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CP向お題さんから大帝音波とGFスタ音で回した10題×2の20題を混合して。

​混合してるけど心なしかスタ音つよめ。あれ……?

舞台設定含め色々ファンタジーだから細かいこと気にしちゃだめだと思います。

​見なくても問題の無い擬人化イメージ(仮)とらくがき置き場

 パシャン、と水が跳ねて薄汚れていた靴を更に汚した。元は綺麗だったのだろう靴が汚れたことに気を留めるでもなくその足は動かされ続ける。何処かから、何かから遠ざかろうとするように、逃げるように。

 体温を奪っていく冷たい雫に身を晒しながら亡命者は仮の住まいへ向かう。追っ手を撒くために縦横に入り組んだ路地を駆け抜けた身体はギシギシと痛んでいた。追っ手から受けた攻撃で負傷もしている。最短のルートで仮住まいへ向かいたいが、それはリスクが高過ぎるということを、未だ蜘蛛の巣のような路地から出ずに往く亡命者はよく知っていた。今日接触した追っ手は撒けたようだが、警戒しておいてし過ぎることはないだろう。追っ手に見つかるわ雨に降られるわでまったくと言って良い程ツイていない日であるが――流れ出る血痕や鉄と硝煙の臭いを雨が洗い流してくれる点は、幸いと言えた。

 そうして、亡命者が痛む身体に鞭打ちながら仮住まいまで目と鼻の先というところまで来ると、その薄暗い路地に人影が落ちていた。すわ待ち伏せかと身体を強張らせた亡命者であったが、緊張の糸をピンと張ったこちら側に対して何の反応も返さない――文字通り、ピクリとも動かない――人影に首を傾げる。

 死んだふりをしているのかと警戒はしつつ路上に落ちている人影へ近付いてみると、そこには雨水にだいぶ薄められてはいたが確かに赤黒い水溜まりが広がっていた。その中に崩れ落ちている人物の目蓋は閉じられ、亡命者と同じように雨に体温を奪われた青白い肌と相俟って──亡命者は死体が落ちている、と思った。

 あぁ面倒臭い。やはり今日はツイていない、と亡命者は溜め息を吐く。いつでも出て行ける仮住まいとは言え、家の前に死体など、知らぬ存ぜぬと主張しても注目が集まってしまう。せめて負傷箇所が回復してから出て行きたいが――あくまで町民に溶け込んでいる現状では叶わぬ願いだろう。このまま放置すれば明日にも近所の子供に見つかることは想像に難くない。自分だって怪我をしているのに――と亡命者は重い足取りで住まいの目の前に転がっている死体へ近付く。せめてすぐには見つからないように、と死体を家の中へ回収するという選択をしたのだった。

 ぐったりと脱力し、且つ雨に濡れて重みを増した衣服を纏った身体を半ば引き摺って室内へ運び込む。そして、その後、亡命者が拾った死体をそのまま捨て置かなかったのは、実際のところそれが死体ではなかったからだった。

 自分の首へ腕を回させ、自分の腕は死体の胴へ回し、冷たい身体を引っ張り起こした際、うっかり死体が呼吸をしていることに気付いてしまった亡命者は、やはり面倒な拾い物をしてしまった、と泣きたくなった。けれどすぐに意識が戻ったら出て行ってもらえば良いし、騒ぐようなら自分が引導を渡せば良い。いやそもそもこの状態なら放置しておけば死ぬだろう、と努めて希望のある未来を想定した。それはどれも瀕死の身体の持ち主が人間ならば在り得なくはない想定だった。

 床に水跡を残しながら寝室まで辿り着くと、亡命者は拾った身体を寝台の上へドサリと落とした。次いで自分も寝台の上に腰を下ろし一息吐く。シーツが盛大に濡れてしまっているが二人分の濡れた身体――しかも一人分は意識が無い――を整える余力など残っていないのだから仕方ない。勝手に拾ったのは自分だが、人の苦労も知らないで、と寝台に投げた拾い物の方へ恨みがましい視線を遣る。そこには薄暗い部屋の中に嫌味な程整った顔が青白く浮かんでいた。

 泥や砂利は雨に流されているようだが、赤黒く酸化した血は固まってこびりついてしまっているらしい。何とはなしに、それを剥がしてやろうと、亡命者は生気の無い顔へ手を伸ばした。

「――ッ!?」

伸ばした手が冷たい頬に触れた、その瞬間、掴まれた腕がグイと引かれ世界がぐるんと回った。

 安物件に相応しい、さして柔らかくない寝台に勢いよく背中がぶつかり一瞬呼吸が止まる。頭の冷静なところが、最近見慣れてきた天井を感慨もなく眺める。けれど次の瞬間、突然素肌を曝され寒さを感じた首筋へ当てられる、硬く尖ったモノと素肌を擽る黒髪に、まさか、と双眸が見開かれる。そして、その予想の通り、ブツリと肌を裂き肉を貫いて、鋭い牙が亡命者の赤い命を引きずり出した。身体に穴を開けた牙はすぐに抜け出ていき、溢れ出した赤をぬるりとした舌が掬い取っていく。

「くッ……ぅ、」

自分に覆い被さっている身体を押し返そうと、相手との身体の間に腕を差し込み突っ張ろうとしても、目の前の身体はビクともしない。その間にもずるずると奪われていく意識に危機感ばかり募っていく。身一つの抵抗では埒が明かない、と亡命者は懐へ片手を突っ込み、小振りな巻子に似た硝子ケースを取り出した。そしてそれを抛ると同時に、その側面に開かれた穴を塞いでいる扉を開け放った。

 硝子ケースから飛び出した――喚び出されたのは黒と赤の美しい魔鳥だった。小さな鳥籠から現れた大きな鳥は、主人が得体のしれない者に襲われていると認識するや、火の粉のように煌めく粒子を散らしながら不審者の背後を取った。薄暗い空中にぼんやりと光る魔法陣が現れる。亡命者の有能な使い魔が警告のように一鳴きすると、浮かび上がった魔法陣から火弾が放たれた。

 あまり大きくはないが、衝撃をもたらすには十分な威力を持った火弾をまともに背へ受けた身体が揺れる。それを、再び肌に触れた牙で感じながら、ゆっくりと離れ始める身体を今度こそ腕を突っ張って遠ざける。突き飛ばすような勢いで拾った者から距離を取った亡命者はまだ乾いていない首筋を手で覆い隠す。主人を気遣うように、使い魔がその頭の傍に降り立ち威嚇をする。

「悪くない味だ。気に入った」

手負いの獣のように――実際手負いではあるが――自分を睨め付ける亡命者の視線を面白そうに受け止めて、血色の良くなったそいつは笑った。肌に張り付いた赤はそのままに、傷一つ無くなった顔で笑った。未だ身体を起こせずにいる亡命者を見下ろす紅紫の目が炯と光っていた。

 

(攻を家の前で拾う受)

出会い
転がり込む

 うっかり拾ってしまった吸血鬼と、亡命者は気付いたら同居してしまっていた。あの日から二週間と数日ほどが経ち、双方共に傷は治ったと言っても良い。それなのに何故出て行かないのかと亡命者はすっかり仮住まいに居着いてしまった吸血鬼に訊いた。訊くと、曰く、美味いから、だとか。そんな答えに、解せぬと首を傾げつつ、しかし特に詮索してくる様子も無いし、勝手に消えられ自分のことを外でふらふらと話されても困るから、と亡命者は吸血鬼を受け入れていた。週に二、三度、血を寄越せと服を剥ごうとする以外は存外良い同居人なのであった。

 晴れた日の午後、同居人を部屋に残して食料を買いに市場へ来ていた亡命者はまたも追っ手と出くわしていた。互いの姿を認識するや、亡命者は身を翻してその場から逃げ出し、追っ手はそれを追いかける。日頃から子供たちの追いかけっこの舞台とされている市場の人々は、駆け抜けていく人影を見送り何事もなかったかのように日常へ戻っていった。

 人の多いところで騒ぎを起こすのは得策ではない――と亡命者は人気のない方へ走る。その間にも追っ手は容赦なく発砲したり魔法弾を放ったりしてくる。それらを魔法壁で防いだり避けたりしながら亡命者は走っていた。丁寧に的確に攻撃をいなしていく亡命者に追っ手の一人が舌打ちをする。そして、狙いをその背中から外し、足元へ向けた。パンッと乾いた音が弾ける。ぐらりと亡命者の身体が前のめりになる。

 上体へ向かってくる攻撃を処理していた亡命者の、下半身への注意は薄くなっていた。そこを、亡命者のふくらはぎを、追っ手の放った銃弾が貫いた。

 突然の衝撃と痛みに顔を歪めつつ、何とか受け身を取って背後に迫る追っ手たちと向かい合う。そこは住宅だと思われる建物に囲まれた広場のようだった。周囲に人の気配は無い。昼間であるし、多くの住人が外出しているか眠っているかしているのだろう。ここならば、と亡命者は魔法陣を展開する。

 追っ手たちの足元と頭上に大きなものが一つずつ。更にその周囲を囲むように等間隔で七つの小さな円陣が現れる。キリキリキリ、とゼンマイを巻くような音をさせて自分たちの周りを廻る小さな円陣に、追っ手たちは目を見開く。亡命者が自分たちを攻撃しようとしていることは当然解っていた。解っていたけれど、足を動かすことが手を動かすことが出来なかった。動かない手足と七つの小さな魔法陣に恐怖する追っ手たちは、亡命者が常套とする戦い方を、そこから来る異名を知らなかった。

 空中に浮かび上がる魔法陣はそこに記された線を眩く輝かせ美しい。そして、浮かび上がった小さな七つは、曲線を描きながら筒状に丸まっていき、レースで編んだような小銃へと変化した。それらの銃口は紛れもなく動けずにいる者たちの方へ向いている。

「――主よ、御手もて引かせ給え」

逃げようのない絶望に追っ手の一人が絶叫するのと、彼らを絶望させた者が口頭で引き金を引いたのは、ほぼ同時だった。

 パァン、と明るい音が一つと、タンッと短い音が七つ分。静かな青天に響いて消えた。次いで、生命の失われた複数の身体が倒れ伏せる音。相対していた者たちすべてが地に伏せるのを見届けて、最後の最後に肩を撃ち抜かれた亡命者もその場に倒れた。

 亡命者が目覚めた時、視界に入ったのは見覚えの無い天井だった。窓から差し込む赤い光に室内が照らされていた。

 最後の記憶はのどかな街の広場と熱を持った肩と足である。考えるまでもなく誰かに助けられたらしい。身体からは薬品のにおいがする。痛みはどこか遠くに感じるから、鎮痛剤か鎮痛の魔法が施されているのだろう。

 一体誰が、と思いながら亡命者が身体を起こし始めた時、図ったように部屋の扉が開かれた。亡命者を拾い、手当をした誰か、が入って来た。

「あぁ――目が覚めたか」

入って来た人物が纏う、黒のスータンと白のストルに、それが聖職者であると亡命者は理解する。同時に、今自分が居るのは教会である、と。

「まだ無理に動かん方が身のためだぞ」

聖職者は安静を勧める割に怪我人を寝台に押し戻す気配を見せなかった。毒だ、と言葉を続け、亡命者が気を失っている間に摘出したらしい、小さな硝子瓶に入った弾丸をカラカラと鳴らす。それを見て、ようやく茹だるような思考の鈍さと指先の痺れに合点がいった。同時に、元とは言え同胞にも容赦がない、と思った。曰く、解毒剤は投与したが抜けきるまでには少しかかるらしい。

 もぞもぞと大人しく横になる亡命者を眺めながら、聖職者は寝台の傍に寄せられていた椅子へ腰を下ろす。

「お前、魔弾の射手だろう?」

懐から取り出したハンカチに魔法で生成した小さめの氷塊を包んで亡命者の額に乗せる。

「七つの銃火魔法とそれを全て当てるための高度な拘束魔法と誘導魔法の跡……遥か昔の書物に記された旋律の名を持つ者が居ると聞いたことがあったが、お前のことだろう?」

「…………さて……どうだろうな。自覚はないが……確かに、その魔法は私が使ったもの、だろう」

熱に潤んだ目を、時々目蓋で隠しながらポツポツと答える。

「……そうか。まあ、詳しいことは後から聞かせてもらおう」

そんな相手の様子に、期待はしていなかったが、やはり目覚めたばかりで尚且つ毒気に侵された相手との会話は儘ならない。訊きたいことはまだあったが――少なくとも傷が癒えるまでは出て行かないだろう、と聖職者は亡命者に眠ることを促した。

 憶えのない、強い魔力が展開されている気配を追い、物騒な音を手繰って辿り着いた広場――しかもそれなりに名を馳せている者と同じような戦い方がされたらしい――で唯一生命活動を続けていた人間を拾ってきたのだ。みすみす逃すようなことはしない。

 吸血鬼は亡命者の仮住まいから近い市場を覗いたり街を歩いたりして時間を潰していた。買い物に行ってくると出て行った亡命者の姿は見かけなかった。

 日が傾き、日が落ちても同居人は戻って来なかった。子供でもあるまいし迷子になっている可能性は無いだろう。何か面倒事に遭っているのでは、と外に捜しに出た吸血鬼は、普段同居人が活動している地区から一つ二つ離れた地区でその足跡を見つけた。一見すると何の変哲もない広場に、同居人の魔力の残滓と血の匂いが残っていた。

 それを辿って、吸血鬼は寂びれた教会に辿り着いたのだった。あまり好ましくない場所であるが、いちいち気にするほど柔でもない。月影に溶け込むように教会の中へ入り込んだ吸血鬼は同居人の気配を辿って、居住区の中まで足を進めていく。そうして、薄暗い廊下を進んだ先、最も血の気配が濃く漂う扉へ手をかけた。

 果たして同居人はそこに居た。寝台の上で寝息を立てていた。近寄ってみれば薬品と血の匂いがして、決して軽度ではない負傷と、それを手当てされていることが窺われた。やはり面倒事に遭っていたらしい。連れて帰ろうと、抱き上げるために更に近寄れば、血の匂いに混じって毒の不快な臭いがした。

 首にかかった髪を退け、露わとなった首筋へいつかのように牙を立てる。噛みやすいように上体だけを起こした際、額に乗せられていたハンカチがパサリと落ちていった。

 コク、と吸血鬼の喉が上下して静かに亡命者の血が飲み下されていく。数世紀かぶりに見つけた上等な餌であるから、早々に失くすのは惜しいから、と眉を顰めながら毒混じりの血液を飲む。自分のようなものに、こんなものは効かないけれど――不味いものは不味い。しかし餌となる血であることには変わりないし、吐き出すのも勿体ないと腹に収めていく。

「――毒を吸い出しているのか」

周囲に眼を向けていなかったことは確かだったけれど、その声が聞こえるまで吸血鬼は聖職者の存在に気付かなかった。

「…………別に、そういうわけではない」

聖職者と言えど、たかが人間の接近を許したことに内心舌打ちをしつつ吸血鬼は答える。自分が侵入した時、部屋には確かに同居人しか居なかったはずである。扉が軋む音もしなかった。いつの間に、と警戒する吸血鬼を余所に、聖職者は世間話でもするように亡命者へ楽しそうな視線を向ける。

「だが、まぁ、そんなことをしたらそいつの血が足りなくなるよな」

聖職者の言葉に吸血鬼の動きが止まる。そうして、亡命者に開けた穴を一舐めして塞ぐ。それとほぼ同時に亡命者の口から小さな呻き声が零れた。双眸を覆っていた目蓋が震え、最初に目覚めた時よりかは幾分か熱の退いた青紫の眼が現れる。

「……、……? お前……どうして、ここに……?」

「知り合いか」

「知り合い……と言うより、養っている……同居人、だな」

「ほう?」

養っている、と言われた吸血鬼は至極不満そうに眉を顰めたが、吸血鬼が口を挟むよりも早く聖職者が喉を鳴らした。

 硬い靴底が板張りの床を叩く硬質な足音をさせながら、聖職者が二人の客が腰を下ろしている寝台へ歩み寄る。月明かりに照らされて、影に融けていた、黒のスータンに包まれた身体がかたちを取り戻す。

「拾った時から魔のにおいがすると思っていたが――なるほど、その悪魔のものだったか」

「悪魔……?吸血鬼じゃ……?」

未だ睡魔に添われていた亡命者の眼がようやく丸くなった。

「なんだ、気付いていなかったのか。しかもそれはそこそこ力があるようだぞ。いつだったか、自らが地獄の王にならんと地獄を抜け出した悪魔がいると耳にしたことがあるが……そうか、お前のことか」

「……何を根拠にそう考えるのか、訊いても答えられるのだろうな? 神父」

そこで初めて沈黙していた吸血鬼――悪魔が口を開く。

「お前からする地獄の臭いは大分薄れている。長い時間あそこに踏み入っていない証拠だ」

他にも挙げてやろうか、と聖職者は笑う。死角を取っていたにも関わらず自分を殺そうとせず、またその素振りも見せない聖職者に悪魔は鼻を鳴らす。

 神に仕える者の姿をしたこの人間は、どこまでも高慢なのだ、と。それこそ何を根拠にしているのかわからないが――自分は強いと思っている。思っているし、実際こいつは強い側の生き物なのだと本能が理解する。気に食わないが力の差を自分で理解できてしまっている現状では仕方がない。

「それを連れて帰りたいのだろうが――数日はここに置いておけ。使い物にしたくないのなら、の話だが」

「――、」

自分よりも同居人の状態を把握している聖職者の言葉に、人の身を詳しくは知らない悪魔が閉口する。それでも物申したげな視線を寄越す悪魔を真っ直ぐに見据える聖職者だったが、その視線は次いで静かに発せられた声の方へ向けられた。

「……いや、しばらくここに置いてくれないか」

亡命者の思わぬ提案に浅葱の双眸が細められる。しばらく手元に置いて話を聞ければ――と思っていた対象が、自分から身を寄せさせて欲しいと申し出るとは。

「もちろんタダでとは言わない……が、手持ちも無いから、雑用や手伝いとして使ってくれて構わない」

「良いだろう。しかしそれはどうする? 飼っているのだろう?ここは居づらいのではないか?」

「心配されなくとも、こんな寂びれたボロ教会を避けて通るほど落ちぶれてはいない」

「そうか。ならば気の済むまでここに居ると良い」

悪魔の――ある種悪魔らしい――不躾な言葉をさして気にした様子もなく、聖職者は部屋を出て行く。再び聖職者の黒のスータンが影に融ける。キィ、と蝶番の軋む音がして扉が開かれ、そしてカチャリと静かに閉じられた。

 扉が閉まり、静けさを取り戻した部屋に残された二人だったが、不意に亡命者が口を開いた。

「……私を捜しに来たのか」

「お前は――数世紀かぶりに見つけた、美味いと思える餌だからな」

「悪魔だったんだな」

「訊かなかったのはお前だろう?」

「血ばかりを求めるから――……魂が喰いたい、とかは思わないのか?」

そこで、ポツポツとしていた会話が途切れ、荒々しい衣擦れの音が部屋を騒めかせた。悪魔が、起こした亡命者の身体を寝台に押し倒した。

 ギシリと発条の軋む音がした。無論本調子とは言えない身の亡命者は覗き込んでくる紅紫を茫洋と見つめ返す。この色に見下ろされるのは久しぶりだ、なんてことを他人事のように思った。

「一思いに喰ってやっても良い。だが、殺さずに生かしておいた方が長く味わえて特だと思わないか?」

「それで魂ではなく血を?」

「邂逅時、お前の血の匂いに釣られて血を飲んだ。それで勘違いしたらしいお前に怪しまれず得られる血を飲んでいたが……そうだな、もう隠す必要も無い」

そうして、紅紫が近付いている、と眺めているだけだった亡命者の唇に、何かが触れた。柔らかい感触と自分の瞳の色が映り混ざる紅紫に口付けられているのだと遅ればせながら思い当たる。

 唇を重ねて数秒の後、ギュッと閉じられた目蓋に状況を認識したのだと知る。同時に、薄く開かれていた唇歯列の間へ舌を差し込み、相手の舌と擦り合わせる。掬い上げた舌を絡めとり、その柔らかさや甘さを味わう。くちゅ、ぴちゃ、と小さな水音がして、亡命者の身体がふるりと震えた。互いの唾液が混ざり合う中で、次第に亡命者の身体から力が抜けていく。

「――ふ、ぁ、」

そして、まるで恋人のような口付けをしていた二つの身体が、再び向き合える距離まで離れた。目一杯運動した後のような身体の重さに亡命者は眉を顰める。

「魂――まぁ、俺たちが実際に喰らっているのは精気だが……魂を齧られた気分はどうだ?」

対する悪魔は、教会の中だというのに大分気分が良いらしく、その双眸はきらきらとしている。

「血液から間接的に摂取するより、こうして粘膜から摂取する方が純度の高い精気が得られるし腹持ちも良くなる」

「……つまり、これからは口移しで餌を与えなければならないわけか」

そして、疲れを隠そうともせずに吐いた亡命者へ悪魔はさも愉快そうに囁くのだ。

「それはお前に選ばせてやろう。週に数度、俺に血を飲ませるか――月に一度、俺と唇を重ねるか」

過程は穏やかではなかったが、結果として横たえられ、また負担のかけられた身体に睡魔が纏わりつき始める。それは眉間に皺を寄せつつも重たそうに目蓋が下りていく様子で相手にも伝わったらしい。実に余裕のある笑みを浮かべながら、黒い革の手袋に包まれた手を伸ばしてくる。

 亡命者には、悪魔へ言いたいことがまだあったけれど、思いの外優しく覆われた視界にストンと意識が沈んでいった。

 次に亡命者が目覚めた時、室内に悪魔の姿はなかった。加えて、最後に意識があった日から数日経っているようだった。

 それを特に気にすることなく、最後に眠りに就いた時よりも楽になっていると感じた亡命者は寝台から出ようとする。その時、パサリと見覚えのあるハンカチが落ちた。あぁ、とそれを拾い上げ、亡命者は寝台を下り部屋を出る。これから世話になることだし、礼を言いがてら返そう、と思ったのだった。

 けれど結局その日は満足に動き回ることはできなかった。身体を動かすことに苦痛を感じなくなっていたとは言え、数日動いていなければ当然だと思った。それでも敷地内を動いていれば顔を合わせるだろうと動いていたが、会うことはできなかった。教会の、建物自体は大きくないけれど、教会が所有する土地はそれなりの広さを有していた。

 らしくないとはいえ、ちらほらと訪れる町民の相手や何やをこなし、聖職者として最低限の仕事はしているらしい。

 そうして、擦れ違いが続いたことで昼間に返すことは叶わなかった。夜にようやく顔を合わせるも、返さなくていいと事も無げに言われる。その言葉に対して消化不良と言った表情を浮かべた亡命者を律儀なやつだと評して、ならば自分がその気になったら返されよう、などと聖職者は宣うのだった。

 

(空想職姿の攻受)(堕悪魔の攻を飼う受)(ハンカチを返しそびれた受)

「買い物へ行って来い」

宿主から、そう申し渡された居候に拒否権は無いし、するつもりも無かった。

 亡命者が拾われ、そのまま教会に身を寄せてから一月ほどが経った。怪我も治り、毒も抜け切って以前と変わらない動きをできるようになっていた。処置や施された魔法が良かったのか、負傷者の自己治癒力の賜物か――兎角、そこらに住まう町民よりも速く回復し、聖職者の手伝いに動き回っていた。

 その一環として買い物が申し付けられたのである。それまで聖職者が行っていたのだが、他にやることがあるのだと言う。足りない手が増えたとどこか上機嫌に見える辺り、予定が重なった時はそれぞれ日をずらしていたらしい。

「メモは渡してやる。お遣いくらいはできるだろう?」

「はじめてのおつかい、と言ったところか? 期待に添えるようにせねばな」

洗濯物を干していた亡命者が空になった籠を抱えながら振り返る。

「市場へは案内を付ける。手持ちが余ったら駄賃として取っておけ」

抱えられていた籠を取り上げながら、聖職者は空いた亡命者の手に小さな紙片と食費を乗せた。加えて、その上には髪留めが在って――亡命者は小首を傾げて視線で寄越してきた者に意図を訊く。

「見た通り、髪留めだ。色々と作業をするならまとめた方が良い長さだと思ってな」

「あ、あぁ……なるほど、」

そんな気遣いをされたのは初めてだ、と亡命者は小さく呟いた。

 出かける支度を整えて教会の外へ出ると、教会とは縁遠そうな二人組が、崩れた塀に腰掛けていた。上背のある男と小柄な男だった。でこぼこした二人組は亡命者の姿を見るや、あまり良い印象を持てない笑みを浮かべて近寄って来た。

「あんたがお遣いちゃんだな? 心配しなくても僕たちがちゃあんと案内してあげるからね!」

やはりこの二人が市場への案内役らしい。年相応――とはやや言い難いが、子供のような振る舞いに微笑ましさを感じる。

「そうか。では、エスコートをよろしく頼もう」

無遠慮に近付けられる顔にも緩やかな微笑を浮かべた亡命者に、案内役は目を丸くした。威圧するつもりが、一人相撲をしていたような――居酒屋の戸にかかる垂れ幕を腕で押したような。人好きのしない顔から一転、困惑と照れが入り混じった表情になった案内役は変な声を出してしまう。

「ぅえ、あ、ぉ、おう、よろしく頼まれた」

案内役が感じたそれは間違いではないけれど、答え合わせがされることはなかった。

 大きな通りに添い、路地を幾つか曲がって、その地区の中心となっている市場に辿り着く。店が並び始める辺りまで来ると案内役たちはじゃあなと軽く手を振って雑踏の中へ紛れて行った。対する亡命者も軽く礼を述べて市場を見据える。

 仮住まいがあった地区のものとはやはり雰囲気が違う。市場の境界から見えるだけでも、並んでいる店の種類の割合や、並んでいる商品に違いが見受けられる。

 亡命者は渡されたメモを取り出して入手するべき品を確認する。肉や魚、チーズと言った品名が並ぶ中に、果物はあれど野菜の名前はない。まだ備蓄があるのだろうか。偏りのあるメモに首を傾げつつ、何にせよ今は自分の仕事をするべきであると、亡命者は踏み出した。

 傷みやすい生鮮食品を後に回して食料を揃えていく。途中、興味から雑貨屋や反物屋を覗けば、人との距離が近い市場らしく、人の好さそうな店主に話しかけられもした。

 指定されたものはそれほど多くは無く、それぞれの店で買った品を二つの袋に纏めたものを抱えて亡命者は帰路に就く。そこで、その日幾つ目かの雑貨屋が目に入った。そろそろ隠居だろうという年頃の女店主が広げているその雑貨屋は、周囲の賑やかな音から一歩離れているような、不思議な落ち着きを持っていた。

 目蓋に覆われている双眸は夢でも見ているのだろうか、と亡命者はなるたけ静かに店頭に並んだ品を覗き込む。獣の革をはじめとした、牙や爪、周辺では見かけないような種類も含めた草花が加工されたアクセサリらしきそれらは、呪術や魔術に用いる品にも見えた。荷物を足元に置き、その一つへ亡命者が手を伸ばすと同時に、店の主が口を開いた。

「本物には及んでいないけれど、偽物じゃあないよ」

「!」

不意に聞こえてきた、色付いた枯れ葉のような声に肩が跳ね、伸ばされかけた手が引っ込められる。

「驚かせるつもりはなかったんだよ、すまないね」

「あ、いや、こちらこそ……ところでその、本物には及んでいない、とは、つまり……?」

「それはつまりだね、素材は本物を使っているけれど、術を込めたり施したりはしていない、空っぽってことさ」

本物を売ったらお縄になっちまうしね、なんて肩を揺らして朗らかに笑う老女の目蓋が、ゆっくりと開かれていく。困ったように笑って見えるその双眸は目の前の亡命者をまず映した。そして、その次には、亡命者の背後へ向けられた。

「お兄さんからすれば玩具みたいなものだろうけど、そこは想いを込めるってものさね」

「――あ、」

店主の眼を追い、亡命者が振り返ると、いつの間にか悪魔が背後に立っていた。無愛想な紅紫の目に映されても店主は朗らかな笑みを浮かべていた。

 眼前の老女が悪魔の正体を知っているかどうかは判らないけれど、店の商品を眺める客を泰然とした微笑で受け入れていることは確かだった。周囲の雰囲気にまだ馴染んでいない、余所者だと判る相手にも動じないでいられるのは年の功か、それとも何かあった時でも自分一人で対処できる策があるからか。

 店頭に並べられた品々を――何が楽しいのか――楽しそうに眺めている亡命者を見ていた悪魔は、その髪を纏めている髪留めに魔除けの術が施されていることに気付いた。高位の魔物には牽制程度の効果しかないだろうが、下位の魔物なら近寄ることもできないもの。それもわざわざ守られる者は気付かない類の術で――あの聖職者の顔が思い浮かんだ。嫌がらせのつもりか、と髪留めから視線を外す。すると、その逸らした視線の先に、手頃そうな首飾りがあった。それを、手に取る。

「贈るのかい?」

なるほど空っぽな玩具である、と術の込めやすさを見ていた悪魔に、店主が訊いた。その間の良さに悪魔は仄かに訝しげな眼で老女を見た。

「…………そうだな」

慣れ合う気はないと言わんばかりの短さで答え、代金の代わりに相応の宝石を店主へ手渡す。そして、手に取った首飾りへ魔力を込め、それを亡命者の首にかけた。かけられた側は、驚いた様子で振り返る。

「買ってくれる、のか……? 私に?お前が?」

「俺のためにお前が息災であるようにと」

問いに答えたのは本音と建前が半々な言葉だったけれど、返されたのは素直な礼の言葉で、悪魔は鼻を鳴らした。

「ならば私もお前の息災を願おう」

亡命者はそう言うと、商品へ眼を滑らせ、自分の首にかかっているものと色違いらしい首飾りを手に取った。代金を支払おうと店主へ向き直ったけれど、そこで店主が口を開く。

「それはあたしからのサービスにしてあげるよ、持ってお行き」

「……良いのか?」

「もちろんさね。そのお兄さんを想う心と、初めてのご来店に、サービスだよ」

ふぉっふぉ、と気の抜ける笑い声を上げる店主の姿に丸くなっていた亡命者の双眸もやわらかく細まる。

「ならば好意に甘えさせてもらおう……きっとまた来る」

「気が向いたらまたおいで」

穏やかにそんな会話をする二人を映す紅紫の目は、やはりどこか不機嫌そうだった。

 老女が店主を務める店を離れ、教会への帰路へ就く時、亡命者が思い出したように口を開いた。

「そういえば、あの人混みの中でよく私に気付けたな? というか、悪魔も市場に足を運ぶのだな?」

くすくす肩を揺らしながら見上げて来る亡命者を居心地悪そうに見返して悪魔は答える。

「偶然だ。俺が何処に居ようと俺の勝手だろう」

「そうか。そうだな」

それ以上は何も言わなかったけれど、変わらずくすくすと肩を揺らしている亡命者であった。その様子に何か言ってやろうとして、しかし何を言っても上手く黙らせられる気がせず、結局悪魔は閉口したまま足を動かすのだった。

 食料の詰まった袋をそれぞれ一つずつ抱えて二人は教会へ帰還する。仲良く並んで帰って来た悪魔と亡命者の姿を見とめた聖職者は、おや、と笑みを浮かべた。

「荷物持ちをしてくれる悪魔か。興味深いな」

「偶然会ってな。用事は済んだのか?」

「ああ」

機嫌が良さそうな聖職者に追従して、買ってきた物を置きに居住区へ行く。

 持っていた袋を机の上に置くと悪魔はするりと姿を消した。長居したくないのだろうことは容易に想像できるから、聖職者や亡命者がそれに対して何かを言うことはなかった。

 買ってきた物を袋から出し、確認し、棚や収納に仕舞っていった後、細めた眼で亡命者を捉えて聖職者が口を開く。

「そういえば――魔のにおいが強くなっているようだが、」

それまでもポツリポツリと他愛のない会話をしていて、その時と変わらない調子で発せられた言葉は、けれど亡命者にとって気になるものだった。悪魔と行動を共にしていたから、魔のにおいが移ることは普通のことだろうに、何故それを改めて言うのかと小首を傾げる。

「あの逸れ悪魔に随分気に入られているらしいな」

「……? まぁ、私は久しぶりに見つけた美味い餌、らしいからな……?」

「理由は何だって良い。俺が言いたいのは、名前を書かれているようだ、と言うことだ」

次いで悪魔から何か受け取ったか、と訊かれ、亡命者は首飾りのことを思い出す。こくりと頷いて、あの店に並んでいた他の商品と変わったところは見られないそれを、亡命者は首にかけたまま手繰り出して見せる。手繰り出された素朴な首飾りを目にした聖職者は、あぁなるほど、と呟いた。その首飾りには、贈り主である悪魔の魔力が籠められ、対象には気付かれない魔法がかけられていた。

 魔族の魔力は固有であり、強力なものであれば他を牽制する目印にもなる、謂わば名札のようなものである。当然、所有物に魔力を僅かにでも持たせておけば、それが誰の物かを他に示すこととなる。そして普通その目印は所有される物を含め、誰に憚ることなく付与し付与されるものであるけれど――あの悪魔は、所有している、と指定したものに、自分が所有しているのだと主張していることを気付かれないようにしている。

 面白い、と聖職者は思う。何かを勝手に所有物とする不遜さは、魔族らしい。しかし所有物に自分がそう指定したことを知られまいとする恥じらい――と言うか遠慮と言うか――は、魔族らしくない。当然、悪魔が所有する、と指定した対象は気付いていないと見える。渡された髪留めと首飾りのそれぞれに込められているものに気付いていないようだから、まぁ気付かないだろうとも思うが。

 兎角、揶揄のつもりで撒いた餌にこうも判りやすく食いついて来るとは思わなかった。

 自分が知っている魔族の知識を教えても良いが、知っていることを事細かに教えてしまうと楽しみが減りそうだな、なんてことを考える。だから、聖職者は笑ったまま曖昧なことを吐くのだ。

「アレはお前を所有物としたいらしい」

 

(受に髪留めを付ける攻)(お守りを選ぶ攻受)(受を私物化する攻)

 

 

 

 

 

 

後日のはなし(この後ふたり並んでお昼食べてるのを目撃される)

「悪魔は人間の食べ物を食べられるのか?」

「馬鹿にしているのか」

「いや、以前これを食べているのを見かけたから」

「……」

「丁度昼時だったしな。食べるだろう?」

「餌付けのつもりか」

「他意は無い」

「…………お前、自分の分は」

「え? あ……あぁ、失念していた」

「……食え」

「これ、は……」

「以前美味いと言っていただろう」

「見ていたのか……いや、ありがとう……」

 

(相手の大好物を買って帰る攻と受)

買い物

髪留めは別の物か付けてないかだと思います( ˘ω˘ )

​スタ音のターンがどうして甘くなるのかよくわからない……_(:3 」∠ )_

 

---

 

 地区の外れにある屋敷の、古びた旧館に聖職者と亡命者は訪れていた。使われなくなってから久しいことは、全体的な埃っぽさや、罅割れていても手入れのされていない壁や床から窺えた。砕けて剥がれた床の石材を更に踏み砕いて、二人は館の奥へ進んでいく。

 二人が訪れた理由は、もちろん、屋敷の持ち主に招待されたからである。尤も、招待された、と言うよりも、依頼された、と言う方が適切である。午前中に屋敷から教会へ遣いが来て、屋敷まで出向いて欲しいと言われたのだ。言われ、ありありと面倒そうな表情を浮かべた聖職者だったが、結局溜め息を吐いて、居候をしている亡命者を連れて依頼に応じた。地区の外れに建つ屋敷の住人は、つまりあまり無碍に出来ない種類の人間なのである。そうして屋敷を訪れた二人に、そこの主人は旧館に悪魔が居着いてしまったようだから何とかして欲しい、と今回の仕事の内容を伝えたのだった。屋敷の主人曰く、悪魔は夜にだけ活動するらしい。聖職者と亡命者は屋敷――或いは件の旧館――に一泊することとなった。当然、食事や寝床は屋敷側が用意した。

 どこか顔色の優れない屋敷の主人と共に広間で夕食を済ます頃には、太陽は傾き、地平線は暗紅色に染まっていた。湯浴みも済ませれば、夜の帳が下りきった世界となる。

 宛がわれた屋敷の部屋でそれぞれ依頼に備えていた二人の元に使用人が訪ねてきたのは夜中と真夜中の境の頃だった。

 斯くて悪魔が居着いたという旧館へ二人は踏み入ったのだった。

 シンと音の絶えた館内を歩く、二人分の足音。人の気配が失せた建物に灯る明かりは、その足音の主たちが道行き灯しているものである。

「気配はしているが姿を現さんな。夜は魔族の領分だと思っていたが、最近はそうでもないのか?」

大きな爪で引っ掻いたような壁の傷や燃やされ焦げたような黒い染みを見分しながら聖職者が言う。魔力の残滓をはじめとした、建物の中に残る幾つもの痕跡は確かにそこに悪魔が居ると告げている。しかし活動時間だと聞いていた夜分にも関わらず、縄張りに侵入してきた二人の前へ、一向に姿を見せる様子のない標的に人間は嘲笑の意を表した。

「さあ? 人見知りだという可能性もあるのでは?」

それを咎めるどころか、もう一人の人間も嫣然と口角を上げてみせた。

 より悪魔の気配を濃く感じる方向へ躊躇なく進んでいく。

 そして、二人が立ち止まったのは、何の変哲もない壁の前だった。一階にある、幾つか部屋が並んでいる廊下の、ある扉と扉の間。そこから最も強く魔族の魔力が漏れ伝っていた。

「隠し部屋か」

直接姿を現さないだけでなく、何かしらの攻撃も仕掛けてこない標的に退屈を感じているらしい。平坦な声音で呟いた聖職者はやはり躊躇うことなく壁に触れた。

 キィ、と蝶番の軋む音を小さくさせて、取っ手の無い扉が開かれる。ぽっかりと眼前に現れた闇の中へ光を取るための魔法を抛る。照らされた空間は殺風景な小部屋だった。

 敷き物はもちろん、何の家具も置かれていない部屋に足を踏み入れる。この建物の中で最も危うい領域。ではあるけれど――そこに居た悪魔の程度は拍子抜けするものだった。扉近くの天井に張り付き、侵入者の息の根を止めようと潜んでいたそれは、建物に巣食ったという悪魔は、入室と同時に聖職者が投擲した短剣に貫かれた。

 ギィギィ喚くそれを一瞥して、聖職者は凪いだ眼で小部屋を見て回る。

「やはりまったくもって神父らしからぬ神父だな」

「堅苦しくなくて良いだろう? 手が空いているなら片付けておけ」

廊下の壁に凭れ、成り行きを眺めていた亡命者が肩を竦めた。そうして、亡命者もまた小さな部屋の中へ足を踏み入れる。ひょいと部屋の天井を覗き込み、昆虫標本のようにその場から動けなくなっている悪魔を確認する。なるほどこれは片手間に片付けられる、と亡命者は歩きながら魔法陣を展開した。選んだ魔法は、さして珍しくもない、対象を燃す魔法。その魔法陣を対象と平行に置く。

「……?」

そして、赤々とした炎がからだを伸ばす直前に、それが浮かべた表情に、亡命者は微かに眉を顰めた。しかしその理由はすぐに知ることとなった。灼熱の手で撫でまわされ、逃げ場なく悶える悪魔が耳障りな声で喘ぎわらう。

「オレ、オレ、ノ、仕事、終ッ、終ワッタ、キヒッ――キヒヒヒヒ、オマ、オ前ラ、終ワリ、モウ逃ゲッ、逃ゲラレナイ!」

それが高々と言い切ったと同時にバタンと扉が閉まった。室内の二人が扉を振り返り、その取っ手が綺麗に切り落とされていることを見とめる。どちらからともなく、舌打ちの音が落ちた。天井で燃されている悪魔はそんな二人の様子をゲラゲラとわらっていた。やがてそのわらい声は身体を焼かれる苦痛を叫ぶだけとなっていったけれど、四方の壁に這う封じ込めの魔法は爛々と光を増す一方だった。

 部屋唯一の出入り口である扉は取っ手を失いもはや無いものと考えて差し支えない。もちろん、隠し部屋なのだから当然窓は設けられていない。壁を破ろうとしても悪魔の置き土産に邪魔されて思うように事を運べない、正しく八方塞がり、という状況となっていた。

「魔法も弾かれるな……あの程度の悪魔にしては手の込んだ術じゃないか?」

「気配が失せていない。まだ他に居ると見て良いだろう」

物理的に殴ったり魔法で殴ったりを試しながら進展のない室内で二人は眉を顰める。狭い室内に敵が湧き出していないだけマシと言えたが、現状を維持しても事態は好転し得ない。密閉された部屋の空気の量は限られているし、何より狭い場所に閉じ込められることも癪である。いい加減飽きた、と壁から一歩離れて聖職者が口を開いた。

「蒼ざめたる馬を見よ。これが戴くものの名、死の名において――殺せ」

そうして、室内を照らしていた明かりが翳り、どろりと甘く腐った肉のにおいが漂い始める。

 カツ、と蹄の音が聞こえた瞬間、部屋が暗闇に包まれる。何者かの登場に、灯していた明かりが掻き消えた――掻き消されたらしい。聖職者の背後、壁と平行に浮かび上がった魔法陣を門として、喚ばれたものが、小さな部屋に近付いて来る。

 道の妨げにならぬよう、聖職者は魔法陣の正面から退いた。そして、後は喚んだものに任せると言った様子で傍観を始めた。その横で亡命者は息を呑む。だってこの男は今、死を喚んだ。喚んで、応じられている。青白く浮かぶ魔法陣から蹄の音がやって来る。甘く噎せ返るようなにおいが濃くなっていく。

 カツコツと歩く速度で訪れたものの、最初に現れた部分は、魔法陣から出てきたものは、腐った馬の顔だった。皮は継ぎ接ぎのようになっていて、所々その下を覆っていない箇所がある。色は生気の無い蒼。皮の下に詰まっているはずの、赤く瑞々しい肉なぞは無く、褪せて茶色がかったり黒ずんだりした肉が辛うじてかたちを保っていた。その合間から見える白は、脂か骨のどちらかだろう。そして、鞍も手綱も用いず、そのぼんやりと蒼く光る馬に跨がっている者を、亡命者は見た。

 裾が擦り切れ、穴も開いている、ボロのような外套に身を包んだ乗馬者。馬と同じ蒼の外套はその頭まですっぽりと覆っていたから、顔を見ることはできなかったけれど、それは前を向いたまま僅かにも頭を動かさなかった。周囲や、自分を喚び出した者へすら一瞥も与えず、馬が進む方向だけを向いていた。

 壁を這っていた魔法ごと壁が崩れていく。ボロボロと腐り落ちるように口を広げていく壁を、蒼い馬とそれに跨る者は通り抜けていく。そして、廊下に出たところで、骨格だけの姿となったは馬の足元から消えていった。

 拓いた道を踏んで廊下に出ると、少しだけ呼吸が楽になったような気がした。

「あれは、死の騎士、というやつか。いや……あんな文句あったか……?」

「適当に掻い摘んだが、来たのだから良いだろう」

「そうか……適当なんだな…………しかし何故あそこで?」

あれほど濃く漂っていたにおいも消え、積み重なった壁の残骸だけが訪れの証明となった召喚物のことを訊く。小さな欠片を指先で摘まみ上げようとしても、それは指先へ少し力を込めただけで簡単に崩れて消えた。

「壊せないなら殺せば良い。アレが生物以外を殺せるか試したことは無かったが、まぁ、新たな使い道が見つかって良かったな?」

「私に同意を求められても困るのだが」

困ったように小首を傾げて見せた亡命者だったけれど、まぁ良い、と真っ直ぐに聖職者を見つめた。

「さて、それで、お次は何を? まだ片付けるものがあるようだが?」

お伺いを立てる連れを、やはり真っ直ぐに捉えた浅葱色の双眸がゆるりと細められる。

「掃除、だ。面倒なことに片付けねばならんものがあると知れてしまったからな」

普段行う教会の掃除と変わらないことのように言い切って、ストルとスータンの裾を翻す。

 館の別所を探索するために。入ってすぐの広間へ二人が戻ってくると、そこには屋敷に居るはずの依頼主が使用人らと共に立っていた。体調の優れなさそうな顔色は相変わらずだったけれど、その顔にはニヤニヤといやらしい笑みが浮かべられていた。

「もうお帰りになるので? 神父殿」

ケタケタ、ニヤニヤ、とさざめき並ぶ不快な笑顔。いよいよ濃くなった魔の気配に、口角が上がる。

「そうだな。向こうから掃除されに来てもらえたようだからな。予定よりも早く帰ることができそうだ」

「あぁ――なるほど、顔色が悪いと思っていたら、顔色を良くできないのか」

今回請け負った依頼の全容を把握した二人が、依頼者であり標的である、屋敷の主人を捉える。神に仕える身とは思えない不遜さで目の前に立った人間へ、標的は獲物を弄るような余裕を見せながら言葉を吐く。

「それは残念。わたくしどもとしては、あなたたちに帰られる、という予定は無いもので、」

そして、何かに気付いたように、標的の眼は詰まらなさそうに話を聞く聖職者の、その後ろに立っている亡命者へ向いた。

「……おや。そちらの方は、あの裏切り者のお知り合い……所有物のようだ」

人間と言う種族を下に見る言い方、視線に、亡命者の双眸が凪ぐ。ゆるりと一の字になった唇が、あの悪魔を養っている――所有している――のは自分の方である、と文句と共に件の悪魔の名を紡いだ。

 瞬間、標的の傍に立っていた使用人たちが身体から黒い液体を噴出させながら、踊るように倒れていく。見えない何かに切り裂かれ数を減らしていく従者を、それらの主人は見回すことしかできないでいた。一回り、二回りほど、狼狽の視線が巡らされた後、その身体が引き倒される。

「ああ、そうだとも。あれは私の所有物だ。お前のような三下が触れて良いモノじゃあない」

背中を硬い床に打ち付けた標的が仰いだものは、天井ではなく、炯々とした二つの紅紫だった。囁くように吐かれる言葉に見合わず、端正な顔が、ただ純粋に他の存在を殺すことを狂喜し、うつくしく獰猛に歪められていた。

 皮膚を撫で切り、その奥へ食い込んでいく短剣の刃に標的は喘ぎ、忌々しげに眼を細めて自分の命を握っている悪魔を睨め付けた。その間もじわじわと押し当てられ続ける鋭利な熱に、そして舌打ちをした。

 ズルリ、と屋敷の主人の身体から黒い濁流のようなものが抜け出ていく。悪魔が押さえ付けていた人間の身体はあっという間に平たくなっていき、最後には吹けば飛ぶような土気色の皮と纏っていた衣服だけが残された。短剣を納め、面白くなさそうな顔をした悪魔がその場で立ち上がる。標的の姿は見えなくなったけれど、その気配は未だ近くに感じられ、静観していた聖職者と亡命者も周囲の状態を把握し続ける。ぞわぞわと三人を囲むように湧き立つ影は、悪魔に呆気なく屠られた使用人たちと同程度の魔物だろう。仕留めること自体は容易だが、数の多さに草臥れそうだ、と思った。

「一応、計画を聞いておいても?」

美しい鳥型の使い魔を喚び出した亡命者が聖職者に訊く。問われた聖職者は、計画と呼べるほどのことを考えていたわけではなかったけれど――自身の指針としたことを亡命者への答えとした。

「先程その悪魔が仕留め損ねた雑魚を潰す」

自分なら仕留め損なうことは無かったと言外にわらう聖職者を、至極忌々しげな表情で悪魔は一瞥した。

 四方八方から飛び掛かってくる魔物を躱し片付けながらそれらの頭を探す。姿を見せない理由は、どうやら部下を使い、隙が出来たところを襲う算段らしい。時折錆びた金属が軋むような、不快な笑い声が聞こえてくる。魔族というものは多くの場合、頭が倒れるとその下のものたちはそれまで行っていた事物を全て止め、退いていく。逆に頭を潰さなければ延々と――この場合――襲って来続けるのである。

 さてそれでは如何にして標的を自分たちの前に引き摺り出そうかと言うところである。本体を追い、拘束魔法なんかで捉える、という案は標的の捕捉と術を仕掛ける間の援護が面倒だと却下された。けれど同時に、自分たちが追うのではなく、相手をおびき寄せれば良いのでは、と案が上がった。

 餌を使うのである。魔族が喰らって美味いと思うもの――亡命者へ標的の注意を向けさせるのである。そのために、餌の味を標的へ伝えなくてはならない。向かってくる魔物を撃ち抜いていた、亡命者の魔法の間隔が、ほんの僅かにズラされる。

「っ、」

そうして作られた隙をしっかりと魔物は掬い上げ、亡命者の腕を切り裂いた。ビシャ、と鮮やかな人の証明が床に飛び散る。鉄錆の臭いが広がる。けれど、床に広がった水溜まりの方は、正しく水が干上がっていくように数秒と経たずに消えていった。

 掛かった――と口角が上げられる。

 地面を泳ぐように音もなく標的が餌に近寄って来る。人の死角である背後から近付き、勢いよく飛び掛かる。実に模範的な奇襲を、標的に行わせた亡命者は、それを一歩下がることで容易に躱した。そうして、飛びつくものを失った標的は、宙に浮かび上がる魔法陣の上に落ちることとなった。

 ボテリと標的が魔法陣に触れた瞬間、陣から鎖が伸び、標的をギリギリと締め上げる。標的の頭上に展開されていた魔法陣は、亡命者の使い魔が用意したものである。四肢に巻き付いた鎖や喉元で交差した鎖がジリジリと鳴り軋む。拘束魔法の術者は役目は終えたとばかりに負傷した腕に回復魔法を当てていた。もがけばもがくほど食い込む拘束の中で、そして、標的は嬉々として自分の方へ走り寄って来る二つの気配を感じ取る。それは言わずもがな、あの悪魔と聖職者で――その手にはそれぞれ美しく周囲を映す白刃が握られていた。

「ヤメッ……ヤメロ!嫌、イヤダ!死ニタクナッ、死ヌノハ嫌ダ!死ニタクナイ!俺ハ死ニタクナ――、」

おそらくそれが本来の口調なのだろう、気品の欠片も感じられない言い方で迫り来る最期を拒否しようとした標的の身体へ、ゾブゾブと遠慮なく銀色が埋められていく。

「アッ、アアア、ギィッ、ィアア……ッ、呪ッ、呪ッテヤル、呪、殺シテヤ……ア、呪イヲ、受ケヨ、」

そんな呪詛を吐きながら身体を弛緩させた標的に、張り詰めていた糸が緩まる。呪ってやると言い残して実際に対象を呪って逝けるものなど種族問わず滅多にいない。周囲に蔓延っていた魔物の姿も消え失せ、三下に相応しい最期であると言えた。

 動かなくなった身体から拘束が緩み解けていく。そして、それが飛び起きたのは、鎖が完全に離れて行ったと同時だった。

 発条仕掛けのように跳ね起きたそれは、宙を蹴り、既に武器を納めていた悪魔へ鋭い爪を振り上げた。

 人間の扱う刃物よりも鋭い爪が視界を一閃する。それをまともに受けた悪魔は顔の上部から盛大に血を流す。亡命者が悪魔の名を反射的に呼んだ。切られた部分を手で押さえ、ふらふらと呻き数歩後退る。そして浅く震える呼吸音は、そのまま両膝と片手を地面に付けた。その姿に、それは満足そうな笑い声を漏らす。けれど笑い声は、直後、着地したと同時に、聖職者に頭を踏み抜かれて途絶えた。

 今度こそ絶命したと見える標的の死体をそのまま踏み越え、聖職者は悪魔へ近寄る。悪魔が攻撃された時、その名を呼んだ亡命者は既にその傍にいた。傷口を押さえていた手を退かせ、後から後から流れ出て来る血で手を汚しながら、ザックリと切り裂かれた傷の具合を診ている。

「眼をやられたか」

「回復魔法は効くだろうか」

存外冷静な眼で亡命者が聖職者を見上げた。

「――、人間の回復魔法などたかが知れている。眼球自体はすぐに再生されるから放っておけば良い」

問いに答えたのは悪魔だった。幾分か落ち着けたらしく、微かにのみ震える声が発せられる。訊かれていた聖職者も、魔族の自己治癒力や身体事情なんかにまで造詣が深いわけではないから、本人に訊けと眼で促す。

「……眼球自体は、と言うのは、視力はすぐには戻らないと言うことか?」

「毒爪を使われた。抜け切るまで少しかかるな」

じゅくじゅくと熱を持ち、爛れたようになっている肌は、その毒が判りやすく姿を現しての結果なのだろう。前の口振りからして、この毒も人の技術では満足に相手を出来ないことは容易に察せられた。

 命に別条なし。自己再生可能。その状態を把握した亡命者は、懐へ手を差し入れ、硝子ケースを取り出した。普段使い魔が住処としている物とは別の物である。そのケースの扉を開き、指先を濡らす悪魔の血で本人の腕に使い捨ての契約紋を描いた。何をする、と予想できていた不満げな声が向けられる。

「お前を担いでいくのはさすがに疲れるからこちらに収まってもらう」

「向こうに着いたら呼べば良いだろう。お前の使い魔と同様に扱うな」

「血の匂いや弱った気配に新手が来ないとも限らないだろう?」

同族でなくとも、血のにおいは野犬などの野生の生き物を呼び寄せてもおかしくはない。現在の状態に加えての負傷は望むところではないことは当然である。閉口し、けれど唇を引き結んだ悪魔に対し、亡命者はあっさりとその術を発動させたのだった。パキン、と悪魔の身体が光の粒子となって消え、硝子ケースの中には美しく揺蕩う紅紫の夜空が満ちる。

「離れを貸してやろう。精々失った血肉の代わりとされんよう、気を付けることだな」

扉をしっかりと閉じたそれを仕舞い立ち上がった亡命者へ、既に外界へ繋がる扉の手前まで移動していた聖職者が言った。

 夜明けも近い時刻に教会へ帰り着く。聖職者はそのまま自室へ引っ込んでいき、亡命者は言われた通り、離れの小屋へ足を向ける。

 雑用の一つで二日ほど前に掃除していたそこは、その時のまま保たれていた。寝台と一対の机と椅子、一台の棚だけが置かれた殺風景な部屋に、窓から月の光が射し込んでいた。

 亡命者は寝台の傍まで歩き、悪魔を収めた硝子ケースを取り出す。扉を開けておき、術の解式を告げるとケースは砕け、再構築されたことで血の汚れが消えた悪魔が現れた。ふらりとよろめいた身体を、それよりも少しだけ背の低い亡命者が倒れないように引き止める。物だけは元に戻った紅紫の目が相手からズレた空間を映し、自分を引き止めた腕を伝ってその手が亡命者の首から頬へ触れる。そうして、ようやく青紫の目と色の褪せた紅紫の目が重なった。

「ふふ。折角の顔が台無しだな? 具合はどうだ?」

「……問題ない」

あてにならない返答を、そうか、と流して亡命者は頬を包んでいた手を離させ、自分の手を握らせる。繋がった手をすぐ傍の寝台へ下ろし、相手に療養の寝床を認識させる。そのまま身体を支えてやりながら、そこへ腰掛けさせた。

「治るまではここで大人しくしてもらう。教会の中ではないから、楽にできるだろう?」

「……、余計なことを……何故そこまで構う」

「懐に入れたものは大切にする主義だからな」

くすくす肩を揺らしながら、亡命者はもう横になって休むよう悪魔を促す。肩を押し、すばやく足を掬い上げて寝台の上へ乗せる。それから、毛布を持ってくるから動くなと言い置いて、ぱたぱたと出て行った。

 数分の後、戻って来た亡命者は言った通り持って来た毛布を大人しく待っていた悪魔の身体に静かに被せた。

「傷の周りが熱いな……冷やすか?」

寝台の縁に腰を下ろし、かかっていた髪を退けて熱を持った頬に触れる。

「いい。それより、あまり触るな。人間の毒とはわけが違う」

傷口の上や、血肉を覗かせる縁の極近い場所を通る手を止めながら言った。けれど温もりを遠ざける言葉とは裏腹に、その手は何かを探すように何もない宙に触れていた。その迷子に気付いた亡命者は、傷から退けられた手をそちらへ遣ってやった。触れ合った手が、確かめるようにかたちを辿る。そうして、心なしかその身体から力が抜かれたように見えた。寝込んだ人の子が見せるものと大差ない。そんな反応に、だいぶ参っているらしい、と亡命者は眉尻を下げる。

 既に休めとは言ったが、この悪魔がこのままそういう姿を見せるかと言えば、間違いなく否だろう。今日は仕事にも貢献してくれたわけであるし――と亡命者は上体を折って悪魔の顔を覗き込む。

「今週はもう餌を与えてやったが、ご褒美だ」

そう、囁いて、自分の唇を悪魔のそれと重ねた。ふわりと押し付け、唇で相手の唇を柔く食み、薄く開かれた歯列の間へ舌をそっと押し込む。チリリと鋭い牙に擦れた場所が甘く痺れた。

 普段されている動きを思い出すように、拙い動きで相手の舌を掬い、絡ませて擦り合わせる。それに応え、いつもより緩やかに精気を奪いながら、悪魔は不意に見えないことが惜しいと思った。普段の食事よりも艶のかかったように思える吐息や小さく漏らされる声に、その顔が普段に比べ、より熱を帯びていることは想像に難くない。目蓋も強く閉じられているのだろう。けれどそれを今の悪魔は視認することはできない。それが、直に見られないことが、惜しい、と思った。

 枕の傍に置かれ、その身体を支えている亡命者の片手が、凪いでいた白い水面に波を立てる。そろそろか、と相手が見えていないことは解っているけれど、目蓋をそっと開きながら思った。茫洋とした、悪魔の褪せた目が見えた。

 未だに慣れない口付け中の呼吸と失われていく――与えている――精気で霞み始めた意識ながら、亡命者は眠りを誘う魔法を発動させる。繋がれた手から、静かに眠りが悪魔の意識を奪っていく。そうして、弛緩していく身体から、亡命者は身体を離していった。力の抜けた手を解き、自分の手を占有していた手を毛布の中に入れてやる。次いで目に入った穏やかな寝顔の頬を撫で、就寝の言葉を添えた。それから静かに寝台から立ち上がって、その場を後にしたのだった。

 

(攻と受を閉じ込める誰か)(手探りで受を探す攻)

お仕事

捻じ込みは基本……( ˘ω˘ )​

聖職者さんと亡命者さんが益体の無いこと喋ってるだけ

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 いわゆる、安息日とされている日の昼下がり。それでも薄暗い教会の中で、適当な場所の長椅子に腰掛けて、聖職者は徐に口を開いた。

「――私の杯はあふれる。私の生きているかぎりは必ず恵みといつくしみとが伴うだろう」

「いつくしみ?」

聖職者から、三人分ほど離れて、同じ長椅子に腰を下ろしていた亡命者が面白そうに繰り返す。

「伝えられている言葉を諳んじただけだ。他意は無い」

翼の羽搏く気配がして、頭上から何かが去っていくのを感じた。姿は見えずとも、気に入りの者の傍にいることは多いらしい。教会の中で信仰の言葉を聞くと言う嫌がらせを受け、その場から離脱した悪魔は――亡命者の近くにいる者の力をそれなりに認めてもいると言うことだった。

「私は……、神を信じていないわけではないが、お前たちが仰いでいる神のことはよく解らない。何故実在するかどうか判らない神を信仰できる?」

「俺に訊かれても困る問いだな、それは。俺とて神を信じているわけではない」

投げかけた問いに対して、事も無げに吐かれた言葉に亡命者は目を丸くする。

「特にこの教会が建つ理由となった神はな。お前の異名となっている旋律が失われていなかった頃は大きな勢力で、もっと厳格だったらしいが――その文明が滅んで以降は衰退、弛緩しているようだな」

「私の異名は……あれは七つの銃火と言う点しか類似点はないだろう」

「そうだな。伝承によれば、魔弾は七発すべてが射手の狙った的へ当たるものではないしな。しかし引き金を引く言葉と歌われる詞が同じという点は……、これも偶然か?」

不意に、祭壇から直線上に見上げる、壁の上部に嵌められた色硝子を眺めていた聖職者の眼が亡命者へ向けられた。

 神を信じているわけではないと言われた時のまま、何とはなしに聖職者の方を見ていた亡命者は、自然とその浅葱色を受け止めることになる。仕事に駆り出され、また同行する回数もそれなりに重ねてはいたが、この聖職者がどこまでの知識を有しているのか、亡命者は測りかねていた。書庫の本たちを読破し、記憶しているとでも言うのだろうか。

「――……それは、言葉の通りの、願掛けのようなものだ……が、私がそれらの音楽を好いていると言うことは、否定しない」

多くは残っていない文献から曲を再現しようとした経験があることまでは口にしなかったけれど、亡命者は前文明の文化を戦闘の参考に取り入れていることを認めた。しかしそれは今の話の軸ではない。

「いや、そんなことより、曲がりなりにも教会に属しているのだろう?そんな発言をして大丈夫なのか?」

「誰が何を信ずるかは自由だろう? 衰退したとはいえ、教会の本流を汲む奴らやその周囲は前文明からの神とやらを未だに強く信仰しているようだがな。時々来て勧誘じみた説教をしていく奴らがそれだ。奴らも自由な選択は個に与えられた当然の権利だと言っている」

以前教会に来ていた、絵に描いた聖職者のような、人の好さそうな男を思い出す。その男と共に来ていた二人も神をよく信じているようで――敬虔な教徒とは、あれらのことを言うのだろう。世界の光を味方にしたようなあの空気は、相容れないな、と思ったものだった。それに比べてこの聖職者は、やはり、らしくないのだ。

「……お前は、本当に神に仕えている身か?」

礼拝や告解の対応、伝えられている言葉を先程のように諳んじることが出来る等、聖職者としての能力が十分であることはよく解っている。けれど、そんな言葉を漏らさずにはいられなかった。

「そうは思っていない。立場はそうなるが」

それなりの生活が約束され、困り事もほとんど無いから安いものだと聖職者は言った。

 元は根無し草だったらしい。そして人を失っていたこの教会へ辿り着き宿としつつ、その間に興味から読み漁った書物から知識を得たと言う。そこから、未だちらほらと訪れていた町民相手に真似事をしていたら、勝手に手続きやら何やらを済まされていたのだとか。最低限の仕事をこなしてはいるが、それを片手間にされていることを――当然だろうが――よく思わない中央の教会から派遣されて来るのが、件の人好きのする聖職者たちだと言う。町民たちは今の程度の対応で満足しているらしいが、衰退気味だと言う教会は、僅かにでも勢力を足したいのだろう。

 つまり異端なのだ。薄々感じてはいたが、規格外なのだと亡命者は認識する。

 何とも言えない表情を浮かべる亡命者を軽く笑いながら、聖職者は長椅子から立ち上がる。

「前文明の頃から永く信仰されていることは認めるが、あまりに曖昧で頼りないよな。知識として知っておくことは無駄ではないと思えるが」

「つまり……神は知識、信ずるものは己、と言うことか? お前が術として用いている言葉たちも、知の一部であると?」

聖職者に倣い、長椅子から腰を上げた亡命者はその背を追う。二人分の硬い足音が教会に響く。

「己を信じず何を信じる? 実在が疑わしいものに実在するものを救えるのか?」

中央の道を、その場に相応しくない話をしながら歩いて、閉ざされていた扉に手をかける。

 ギギ、と軋む音をさせながら扉が開かれていく。ひつじのような雲がぽつぽつと流れていく空は抜けるほどに青い。当然だが周囲に人気は無い。二人揃って屋外へ出る。手を離された扉は、自然、閉じられていた状態へ戻っていった。背後でバタンと音がした。

「時代と共に言葉は音も意味も変化する。今日は安息日だと言うが、この日の意味も少しずつ変化して伝わっているようでな。過去と同じように過ごすのは特に信心深い者たちくらいだと聞いた」

仕事も遊びも宗教も脇へ寄せ、文字通りの安息をなす日だと受け入れられていることは、静かな街の様子から想像に難くない。教会へ足を運ぶ者もおらず、楽で良いと聖職者は好意的なようである。

「……ならば、お前は、実在する神なら、不変である神ならば信じるのか?」

「今日は質問が多いな」

普段とは異なった様子の亡命者に珍しく苦笑のようなものを浮かべつつ、聖職者は歩きながら話を続ける。目的地は、平時はその影を皆の憩いの場として提供している樹だということが進行方向から察せられた。サクサクと短い草を鳴らして往く聖職者の黒い背中を追う。

「神によるな。少なくとも、俺より強くなくては仰ぐ気にはならん」

「自分より強くなければ……? 随分と自分の力に自信があるんだな」

「そう言えばお前は、神を信じていないわけではない、人間だったな。お前の信じる神は何だ」

「私が主とする神は――……そうだな、神父殿に似ているかもしれない」

「……? 実在する類の神か……?」

「主は実在する。少なくとも私たちの主は。今は不在だが、いずれお戻りになる」

声の主は一歩後ろを歩いていたから、表情を見ることはできなかったけれど――その声は、その時だけは少しだけ、弾んでいるように聞こえた。

 目的の場所まで来ると、そこには変わらず、樹とそれがもたらす木陰があった。根元に腰を下ろす。緩やかに風が吹き抜け、髪を揺らしていった。

「まあ、お前がどんな神を信じているのか、俺には関わりの無いことだが――教会が信じているものよりは面白そうだ」

「神父どころか人間とも思えない不遜さだな…………その不遜さは、嫌いではないが」

そうして、くすくす肩を揺らしていると、聖職者が徐に体勢を変えながら膝を貸せと亡命者へ宣った。なに、と亡命者が訊き返すより早く、聖職者は伸ばされていた脚の上に頭部を乗せる。その一連の流れと速さに、貸す貸さないではなく占拠ではないのかと亡命者は思った。太腿の上に乗った顔を覗き込んで苦笑する。

「まさかこれが目的だったとは言うまいな?」

「長椅子よりかは草土の方が幾分かマシだよな」

挑発的に上げられた口角に天を仰いだ。梢や重なり合う葉の間から澄んだ青が覗き、黄金色の蜜を薄く伸ばしたような光が射し込み落ちる。部屋で眠れば良いものを、と溜め息ながらに言えば、諸々面倒だ、と返って来た。

「だが良いのか? たいして柔らかい枕ではないだろう?」

「鼻につく香水付きの枕か、たいして柔らかくない枕だったら後者で良い……おい子供扱いをするな」

「おっと、以前居た場所では年下の面倒も見ていたものだからつい……ふふ、失言だった」

言いながら、亡命者は聖職者の髪を梳く手を止めない。聖職者も聖職者でそれ以上何かを言うことは無かった。さらさらと流れる髪に陽光が当たり、きらきらとして綺麗だな、と相手の髪を眺めながらぼんやりと思う。猫のように細められた目が、悪い気はしていないことを示していた。

 どこまでも静かに流れていく時間に、身体を横たえていない亡命者までうつらうつらとし始める。心地良い眠気の囁きに耳を傾けていると、不意に下から手が伸ばされた。顎先に触れた指に下を向けば、その手は頬を伝い、首筋を捉えた。

 ぐい、と引き寄せられ、息が詰まる。地面が一気に近付いた。そして、唇に薄くかさついた柔らかさ。

「……さあ、それでは私と貴方と契約を結んで、これを私と貴方との間の証拠としましょう、と言ったところか」

恐る恐ると言った速度で上体を起こしていく亡命者に聖職者が平生よりも丸い笑みを浮かべる。合わせられた唇の名残を舐め取るように、舌先が唇をなぞっていく。

「……微睡の中だと言うことを考慮に入れても、あまり良い趣味の揶揄いとは言えないな」

やや赤みを増した顔が面白くなさそうに聖職者を見下ろす。それを聖職者は笑ったまま見つめ返す。

「契約は遊びでするものではないことを忠告しておいた方が良いか?」

「遊びではない。お前は有用だからな。傍に置いて不便は無い」

「褒めても何も出ないぞ。それに――言っただろう? 私も私で信じているものがあると」

「そうだな。有用で、一途だ。だから、お前が信奉している神から奪うことも一興だ」

「神に喧嘩を売るつもり気か」

「勝った者が望む物を得る。道理だ。神だろうと実在するのなら触れられる。在るなら無くも出来る」

穏やかな午後に似合わない、物騒な言葉に笑みを含ませて、聖職者は囁く。

「どちらに就くか、決めておいた方が良いぞ。誰も二人の主人に兼ね仕えることは出来んからな」

「不遜だな。高慢と言っても良い。お前が強いことは認めているが、神に比類出来る人間など――」

「だが、嫌いではないのだろう?」

人の話を聞いているのかいないのか――兎角、亡命者はその楽しそうな声と言葉、そしてきらきらと透き通った浅葱の、細められた双眸に閉口させられたのだった。

 

(うとうとする攻と受)

お昼

 市街地から少し離れた雑木林に亡命者は踏み入っていた。人気は無い。獣や低級魔族の姿も見えないが、気配はある。相手にしなければ姿を現すこともないだろう。無造作に伸びた樹々の擦れ合う音を聞きながら、目的地でもあるかのようにサクサクと林の奥へ奥へと歩いてく。

 市街地から更に離れ、隣接している小さな山に近付くにつれて陽光は遮られ、鬱蒼と影が空気を圧していた。歩き続けていた亡命者が――休憩だろうか――適当なところで足を止めると、その瞬間を待っていたと言わんばかりに細長い影が亡命者へ迫って来た。

 ヒュッと空を裂く鋭い音。丁度、頭上の枝から落ちて来ていた青葉を二つに割って飛来するそれは、よく手入れのされた矢で、疑いようもなく亡命者を狙って放たれたものだった。

 片足を動かすだけの動きでそれを避け、周囲に居るはずの射手を探る。矢が射られた方向を辿っても相手には辿り着かないだろう。長々とその場に居続けるのは賢明ではない。ざわ、と蒼を擦れ合わせる風に紛れて移動しながら、猛禽のように自分を仕留めようとしている相手の気配を追う。その間にも鋭く乾いた音が前面背後問わず襲い掛かって来る。亡命者の足元に、獲物を捕えきれなかった矢が増えていく。ポタリと浅く傷付けられた場所に滲んでいた赤が落ちた。

 何か魔法が展開された、神経質に思える高音が聞こえたのは、それとほぼ同時だった。

「――ッ!」

狂人のような笑い声と共に人影が急降下してくる。亡命者の背後、人間の死角を選んでいた。その手には弓が見えた。中距離から遠距離を得意とする得物であるはずの武器を手にしている相手は、矢を射ることなく、近接戦を仕掛けてきたのである。

 亡命者は目を丸くする。そして振りかぶられた弓を――避けきることは出来ないと判断したのだろう――受けようと、咄嗟に防御魔法を展開した。眼前に展開された魔法陣にも怯まず、相手は手にした得物を振りかぶったそのまま叩き付けた。

 近距離でも戦えるよう強化された、弓にしては存在感のある武器が光の壁を砕く。透き通った音をさせながら散っていく魔法壁の、その後ろには、もう一つ魔法陣が展開されていた。今さっき片付けた魔法陣とは違った紋が浮かぶそれに、相手の舌打ちが聞こえた。その反応に口角を上げて、ふるえろ、と亡命者が囁いた。

 林が震えた。樹々の梢が揺れ木の葉が舞い、羽を休めていた鳥や根元で憩っていた獣たちが一斉にその場から離れていく。

 どさりと朽ちた草木の上に二人分の影が倒れ込む。標的の頭部に振り下ろされるはずだった相手の得物は的を外していた。魔法壁に遮られ空気を震わせる魔法に弾かれ、持ち主が身体を空中で前方に半回転させた際、標的の顔を掠めていた。そして、半歩程距離を取っていた亡命者へ体当たりをするかたちで重力に従ったため――弓は腹部へ突き立った。

 勢い余って相手は少し離れた場所に転がる。弾みはせずとも震える呼吸が、静けさを取り戻していく林の中に紛れていく。がさ、と音を立てながら得物で地面に縫い止めた亡命者へ近寄り、覗き込む。亡命者もまた相手と視線を合わせ――ともすれば逢瀬のようにも思える至近距離で見つめ合う。

 先に口を開いたのは亡命者だった。

「――……このまま、」

こぷり、と口端から血が溢れる。刃として使える程度には磨かれた弓のリムは額から頬にかけて亡命者の肌を切り裂いていた。顔の輪郭を辿る、綺麗な線が描かれている。赤い線が走っている方の目蓋は閉じられ、いつもの青紫を隠していた。軽傷とは言えない状況ながら──亡命者は何処で何が見聞きしているかわからないから、抑えた声が届くこのままで、と囁く。

「標的には接触した。私も教会に住み込みながら探っているが……まだ例の物には辿り着けていない」

「懐まで潜り込んだって感じか。さすがだ」

「懐……かどうかは判りかねるがな…………出来るだけ早く特定する」

覗いていた青紫が申し訳なさげに伏せられる。こふ、と赤い波が亡命者の口元をまた汚した。その正面にいる、相手の顔も跳ねた雫に微かに汚れた。金茶色の双眸が痛みを堪えるように揺れる。

 狙い狙われる関係にしては不自然な程穏やかに言葉を交わしている二人は、実際のところ、そのような関係とは言い切れなかった。同じ場所に居た時と変わらず、互いに触れ合い、温もりを共有する。

「……、無茶するなよ、こんな、下手したら取返し付かないだろ」

「我が親友はどうにも優しいようだからな」

祈るように目蓋を閉じた相手――親友に亡命者はゆるりと笑う。

 元々家族のように距離が近かったおかげか、他の追っ手よりも亡命者を追う演技が優しいのだ、この親友は。大概の追っ手は本気で殺しに来ているような気迫で接触してくるし、言葉通り命を懸けて出向いて来る。もちろん、差し向けられる追っ手の、階級によっては何も知らず、素直に亡命者を殺しにかかる者も居るが――この親友は、生け捕りをしようとしている、程度の追い方をするのだ。

「無意識かどうかは訊かないでおこう。しかし、上手くやらねば、何も知らない末端のやつらへの対応が面倒になるだろう?」

亡命者――組織の上層部が何をしようとしているのか、知っている者は多くない。広く知られるべきことではないからだった。わかってる、と溜め息と共に親友が囁く。

 その時、心地良さげに目蓋を閉じていた亡命者が凪いだ青紫で世界を映した。ひとつの青紫が、見えないものを見ようとするように凝らされる。それだけで拭い去られた温かな空気に、親友も同じように周囲を警戒する。近付けていた顔を離し、突き立った得物をいつでも手に出来る体勢になった姿は、仕留めた獲物を他者に取られまいとしているようにも見えた。ザアッと大きく風の音がした。

 勢いよく身体が吹っ飛ばされ、背後にあった樹の幹に背中が叩き付けられる。衝撃に息が詰まり呼吸が止まった。ハラハラと小枝や木の葉が舞い落ちていく。痛みに呻きつつ反射的に閉じた目蓋を開ければ、亡命者から弓を引き抜いている黒い人影。そして、引き抜かれた弓を躊躇いなく自分に向かって振りかぶる姿が見えた。

「なん――ッ!」

悪態を吐きながら痛む身体を動かして前のめりに地面へ伏せる。頭上を普段から使い慣れた得物が通り、数秒前まで自分の頭があった場所に喰いこんで止まった。ヒュ、と浅い呼吸が零れる。視線を上げると、その人影が歩み寄って来ている姿が見えた。後ろでは亡命者が傷を押えながら身体を起こそうとしていた。

 人影――男が近付いてくるにつれて濃くなっていく魔の気配に、そいつが魔族、或いは悪魔ではないかと考える。しかし、そんなものが何故ここに居るのか、仕留めやすそうな亡命者ではなく自分に向かって来ているのか、親友は解らなかった。

 パリ、と魔力の弾ける音。それに一気に思考が引き戻される。やばいやつだ、と頭の中で警鐘が鳴った。一歩手前で停まった足音に、けれど身体は上手く動いてくれない。人一人殺すには十分な魔力が注がれた火の玉が、男の黒い手袋に包まれた手の内で浮かんでいる。その手の平が下を向き、埃でも払うかのような軽さで動かされた瞬間、見覚えのある手が重ねられ、炎が潰され消えた。

「! ……、?」

訪れる熱を覚悟して固く閉じられた目蓋が、恐る恐る開かれる。そうして、よく知っている背中をその目は映した。

「――悪いが、私の目の届くところで殺させはしない」

「庇うのか。酔狂だな」

自身を転移させて二人の間に割って入った亡命者が笑う。

「それよりも早く私を医者のところへでも運んだ方が良いのではないか?久々の口に合う餌なのだろう?」

重ねた手を握り、自分の腹へ持って行く。ぐじゅりと濡れた服の下で、引き攣るように小さく筋肉が震えていた。回復魔法の欠片が負傷部位を細々と癒している。数秒、探るように亡命者を見ていた男が纏っていた空気を緩め、握られていた手を引いた。手袋に付いた血を舐めて、人間たちを薄ら笑った。

「なるほど、人間は自己治癒力が低かったな。失念していた」

「悪魔と一緒にしないでくれ。人間の身体は繊細なのだ」

亡命者を挟んで相対している男が悪魔だと判明し、親友は驚きに言葉を詰まらせる。悪魔のアの音が短く弾けた。そうして、野菜の詰まった頭陀袋をそうするように、亡命者を肩に担ごうとしている悪魔と、大人しく担がれようとしている亡命者を、目を白黒させながら見る。

「な、何して――そいつ悪魔なんだろ!?」

「ふふ。大丈夫だ。これは少し変わっていてな、他とは違う」

立場や役目を刹那忘れ、親友が人間の常識で二人の行動に口を出した。担がれながら親友に平然と答える亡命者は怪我人とは思えない振る舞いをする。

「それに――利用価値が大いに見込める」

くすくすと笑う亡命者に親友は呆気にとられる。利用価値があると言われた悪魔の方は、当然だろう、不機嫌を示す空気をぶわりと滲ませた。

「人間風情が俺を利用できると?」

「おっと、本人がいるところで言うべきではなかったな」

剣呑な悪魔にも動じない亡命者に悪魔も慣れた風に鼻を鳴らして担いだ身体を軽く叩く。傷に響く痛みに亡命者が文句を言う。その姿は実に気安げで――少し離れた間に知らない姿を増やしている亡命者に、親友はそっと唇を噛んだ。こんなことは知らない。この悪魔は自分たちのこと、目的を知っているのだろうか。亡命者が組織に忠実であり実力も十分であることはよく解っているから、任務の支障となるようなことにはなっていないのだろうが――よりによって悪魔と交友関係を築いているなど思っていなかった。それなりに高位だと言うことは人間に化ける上手さから判る。悪魔特有の淀んだ嫌な気配を滲ませていない点は気になるが、そこが亡命者の言う少し変わっているところ、なのだろう。

「……お前、」

親友が思考の浅瀬で水遊びをしていると、不意に悪魔が声をかけてきた。

「コレは私のモノだ。次は無いと思え」

「逆だろう? お前が私のモノだ。養っているのは私なのだから」

「黙れ。いい加減慈悲深く飼われている餌の身だと認めろ」

さも理だと言わんばかりの不遜さで言い切った悪魔に亡命者が異を唱える。それがいつもの遣り取りらしいことは容易に察せられた。そして、自分が悪魔の視界から逸らされたことも。

 亡命者を担いで林を市街地へ向かって歩いていく悪魔の背中を見つめる。チラと向けられた亡命者の視線が意図するところは、心配するな、だろう。どうやら亡命者の中で自分は未だ年下の親友であるらしい。

 知らず、張り詰めていた緊張の糸が緩んで溜め息のような深呼吸をする。そうすれば忘れていた身体の痛みがぶり返してきて、今度こそ溜め息を吐く。少なくとも数本は折れてるよなぁ、と亡命者の親友は樹に刺さっていた得物を支えに立ち上がる。深々と食い込んだそれを引き抜けば、パラパラと木屑が落ちた。上への報告をどうするか、痛みをごまかすように頭を回しながら歩き始める。

 雑木林を抜ける頃には亡命者の身体はぐったりとしていた。途中から途切れ途切れになり、今では静かになった人間の反応に、悪魔は担いでいた身体を抱きかかえる体勢に変えてその様子を見る。

「……苦しいか」

「……、……、」

体勢を変えた意図を訊きたげな青紫は虚ろの縁を彷徨っているようだった。か細い呼吸を繰り返す口元は赤く、美味そうだと悪魔は思った。はく、と何か答えようとした際に溢れた赤がやはり鮮やかだった。けれどさすがにこの状況で食事をすれば人間が更に危険な状態になると理解していたから、そこから視線を逸らして腹に眼を遣る。当てられていた回復魔法は既にその残滓を残すばかりだった。亡命者を殺そうとしていたらしい、そして亡命者に庇われたあの人間の気配が感知できていた時には平時と変わらずペラペラ喋っていたと言うのに――解せぬ、と首を傾げる。

 兎角これを早急に運ばねばなるまい。亡命者を横抱きに抱え直した悪魔の背から黒い翼が現れる。病院の場所など知らない――知っていても手持ちが無い――ため、悪魔は不本意ながら教会へ戻る選択をする。バサリと翼が空を掴む音がした。

 散歩に行ってくると言って出掛けた亡命者が意識を失い悪魔に抱えられて帰って来たのを、聖職者は特に驚きもせずに出迎えた。むしろ慣れた様子で手当てをしていった。腕や顔の掠り傷には消毒とガーゼ、特に大きい腹の傷にはそれらに加えて回復魔法を当て、目については当人の意識が回復してからだと言った。いつかのように亡命者を寝台へ寝かせ、いつかと違ってそれを眺めている悪魔を横目で見る。

「魔族は、回復魔法を持たない種族だったか?」

それまで黙って聖職者の行動を見ていた悪魔がふっと声の主へ意識を向けた。翼と同じく、黒い尾がゆらりと揺れた。

「……魔族の回復魔法が、人間も回復させるのか試してみるべきだったか?」

「ほう? 存外、臆病――慎重なんだな」

茫洋としていた悪魔の雰囲気が常のものに戻る緊張感に笑みを浮かべながら一通りの対応を終えた聖職者は部屋から出て行った。悪魔と亡命者が小さな部屋に残され、静寂が満ちる。

 亡命者が目覚めたのはその日の内のことだった。日が沈んだ数時間後に目を覚ました。

 意識の回復を伝えるため、聖職者へ愛鳥を遣いに出して、茫洋と天井を見上げる。いつもより天井が狭い。顔へ手を遣れば、ガーゼとガーゼを止めているテープに触れた。見慣れた、けれど久しぶりに相対した甘い金茶を思い出して口元を綻ばせる。半分減った世界に不便や不満を感じてはいなかった。

 しばらくして、遣いに出した愛鳥と共に聖職者が部屋に入って来る。気分は、と訊く聖職者の声は、軽い風邪の患者を相手にでもしているようだった。亡命者は使い魔を肩の上に迎えながら身体を起こす。寝台の脇のテーブルにある燭台に火が灯され、その傍に水差しとコップが置かれた。

「相変わらず的確な処置に感謝する」

「礼ならあの悪魔に言ってやれ。それよりもその目は、」

「あぁ……数日は見えないな」

「数日?」

人間の眼球――視力が自然回復することなど、と首を傾げる聖職者を余所に亡命者は傷付いた眼を覆うガーゼへ手を伸ばしていた。

 まだ仄かに赤みを帯びた線が現れる。それ含め、負った傷は魔法のおかげで残らない。そして、開かれた亡命者の目蓋の下から、罅の入った球体が現れた。持ち主は躊躇いなく眼窩へ指を差し込み、それを取り出す。

「そうか、移植者だったか」

ころりと亡命者の手の平に乗った球を見て、聖職者が頷いた。

 生まれ持った身体の部位を換えることはそれほど珍しいことではない。技術的には高度で、それなりの代償を覚悟する必要はあるけれど、貧民街の子供でも知っている。戦士や兵士、魔法使い、狩人など、各職業分野で名を挙げている者はほとんどこの肉体換装を行っている。そして移植した部位は、新品に換えるか直すかをしてその能力、機能を回復することが出来る。知られてはいてもあまり会うことの無い人種に、視線が微かな興味を帯びる。

「正確には移植ではなく強化だが――まあ、移植と言ってもいいくらいには元とは別物だな」

聖職者の視線を知ってか知らずか、亡命者は苦笑を浮かべた。取り出した眼球は外部のものではなく、自身の一部なのだと言った。

「元々眼は良い方だったから、より色々なものが見えるよう、利便性を求めたのだ」

「着脱の自由も利便性を求めた結果か」

移植程ではないが強化もまた時々耳にする技術――内容も肉体を強化すると言う点で同じようなもの――であったから、特に驚くこともなく話を続ける。木でも石でも手を加えれば別の道具へ変わっていく。それらと変わらない。

「これはおまけだな。便利ではあるが」

神経回路の接断も何を見るかの視界の切り替えも自由だと亡命者は言った。それは意思一つで自由に出来、何時どんな世界を見ているのかを他者が知ることはない。現在の状態になるまでどれだけの時間と技術を費やしたのかは、元の色を塗り潰した青紫が語っていた。

「ならばその目は放っておいて問題無いな。動けるようになるまでは出て来なくていい」

とにかく、眼球と視力については触れなくて良いと判断した聖職者は部屋を出ようと踵を返す。それを亡命者が引き止めた。

「ああ、それで、神父殿に一つ頼みたいことがあるのだが、良いか?」

「……聞くだけ聞いてやろう」

「直るまでこれを預かってはくれないだろうか。うっかり悪魔に食べられては堪らない……部屋に置いておいてもらえるだけで良いのだが」

訝しげとも面倒そうとも受け取れる表情の聖職者に、眉尻を下げて訊いた。遠慮がちな表情と言い方に似合わず、その手は既にいつもの硝子ケースに眼球を入れ、聖職者へ渡す準備をしていた。

「…………預かるだけで良いんだな?」

「構わない。修理分の魔力や術は付与済みだ」

まぁ何か減るでもなし――と聖職者は差し出された硝子ケースを手に取った。一つになった青紫が嬉しそうに弧を描いた。

 聖職者が亡命者の片目を持って部屋から出て行くと、静かになった室内で亡命者が口を開く。

「――礼は言わないぞ。あの後この部屋へ転移しようと思っていたんだ」

「するなら死にかける前に転移するべきだったな。大体、何故あんな場所へ行った」

「下手に離脱して街や教会まで来られても困るだろう? とんだ散歩になった」

「…………そういえばあれを庇っていたな。親しい人間だから殺せなかったのか?」

弟のようなものだからな、と笑えば、下らん、と吐き捨てるような声が返って来た。

 ゆら、と影が揺れたと思うと、悪魔が姿を見せた。本人にとってはあることが当たり前なのだろう、悪魔の角や羽がそのままになっている。普段は見かけないそれらの部位を、子供のように目を丸くして亡命者は見つめる。その青紫を覗き込むように、歩み寄って来た悪魔が寝台の亡命者を見下ろす。空になった眼窩の影を落とす目蓋と心なしかいつもよりきらきらとした隻眼。

 悪魔の指先が窪んだ目蓋を撫でる。薄い肌の儚さに触れ、知っているものではない感触に眉を顰めた。そんな悪魔の側頭部――角へ亡命者が手を伸ばす。硬く鋭い角に、やわらかな人の手が添えられる。なにをしている、と威圧的な声。

「お前も、角や翼を、持っていたのだな……と思って」

「当たり前だ。人間に角や翼はないだろう」

犬や猫を撫でるような手つきで悪魔の角を撫でる。滑稽な状況だとは思いつつ、けれどそれは不快ではなくて、悪魔は目を細める。

「やはり化けるために普段は隠しているんだな。人型ではない、真の姿、のようなものもあるのか?」

優しくも好奇心旺盛な手に誘われるように悪魔は身体を折る。角に触れていた手の片方が、背中に回された。

「お前にはまだ早い……おい、調子に乗るな」

そのかたちを、やわらかさを確かめるように、羽にも触れ始めた手はしかし振り払われない。微かに、温もりから逃げるように黒い幕が震える。するりとしなやかな尾が手や腕を捉えた。

「ふふ。珍しくてな……神経は通っているのか?」

「…………通ってはいる。尾と翼は手足と同程度だが、角はそれより鈍い」

面白くなさそうに答える悪魔の手が意図して亡命者の頬を軽く摘まむ。傷が刺激され、痛い、と文句が呟かれた。けれど未だ多種族への興味は失せていないようで、普段隠されている部位は楽しげに触れられている。

「そうなのか。特別感度が良かったりはしないんだな」

「何故弱点となる部分をこれ見よがしに晒さねばならん。探索系でもあるまいし」

「探索系?とやらは感度が良いのか。悪魔にも色々いるんだな」

「鋭敏な神経や感覚を持ち、風を読み音を聞き明暗を見て魔力を選り分ける、厄介な奴らだ」

それは――自分が得意とする仕事と似ているな、と亡命者は話を聞きながら思った。もちろんそれを敢えて言うことは無い。

 話に気を取られてだろうか、亡命者の手の動きが小さくなったと同時に悪魔は上体を起こした。亡命者の手を咎めていた尾も、するりと離れていく。亡命者は、離れていく感触を追うことなく手を下ろした。そして、遠ざかっていく異質の黒を眺めながら、その持ち主に訊く。

「また触らせてくれるか?」

「……考えておく」

縁があればまた機会は訪れるだろう。曖昧な返事をする悪魔に、そうか、と亡命者は穏やかに頷いた。結局、どちらも曖昧な約束だった。

 こくりと一度首を動かして、亡命者は再び寝台へ横になろうとする。もぞもぞとシーツに潜る姿を見下ろす。諸々の種族の中でも特に凡庸な人間族はそれなりの休息も必要としていて――不便そうだと思う。手持ち無沙汰に燭台の灯を指先で消すと、部屋を照らす明かりは差し込む月明かりだけとなった。いつかのように寝台の上の人間の目蓋がゆるゆると重たげに上下する。

 未だ自分を映している青紫を捉え、そっとそこから離れる。そうして、現れた時のように、光の当たらない影で悪魔の姿は溶けて消えた。黒い霧が広がったと思えばすぐに薄まり消えた。部屋に独りとなった亡命者が、大きく一息を吐く。

 物自体は多くないけれどそれらが各所に置かれ、雑然とした印象を受ける部屋。その部屋の棚に、これもまた何の意図もなく置かれた硝子ケース。中には罅の入った球体が浮かんでいる。つるりと滑らかな球面が室内を空虚に映す。部屋の主は既に寝台へ潜り身体を休めていた。静かな夜の部屋を、ぽつりと浮かべられた隻眼が見ている。

 

(受けを攫う攻)

秘密

聖職者さんと亡命者さんと四騎士(オリジナル)がだべってるだけ。ほぼ会話文の小ネタ。本編にはそんな関係ない。

四騎士(オリジナル)がたくさんしゃべるよ!

捻じ込みは基本( ˘ω˘ )

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 その亡命者は実に好奇心旺盛だった。

「あの四つの騎士と話がしてみたい」

情報と現実がどれだけの差異を持っているのか、その点では純粋な知りたがりだった。そして、そんな突飛なことを言われた聖職者は、チラとそちらを見て、良いぞ、とあっさり言い切ったのだった。おそらくそこに深い意味などなかった。

 特にすることのない穏やかな昼下がり、建物の傍に、聖書を持った聖職者と、いつも通りの亡命者。

 白。あるいは勝利。

 自室から持って来た王冠を亡命者の頭に載せ、聖職者は聖書を開く。そして、呟くように言った。

「避けろよ……来たれ、白い馬が駆ける」

するといつかのように魔法陣が現れた。地面の緑と空の青を背景にして、より鮮やかな白い光だった。蹄の音は未だ聞こえない。何を避けるのだろう、この王冠の意味は、と亡命者は小首を傾げる。

 キリ、と何かが軋むような音が、微かに聞こえた。それは魔法陣の奥から聞こえた――ような気がする。けれどそれは気のせいなんかではなく、直後、ヒュンッと鋭く空を貫く音が近付いてきた。

「!」

胸の中央に向かってきた飛来物を、身体を退くことで避ける。避けられたそれは、ガッと鈍い音をさせて、背後の樹に突き立った。美しい、白い矢だった。その木陰では聖職者が持っている本をパラパラと読んでいる。矢を追っていた視線を魔法陣へ戻すと、今度こそ間隔的な蹄の音が聞こえてきた。

「なんだ、避けたのか。勿体ないな」

言いながら、白の魔法陣から、第一の騎士が姿を現した。

 跨る馬は白く、また身に纏う鎧も白い。仄かに象牙のような気品のある色味を帯びている。その手には、やはり白く、大きな弓を持っていた。

 騎士は軽い調子で片手を挙げて聖職者へ声をかける。

「よぅ、久々に喚んだと思ったら、誰だ?この人間」

「お前たちと話がしたいそうだ。相手をしてやれ」

「契約じゃなく? へえ? そりゃまた変わり者だな」

すっぽりと白に覆われた丸い頭部が亡命者に向けられ、それから小刻みに震えた。笑っているらしい。

「……先程の、あの矢はなんだ?」

「あれは契約だ。俺を喚び出すヤツは俺の加護を欲してるからな。顔合わせる前に済ませといた方が楽なんだ」

「相手も知らずに良いのか……というか、あそこの神父殿も契約しているのか?」

「問題ない。俺たちは基本的に人を選ばない。俺たちを求め、喚び出した人間を篩にかけるだけだからな。俺の場合は、これから訪れるだろう苦痛を先に体験させる。さっきの矢に貫かれると、そういうものを感じる。んで、耐えられたら合格。契約書代わりの王冠持ってるってことはその神父も体験してるはずだ」

「……憶えは?」

「さあ? どうだったかな」

あっけらかんと言い放つ聖職者に騎士は馬上で肩を竦めた。

「俺が言うのも何だが、普通じゃないよな。普通の人間じゃない」

「神父殿について思う節なんかは――ありそうだな。聞かせてくれないか?」

「隠すことでもないしな。とりあえず、そうだな……勝って当然だと思ってるよな」

「白の騎士の加護が在るなら当然ではないのか?」

「それ以前からだ。己は常に勝利の側に在るものだと考えてる。俺と初めて相対した時だって、己が当然主側だって眼をしてた。常人のメンタルじゃあない」

「まあ、それは……そうだな、神父殿は人間かどうか疑わしい節があるな……」

「……人外が人を語るな。特にそこの騎士」

「輪の外にいるからこそ見えるってものだ、主様?」

表情は見えないというのに、実に鮮やかな揶揄の声音を発する騎士だった。人間側も声の調子は軽く、昼下がりの陽射しに相応しい穏やかな空間である。

「ふふ。悪くは思っていないんだな」

「悪かない。まず契約できたって時点で好感触だからな。面白い人間は嫌いじゃない」

「慕われていて良かったな?」

「嬉しくない」

「そこまで言ってない」

同時に上がった声に亡命者が笑う。二人の顔はどこか拗ねた子供の顔のようになっていた。騎士に関しては、声からの印象だが。

 最後に、亡命者は真意の捉えきれない質問をする。

「自分にも騎士殿を喚ぶことは可能か?」

聖職者がチラと亡命者を見た。騎士は面食らったように亡命者を注視した。そうして、顎のあたりを指先でさすり、ひとつ頷いてから口を開く。

「あんたは――あんたには無理だな。今回は俺たちと話したいって目的と、現時点での契約者に喚ばれたからできたが、あんたが個人的に俺を喚ぶのは無理だ」

視界と呼吸を確保するために開けられた穴の向こう側から、騎士の目が亡命者を見ていた。

「あんたは俺の領分を欲していない。勝利も、それに伴う栄光も支配も、何も求めていない。他を当たってくれ」

「そうか。いや、訊いてみただけだ」

そして騎士は応と答えて還っていった。その後は、人間二人で適当に時間を潰して、陽が傾き始める頃に教会へ帰った。

 赤。あるいは戦争。

 その日は村人の頼みで、質の悪いごろつきに立ち退きを求めて村外れの廃屋に訪れていた。いかにも相手をするのが面倒ですという空気を出している聖職者に代わり、亡命者が説得を試みる。だが聞く耳持たずと言った様子で、終いには手入れのされていない鉈を持ち出してきたのだった。おや、と亡命者の目が細められる。背後でズシャリと音がしたと思えば、悪魔が背後から近付いて来ていたごろつきの一人の上に着地したらしかった。ぐるりと二人を囲むごろつきはざっと10人近くはいるだろう。多勢と無勢だが、負ける気はしない。けれど殺さないよう手加減するのは――面倒だ。

 そういえば依頼を受けた張本人は何をしているのかと、周囲に視線を巡らせた亡命者は、瓦礫に腰掛け、やはり詰まらなさそうな顔をした聖職者が、ぱらりと本を開いているのを見た。

「来たれ、赤い馬が出づる」

再度、いつかのように、言葉を発すると、赤く燃えるように輝く魔法陣が現れた。荒馬の嘶きが聞こえ、炎が走る。

 身体の間を駆け抜けていった炎にごろつきたちが目を剥く。蹄の音はすぐにやって来た。荒く地を踏みしめる轟きが近付いたと思えば、火の輪のような魔法陣から赤い馬が飛び出す。その上には大きな剣を携えた、真っ赤な鎧を纏う騎士がいた。実に楽しそうな笑い声を上げながら、赤の騎士はごろつきたちの間を往き、躊躇いなく得物を振るった。

「酷いなぁ、こんな詰まらない仕事にこのワタシを喚び出すなんて!」

あっという間に、躊躇いなく、ごろつきたちを一掃した騎士は振り返る。依頼者への報告と――片付けはどうしようか、なんてことを、冷静を保てた頭の片隅で思った。

 赤く燃え盛る馬に跨り、飛び散った赤の飛沫を隠すことなく笑う姿は、古き良き戦争の悪魔たちを彷彿とさせた。

「仕事だと喚んだ覚えはない。お前に客だ」

「あぁ……白いのが言ってたっけ、契約者さんに物好きな友達ができたって」

そうして、やはり馬上から騎士は亡命者を見た。

 背後に降り立った悪魔と亡命者は、聖職者とその召喚物を見ながら、どちらかと言えば不味いものを食べたときのような顔をしていた。

「……あんな悪魔いただろう? 真紅の鎧で馬を駆る……いやでも戦乱を煽るのは別の悪魔だったな……?」

「……前文明やそれ以前の時代に伝えられていた悪魔のことか。実際に見たことは無いが、聞いたことはある。26の軍を指揮する侯爵だったか」

「そういえば悪魔は代替わりするのか? それこそ軍や管轄の引継ぎのような――」

「わあ、悪魔がいる。契約者さん教会の人じゃなかったっけ。あ、でも地獄の臭いあんまりしないね。しばらく里帰りしてないんだ。類は友を呼ぶじゃないけど、変わり者ほいほいって感じ?」

どうにも悪魔じみた騎士が間に入ってきて会話が途切れる。しかし騎士は気にした風もなく、まじまじとふたりを眺め回す。白の騎士とは違い、兜は被っていない。それなりに整っている顔は、煤や土、血痕で汚れていた。

「まあ良いや。ワタシはちゃんと、悪魔じゃないよ。人に殺し合わせて平和を奪う権利と剣を与えられた騎士」

「悪魔の所業と変わらんな」

朗々と言い切る騎士を悪魔がわらう。騎士は動じず、微笑を返した。

「一緒じゃないよ。ワタシは争いを望む人間の元に現れる。ワタシを喚ぶ者は戦乱を望むからね。平和を望んでいる人間を戦争に走らせる悪魔たちとは違う。まあ、ワタシたちの神様が衰退して、喚び出されることも殆ど無くなった今、ワタシたちの思考や行動は召喚者の解釈に因る部分が多いけど」

「……契約はどうするんだ? その剣で貫くのか?」

「ワタシは、そうだなぁ……ワタシを喚んでなお自己を保てるか否かを一応基準にしてるかなぁ。ワタシとしては喚んだ方も喚ばれた方も共倒れてくれたって良いんだけど。やっぱり強い存在に従うのは道理だよねぇ?」

「強い物に従う。単純明快だな。お前のような存在もその道理に従うとは――意外だ」

「強いことは良いことだよ。特に争いではね。契約者さんが強いおかげでこっちに喚ばれることが少ないけど」

「不満なのか」

「喚ぶ前に終わらせちゃうからね。もっと気遣って欲しいよぉ――……けど、まあ、争い得る場所はこっちじゃなくてもあるからね。喚べって駄々こねるほど暇はしてないよ」

上げられた口端が描く弧は綺麗で、それだけならば主人に忠誠を誓う姿を容易に想像できる好騎士だろう。だが、身に纏うすべてがそれを否定していた。

 地を駆けたくて堪らないというような、落ち着かない様子で、その場で足踏みをする荒馬を上手く操りながら世間話でもするような気軽さで亡命者に応じている。蹄が地を踏む度に濡れた音がするのは馬の足元が赤く濡れているためだった。燃え盛る身体と乾かない四肢が、ちぐはぐにも思われた。

 そして、亡命者は前の騎士にしたものと同じ質問を今回の騎士にもする。

「……私にも騎士殿は喚べるか?」

「んんー……そうだね、何かと何かを争わせて、その果てに破滅へ導きたいと思ってるね。だから、まぁ、大丈夫じゃないかな。ワタシをその目的で喚び出して、自己を保っていられるほどの執念ならね」

「そうか」

「そうだねぇ」

ニヤ、とその時だけいやに淫靡に笑んで騎士は還っていった。

「……、」

「ふふ。大した目的ではない」

騎士とのやり取りを聞いていた悪魔が何をか言いたげに亡命者へ視線を遣る。訝しげな紅紫を受け止めた青紫は、冗談めかして細められた。パタンと小気味の良い音がして、聖職者が開いていた本を閉じたことが知れる。相変わらず他人事に興味を示さない聖職者だった。

 黒。あるいは飢餓。

 いつかのように麗らかな昼下がり、聖職者は本を開いた。もちろん、傍には亡命者がいる。初めて見る楽器の音色を聴くような表情でその傍にいた。それを特に邪見にすることも相手をすることもせず、淡々と聖職者は文句を紡ぐ。

「来たれ、黒い馬が通る」

そうして浮かび上がった黒の魔法陣から、今までで最も穏便に、黒い馬が現れた。

 その馬には生気が無く、跨っているもの共々貧相に見えた。線が細く、色が褪せている。不健康に黒ずんだ肌を持つ騎乗者の持っている秤だけが鮮やかに見えた。

「……大丈夫なのか、アレは」

「さあ? 大丈夫だろう、出てきたのだから」

思わず召喚者に召喚物の状態を問う亡命者であった。

「ものをそこなえば餓える……餓えは乾き……満ちる潤いを求め彷徨い死んでいく……」

「……ほんとうに大丈夫か?」

「訊けば良いだろう」

聖職者と亡命者が見えていない様子でふらふらと魔法陣から抜け出て来る騎士に、亡命者は当たり障りなく――たぶん、当たり障りないだろう――声をかける。

「えぇと――とりあえず、その、馬と一緒に休んではどうだろう」

騎士へ捉えていた視界の外で、聖職者が鼻で笑うのが聞こえた。

 掛けられた声に、騎士はグルンと視線を向ける。

「馬――あぁ、大丈夫。ちゃんと元気だから。今ちょっと大人しいけど普段はキレたりデレたり賑やかだから。あぁそうだ馬って言ったら白と赤は見た? あの光り輝くくらい綺麗な白いのと文字通り真っ赤に燃えてる赤いの。白いやつはプライド高くて、赤いやつは気性が荒い。荒ぶれば荒ぶるほど燃える。速いのは白い方。あっという間に通り過ぎてく。盛りの季節ってそんなものだからわかるけど。良いよね。綺麗で速い馬も物珍しくて力強い馬も。良いよねぇ。さすがに欲しいとは言えないけど、うちらの馬とは大違いだよねぇ」

「……馬が、好きなのか?」

「いいや違う。そうじゃない。うちが飢餓だからだよ。飢えと餓えが連なった状態。元々食糧に関する意味だけだったけど、何かを欲する心や状態を表すようになっていった言葉。だからうちは欲する。肉体的にはもちろん、心理的にも、渇きを満たそうとするし、渇きを振り撒こうともする」

「飲食物に留まらず、何かを渇望する……させて、人を破滅へ導く騎士か」

「そーだね。そーなるかな」

ケロリとした表情で頷いた騎士に亡命者は内心面食らう。それまでの空気が霧散している。聖職者の方を見るも、そちらはさして驚いた様子はなかった。亡命者の視線に気付いた聖職者が薄く笑う。

「挨拶のようなものだろう」

「契約したのに全然喚んでくれない契約者じゃん。もっとうちのこと使ってくれてもバチ当たらないよ?」

「お前を喚ぶ? 飢餓だの疫病だのを振り撒く面倒事を喚び込む趣味はない」

「うーわ。愛が足りてないわ」

「ほざけ」

「それも対象に入るのか」

隠しもせず嘲笑する聖職者に、騎士は気を害した風も無くケラケラと笑う。普通の人間と変わりなく、秤を持っていない方の手を軽く振っていた。羽織った黒い上着の裾が乾いた音を立てた。

「言ったじゃん。飢餓は肉体的なものだけじゃないって。欲する以上の、渇望する心にうちは応える」

「……その心を持った人間ならば、誰でも良いのか?」

「まあ、そうだね。自分の飢餓に呑まれなければ良いよ。自分のための力に呑まれるなんて、カッコ悪いじゃん」

「随分と雑な基準だな……ところで飢餓の騎士殿は空腹感などは無いのか?」

「あるよ。飲み食いもできるし。でもどうせ満たされることないからね。それ以前に食べなくても良い種類だから考えないようにしてる」

秤の天秤をゆらゆら揺らしながらあっけらかんと言う。衣食住のどれにおいても満足に得られていないだろう騎士は、それを当然としているようだった。記された文字から喚ばれたモノであるから、そう在ることが当然なのだろうが――同じような人間の姿で人間には有り得ないことを言われる違和感は、感じざるを得なかった。

 そうして、小さな違和感を引っ掛けたまま、亡命者はいつもの質問を――自分に騎士を喚べるか、と――する。騎士は、今一度亡命者のことをまじまじと眺めた。

「――……君は……君に餓えは感じられない。求めてない。その先……?虚ろだなぁ……淡々として……諦め?憎悪?底が無いなぁ……? んー?うち考えるの苦手だからなぁ……わかんないや。うん、とにかく、君に必要なのは飢餓じゃないね」

物語の登場人物の気持ちを考える問題を出された子供のような顔だった。まとめ切れていない言葉を、そうして絞り出して、騎士は達成感に頷く。亡命者は黙したまま静かに笑みを浮かべていた。

 蒼。あるいは死。

 四騎士の、最後の一騎を喚んだ際、聖職者の顔の近くを何か鋭利なもの――すぐにそれは鎌だと知れたが――が掠っていった。来たれ、見よ、と以前見たものと同じ、蒼の魔法陣から喚び出された騎士は召喚者の首を飛ばそうとし、あっさりと避けられた。けれど双方何事も無かったかのように亡命者へ顔を向けるものだから、刹那怯んでしまった。

「…………今、殺そうとした、ように見えたが、」

目深に被られた外套は相も変らぬボロ布と言え――そこから覗く顔の下半分は、白かった。墓地や火葬場でよく見かける、白だった。この状態でどう会話を、と亡命者が思っていると、ミチミチミチと濡れた音がそこを這った。

「――いつも、あれはこの刃をすり抜ける。死を追い付かせない。人間には有り得ない力だ」

得物を肩に凭れさせた騎士は呆れたように呟いた。

「死という終わりは全てに等しく与えられる。ひとつに付き一度、訪れるべき時に訪れ、連れて行く。けれど、これは毎度毎度すり抜けていく。いつか来るべき最期が、現時点までに訪れたはずの最期が、追いついては逃れを繰り返している。その度に帳尻が合わなくなる」

「……契約者に不満が?」

「否。契約とそれ以前の役割は別。僕はただ契約に従うだけ」

「契約……死を司る騎士の契約法はさぞ難しいのだろうな」

「……死はすべての傍に在る。喚び出す力があれば誰にでも喚ぶことができる。けど――常に死が傍に在るという意識を持つことは、相当参るらしい」

「…………そうはまったく見えないな?」

揶揄するような声音で亡命者が聖職者へわざとらしく眼を遣る。それを受けても聖職者は表情を変えない。むしろ皮肉気にも見える笑みを――主に騎士へ――向けた。

「死が生と隣り合っているなど当たり前のことを何故気にする? それと、お前が俺を狩れないのは単に力不足だからではないのか?」

「……」

蒼い布地から覗く口元が微かに引き結ばれる。死臭を纏う騎士の、それまで凪いでいた機微に、ようやく人型らしさを見た。

「ふ、ふふ。碌な最期を迎えそうにないな、神父殿」

「さて。どんな最期を迎えるのだろうな?」

肩を震わせる亡命者に対して、聖職者も――自分のことだと言うのに――楽しげに目配せする。

「騎士殿に魂を奪われるのでは? あっさり逝くのか苦しみながら逝くのか……希望を出しておくのも良いんじゃないか?」

「話を聞くに――何度目の正直になることやら。最期の希望については、生憎世話になるつもりはないな。自分で選べる」

「……僕はそれぞれの運命に従い、生を回収するだけ。自発的に奪いに行くことも誘導することもない」

「ふむ。虎視眈々と機会を窺っているらしい……健気な諸刃の剣だな?」

「積極性が無い、の間違いだろう。仕事に忠実ではあるから、癖のある片刃くらいで良いだろう」

などと好き勝手に生の終わり頃について話す二人だった。その間に積極的に入ろうともせず、騎士は律儀に留まっていた。

 四つの騎士と話をして亡命者が何を知り何を得たのか――それは、当人だけが把握している。

 

(末路の予定の話をする攻と受)

四騎士
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