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 視界の端で、ホロリと赤が崩れて落ちた。動きを持つ鮮烈な色につられて、そちらへ眼を向けると、案の定きれいな花が無残に分解されていた。あぁ、と目を細める。そういえばこのひとは、こういう病を持っていた。普段は何の問題も無いが、時折、こうして発作が出てくる。最近見ていなかったから、油断していた。花瓶から引き抜かれた花が花弁を散らしていくのを見ながら、呑気にそんなことを考えていた。

 読んでいた本を置き、何の感慨も無く、解した花の花弁を口に運び、咀嚼し始める姿はひどく現実離れして見える。口端から零れる花の色は、それを挟んでいる唇の色よりも濃く、瑞々しい。そして、なだらかな喉が時折上下する。

「――また、腹を下してしまいますよ」

何もない部屋の隅を見詰めながら黙々と花を食べ続けるひとへ声をかけるも、返事はない。毎回のことに、慣れてしまっている青年はまだ手を付けられていない花と、散らばった花弁を片付ける。花を食う病を患ったとしても、身体が花を受け付けるように変化するわけではない。発作を起こし花を口に運び嚥下し、その度に腹を下す姿を、青年は見ていた。無心に花を貪る発作が収まれば、きっとこのひとの身体は飲み込んでいたものを拒絶し、外に出そうとするだろう。ごみ箱と、水でも用意しておいた方が良いだろうかと、青年はその場から静かに立ち去る。

 薄暗い廊下に出た青年は、ふと思い立ち、手にしていた花弁をひとつ摘まんで口へ運んでみた。唇に触れる、テラリと僅かな芯を持つ赤。それを、咥内へ押し込み上下の歯で押し潰してみれば、甘い匂いとはかけ離れた青臭さが広がった。飲み込む以前に噛むという行為の二度目を成せずに、青年は口に入れた花の欠片を吐き出す。毒を持たない種類だとは言え、身体に良いものでないことは確かだと、誰にともなく首を縦にゆっくり振る。いくら現実味のない光景だと言っても、やはりあのひとは実際にそこに居るのだから――生きているのだから。

 手にした水差しとコップを落とさないように、けれど早足に花を食う病を患うひとの元へ戻る。

 当人には悪いと思うが、茫洋と花を口へ運んでいる姿は、切り取られた伝承の一場面のようだと思う。水を手にした青年が戻って来ると、そのひとは花弁を食べ終え、茎を食もうとしているところだった。活けられるものの無くなった花瓶と、無造作に放置された本が載る、簡素なテーブルの上に持ってきた水差しとコップを置き、一呼吸。部屋の隅を見詰めている紅色の双眸は、青年が席を外す前のまま。なるたけ、相手を驚かせないようにその名を呼ぶ。すると、フッと動きが停まった。それから一度、二度、と目蓋が上下して紅色を隠しては曝した。あ、と間の抜けた声。唇にやわく挟まれていた緑色が、ボロリと落ちた。己の名を呼んだ青年の方へ紅色の視線が向いて、その名を零す。そして零れ落ちた緑色と、自分の手が持っているものを見止め、取り落とした。ガタンと椅子の脚が床を叩く。

「――ッ、ア、ぐッ、ぅえ……っぁ、ゲホッ」

口元を手のひらで覆いながら、身体を折り曲げる。耳にしている方まで腹の中身を出したくなるようなえづきをしつつ、膝をつく。丸められた背中を、自分もまたその横に膝を付いて、擦ってやる。先程まで異物を食んでいた唇が淫靡に濡れていくのが見え、その端からポタリと透明な銀色が滴り落ちていった。テーブルの足元にあったごみ箱を引き寄せてやりながら、青年は小さく喉を鳴らす。苦しげな音は聞こえども、吐瀉物が出される音は聞こえず、唾液ばかりが底に溜まっているらしい。時折ふと上げられる横顔の目は潤んでいて、綺麗な紅色を淡く滲ませていた。

「だいじょうぶ、大丈夫ですよ。私がついていますから、大丈夫です」

震える背中を擦りながら優しく声をかけてやると、滲む紅色が青年を捉えた。そして、何かを言いかけて、せり上がる吐き気にまた俯いた。ぜぇぜぇと上がった息が、場違いに、艶めいて聞こえ、青年は己に苦笑する。異変に気付いた他の者が慌ただしく動き回り始める音を聞きながら、青年は耳元に唇を寄せてもう一度、だいじょうぶ、と囁いた。

 

食み出す濃い色

 

(トキシュ 花を食べるという病のひとの目の前にそのうち毒のある花でも置いてみようかなんて)

無双のような

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 愛しいその手に奪われるのならば、この生は幸福なものとなろう。嘗て目指したものよりも愛したものよりも、何よりも大きな部分を占めるようになった者の手にかかって死ぬのなら、それは間違いなく、幸福な最期だろう。うつくしく振り上げられた脚の一閃を捉えながら、そんなことを考えていた。

 相手が誰なのか、解っていて男は脚を振るった。最後に顔を合わせた時の、穏やかな姿からは考えられない程、冷然とした空気を纏い敵を屠っていく姿に、彼は息を呑んだ。必要以上に研ぎ澄まされた殺気に、こころを押し殺しているのだろうと、思った。だから、交わす言葉もそこそこに仕掛けてきた相手をどうするべきか、彼は刹那に考えた。何故と訊けば、相手はユラリと揺れるのを感じ、叩き付けられる衝撃が微かに和らいだ気がした。殺してでも、止めてやるべきだろうかと、彼は考えた。だが、その考えは甘かったのだと思い知らされることになる。

 戦闘において基本である、相手を捉え行動パターン、スタイルを把握するという行為の中で、相手を注視すればするほど魅せられた。知っている、解っていると、思っていたが――改めて目の前にすれば、南北でも稀な脚の捌きに感嘆せずにはいられなかった。フワリと靡く銀糸、空を裂く爪先を眼が追ってしまう。そうして振り上げられた脚が振り下ろされた。必殺の一撃が、ゾブ、と彼の胸を切り裂いた。

 ずしゃ、と彼の身体が崩れ落ちる。地面に転がっている砂利や小石が膝に食い込み僅かな痛みを齎す。脚を下ろして、両足を地面に付けた男が、彼の前に立った。赤に塗れてなお、その足は確実に地を捉えていた。

 ぐにゃりと歪んだ視界の中、目の前の男に手を伸ばす。届くわけが、と思っていたその手は、しかし意外なことに向こう側から伸ばされた手と触れ合った。ボタボタ口から溢れる血に噎せながら手に力を込めれば、優しく握り返される。砂利が踏み躙られる音がして、つい先程まで相対していた男が、己の前に膝を付く。

「は――、っ、流石、六聖拳の、伝承者……ッ、」

コフ、と咳き込みながら言い、顔を上げると、泣きそうに歪んだ顔があった。目の前のそれに一瞬目を丸めて、それから彼は笑みを浮かべる。世界を映さない双眸に、自分が映り込んでいた。

「あぁ……何故、あなたがそんな顔を、しているのか――あなたは敵を、倒しただけだと、言うのに」

「――、っ、違う。違うんだ。私はただ、私は……、すまない、私はあなたを、」

絞り出すように、紡がれた言葉に、彼は耳を澄ました。そして、音には成らなかった続きに眼を細める。押し殺されていた感情が、溢れ出していた。

 一粒の雫が、ボロリと零れ落ちたのを皮切りに、男の双眸から次々に涙が頬を伝い、飛び散る濃い赤が染みた、乾いていた地面へ落ちていく。繋がれていない方の手が、彼の顔へ伸ばされた。汚れていなかった手が、散った赤に触れて染まる。ヌラリとしたその感触に手が躊躇うように震えて、それから彼の頬を撫でる。

「……ッ、あの男に、私のことを、好いていたかと問われたら、否と、そう言い切れば良い」

口元を赤く染めながら、荒い息と共に吐き出された言葉に、男は潤んだ声を荒らげた。

「それはっ、そんなことは――ッ!」

「その、あなたの涙が……、それだけで、私には十分だから、」

「いやだ、私は、嘘でもそんなことは言いたくない……、あぁ……ッ、わたしは、」

敵の命を鮮やかに奪っていた人物と同じ人間だとは思えない程、目の前の男は揺れていた。幼子が駄々を捏ねているように、涙を流しながら嫌だと繰り返す姿は、まだ幸せだった頃にじゃれ合ったことを思い起こさせ――胸が締め付けられた。彼は気力を頼りに身体を支えていた手を男の後頭部へ回し、その頭部を引き寄せる。コツンと、額と額が、触れ合った。

涙で嘘を薄めて

 

(トキシュ 奪うくらいなら奪われた方が良かったと思うのはきっとどちらも同じだっただろう)

涙で嘘を薄めて

 空の高くなった頃。町から少し離れた場所にある、山の神社。石段を上がり、大きな赤鳥居が参拝者を迎える場所に、人影がふたつ。ひとつは鳥居の下、眼下の風景を眺めるように石段を上りきったところに腰掛けている。もうひとつはその横に寄り添うように立っていた。鳥居の上で踏ん反り返っていたら、今横に座っている人間に冷めた眼で見られ、おとろしか、とやはり冷ややかに言われたことがあり、それから彼の見ているところでは鳥居の上でそういうことをしなくなった。あの時の眼と、格下の妖に擬えられたことが堪えたらしい。

 邂逅した時には拒絶した赤い珠を齧りながら、ぼんやり風景を見下ろしている姿を盗み見る。自分の領域に引き込み、半ば強引に傍に置いている人間は、由緒ある神の自分に臆するどころか反抗すらしてみせ、面白い。最初こそ単なる興味からだったが、今ではもっと知りたい、色々な顔を見たいと思っていた。

 どうにも上の空らしい彼に、神様はふと思い出したように口を開く。それは、ともすれば、独り言にも聞こえた。

「海の向こうの大陸にある国には、運命の赤い糸、という迷信があるらしい」

は、と気の抜けた声がして、彼の顔が神様の方を向く。蜜の淡い色に染まった果実の欠片の隙間から、やわらかそうに濡れた赤が覗いていて、美味そうだ、と思った。

「はァ――? いきなり、何を言い出すんだ、お前は」

冬の日に白い雪を被った椿を思わせる紅色が見上げてくる。突飛な話題を振られ、呆れているように見えた。

「海の向こうの国の迷信なんて、どこからいつの間に仕入れてくるんだ」

「……俺のような存在にはな、暇を潰すものがあっても足りんくらいなのだ」

暇なんだな、と言外に言ってくる視線を往なして言い返してやる。隠すこともせずに溜め息を吐いて、彼は再び前を向いて手中の赤珠を口に運ぶ。しゃくりしゃくりと美味そうな音が聞こえ、モグモグと僅かに膨らんだ頬が動く。振った話題に、興味を欠片ほども示さない様子を見て、半目になる。海の向こう、見たことのない土地の話に興味を示さないとは思わなかった。巷ではそういう話題で若い人間たちが賑わっているのを見たのだが。

「…………お前は、迷信や伝承を信じるか?」

「そのものが今更何を言っているんだ。というか、お前はどうなんだ? その、海の向こうの迷信を、真に受けたのか?」

「言霊があるだろう。言われ始めた当初はただの眉唾でも、それを信じる者が増えれば、そうなる」

「そうか。で? まさか私とお前の間に運命の赤い糸とやらが繋がっているとでも言うのではないだろうな?」

「――では、俺とお前が繋がっている、と言ったら、どうする?」

ピタリと動きが停まる。訝しげな色を浮かばせた紅と愉快そうな色を滲ませた青が絡んだ。一瞬の交錯。ザバリと舞い積もった落ち葉が舞う。冷たい石肌が覗く、山吹色や赤茶色が重なり合った階段を、小さくなった果実が転がり落ちていく。青く、高くなった空が見える――と思いかけたところで、見慣れたくはなかった顔が、生えてきた。傲岸にして不遜な笑みが、自分を見下ろしていて、危機感を覚える。しかし、その身体の下から抜け出すことは結局できずに終わった。制止の声を上げるよりも早く、開きかけた唇に、何かやわらかいものが触れる。少しカサついたそれが優しく触れたと思えば、上下の唇を食むように動いた。何をするのかと頭の中で疑問符ばかりが飛び回る。けれど、終わりは唐突に訪れた。

 不意に襲った痛みに思わず彼は喘ぐ。ガリ、と柔らかな肉に歯を立てられたのである。痛みに顔を顰め、覆い被さっている身体を突き飛ばそうにも、手首を抑えられていて叶わない。その間にも傷口は舌で歯で嬲られチリリとした痛みが生まれる。視界が滲んできた頃に、ようやく顔にかかっていた影が遠ざかる。その際、ツゥと赤い糸がふたりを繋いだ。それを、再び軽く唇を合わせ、舌で舐め切ったものは、目元や耳を赤く染めた彼の目の前で、喉を鳴らして飲み下してみせた。

 

飲み込む赤い糸

 

(将→仁 誰と何処で繋がっているかなんて此方から好きなところに繋げてしまえば関係ない)

飲み込む赤い糸

 年に数度、正装での呼び出しを受ける日がある。平時の道着と違い、着付けや着た後に求められる所作が面倒な正装を、鳳凰は好いていなかった。

 苛立ちを隠しもせずにバサバサと翻る布を鳴らしながら薄暗い屋内を歩く。何のことは無い、名前だけは知っている役職に新しく就いたという老いた拳士との面会を終えたから、さっさと自室に戻ろうというのである。小さく悲鳴を漏らして道を開ける、どこの流派の拳士かも知らぬ者たちを一瞥もせずに鳳凰は往く。そんな彼が、辿り着いた自室の扉を力任せに開いて閉じたことは、言うまでもない。

 拵えた職人が涙を零しそうなほど乱雑に精緻絢爛な衣装が脱ぎ捨てられた。そうして、目元に注した朱を落とせばいつも通りである。堅苦しい枷から解放されて、ほう、と一息吐いた頃だった。隣の部屋の扉が閉じられる音が聞こえた。そこでふと、隣の部屋の持ち主を思い出す。隣の部屋を宛がわれているのは、自分に頓着しない白鷺であったはずだ――と。

 入室の許可も取らずに扉を開き足を踏み入れると、正装のままで茶を用意していたらしい白鷺が鳳凰を出迎えた。

「馬子にも衣装、とでも言いに来たか?」

机に湯気を立てる湯呑をふたり分置き、椅子に腰かけたまま笑う。来訪は予想されていたようだった。

「あぁ、この服や髪留めか……わざわざ師父が新調してくれたんだ。私はいいと言ったのだが」

色素の薄い柔らかな髪は丁寧に櫛が入れられていると一目でわかる。伸びた髪を留めている髪飾りも特注の品だろう。等と、見慣れぬ白鷺の姿を凝視していた鳳凰へ穏やかな声が向けられる。困ったように細められた目元の朱色が、己のものと同じだとは思えなかった。虚を突かれたような白鷺の姿に、意識せず喉が鳴る。そして、藍白の袖から伸びる血色のいい手に誘われて鳳凰は席に就いた。僅かに施した化粧や着ているものだけでこれほど印象が変わるものなのかと内心で驚嘆する。そして、出された茶を含みながら、微かに眉を寄せた。己の知らぬ姿があるとは。

「……? あぁ、そうか。すまない。茶請けを出していなかったな」

冷やかしに来ただろうはずの鳳凰が何やら難しい顔をしているのを見て、白鷺は少しズレた答えを弾き出した。カタリと椅子が引かれ、硬い床と柔らかい布が擦れ合う。足音を引き連れながら、簡易的に設けられた台所へ向かうその背には、流麗な白鷺が翼を広げていた。裾が揺れる度に羽搏くようなそれは芸術だった。

「そういえば、お前の正装姿が見られなかったのは残念だ。あわよくば、と思っていたのだが――上手くいかないものだ」

チリ、と髪留めを囀らせながら白鷺は笑う。延ばされた銀色が光を反射した。その光と、揺れる正装の裾が、清流ときらめく水面を思わせ――思わず、手を、伸ばしていた。

 忙しなく慌ただしい音がして、藍白が暗い色の上に広がる。突然グルリと回った白鷺は目を丸めながら、背後から自分を仰向けに押し倒すという、器用なことをしてみせた鳳凰を見詰める。炯、と濡れた青もまた、唖然としている紅を捉える。だがその下で、鳳凰の手は白鷺の服を取り払おうと動いていた。動く手の意図に気付き、制止の声を上げようとするが、それは一足遅かった。刺繍された鷺の羽毛が如く切り裂かれた布地が舞う。

「なん──なんてことを……!」
「黙っていろ」

恐怖よりも怒りの色を濃く滲ませた白鷺を容易く黙らせる。白色系の生地に映える健康的な肌色を眺めて、舌で唇を濡らす。その姿は正しく捕食者のそれだった。喰われる、と、白鷺の喉が上下する。纏う服の至る所に施された刺繍とは違い、まだ傷ひとつ残っていない肌の上を手が滑る。喉を人差し指と中指で挟むように。そして、鎖骨や腹筋のかたちを確かめるように辿り、手は胸の辺りに戻って来る。心臓の上で止まった手は、それから、鼓動を掴むように曝された素肌へ爪を立てた。

 

映える背中に羽

 

(将仁 いつか自分の傍から飛び去ってしまうような気がして今のうちに毟っておいてやろうかと)

映える背中に羽

 暗い。目が覚めて、まず、そう思った。覚めていく意識とは裏腹に視界は明けないまま。はて、と首を傾げ――直後、ジワリと走った痛みに思い出す。そして、最後に見えたものがあの強い光で良かったという思いが浮かんだ。不思議と、肩の荷が下りたような気が、していた。

 身体を起こし、肺の中に溜まっていた空気を一度吐き出して、傷付いた――己で傷付けた両目を覆っている布に手を伸ばす。未だ血が滲み続ける大きな傷口に、手が触れる直前、誰かがその手に手を重ねて止めた。触れ合っていた時間は、ほんの数秒。他人の手が、本当に触れたのかどうかすら断言できないほど、短い時間。室内に誰か居るのか――気配を探ってみても誰かが居る気配はしない。ならば、先程のものは、気のせいだったのだろうか。けれど、そう結論付け、流してしまうには確固とし過ぎていた。この部屋に誰か――誰かが居るとして、ここまで完璧に気配を消し、且つ、沈黙を守っていられるような顔を、彼は思い浮かべられない。試しに水をくれと掠れた声を上げてみると、伸ばした手にそっと水の注がれたコップが、無言で渡された。下りる沈黙の中で口を開いたのは、やはり彼だった。

「誰だ? お前は――何者だ?」

「薄情なものだな、俺に何者かを問うとは」

答えた声は、笑っていた。そして、その声は、己のものとよく似ていた。フッと手から力が抜けて、手にしていたコップがすり抜けていく。彼は一瞬の気の緩みに内心舌打ちをする。それから、乾いた布地にコップ一杯分の水がぶちまけられる面倒を覚悟した。が、いつまで待っても水がかかる感触も容器が落ちてくる小さな衝撃も訪れない。代わりに、コトリと硬い音が聞こえた。取り落とした物は受け止められ、脇に備え付けられた机の上へ置かれたのだと思い至る。

 ギシリと寝台が軋んだ。脚に、重み。やわらかい、心地良い、と歳の離れた親友や傲岸不遜な将星に散々触れられた髪が頬を撫でる。あぁ、見下ろされている――と、冷静に状況を描く頭が可笑しい。

「……案ずるな。何も取って食おうというわけではない。まぁ、まずそんなことは出来んが」

耳殻に薄い唇が触れて動いた。鼓膜を揺らす音は聞き慣れた、けれど不思議とむず痒さを感じさせる。自分は、こんな声をしていて、こんな話し方をしていたのか。

「――……お前は、仮にお前が私だとして、何をしに来た。何故私に触れる」

声が強張っていたことは否定しない。非現実的な事態を受け入れる程度には混乱していたのだと誰にともなく弁解する。

「なに。大した用ではない。ただ、少しな? 何が視えるようになったのか、と」

クスクス、と聞こえ、紅い眼が細まる様が視えた。武骨な指が額から頬にかけて傷の縁をなぞり降りていく。目の辺りを覆っていた布がズラされ、塞がりきっていない傷に空気が触れる。親指が目元に置かれた。そうして、徐々に力を込められるその指に、痛みと恐怖を覚えて彼は己の両腕を突っ張ろうとした。だが、二本の腕が目の前の身体を突き飛ばすよりも早く、目元に置かれた親指が閉ざされていた目蓋をこじ開けた。ビクリと身体が跳ね、声に成らない声が上がる。

 紅色と紅色が絡み合い、互いを映す。

「見えずとも視える眼、か。ふむ。この眼に何が映っていくのか、楽しみだな?」

「ぁ……ッ、ふっ、お前とて、時期に解る……、宿した星の下からは、逃げられない」

結局、目の前の身体を突き飛ばせずに終わった彼の両腕は、縋るように目の前の服を掴んでいた。

「…………解っている。十分に」

そっと身体を離しながら零された音は、苦笑しているようにも聞こえた。閉じられた目蓋に、口付けがひとつ、落とされる。存外やさしいその感触に意識が滲んでいく。そうして、意識を渋々手放した彼が再び目を覚ますのは、数時間後のこと。

 

いつか孵るから

 

(じんせい 還ったものは困ったように笑い帰ったものはいつか孵るだろう光を待ちわびるというはなし)

いつか孵るから
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