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 親友の纏う空気が、虚ろになっている、と青年は息を呑んだ。周囲を冷笑――というか、冷めた眼で俯瞰しているような親友に声をかけるのは憚られる。そのひとが優しいことは十二分に知っている。けれどその分、厳しく、畏敬の念を抱かずにはいられないひとでもある。実力者と言えども、まだうら若い青年は年上の親友の様子をこっそりと窺った。

 親友の隣には大抵いけ好かない鳳凰がいる。歳が近いからか何なのか知らないが、事あるごとに親友にちょっかいをかけてくるこの男を、青年は快く思っていなかった。

 それはその日も同じだった。眉間に皺を寄せた親友の隣にヤツがいる。

「――………、それは――、で、…………、だな?」

親友が名も知らぬ拳士の一人から受け取った書類を覗き込んで、あろうことか親友ではなくその隣の男が返事をした。男が内容を確認するように親友の方へ眼を遣れば、親友はコクンとひとつ、首を縦に振る。

「……以上だ。さっさと――………………まったく、貴様というやつは――」

一礼して、返された書類を携え走り去っていく拳士を見送って男は親友に向き直って呆れたように言った。距離があるせいで聞き取りにくいが、確かにその声音は呆れの色を含んでいたように思う。おまけに、困ったような苦笑を浮かべた親友の額を指で弾くところを目撃した。弾かれ仄かに赤く色付いた場所を擦って、何事か言葉を発しようと開かれた唇は、けれど特に動くことなく閉ざされた。肩が小さく上下する。そうして、ふたりは並んで歩き始めた。青年の手元から、ピシリパキリと音がした。互いに互いを信頼しているような、仲睦まじそうな背中が、憎らしい。

 午前中に見かけたふたりを、青年は午後にも見かけてしまった。相も変わらず、距離が近かった。

 午前と何やら様子が違うと青年が気付いたのは、男が親友の腰を抱き寄せているからだった。近付く顔を離そうと、親友が男の肩を押し返している。同時に、何をか言い合っているようなのだが――不思議と親友の声が聞こえてこないことが気になった。それは兎も角、今は親友を助けねばなるまいと青年はふたりに歩み寄る。カツンコツンとたてた足音は、もちろん態とである。

「――おい、何してるんだ」

言いながら親友を男から引き剥がして抱き寄せる。見上げるばかりだった視線が今ではやや並んでいることが、青年は密かに嬉しい。それを表に出さぬよう、青年は男を睨む。不審者を威嚇する番犬が如く、相手へ鋭い眼光を向ける青年へ返されたのは、フンと鳴らされた鼻ひとつ。

「貴様こそ此処で何をしている。水鳥ごときが鳳凰に楯突こうなど片腹痛いぞ」

「なっ――きさま……!」

睨み合うふたりに挟まれた親友は何か言いたげに双方を交互に窺う。皮肉にも、それに気付いたのは青年の方ではなかった。

「大人しくそれを返せ。困っているではないか。それに、そいつも放してほしいのではないか? なぁ?」

え、と親友の方を見ると、困ったように頷かれる。青年はギョッとした。フラフラと力なく後退り――親友からも一歩半、離れた。そんな青年の様子に、今度は親友が狼狽える。男の方へ、何とかしろという空気が向けられた。

「…………風邪をひいたんだと、その馬鹿は。うつるからキスは止めろだの、くだらん」

そうして、結局、溜め息と共に助け舟を出した男である。再び青年の眼が丸くなる。すまん、と親友の口が動いた。青年はようやく成る程と合点する。風邪をひいて、喉をやられたのだ、と。だから声が聞こえなかったのだ。そして、いけ好かない男はそんな親友の手助けをしていたのだと――思い当たって青年は泣きそうになった。あの、あの以心伝心っぷりは何なのか、何故親友たる自分を頼ってくれなかったのか。視界の端で、不遜な鳳凰が口角を上げていた。

 

声がガラガラでやばい

 

(将仁←義 それが歳の差故の気遣いだというのなら悲しすぎて泣いてしまいそうだ)

 前方からやって来る青年の気配が散漫としていて、彼は首を傾げた。はてあの子に何かあったのだろうか、と。心ここに在らずと言うようにすれ違おうとする青年の肩を、ポンと叩いた。

「どうか、したのか?」

「ん……? あぁ、おまえか。いや、なんでもない」

そこでようやく彼に気付いたというように声を上げる青年の目は、僅かに潤んでいるように見えた。

 もしや、と思い彼は立ち止まらせた青年の額に手を当てる。触れた額はじんわり温かく、当てられた手にほうと息を吐いたその反応からしても熱があることは明確だった。

 当てていた手を離して、彼は眉尻を下げる。

「熱があるようだな。歩き回っていて大丈夫なのか?」

「熱……ふん。そんなもの――」

と、鼻で笑おうとして、青年はグラリと身体を傾かせた。突然のことに驚きつつも、しっかりとその身を支えた反射は流石である。言わんこっちゃないと溜め息を吐いて、肩を貸してやる。

「……おい、どこへ行く。おれは大丈夫だと言っているだろう」

元来た道を引き返すことになっている青年は不満げに漏らす。しかしながら抵抗する気配は無かった。

 年頃の青年にしては物の少ない部屋に辿り着く。寝室の扉を開いて、寝台に腰を下ろさせる。少しすればそのまま倒れ込んでしまいそうな青年に気を遣いながら室内の棚から服を探す。寝間着か、室内用だと思われるものを引っ張り出して、寝台に戻り、腰掛ける。心許無く身体を揺らしている青年に着替えさせようという考えだった。脱がせた服を腕にかけて作業を進めていく。その間なむなむと何やら呟いていたが、益体の無いことである。それらを適当に受け流しつつ、寝支度を整えた身体を横たわらせる。

 茫洋と天井を見つめている青年に、彼は何か欲しいものはあるかと訊く。青年は、特にないと答えた。そうかと頷き、再び額に手を当てると彼は徐に立ち上がる。その手を、青年が掴んだ。

「――……どこへ、行く」

「いや――氷嚢でも持ってこようかと」

「…………いい。ここにいろ」

「……そうか」

手を掴む力はさほど強いものではなかったが、彼は青年の要望に応えた。ギシリと寝台の発条が軋む。それと同時に青年が、ほうと一息を吐く。掴まれた手は、そのまま。振り払うのも可哀想な気がして、まだ自由な方の手で額を冷やしてやることにした。氷嚢や氷枕よりは温いだろうが、そこは我慢してもらおう。自発的に放してくれるのを待つか、寝入った後にそっと離してもらうしかない。

 うつらうつら目蓋の落ちかかっている青年に、彼は忘れないうちに言っておく。

「何か欲しくなったら言いなさい。出来る限りは、用意しよう」

熱に溶けた眼が、拗ねたように向けられた。けれど額から頬を包むように移動した手には、寧ろ自分から触れにいっている。普段歳の割に大人びて見える青年の、年相応の反応に思え、彼は口元を緩める。

「こどもあつかいを、するな……だが、まあ、どうしてもと言うなら――」

その先は続かず、スゥと穏やかな寝息だけが聞こえてきた。

 

頭がぼーっとして何も考えられない

 

(殉仁 普段言わない言えないようなこと口走って忘れて欲しいような憶えてて欲s)

頭がぼーっとして何も考えられない

「――何か食べなければ」

「……食欲が、ない」

悲しいような呆れたような眼が自分を見下ろす。青いその視線から逃れるように、彼は布団を鼻まで引き上げた。優しい声が彼の名を呼ぶ。咎めるような声音に彼は呻き声を上げる。

 ギシリと、二の腕の辺りのマットレスが沈んだ。

「そう言ってもう半日以上何も口にしていないだろう? 腹に何も入れていないから薬も飲むわけにいかないし」

額にかかった彼の髪を退けてやりながら眉尻を下げたのは同居人。風邪で昨日から布団の中にいる彼が――平時よりも――世話になっている、頼れる男である。

「素うどん……お粥くらいなら食べられるか……?」

「――……りんご、」

斜め上に眼を遣りながら思案の呟きを漏らす同居人に、彼はボソリと言った。ん? と同居人が首を傾げる。

「林檎なら、食べれるかもしれない」

同居人の双眸が丸くなって、それから嬉しそうに細まった。思わずだろう、零された小さな笑い声に少しだけ、気恥ずかしくなる。幼子を褒めるような手付きで頭を撫でられる。潤んだ紅い眼が、ツイと動いて同居人を視界の外へ出す。

 彼の額に口付けをひとつ落とした同居人は林檎を買ってくる旨を囁いて部屋を出ていった。閉じられた扉の向こうで衣擦れの音と鈴の音。それから、足音がパタパタとして、玄関の扉が開いて閉じる。最後に鍵のかかる音が聞こえ、静かになった。耳を劈く静寂が降り、室内の温度が急激に下がったような気がした。

 同居人が近所のスーパーで林檎を買い帰宅すると、家の中は案の定ひどく静かだった。病に臥せっている彼を想い、足早に台所へ駆け込む。そうして、買ってきた林檎を袋から出し、食べやすい大きさに切り分けていく。

 寝室の扉をそっと開いて中を窺う。掛け布団は穏やかに上下していた。林檎の載った皿を手に近寄って見ると、目蓋は閉じられている。眠ってしまっただろうか、と思い、寝台の傍のテーブルに皿を置く。そうして、外出する前のように寝台に腰掛け、平生よりも熱い頬を撫でた。丁度、その時。ふるりと眼下の睫毛が揺れて目蓋が開かれた。

「起こしてしまったか?」

「いや……少し目を閉じていただけだ」

ゴソゴソと動いて上体を起こそうとする彼を手伝い、脇に寄せていた林檎の皿を手にする。

 細い銀のフォークの先に一口サイズになった林檎を刺して彼に向ける。フォークへ手を伸ばされる彼の手をスッと避ける同居人の顔は、楽しそうである。

「…………トキ、」

「ふふ。こういう時くらい甲斐甲斐しくさせてくれ。ほら、」

譲る気は毛頭ないらしい同居人に折れ、彼は差し出された林檎を口に含んだ。シャクリ、と涼やかな咀嚼音。甘酸っぱい果実の匂いが部屋に広がる。ひとつ咀嚼し嚥下すれば次を強請るように袖を引く。最初こそ躊躇いがちだったが、ひとつふたつと食べていくうちに慣れたらしい。もきゅもきゅと口を動かす様は雛鳥を思わせる。なんてことを同居人は考えていた。時々自分でもつまんだりしているうちに皿の上は綺麗になった。高い金属音を立ててフォークが皿の上に転がる。

 薬を持ってこようと立ち上がる同居人に、彼は寝台に腰掛けたまま言う。上目遣いの紅色が溶けてしまいそうに見えた。

「……林檎、ありがとう。美味しかった」

食欲がわかない

 

(トキシュ 年上だからっていつも甘やかさせてくれないからこんな非日常の時くらいは)

食欲がわかない

 息子が知り合いの愛娘と一緒に帰宅した。そして、開口一番助けを求めてきたものだから、彼女は手にしていた皿を落としかけてしまった。話を聴けば、知り合いが風邪をひいて寝込んでいるということらしい。夕食の支度を始めかけていた手を止めて彼女は子供ふたりと家を出る。父親のために食べ物を買いに行く途中だった彼の愛娘を見かけ、そのままにしなかった息子にはケーキでもご馳走するべきだろう。仲良く手を繋いで歩くふたりの背中を眺めながら彼女は微笑む。

 知り合い――シングルファザーであり子育て仲間である彼の家へ来るのは、久しぶりだった。途中で寄ったスーパーで買った食材を使い簡単な食事を用意する。それを食卓に並べ、息子に家主の愛娘を任せてもう一品。

 寝室には、やはり家主が布団に包まって熱にうなされていた。

「参っているようだな?」

クスクス肩を震わせながら顔を覗かせた彼女に、彼は目を丸くする。慌てて身体を起こそうとした彼の肩を、ベッド脇まで近付いた彼女の手が押し返す。片手ながら有無を言わせない力に熱を持った身体は大人しくなる。

「なんであんたが…………もしかしてアスカか……?」

「ああ。ふふ……相変わらず良い子だな」

バツが悪そうに片手で両目を覆う。そんな彼の額に乗せられた、温くなってしまっているタオルを取り上げる。手にしたタオルの温かさに苦笑すると、少し待っていてくれと彼女は部屋を出ていった。その際、コトンとベッドを優しく照らすスタンドライトの下に湯気を立てるマグカップが置かれた。はて何だろうと回らない頭で考えているうちに彼女は帰って来る。その手には少し大きめの濡れタオルがあった。

 汗をかいた身体を拭くために、彼女の手を借りて今度こそ身体を起こす。自分でやると言っても、どうせ見えていないのだからと一蹴されてしまい、彼はその手際の良さやら口の上手さやらに改めて舌を巻いた。とても事故で視力を失っているとは思えない。替えの服も下半身を自分で拭いているうちに彼女が用意してくれたようだった。

 そうして、さっぱりと身を清めて一息吐く。彼女は着ていた服と体を拭ったタオルを洗濯機に入れてから彼の傍に戻ってきた。冷水で洗ったのだろう手は赤くなっている。その手で彼女はスタンドライトの下に置かれていたマグを彼に手渡す。

「生姜湯だ。蜂蜜も入れておいたから、きっと飲みやすい」

世話を掛けるという意味と、感謝の意味を込めた言葉を一言零してマグに口を付ける。少し放置されていたおかげで丁度良い温度まで下がっていたそれは飲みやすかった。マグカップ一杯分の蜂蜜入り生姜湯を腹に収めると、身体がぽかぽかと温かくなってくる。数時間ぶりに腹へものが降りたことで眠気もまた訪れる。モゾモゾと布団をかぶりながら、感謝の言葉と共に空になったマグを彼女に手渡す。そのマグは再びスタンドライトの下に収まったようだった。次いで聞こえてきたのは、冷却シートのフィルムが剥がされる音。必要ない――そう声を出す前に、額にひんやりと冷たく柔らかな感触。

「これで、しばらくは大人しく、安静に、な?」

「へへ……あんた、ほんと良い嫁になるぜ。なぁ……養わせてくれよ」

「何を言うかと思えば……ふふふ。あまり揶揄わないでくれ。本気にしてしまう」

冷却シートのフィルムと空になったマグを片付けようと、立ち上がろうとした彼女の手を彼の手が掴む。

「揶揄っちゃいないさ。あんただからだ」

平生は閉じられている彼女の目蓋が開いて綺麗な紅色の目が丸くなる。そして、浮きかけていた腰が下ろされて手が握り返された。彼女の顔に浮かんでいるのは、眉尻が下げられた、面映ゆそうな微笑だった。目尻にひとつ、口付けが落とされる。

「風邪が治って、それでもまだそう思ってくれていたら、もう一度その言葉を聞かせてくれ」

 

どんどん体が熱くなっていく気がする

 

(アイシュ 風邪っぴき寡夫と看病する寡婦が二度目の新婚生活始めるかもしれn)

どんどん体が熱くなっていく気がする
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