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 ちゃぷり、と水音。静かな森の中、微かに聞こえてきたその音に、少年は首を傾げた。

 時折どこかの水場から聞こえてくるらしいその音が気になった少年は耳を澄まして音の源を辿る。小鳥の囀りや野兎、鹿の足音が、他に聞こえた。魚が水面をつつくような音の元は、すぐに見つかった。

 拓けた水場は、小さな滝壺だった。否、滝と言うには小さすぎる、サラサラと流れ落ちる水源の溜まり場だった。緑に囲まれた美しい場所に、水音の主はいた。目蓋を閉じて、澄んだ水の中にその身を投げ出して、浮かんでいた。その顔に、少年は見覚えがある。

 少年は岸辺で立ち止まった。ジャリ、と小石だらけの地面が鳴る。その音に、水の中に浮かんでいる青年は口を開いた。

「暑かったから――今日は此処で涼もうと思ったのだ、私は」

言い訳のように、そう述べた青年は、少年がこの場所に向かって来ていたことを察していたようだった。自分の存在を、知っていて何の反応も示さなかった青年に、少年は僅かにムッとする。

「別に、貴様がどこで何をしようと、おれの知ったことではない」

「そうか。そうだな。確かに」

刺々しい言葉にも、然して気を害した様子もなく青年は相槌を打つ。そういうところに歳の差を感じられて、少年は眉間に寄せていた皺を更に深くする。子供扱いされることは、あまり好きではない。だが、静かで穏やかなこの場から足早に立ち去ってしまうのは勿体無い気がして――少年は変わらずその場に佇んで、水面に身体を委ねている青年を見ていた。

 ちゃぷり、と音がして浮かんでいた青年がその身を起こす。

 頭上に広がる青を映していた韓紅の双眸が少年を捉える。いつもふわふわとしてやわらかそうな印象を与える――実際に触れてもその印象通りやわらかい――髪は水に濡れてしっとりと緩やかな曲線を描いて背や肩に流れていた。涼しげな卯の花色の服は身体に張り付いて淡く肌の色を覗かせる。自分のものとは違い、よく日に焼けて血色のいい肌と濡れた服の薄い色の対比に少年の喉が小さく鳴った。また、静かな水音を纏って佇むその姿はまるで青年が身を委ねていた清流そのものの化身を思わせて、少年の目が丸くなった。それは無意識のことだった。自分を捉えている紅色に、呑まれるかと思った。

 服を着たままという、水の中では至極動きにくいだろう状態をものともせずに青年は少年が立っている岸辺まで歩いてくる。何かに気圧されるように、少年は僅かに後退る。その様子を、単に濡れたくないだけと受け取った青年は、岸には上がらずに、水の中で立ち止まった。

「足だけでも、どうだ? 冷たくて気持ちいいと思うのだが」

人当たりのいい微笑を浮かべる青年に、少年はハッとする。そして、差し伸べられた手と微笑を交互に見た。

「……暑いから、少し、涼を取るだけだ」

今度は、少年が言い訳のような呟きをした。伸ばされた手を無視して、水際まで数歩歩き、腰を下ろす。履いていた靴を脱いで、裾を上げてソッと水の中に爪先から足を沈めていく。片足を浸した少年は、水の冷たさに息を吐いた。ホッと一息吐いていると、誰かがもう片方の足に触れる感覚。眼を遣ると、青年が靴を脱がして裾を捲りあげてくれていた。やさしいその手付きときれいな横顔に、ドキリとした。きっと青年は門弟や年下の世話をするのと同じ感覚でやっているのだろう。素肌を曝す二本の足を水の中で揃えれば、涼しいだろう、と得意気な声が聞こえてくる。その言葉に、あぁ、と適当な相槌を打った少年は次いで、まるで人魚か水妖のようだ、と呟いた。青年は少年の言葉に目を丸くして、けれどすぐに微笑を浮かべて答える。その声は実に面白そうな、それでいてどこか自嘲的なものだった。

「人魚にせよ水妖にせよ――私のようにただ浮かぶだけのものは、なりそこないになるだろうな」

 

人魚になれなかった

 

(殉仁 秘密の水場でプカプカ浮かぶ最年長とそれを見てしまった最年少のちょっとした話)

 目蓋を開くと、視界は揺らめく青一色だった。上方から射し込む白い光もまたユラユラと揺れていて――そして、宙に浮かんでいるような感覚には、憶えがあった。試しに口を開いてみると、コポリと銀色の泡が浮かび上がる。あぁ、ほら、やっぱり。男は自分が水の中にいると確信を持った。

 不思議と息苦しさは無く、ただ穏やかに揺られる感覚が心地良い。水温も冷た過ぎず温過ぎずの良い具合で、睡魔がジワジワと思考にやわらかな布を掛けていく。このまま何も考えず、眠りに就いてしまいたいと思った。

 うつらうつらと目蓋を下ろし始める男は、自分が暗い水底へと徐々に落ちていっていることに気付いていなかった。

 ぼんやりと滲んでいく頭の中で、ふと誰かが自分を呼ぶ声が聞こえたような気がした。耳に馴染んだ、よく親しんだ声に思えたが、それが誰のものだったのか――上手く記憶を引き出すことができない。コポコポと浮かび上がっていく泡を、トロリと眠気に蕩けた眼が少しだけ追う。先程目蓋を開いた時よりも頭上から射す光が遠く、周囲の青が色濃いことに、男は気付いていない。

 誰かの叫び声がくぐもって水中に響く。次いで、ザボリと水が割れる音。何事かと重い目蓋を持ち上げれば、白銀の泡が垂れ幕のように上から落ちてきていた。割れた水には、渦のような、銀色の滑らかな螺旋が、見えたような気がした。そしてその無数の泡の中から、二本の腕が伸びてきて男の頬を包んだ。観賞魚の尾ひれのように揺らめく青藍の袖が、夏の蜃気楼のようにぼやけた思考に、やけに鮮やかに映る。あ、と男の口が開いた。

 落ちてきた泡が上に戻っていけば、男の顔をやさしく包み捉えている腕の持ち主が現れる。そのひとは未だ薄ぼんやりとしている男の顔をグイと引き寄せ、顔を顰めた。

「あ、なたは――」

コプリと呑気に泡を吐き出しながら呟いた男の腰へ腕を回して、足元に底があるかのように空間を蹴る。半ば肩に担がれるようにして、男は水面へ戻っていく。

 その時、夢見心地に、水の流れに従って背を流れていく、自分を放すまいときつく抱きしめているひとの白練色の髪が、上から射す光にキラキラと照らされて、ひどく綺麗だ、と思った。

 ザバァと勢いよく水中から顔を出すと、そこは岸のすぐ近くだったらしく、乾いた砂利の感触が倒れ込んだ男の頬に伝わる。ゲホゴホと噎せ込んでいる男の横ではザバザバと水を掻き分ける足の音がした。男を引き上げてくれたひとが岸に上がって、男を水から遠ざけるようにその腕を曳く。這うように曳かれる腕に従い水から離れた場所に行く。木陰になっている辺りまで来ると、ようやく掴まれていた腕が放された。身体を起こして座るまでの体力が無い男は、暫く咳をして水を吐き出した後、寝転がったまま、傍に腰を下ろしているひとに訊いた。

「あの、私……えぇと、何が、どうなって……?」

「魔に魅入られ、引き摺り込まれかけたな」

濡れた髪を掻き上げながら難しい顔をして答えたひとに、男は息を呑む。

「魔や妖は身近にいるものだ。神経質になれとは言わないが、もう少し気を付けてくれると、嬉しい」

「はぁ……善処はしたいと思います、けど……またこんなことがあっても、あなたが助けてくれるんでしょう?」

「それこそ善処はするが……今回だって運が良かったようなものだ。白鷺は鵜や翡翠と違って潜るのは得意ではない」

ふにゃりと笑って言う男に、相手は困ったように微笑を浮かべた。確かに、幾ら気を付けていても仕方のないことはある。

「あぁそうだ。シュウ、ありがとう」

なんて、そんなことを考えているところに蕩けるような声と表情で言われた感謝の言葉に、二の句を紡げなくなった。

こぽりと渦が巻く

(トキシュ 救われた神様は救ってくれた人間を救おうと不慣れなことまで試してみてしまう)

こぽりと渦が巻く

 実に困惑した表情を浮かべる男と、実に満足そうな表情を浮かべる男が、浴室で向かい合って立っていた。

 昼前の白い陽光が窓から射し込み浴室を照らす。昨夜の熱を洗い流そうと訪れた場所で、何故こんなことになっているのだろう、と前者は他人事のように思った。何故自分は女性ものの可愛らしい下着を着ているのだろう、と。半ば無理矢理着せた張本人は、いたく満足しているらしいと、漂う雰囲気からわかるが――彼が相手に言いたいことは山積みである。何故こんなものを着なければならないのか、男である自分に着せて何が楽しいのか、そもそもこんなものをどこから持ってきたのか――言いたいことがありすぎて、結局何も言い出せない。辛うじて出せた音は、なぁ、と相手に呼びかけるものだけだった。しかし折角上げたその声も、当然という風に受け流される。

 ふむ、と頷く声が聞こえた。と思えば、噛みつくように唇を重ねられる。突然のことに口付けを受け入れることしかできない彼は必死に応えようと舌を動かす。燃え尽きてはいなかった、昨夜の残り火が音を立てて再び爆ぜ始める。

 音もなく落ちていった雫が、レースがふんだんにあしらわれた下着に染みを作る。ふるりと震え始め、崩れ落ちそうになる腰を支えているのは脚の間に差し込まれた相手の片足。力が抜けるたびにその上へ腰を落としてしまい――まるで相手の脚で自ら快楽を得ているような錯覚を起こす。はしたない、恥ずかしいと思っていると、そっと離れた唇が耳元でそれを笑いながら指摘した。へんたい、とその声は酷く無邪気に嘲笑うが、自分よりも年上の男に女性ものの下着を着せて口付けをして悦んでいる方も大概ではないかと思う。そう、言い返してやろうと思って開いた口からは、耳殻を甘噛みされつつ尻から腰に掛けた線をスッとなぞられたことで生まれた快感を拾い上げた甘い声しか出てこなかった。遂に腰が砕け、支えの脚が抜かれたことでクタリと床にへたり込む。フワリと花弁のように裾が広がった。

 力の抜けた身体を、バスタブの縁に座らせてやる。両足の間に、見上げるようにして腰を落とす。羞恥に赤らんだ顔が、泣きそうになっていた。僅かに頭を擡げている彼の熱が、それを覆っている下着の布を微かに持ち上げていた。本人の手を取り、触らせながらその事実を教えてやれば嫌々と力無く首が横に振られ、彼の髪がトサリと肩から落ちて肌を擽る。

「ゃ――も、いやだっ……ふっ、ゃ、ぅあ……だめっ、だから……ぁッ」

身体を折り曲げて、自分を見上げている相手の頭を抱え込むように抱き締めて、そう言葉を零した時だった。元気のいい悲痛な叫び声と、浴室の扉が勢いよく開けられる音がした。

 第三者が現れたことを示す騒音に、彼は赤く熱を帯びたままの顔を上げる。当の闖入者はそんな彼の顔と、彼の前に腰を落としている男を見て、ワナワナと叫ぶ。

「おまっ、おま、お前ッ! シュウに何してんだこの変態!!」

聞き覚えの、ありすぎる声にザァッと血の気が引いた。見られた。こんな、ひとには見せられない格好を、状況を、よりにもよって親友に――しっかりと目撃された。縋るように、彼は目の前の身体を盾にしようと縮こまる。首を傾け視線を遣るだけで闖入者――青年を見た男は、フンと鼻を鳴らして答えた。

「俺が変態なら、この状況で悦んでいるこいつもなかなかの変態だぞ」

「なっ、ちが、悦んでなど……ッ、ア、ぅああッ、やめっ」

男の言葉を即座に否定する彼の熱を握り込んだ手に思わず声が上がる。彼の名を、青年が呼ぶ。

「いやっ……ゃ、だめ、嫌だッ、見ないで、くれ……!」

とうとう零れ落ちた涙が伝う肌と、その身に纏う愛らしいレースの下着を注視した青年は、喉を鳴らした。そして、ハッとして彼をこんな風にしただろう犯人の方へ眼を遣ると、そいつは至極勝ち誇ったような顔をしていた。見せつけられたようで、青年はムッとする。ムッとして、高らかに参戦を宣言し、再度彼の血の気を引かせた。

レース仕立ての下着

(将仁←義 いい歳してベビードール着せたり着せられたりして何やってんだろうみたいな)

レース仕立ての下着

「ほら、目を瞑りなさい。流すぞ」

穏やかな父の声が湯気でぼんやりと霞が掛かった風呂場に響く。キュッとお湯のカランが捻られる音がした。そうして、然して間を置かずに温かいお湯が流れ始める。

「いいか?」

シャワーを片手に訊く父に、子供はギュッと両目を瞑ってハイと答えた。そんな息子の様子に、父親は困ったような慈しむような微笑を浮かべて手にしていたシャワーを子供の頭の上に翳す。ザア、と流れ出るお湯が親のものとよく似た、やわらかな髪の間に入り込んだ泡を洗い流していく。

 軽く閉じるだけでいいものを、少年がギュウと強く閉じるのには理由があった。

 昔――といっても数ヶ月ほど前のこと。その日も同じように親子揃って入浴していたのだが、その際に、ことは起きた。薄っすらと、ほんの興味と好奇心から、シャンプーを流している時に目蓋を開けてしまったのだ。ヒリヒリするような、チクチクするような目の痛みに、少年は悶えた。

 必死に目を擦り不快感を追いやろうとする手を、大きな手が止める。擦らないで、まずは水で洗うのだと宥められて少年は涙目になりながら落ち着こうと唇を噛む。視界が滲んで、呼吸すら不自由になっている気がした。

「ゆっくり、擦ると目を傷めるから、やさしく、な?」

「ぅ……はい、」

そうして、お湯を溜められるように両手を合わせて器を作り、蛇口から出てくる湯の下に持っていく。ショボショボと小さく痛み続ける目に、そうして綺麗な湯を当て、瞬きを数度、繰り返した。痛みは引いていく。若干の違和感と、泣いた後のような視界――第三者から見れば、最初に少しだけ擦ってしまったおかげで目元も赤くなっていて、泣いた後のような顔――が気になったが、それでも痛みの大部分が消えたことに安堵の息を吐いた。父の方を向くと、やはり優しげな表情があって――伸びてきた手にクシャリと頭を撫でられた。

 そんなことがあってから、少年はシャンプーを洗い流す時、目蓋をギュウと強く閉じる癖がある。

 綺麗に髪から洗剤を洗い流して、親子はザブリと湯船に浸かる。入浴剤の溶けた、白く濁った湯の中で、向かい合って腰を下ろす。はふぅ、と気の抜ける声がふたつの口から漏れた。思いがけず揃った声に、ふたりは顔を見合わせて、それから声を上げて笑う。

「お前はまだそんな歳ではないだろう」

「きっと、父上のがうつったんですよ」

「よく言う」

眉尻をハの字に下げて、自分と似たような――それでも幾分か年相応のやんちゃを感じさせる――顔で笑う息子の頬に手を伸ばして緩く抓ってやる。フニフニと、ほぼ摘まむだけのそれは幼い頃から我が子にしてきた――そして自分もまた幼い頃にやられた、一種の親愛を示すスキンシップだった。

「私だってもう子供じゃないんです」

声変りも迎えていない声で胸を張る我が子に、父親は嬉しくもあり可笑しくもある、可愛くてたまらないという表情を浮かべた。良い子に育ってくれているなぁ、と子煩悩である。

 妻に先立たれ、周囲の協力も得ながら男手一つで育ててきた子供の成長が眩しい。まだ十年と少ししか経っていないというのに、息子とのこれまでを思い返すと、ユルリと立ち昇っていく湯気すら目に沁みて視界を滲ませるような気がした。

目を瞑らないと沁みるよ

 

(仁星親子 現代パラレルで父子ふたり暮らしののんびりとした入浴タイムとか)

目を瞑らないと沁みるよ

 浴室へと繋がる脱衣所の扉を開けて、まず、フワリと漂う柑橘類の匂いに驚いた。

 何の縁があってか、モデルをしている年の離れた親友の友人の付き人という職に就いている男は、件の親友の友人――彼もまたモデルをしている――の家に呼び出され風呂に抛り込まれるという不思議な状況に目を白黒させていた。自宅のものとは比べものにならないほど広く、お洒落な風呂場を前に、呆然と立ち尽くすしかない。脱衣所からして、此処はホテルか何かか、と胸中で呟く。するとその直後、背後の扉が開いて家主が姿を現した。

「まだそんなとこに突っ立っていたのか貴様は!」

「えっ、いや、すまない……というか、お前、一人暮らし、だよな……?」

少し脇にズレて家主が通ることのできるようにする。着ている部屋着も、上下揃いのジャージなどではない洒落たもので、さすがだ、と呑気に感想を抱いている男であった。それを知ってか知らずか、家主――親友の友人というだけあって顔の造形は良い――彼は呆れたように溜め息を吐く。

「一人暮らしだ。何か悪いか。あぁもう……ほらさっさと入れ」

ゲシゲシと足を蹴られて奥へ追いやられる。行動は粗雑だが、不器用な彼なりの気遣いだと解っている男はハイハイと苦笑しながら従う。

 家主に従って着ていた衣服を洗濯機へ抛り込み、やはり一人で使うには明らかに広い浴室に足を踏み入れる。他のモデルの自宅もこんな風なのだろうか。人懐こい親友を思い出して、今度機会があれば訊いてみようと思う男であった。

 浴室に入るなりシャワーの近くまで引っ張られ、座れと半ば強引に風呂イスに座らされた。男の背後に家主が立ち、シャワーヘッドを取り上げる。キュッキュッとハンドルが捻られる音がして、シャァ――と水が流れ始めた。空いている方の手で水流に触れて温度を確かめる。十数秒で目当ての水温になったのか、まぁこんなものかと呟いて彼は座らせた男の後頭部に一声かけてから僅かにくすんでいる白い髪を濡らしていく。癖のある男の髪が湯の流れに真っ直ぐに伸び、湯を流すのを止めればユルリと普段よりは緩やかな癖を見せる。たっぷり数分をかけて髪や頭部を温めて、ようやくシャンプーが登場する。手に取りしっかりと泡立てて優しく髪を洗っていく。頭皮を揉む指の動きに、思わず目を細めて息をひとつ、吐いた。

「…………お前、美容院に行ったりは、」

「あぁ……最後に行ったのは、数年前、だったか?」

余りに脱力している男に恐る恐る訊いた彼は、返ってきた答えに絶句した。自身は月に一度程度の頻度で行っているというのに、この、目の前の男は、と。

 文字通り頭のてっぺんから足の先まで綺麗に洗われた。こんなに丁寧に洗うものなのかと目を丸くした男を先に湯船に抛り込んで、自分の身体も洗ってしまう。そうして、湯船に髪が浸からないよう纏め上げ、同じように髪を上げた男の隣に遠慮なく腰を下ろした。入れられた入浴剤で出来た泡を指でつついていた男が、波立つ隣に顔を向ける。

「ずっと気になっていたんだが、今日はどうしてこんなことを……?」

キョトンと純粋に首を傾げる男に、彼はヒクリと片眉を引き攣らせたが、すぐにハァと溜め息を吐いて答えた。

「あのな……あぁ、最初に言っておくがこれはお前のためではない。おれのためだ。誰よりも美しいモデルであるおれの付き人が身辺に気を遣えていないなど、あり得んことだからな。感謝しろ。このおれが!直々に世話してやったのだぞ!」

「あ……ああ、そうか……そうだな……すまない。以後気を付けよう」

白い湯気が天井に昇っていく。湯船の水面にはユラユラと甘酸っぱい匂いを漂わせる白い泡が漂う。ありがとう、という言葉に、うるさい、という言葉が、照れくさそうに返された。チャプンと時折遊ぶ水音が、広い浴室に反響する。

シトラスの泡々

 

(妖仁 モデルさんの付き人はファッションにあまり興味が無いらしいっていうのはけしからんみたいな)

シトラスの泡々

 同居人が、風呂から出てこないな、と心配になって青年は浴室へ向かった。彼が浴室に消えていって既に一時間半は経っていて――とんだ長風呂である。普段はそこまで長く入っていない筈なのだが。

 脱衣所の扉を開けると、浴室の方からは何の音も聞こえてこなかった。シャワーから水の流れ出る音や、湯船の水面が揺蕩う音など、何も聞こえない。ピチョン、と蛇口から水滴が落ちる断続的な音だけが、時折聞こえてくるだけだった。人が動いている気配も無く――青年はソッと浴室の扉に手をかけて、静かに開ける。

「シュウ……?」

彼の、同居人の名を呼びながら顔を覗かせると、そこに姿は見えなかった。おや、と思い、室内にヒタリと足を下ろす。特に変わり映えのない浴室。その、奥。白い、白磁のバスタブの中に、彼はいた。

 目蓋を閉じて、伸びた髪を広げ、水面から顔と鳩尾の辺りで組んだ指の上部を少し出して、彼は横たわっていた。

 古い戯曲の一場面を切り取ったような、どこか神聖さを感じさせる絵面に青年は動きを止め息を呑む。が、すぐにハッと我に返り、穏やかな表情を浮かべて眠っている者を呼ぶ。

「シュウ」

浴槽の脇に跪いて、縁に手をかけ覗き込むような体勢をとり、片手で彼の頬を包んだ。その姿はまるで、棺の中の想い人を起こそうとしているようにも見えた。

 ふるりと睫毛が揺れ、目蓋の下から鮮やかな赤が現れる。白が多い空間で、濃過ぎず淡過ぎないその赤と健康的な肌の色が、よく映えていた。覚めたばかりのぼんやりとした表情が青年の顔を捉えてふっと和らぐ。開かれた目蓋が心地よさそうに閉じられ、自分に触れている青年の手に甘えるように首が傾く。まだ完全には起きてはいないらしい。

 歳の割に可愛らしい仕草をしてくれる相手に、青年は囁くような声で言う。

「風邪を、ひいてしまう」

浴槽に張られた湯の中に差し入れた手には、生温くなった湯が纏わりついていた。身体を暖めるための湯の温度がこれでは、逆に身体を冷やしてしまうではないか。既に、再び夢の世界へと旅立ってしまっている様子の同居人を、青年は仕方ないと抱き上げて寝室まで運んでやることにした。一度バスタオルを取りに浴室から出る。

 大きめ且つ厚めのバスタオルを選んで戻ってくると、今度こそ彼を抱き上げて浴室を出た。暖房をつけ暖めておいたリビングのソファへ弛緩した身体を座らせる。ザッと粗方の水を拭き取り、滅多に使われない――同居人が知り合いから貰ったのだという――バスローブを引っ張り出して着せる。自分のものよりも幾分か長く伸びた髪から、できるだけ丁寧に水気を取っていく。ドライヤー、とふと考えもしたが、スヤスヤと寝息を立てる姿にそれは時間をおかずに却下された。タオルを使い水気を出来るだけ取り除き、こんなものかと切り上げた後は浴室からリビングまでパタパタと続く水滴を拭いていく。使ったタオルを洗濯機へ抛り込んで、今度こそソファの彼を寝室へと運ぶ。

 予め掛け布団を捲っておいた寝台へ優しく寝かせる。緩い合わせから覗く胸元に眼を奪われ――むずかるように上げられた小さな声にブンブンと首を振った。仰向けに寝かせた身体は横を向いている。いつもは自分を、子供を慈しむような眼で見ることの多いひとのそんな姿を見て、青年は小さく口角を上げた。

「……おやすみ、シュウ。良い夢を」

掛け布団を掛けてやった後、寝室の扉を閉めながら、青年は、そう呟いた。

 翌朝、世話を掛けてしまったことを至極申し訳なさそうに謝罪する同居人と、寧ろ僥倖であったと言わんばかりに雰囲気を緩めて彼を宥める青年の姿があったとか。

白い棺桶に似てる

 

(「ケンシュ 現代でナチュラルに同居してるけど気にしないしなんでバスタブで寝てたのかも気にしn)

白い棺桶に似てる

「トキー!」

元気な声に名を呼ばれて、青年は口元を綻ばせる。

 パタパタと廊下を走る足音が聞こえ、ガチャリと扉が勢いよく開かれた。風呂上り特有の良い匂いが部屋にフワリと広がる。足音の主は開けた扉を振り返りもせずに、食事の準備をしようとテーブルを台拭きで拭いていた青年の腰に飛びついた。額をグリグリと押し付けながら、再び自分の名を呼ぶ腰元の可愛らしいいきものに頬を緩めながら青年は口を開いて訊く。

「はいはい。おかえりなさい、シュウ。湯加減は大丈夫でした?」

「ああ!気持ちよく入れた! トキ、わたしも準備、手伝うぞ!」

一緒に生活するようになってから随分と打ち解けられたような気がする。当初は歳に見合わない振る舞いをしていたというのに、今では――時々ではあるが――わがままも言ってくれるようになった。

「それじゃあ……って、髪が乾いてない! 先にこっちですね」

台拭きを一度手放し、くっつき虫のようにひっついている少年と向き合うように身体を捻り、普段はふわふわと触り心地の良い髪へ手を伸ばすと、その髪はまだ湿っていた。着ている服の、襟の辺りも湿ってしまっている。眉尻を下げる青年に、放っておいてもすぐに乾く、と少年は頬を膨らませた。家事の手伝いをするのだと手を伸ばす少年を軽々と抱き上げて、青年はソファの方へと移動する。身体を洗うのに使っているボディソープの、甘すぎない匂いがより強く嗅覚を擽った。

 ふっと視線をズラすと、すぐ目の前に子供らしい丸みを帯びた、やわらかそうな肌が見えた。甘い匂いに誘われるように自然と青年の顔が少年の首元に埋まる。

「ひゃっ! な、なん――ちょ、くすぐったい……!」

まずは唇を押し付けて、次に柔く歯を立ててみる。そうして、上下の顎で優しく挟んだ箇所に、舌先を滑らせた。腕の中の少年が肩を小さく揺らす。青年の服を掴んでいる手はそのままで、自分の首筋に顔を埋めている者を拒否する様子はない。

 辿り着いたソファに腰を下ろし、青年は少年をその膝の上に乗せた。軽いリップ音を立ててから顔を上げ、青年は少年に少しだけこのままでも良いかと訊く。青年の目を正面から見つめ返した少年は頭上に小さな疑問符を浮かべながらも首を縦に振った。じゃれあいの、延長だと思っているらしい。幼気な子供相手に、何をしているのだろうと胸が微かに軋む。けれど、当の少年は正面から青年を見つめたまま口を開いた。

「いい。トキになら、何をされても、いいと思う」

零された言葉と、色を感じさせる微笑の、その艶やかさに目を見張る。いつの間にこの子供はこんな表情をするようになったのだろう。少年の目尻に口付けを落とし、青年は耳元で囁いた。

「――……嫌だと思ったら、言ってください。嫌われたくありませんから」

「わたしがトキのことを嫌いになるはずがない」

青年の言葉に、真剣な表情を浮かべた少年はそう言って、自分から青年の頬に口付ける。押し付けるだけのそれに、やはりまだ色恋とは遠い子供なのだなと青年は思う。先程の表情とのギャップに、これからが少しだけ心配になった。無自覚にひとを引っ掛けるようにならなければいいが、と。

 そして、腕を腰の辺りに回して、再び少年の首を唇で辿り始めた青年の耳に、首を食まれている少年の声が届く。

「……まるで、食べられているみたいだ」

耳の辺りをキツく吸い、遺った赤い跡を舌でなぞってから、先程のように目線を合わせてニッコリと笑って青年は言った。

「えぇ。あなたが、とてもいい匂いをさせているので――食べたくなってしまいました」

 

君は花を咲かして出てくるから

 

(トキシュ いい匂いのする小さい仁星を食べたくなっちゃった大きい次兄のはなし)

君は花を咲かして出てくるから

 体育館や格技場、弓道場を使用している部活の部員たちは大抵、活動後にシャワー室へ向かい、練習の汗を流す。運動場で活動している部活動の部員たちと共同では込み合い過ぎると、生徒たちが直談判して得た、シャワー室である。

 人気の無いシャワー室にザァザァと水の流れる音が響く。脱衣籠の中には剣道部の道着が入れられていて、今シャワーを使っている人物が剣道部の生徒であることがわかる。滝に打たれるように、ただ静かに降り注ぐ湯に俯いているその生徒は、ほうと一息吐く。彼はこうして一人でゆっくりと湯に打たれることが好きだった。

 そこへ、もう一人、生徒がやって来る。

 バサリバサリと乱雑に道着が脱ぎ捨てられる音。彼以外の剣道部員は既に全員が帰路についているはず。柔道や空手と言った部活の部員たちも、早々に練習を切り上げていたのを見た。だから、と彼は目星を付ける。

「滝修行でもしているつもりか、貴様」

水に濡れた地面が踏まれ、パシャリと軽い音がした。それと同時に、背後から皮肉気な声が聞こえてきた。彼は声のした方へ、壁についていた手を下ろして、振り返る。その視線の先には、やはり皮肉気に片方の口角を上げて笑う、彼の幼馴染が立っていた。

「弓道部の方も、終わったのか」

挨拶代わりの軽口を受け流して彼は訊く。

 シャワー室から近い体育館に隣接している、格技場で活動している剣道部などよりも、僅かばかり距離のある弓道場で練習している弓道部は、シャワー室まで行くのを面倒臭がってシートタイプの制汗剤を更衣室で使って済ませる部員が多かった。もう少し早い時間に訪れてみれば、このシャワー室を利用している弓道部員と会えるのかもしれないが――いつも遅い時間に利用している彼は、幼馴染以外の弓道部員がシャワー室を利用しているところを、見たことがない。

 幼馴染はパシャパシャと足音を立てながら彼が使っている隣に立つ。

「ああ、終わった。まったく、相変わらず口ほどにもない奴らばかリだがな」

「そう言ってやるな。お前が頭一つ抜けているだけだろう?」

薄いカーテンで仕切られただけの空間である。キュッとカランが捻られる音と幼馴染の詰まらなさそうな声が、よく聞こえた。幼馴染が、大会で優勝を射止める程度の実力を持っていることを知っている彼は、他の部員の所作がもどかしく見えるらしい幼馴染を宥める。

「私たちにだって、彼らと同じような時期が――」

水音に、僅かに紛れる声。それは、ふたりを隔てていたカーテンが勢いよく開かれたことで、最後まで続けられなかった。突然のことに、彼の双眸が丸くなる。

 何の前触れも無しに幼馴染と見詰め合うことになった彼はひどく狼狽した。それまで纏っていた、落ち着いた雰囲気が霧が晴れるように消えていく。なに、と言いかけた彼の顔へ、幼馴染の手が伸びてきた。その手は頬を包み、指は唇をなぞってから目元を撫でた。流れ続ける湯に身体を曝しながら、ふたりは向かい合い、見詰め合う。

「――何か、あったのか」

先に口を開いたのは幼馴染の方だった。何をするのかと訊きかけた彼よりも早く、幼馴染は彼にそう訊いた。

「お前が、泣いているように思えた」

何故、と彼の眼が呟いた、それに答えるように続けられた言葉に彼は固まる。口を引き結んだ彼は顔を僅かに伏せた。ザァザァと絶え間なく降り続ける、雨のような水流が、瑞々しい肌を辿って落ちていく。

 

止まない雨のように

 

(将仁 隠していた感情を拾い上げるのはいつも君だけど互いに互いが泣いているようにも見えた)

止まない雨のように

 次のスタジオが空くまでの間、彼らはラウンジで缶コーヒー片手に時間を潰していた。はずなのだが、何故こんなにも人の目が集まっているのだろうと、彼は現実逃避をする。偶然同じ建物で撮影の予定が入っていた親友と顔を合わせてしまったタイミングが悪いのか。それとも親友とその友人の会話から察するに、これまであまり身嗜みに気を遣ってこなかった自分が悪いのか。目の前でギャアギャアと元気に口論している若者たちを見ながら年長者は小首を傾げる。

 落ち着くようにと声をかけても、お前の出る幕じゃないだの、おれはあんたのために戦っているんだだの、よくわからない理由で聞き入れてもらえず、彼は三度目の制止でふたりを止めることを諦めた。

「大っ体!なんでお前が勝手におれのシュウと一緒に風呂入ってんだよ! ありえないだろ!どういう風の吹き回しだよ!」

「誰がお前のだ! こいつはおれの付き人だぞ!おれがどうしようと勝手だろう! 誰に何を言われる筋合いも無いわ!」

「なん、なんだと……! 付き合いの長さで言っても親しさとか好感度で言ってもおれの方が上に決まってんのに!!」

「関係あるかそんなもの!というかそれは一方通行だろうどうせ! おれの付き人をおれの好みに着せ替えて何が悪い!」

親友の方は友人宅で彼が家主と一緒に風呂に入ったことが気に入らないらしい。泣きそうな眼で彼を一瞥して、目の前の友人――と言うよりも、最早腐れ縁の域である――を睨み付ける。どうやら彼の服装が友人の好みのものになっていることには気付かないふりをしたようだった。彼自身は自覚が無いようだが、今流行りのモデルに見繕われたその格好は、そういう雑誌に載っていてもおかしくないものである。

 第一線で活躍し、若者の憧れの的になっているふたりが、こうもくだらないことで言い合っている姿は年相応であり微笑ましくもあるが――やはり、読者やファンには見せられないな、と思う。

「――……今のふたりの姿は、外に出したくないな?」

そう、考えていたことと同じ言葉が不意に隣から聞こえてきて彼は微かに肩を跳ねさせた。そのまま顔を横に向けると、先程まで誰も座っていなかった椅子に、未だ言い合いを続けているふたりよりも僅かに若く見える青年が腰を下ろしていた。その青年は、やはり騒がしいふたりをぼんやりと眺めている。

「あ、あぁ……まぁ、それは、な? じゃなくて、どうしたんだ? 仕事は――」

「空き時間だ。ユリアは手洗いに行っている…………次の撮影まで一時間の休憩だと」

自分と同じ――この青年の場合は美しい女優兼モデルであるが――付き人をしている青年の隣は、彼にとって存外居心地のいい場所だった。当の青年も――歳は一回り程離れていて、それこそ親友たちと親しくなってもおかしくはないのに――親友やその友人の側よりも彼の側に腰を下ろすことが多かった。ココアの缶を握っている青年から視線を外して、再び前を向く。チラリと壁にかかっている時計を見てもそんなに時間は経っていない。こういう時に限って時間が経つのは遅いものである。

 半ば無心となって缶コーヒーを傾けている彼は、自身を見る青年の哀れんだ眼に気付いていなかった。

「……大変そうだな、こどもふたりのお守りは。どうだ、今度息抜きに食事にでも行かないか」

「あー……いや、うん、まぁ……賑やかで楽しい、ぞ……って、え?」

だから、サラリと食事に誘われたことにも、一拍置いてからやっと反応した。

「食事に――って、そういうのは好きな相手を誘うものじゃないのか? いや、お前が良いなら良いが……」

青年の方を見る、彼の丸くなった視線の先には、いつもと変わらない無愛想にも見える表情に戻った青年がいる。正面から彼の視線を受け止めた青年はコクンと子供の様に頷いて、じゃあ決まりだな、と言いながら手帳を取り出し予定を確認し始める。嬉しそうな色が僅かに滲む青年の雰囲気に、彼もまた表情を和らげて己の手帳を取り出した。

 そうして後日、彼が青年と食事に行ったことを知った件のふたりが青年を巻き込みまた騒がしくなるのは別の話。

 

すなおな睫毛

 

(義→仁←妖の殉仁オチ 色んな方向からアプローチ来てるのに全然気付かない年長者を落とすのは誰)

すなおな睫毛

 ちゃぷ、と水の遊ぶ音が聞こえる。

 日暮れの蒼と朱が白い壁を染め、傾いている太陽が眩い光でもって室内を照らす。現実を忘れさせるかのような空間。たった一人のために設けられた浴場は贅を尽くした檻にもよく似ていた。球を模した浴槽も、衣服が掛けられている几帳も、何もかもが一品モノだった。入浴している、このすべてを与えられた者の世話をするために使用人が数名、脇に控えているが、彼らが主に呼ばれることはないし、またその名を呼ぶこともない。

 その日も意識を失った状態で浴場に運び込まれ、己の与り知らぬ間に身を清められた彼は浴槽に浮かべられた数分後に目を覚ました。

 軋む腕を持ち上げ、頭上に翳してみれば、太陽の光に血の通う管が透けて見えた。あぁ生きている、と溜め息を吐いて腕を下ろす。パシャンと水が跳ねて、床に染みを作る。波立つ水面には、牡丹だろうか――花が浮かべられていた。浴槽内だけに留まらず、その外にも花弁を散らすその花を一瞥することもなく彼は足を浴槽の縁にかけた。湯から出された、濡れた足には痛々しい痣が幾つもあった。否。足だけではなく、服を着て隠れる場所には、無数の痣や傷痕があった。先日よりも増えているそれに、一瞬だけ眉を顰めて、彼はもう一度溜め息を吐く。

 現在の皇帝の妃が彼――男だと知る者は少ない。その身を人前に晒すことはあれど、その際に纏う衣服はゆったりと余裕を持たせた女物であるし、一言も発しないため、皇帝の隣に立っている妃が男だと気付く者はほぼ皆無である。

 ただ一目気に入ったからと、それだけの理由で占領された村から強引に召し上げられた彼とて、当初は抵抗を見せた。だが自身の村に加えて無関係な人々を人質にされ、従わねばそれらを殺すと言われれば、人並み以上の優しさを持つ彼は従わざるを得なかった。そうして、男の身でありながら女性──若しくはそれ以下──の扱いをされる彼の日常が始まったのだった。

 白い湯気がユラユラと昇っていく天井を見上げながら、クスクスと肩を揺らす彼に、控えている者たちが何をか訊くこともない。が、その中で一人、気遣わし気に彼を見遣る男がいた。

「――どうした? 気になることでもあったか?」

その視線に気付いたのだろう、男の方を振り返って、彼は面白そうに訊く。言葉に詰まる男を手招きして、腕を伸ばせば触れ合える距離まで呼ぶ。抱かれ慣れてしまったことを物語る、嘗ての彼では出来ないだろう艶やかな微笑に、喉が鳴った。そんな男を見て、彼はなおも肩を震わせる。それは無垢な少女と、手慣れた娼婦の、双方を思わせる姿だった。

「なぁ、お前も私を抱きたいか? あの男のように、私を従順な牝に躾て、己の好きなように抱きたいと思うか?」

組んでいた足を解いて仰向けの姿勢からうつ伏せになり、浴槽の縁の上で腕を組み、そこに頭を乗せて彼は男に訊く。

「い、いや――おれは、ただ、」

「あぁ――あぁ、わかっている。ふふ、ははははは……こんな無様な姿を曝す男と関わりたいなぞ、思うわけがないな?」

そうして、ちゃぷんと音を立てて再び天井を見上げる、元の体勢に戻った。半透明の浴槽の中で、蒼を帯びた美しい銀の髪が舞っていた。ユラリと揺蕩うそれが、いつか見た朱と金の優雅な魚を思わせた。

「あの美しい魚のように、ただ愛でられるだけなら、まだ良かった。良かったのに、私は、自分で泳ぐ意思すら奪われ、ただあの男の欲を満たすためだけのモノに成り下がっている――!」

彼の右腕が褪せた紅の双眸を隠す。歪な弧を描く口元を、見ることは出来ないが、背や腰や腕、首に這う生々しく鮮やかな痕は男の視界に入った。呪いの紋のように彼の肌を彩るそれは、どれだけの痛みを齎しているのだろう。その日何度目かの溜め息が聞こえ、男は今度こそ顔を歪める。前方で、ちゃぷ、と水の跳ねる音がした。

「この国で最も幸福だと言われるオンナはな、あのちいさな赤い魚にすらなれないのだ」

 

金魚にもなれなかった

 

(リゾシュ 囲われるものとその近くにいながら身分の違いで何をすることもできないもの)

金魚にもなれなかった
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