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 その年は珍しく――至極珍しく、猛暑に襲われた。

 壁の温度計は三〇のあたりを指している。温度の方がそこまで高くなっていないことは、幸か不幸か。汲まれ、飲み下された結果僅かばかりが残った水は数時間と経たないうちに消えてしまう。ジリジリと焼け付くような日射し。吹く風は生温く。肌に張り付く布の不快感は底無し沼のようで。外から聞こえてくる子供たちの声にすら微かな殺気が沸く。片付けるべき仕事はまだ残っている。残っているが、今この状況で出来るのだろうか。内容に不備を落とさないか。質は落ちないか。枚数、種類、その他諸々をいつも通りに仕上げられるのか。怪しい。とても、怪しい。現に、いつの間にか書類の隅にヘッタクソな絵が描かれているではないか。そして何よりも、このミミズの這ったような文字。とてもではないが、提出できるような、他人に見せられるものでは、ない。盛大な溜め息。

 カツンカツンと硬い音。左右対称に、意図的に造られた屋内を往く。いくら日陰があると言っても温められた空気が場を占拠していては憩いの場とは成り得ない。自動冷風製造機でもあればなぁ、なんて。

 穏やかな、暖かな、そう――言うならば、とてもとても平和的な日和のこと、或る個人に与えられた部屋から聞こえてくるのは仲の良さそうなふたつの声。

「あ、じゃあ、しりとりしましょうよ、しりとり」

「しない」

「いきますよー」

「余計なことをするな」

仲の、良さそうな――ふたつの声。

「何故です?」

それは言わずもがな部屋の外にいても聞き取れる。

「する意味が分からないからだ」

「だからしないと?」

「とんだ道草に成りかねないからな」

「何を仰いますか!」

「仮にこの陣形で進む――」

「無視ですか。無視はよくないですよ。いろんな意味で」

「ではこの質問に答えればいいだろう」

「鬱陶しそうな顔しないで下さいよ…」

しりとり

 重ね、離した後に漂う残り香は仄かな甘みを含んだ苦味。真正面から捉える双眸は濡れている。耳元で囁き、答える声もまた同じく。愛らしい音を態とたてて、唇は身体の線を辿る。落ち着く場所はやはり互いのそこ。

 熟れた果実のような瑞々しさ、鮮やかさ。やわらかなものをやわらかく食む。ん、ん、と零れる幼子のような声と、ちゅ、くちゅり、と溢れる、夜伽に聞くような音。その、妙な自然さに目が眩む。

 戯れに甘噛みした肉の甘さと熱さに身体の芯が融けるような感覚。眉は苦しげに寄せられているくせに、声は先を強請るようなもの。

キスの練習

 威風堂々と、見惚れるくらい綺麗に笑ってみせるこのひとは――、このひとには敵わないと、本能が叫んで、その警鐘を聞いて、もう情けなく笑うしかなかった。

 酒なぞは口にしていない。或いは、酔えるようなものを口にした憶え――もない。酔ってなどいない、素面の筈であるのに、目の前で弧を描いてる唇は今どのように動いた、と瑞々しい若草色の尖晶石は大きく瞬いた。その、呆けたような表情を見て、更に面白そうに弧を描く麗しい菫色の石英。然程大きくはない机を挟んで、向かい合って――いつものように――座って話していただけなのに、どうしてこうなっているのだろうと、男は困惑している。そして、心なしか耳が頬が熱いのは、何故だろうと。照明が最低限に抑えられている部屋の中で、互いの双眸だけがやけに燦爛としている。

 肘掛に肘をついて、身体の前で指を組んでいる。組まれた足の先まで気品を纏う、そのひとは挑発的に嫣然と微笑んで見せる。さあ、どうする、と。無邪気と言うにはあまりにも艶やかな声。笑っている。わらわれている。誰が、誰を。男は歯噛みする。誰かの手の上で踊るなんて、趣味じゃない。ましてこの王子様に踊らされるだなんて――色々な意味で――由々しき事態だと、喉を鳴らす。冗談じゃない。物騒な、とも形容できそうな光を灯した若草は菫を捉えている。いくら塗り潰して覆い隠して繕ったところで、その感情は容易く現れる。浮かんでいる綺麗な微笑を、親の仇でも見るような表情で見詰め、呻くように言葉を絞り出す。

「……戯れが過ぎるのでは」

「ほう――戯れているのか」

細められる菫。堪らずに伏せられる目蓋。これは、目に毒でしかない。目蓋を閉じても、手招く真っ白な手は消えない。何度も重ねた掌、絡めた指のかたち。思い出してしまう。手を、伸ばしてしまう。乾いた唇をなぞる舌先の赤さ。反った背の白さと、底無しの快楽は黒く誘う。男を呼ぶ。己に非など一欠片もないのだと言うような顔をして、わらう。

​BGM:威風堂々(梅とら)、neverland(Chouchou)

威風堂々?

 例えば視線。例えば言葉。例えば指先。それらの例えは極至難で。

 こちらとあちらの吐く音は同じでも、その中身――意味は明らかに異なっている。あちらが欲するのは知識、力。こちらが欲するのは存在、心。その差は大きい。こちらに向けられる眼は、こちら側を捉えてはいても、こちらを捉えちゃいない。

 翳る瞳は炯々。歪む唇は端正。利発そうな面は一途な恋慕を滲ませ。噛み潰した笑いは喉奥で嗚咽と成る。

こっち向いて

 想像妊娠――想像妊娠、である。そういう行為をしていたとしても、同性同士なのだから二人の間に新たな生命が芽吹くことなどはあり得ない。はず。である。それなのに、このひとは。

 異変に気付いたのはごく最近のこと。ひっそりと人目のないところで寄せられる眉間。抑えられる口元。撫でられている、下腹部。人知れず仰がれた杯に残るものはただの酒、水などではない。指先を濡らし、舐めてみると、その味はからだを、いのちを害すもの。壊すもの。

 そんなものを、何故、態々、自ら体内に染み込ませるのか理解できず――その場を押さえ問い詰めれば、返ってきた言葉は存外螺子の抜け落ちたようなものだった。

『子供は、いらない』

何故。そもそも自分たちの間に子供などできるわけが無いというのに。

『お前を、とられてしまう。それは、嫌だ』

そう言い、答え、尚手にした毒杯を仰ぐ瞳はやけに昏く、やけに凪いでいた。元より白かった肌は更に色を失くし、己を殺すために取り込まれたようなものはその身体の線を幾分か細くなっている。動く喉仏から、やがて苦痛に押し潰された音が溢れ出てくる。震える肩。乱れる呼吸。潤む双眸。こんなことを、何度繰り返しているのか。繰り返してきたのか。誰に何を吹き込まれ、何処から毒を入手したのか。

 幻想でしかないとしても――正しく、子が親を殺す毒になるなんて。

(なんて、かわいらしいひと)(それはこっちだって同じなのに)

想像妊娠ネタ
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