱が音を立てて開かれる。音源に眼を向けた青年は、ポカンと固まった。
絹の艶やかな布地に包まれた銀色の指環が、そこにポツンと輝いていた。
「嵌めて――くれる?」
まるで魔法のように耳元で囁かれた言葉。答える青年の顔には朱が滲み、それから。
思いもよらない同居人から思いもよらない贈り物を贈られてから数日。まだ左手に嵌めた指環に慣れていないらしい青年は時折キラキラと光を反射するそれを眩しげに眺めている。外さないということは、そういうことなのだろう。
「なぁ、指環ばっか見つめてないでさ、俺の方も見てよ」
妬けるなぁと言いながら、青年の背後から指環の元持ち主が腕を回す。
「指環に妬くなよ! っつーかコレ、アンタがくれたヤツなんだぞ」
「それは……ふふ。まぁ、そう言われると悪い気はしない、かな?」
青年の左手が男の手に優しく囚われる。あたたかい手が、まだまだ細く思わせる手をなぞる。擽ったいのか、幸せそうな笑い声が零れてきた。
「デズ、今しあわせ?」
男が訊く。青年は、己の左手薬指を見つめながら答える。
「あぁ。エツィオ、アンタが居てくれるからな」
エツデズへのお題:好きになると、弱くなるね/(わらえ、わらうんだ)/アイラブユーを喩えなさい
――惚れた弱みってヤツ? なんて遥かに年上のくせに子供みたいに笑って見せる同居人に、家主たる青年は今日も流されているのである。事実、惚れた弱みなのだから青年の口からは照れ隠しの悪態しか漏れてこなかった。それを解っている同居人はハイハイと青年の旋毛にキスを落として部屋から出て行った。どこからどう見ても睦まじいふたりの姿だが――その正体が闇に生き世を駆ける暗殺者だと誰が気付くだろう。
正午近くになってからその日初めての食事を摂り始めたふたりはテレビから流れるニュースをBGMに今日はどうしようかと予定を組み立てる。白い皿の上にはそれぞれの好みで焼かれたトーストとベーコン、スクランブルエッグが乗っている。
「そろそろ買い出しに行かないとな」
「そういえば、洗剤が少なくなってきてたっけか。あとは、食料?」
「あぁ。そっちは何か要るものあるか?」
「んー? そうだな……」
考えるように首を傾げて、けれどあまり時間をかけずに良い笑顔で挙げた物に、真面目に耳を傾けていた方は飲んでいた牛乳を噴き出した。
その日は一日かけて必要になったものを調達する、買い出しの日とすることに、満場一致で決定した。
少し足を伸ばして、いつも降りる駅よりも幾つか通り過ぎたところでふたりは電車を降りる。高い空の下を、冷たくなった風が色付いた落ち葉を巻き上げながら吹き抜けていく様は、季節の移ろいを鮮やかに示していた。道行く女性がチラリと振り返っているのは気のせいではないし、自分のせいでもないと青年は解っていた。平たく言えば同居人の顔が良いからである。道を歩いて声を少しかければ、異性――時々同性――を軽く容易く引っ掛けられるくらいには整っているのである。一緒に歩いている自分は友達か身内くらいの認識なのだろう。青年はそんな益体のないことを考えながら溜め息を吐く。
「どうした?もう疲れたのか?」
青年の胸中など知らないだろう同居人は揶揄うように目を細めて言う。
「なわけないだろ」
もちろん胸の内をバラすつもりなど毛頭ない青年は何でもないと誤魔化して話題を変える。立ち止まったそこは、丁度細い道から大通りに合流するところだった。左右の道、真っ直ぐに進む道には様々な店が立ち並び、多くのひとや車が行き交い賑わっている。
「それより、手分けして買いに行こうぜ。で、要るもん揃えたらどっかで合流して家に帰る。どうだ?」
「あぁ、なるほど。そういうことか……うん、そうだな」
首を縦に振る同居人。青年はそれなら、と視線を周囲に遣り、それから視線を隣に戻した。
「それなら、集合はあの店にしよう。あそこ」
青年が指差す先にはよくあるタイプのカフェ。幸いにも似たような店構えをしている店舗は見当たらない。特徴的な看板も目印に丁度良い。
「わかった。じゃあ買うもの買ったらあそこで落ち合おう。連絡はケータイで取れるよな?」
「あぁ。俺は日用品を買ってくるから、食料の方を買ってきてくれるか?」
「ん。わかった。そんじゃ飛び切り美味いヤツを選んで来るとするか」
「アンタの眼を信用してるんだ。頼むぜ?」
「任せてくれ。この時代の誰にも目利きで負ける気はしない」
ウィンクとキスをひとつずつ落として颯爽と通りへ繰り出して行く優男に、その同居人は暫しその場で頭を抱えた。何も知らない通行人たちは、身内のスキンシップを恥ずかしがるティーンだとか思ったのだろう。
思ったよりも時間がかかってしまった、と青年は数十分前に指定のカフェに着いた旨を連絡してきた同居人に胸中で謝る。提げられ揺れる袋を思いやりながら早足に合流地点へと向かう。
日が傾き始め、建物や道路が黄金色の陽光に照らされている。カフェの手前まで来ると、オープンテラスの席に待ち合わせをしている相手の姿が見えた。優雅に足なんか組んでコーヒーを飲んでいる。悔しいくらい絵になっていて、だがそれすらも良しとして見惚れてしまうのは朝に当人が言っていた、惚れた何とやらだろうか。
そうして、声を掛けようとして、青年の足が停まった。視線の先には見知らぬ女性に声をかけられ、にこやかに対応する待ち合わせ相手の姿。穏やかな笑顔が、知らないひとに向けられている。あ、と思った。
数分も経っていないのだろうが、青年にはそのくらい長く感じられた。ぼうっと突っ立っている青年に、相手が気付いて手を軽く振った。女性も釣られて此方を見る。そんな、やさしそうな眼で、見ないでくれ、と思った。平静を装って相手と合流を果たす。
「あぁ――おかえり……って言ってもまだ自宅じゃないけど」
「ただいま、と。それで――そちらさんは?お邪魔だったか?」
じょうずにわらえているだろうか。ふつうでいられているだろうか。はたらけ、おれのひょうじょうきん。胸の奥が凍りついて軋むような痛みを感じる。冷たい汗が、背筋を這っていく。ともすれば走ってその場から離れてしまいそうな足を必死に抑え付けて、青年はその場に立つ。嫉妬――というよりも、恐怖の色が強かった。
穏やかな微笑を湛えている女性の横で、コーヒーを飲み終えたらしい相手が席を立つ。
「いや、そんなことはないさ」
向かいの席に置いていた荷物を持ち、女性に手を振って伝票の上に代金を乗せて店を出る。空いた片手は、青年の手を掴んでいた。
「相席を申し込まれただけだ。心配するようなことは無いし、そんなことにはならない」
手を牽いて半歩ほど前を歩く同居人の言葉に、青年はハッとした。歩幅を少し広くして、相手の隣に並ぶ。
「どうだろうな。アンタのことだ、フラフラ行かないとも限らないだろ」
「そんなに信用ないのか? お前は俺のすべてなのに」
困ったように笑う。こういう時に、年の差を、年上の余裕を見せ付けられているように思う。
手を繋いだそのまま電車に乗り自宅へと向かう。太陽は既に低く、辺りには暗紅色の帳が降り始めていて、もうすぐ夜になるという時間になっていた。自宅たるアパートの前で、不意に同居人が立ち止まる。気付かずに歩いていた青年は、繋いでいた手に引き止められて振り返る。
「……? どうした?」
振り返った視線の先、どうかしたのか、と名前を呼ばれた同居人は、やはり困ったような顔をして笑っていた。
「信じてくれ。俺もお前を信じてる。月にかけて誓うなんてことはしない。俺の愛は時の流れとともに姿を変えるそれのように変わりやすいものではないから」
「そりゃ、知ってるよ……アンタが、俺と同じ気持ちだってことは、そんな回りくどく言われなくたって、」
「もしお前と離れることがあったら俺は俺でなくなる」
低く、囁くように語られたのは愛。喩えというには、あまりにもストレートだった。
夕暮れ、誰そ彼とひとが訊き合う頃に、古びたアパートの前でひとつに重っていく人影がふたつ。大きな通りからひとつふたつ路地を入ったところに在る、その場所で起きたことを気にかける通行人はいなかった。