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 チチチ。穏やかな囀りに目を覚ます。身体を起こすと、薄ら寒い風が肌を撫で、(また、置いていかれたのか)ふるりと身体が震えた。サイドテーブルのデジタル時計は五を映していた。
 窓から白い光が入り室内を照らす。薄く湯気が上るココアの入ったマグを片手に外を見る。
 良い、天気だ。青く澄んだ空には白い染み一つなく、まだ早い朝の道には人一人いない。姿は見えない鳥の声だけが静かな街に降りている。ココアを一口含み、思う。これでベッドの隣が冷たくなっていなければ最高だったのに。
ほう、と息を吐く。室内でも白くなったそれに、僅かに口角を上げた。そして、ふとマグに視線を落とす。珈琲の色よりはやや明るい水面に、自分の顔が映る。そこで、思った。
(歳は、とりたくないなぁ)(なんて、)
いつもと変わらないはずのそれが、やけに小さく見えたのだ。昔、これを手にしたばかりの頃。物心などついていない時に触れたこれは、とても大きく重たいものだったはずなのに。
 そういえば、このマグをくれた張本人たちは、近所に住んでいたあの二人は、今どうしているのだろうか。自分がどうしても、とせがんだこれを眉をハの字にしながら手渡してくれたひとたちは。
 その時、がちゃり、と扉の開く音。振り返ると、ベッドの隣を冷たくしていってくれた張本人がいた。ロングコートを脱ぎながら、部屋に入ってくる。脱いだそれをハンガーにかけながら、こちらを一瞥もせずにキッチンへと消えていく。途中にあるダイニングテーブルには黒い革の手袋が置いてあった。かたちの良い指がつるりとした滑らかな陶器を扱うのを想像して、ココアをもう一口含む。相変わらずクールというか、ドライな印象を与えるひとだ。なに感傷に浸ってんの。戻って来た、やはり形の良い十本の指が揃うその手には、自分のものとは色違いのマグがあった。香ばしい香りが鼻をくすぐる。どうやらあちらは珈琲を淹れたらしい。ソファに腰かけてこちらを見ながらくつくつと喉を震わせ目を細める姿は、(あぁ、なんて、)(まるで毒のようだ)ひどく艶やかで。別になんでも。そう。互いに交わす言葉はそこまで多くないが、二人にはそれで十分だった。マグをテーブルに置いて、ソファに腰かけている相手の膝に乗り上げる。さして気分を害した風も無く、相手はこちらを面白そうに見上げた。どうやらわかっていてやっているらしい。
「どうかした?」
やはり面白そうに唇を歪める相手の首に手を回して、顔を近づける。鼻先が触れ合う距離でも、相手がその表情を崩すことは無かった。面白くないなぁ。知らん。突き放すような言葉だが、笑いを含んでいれば拒絶でないことは確かだ。
「今朝、すごい寒かったなぁ」
「そう。それで?」
相手のマグを取り上げ、テーブルに自分のものよろしく置いて、再度面と向き合う。首筋に擦り寄るように、耳元で囁く。こそばゆそうに肩を揺らす相手は、手持ち無沙汰にクセのある髪を弄っている。
 答えなんてはじめからわかってるくせに。ちゅ、と首筋に吸い付くと、ぺしりと頭を叩かれた。痕付けるなよ。だって。
「午後、仕事有るぞ」
「大丈夫だよ」
腰に回された腕に笑みが深まる。呆れたような顔をしているが相手も満更ではないらしい。色違いの瞳の中に揺らめく炎を見とめて、とうとう唇を合わせた。舐めてなぞって絡ませて吸って。唇を離せば、名残惜しげに細い銀糸が二人を繋いだ。
「どうだか」
嫣然と笑う双眸は、しかし既に獣じみた瞳だった。けれど、きっと自分も同じ目をしているのだろう。
 ちらと視界の端に入った壁掛け時計の針はもうすぐ六を指そうとしていた。

ある日の戯れ

 煙草を、吸っている。黒くて細い煙草を銜えて、胡乱気な眼で吸って――否、燻らせている。
 今日も今日とて特に面白味の無い、退屈な仕事から帰ってきて、汚れてしまった身体を綺麗にするためにシャワーを浴びて、そしてほぼそのままの姿――下着姿で、ゆったりとソファに脚を組んで腰かけ、手前のローテーブルに酒を置いて、何をするでもなく煙草を燻らせている。下着を身に着けただけの身体は白く、その白磁のような肌は浴室で熱い湯に打たれてきたせいか仄かに紅く色付いている。降ろされた髪は滑らかに素肌を這い、彩る。
 ゆるゆると昇って行く紫煙をぼうっと見つめる色違いの双眸は、何を考えているのか皆目見当をつけさせない。どろりと広がる夢のようで、ふわりと霞む幻のようだと、思う。夢見る乙女のような、とか形容する者がいたら、それは大間違いだと指を差して嗤ってやりたい。そんなものじゃないと。そんな、うつくしいものであるわけがないだろうと。この色の違うふたつの珠は、綺麗なものを言う時に使う、うつくしいを使ってはならないのだ。もし、そのうつくしいと言う言葉を用いようものなら、この世に存在するすべての美しいものは退廃であるが故に耽美である毒だということになってしまうのだから。
 しかしその双眸が此方を向くことは、このままでは無いと言うことは分かっているから――はふと息をひとつ吐くしかない。あの二色は、此方を捉えていればいいのだと、思うその心情は独占欲から来るものか、構われない寂寥感から来るものか。
 時々思い出したように折られ落とされる灰は灰皿ではなく酒の中で舞う。器の縁にトンと軽く煙草を叩きつけ、伸びた灰を落とす。鮮やかな色の液体と鈍い色の個体が滲み混ざり合う液体に口を付けたいと思う人間は、そうそう居ないだろう。口を付け嚥下されることの無くなった哀れな酒の持ち主もその多数派の一人に含まれていた。そんな酒には眼も遣らず、折角の酒を台無しにされたひとは台無しにしたひとに、やはり眼も遣らずに訊く。
「態と?」
その視線は絡みもしなければ掠りもしない。同じソファに腰かけているふたりは、互いに互いを視界に入れず、何をするでもなく、言うなれば、ただ茫洋と怠惰に時間を見送っている。
 わらっているような声音で発せられた言葉に、隣でのっそりと動いていた気配が止まり、短い濁音混じりの音が返される。こつりと堅い音。ぎしりと軋む音。酒に口を付け、戻して座り直そうとしていた丁度その時のことだったのだろう。ソファが僅かに沈み込んだ。
「これ」
「あぁ」
灰皿と化してしまった酒の器を持ち上げて見せると、此方を一瞥もしていないだろうに、やはり気怠げな言葉が返って来た。想像通りの反応だが、それでもやはり少しは気に障った。大きいとは言ってもただの家具であるソファは、人一人が寝転べる程度である。身を乗り出せば、相手の煙草を奪うことも、文句を投げてくる口を塞ぐことも出来る。
 決して新しくは無い革張りのソファが呻き声を上げた。見下ろす双眸は炯と輝き眼下を映している。見上げる双眸は左右で虹彩の色が異なっている。色付いた、やわらかな唇に挟まれていた細長い筒を抜き取る。つぅと銀糸が垂れ、双眸が名残惜しげに黒を追う。銜えられ、咥内に在ったフィルタの部分は僅かに濡れ、てらと光を返している。ぐしゃりと握り潰すと、手の中が少しだけ熱くなった。
「それ、貴重な廃止銘柄なんだけど」
不満気な声音に、どうしてそっちがそんな声音を使うのだと、腹の上に陣取ったものは唇を尖らせる。
「口寂しいなら言えばいいのに」
まだ長かった黒い筒を、もう飲めなくなってしまっている酒の中へ放り込み、ずいと顔を寄せる。互いの虹彩に垂れ込んだ色が混ざり合うのを見とめられる程の距離。不健康にも見える白い肌の上をそっと伸ばされた健康的な血色の良い指が滑りなぞり、行き来を繰り返す。その指はやがて下から伸びてきた白い五本の指に絡め取られ、どちらがどちらを捕らえているのか掴まえられているのか、分からなくなる。
「口寂しい?」
ぽつりと、落とされた声音は至極可笑しそうなもの。綺麗に弧を描く唇は視界の中でやけに鮮やかな存在。細められ、僅かに色を翳らせた双眸は、しかし相も変わらず煌めいていて、やはり奥が底が向こう側を見せない。
「馬鹿なことを」
真っ直ぐに見上げてくるふたつの眼球には歪な笑みを浮かべた顔が映っているのが見えて、堪らず舌打ちをせざるを得ない。どうにも、ポーカーフェイスとか言うモノは苦手だった。自分じゃ自分の顔は見られない。
「――…で?」
絡んだ指が僅かに白くなる。空いている手はテーブルに放置されていた酒に伸ばされ、その器を掴む。鮮やかなままの、それ。
「どうする――いや、どうしてほしい?」
「――ッ!」
首――後頭部の方に回された、酒の入った器を持った手はそのまま傾けられ、案の定それなりの温度を保っている器の中の液体はその冷たさと共に人肌に零れ落ち、曲線を伝い落ちていく。ぱたぱたと降ってくる雫に濡れ、時々それを舌で掬うひとは、どれを何を選んだところで堕ち着く場所は同じだと言うのに、なお訊いてくる。
「……してほしいのは、そっちでしょ」
仕掛けたにも関わらず優位に立てない煩わしさから、自然とその言葉は鋭さを携えるが、それすら可笑しそうにわらって流した相手は、手にしている酒の器を自身の口元に運び、含んだ。
 かふ、と苦しげな音が漏れる。ぴちゃ、くちゅ、と言う水音。顎を伝う液体は互いの唾液が咥内の酒と混ざり合ったもの。時々がつりと歯を接触させながら、角度を変え動きを変え、互いを貪る。舌を摺合せ主導権を握ろうとすることもまた楽しんでいるような、はしたない戯れ。絡められていた指は解かれ、互いの身体を這い回っている。少しだけ肋骨の浮いた脇腹をなぞって、緩やかな曲線を描くやわらかな胸を掴む。力を込められ眉を顰める相手の表情に満足げに口角を上げてみるが、すぐに腹を弄られ、思わず眉間に皺が寄る。ずるりと舌を抜き、合わせていた唇を離せば、つぅと細い銀糸がふたりを繋ぐ。
「堪え性の無い」
そこまで触れていないのに、わらう。
「それはお互い様じゃなくて?」
 革張りのソファが悲鳴を上げていた。それはよくあること。ソファからしてみればよくないことなのだが――生憎このソファの持ち主たちは基本的に家具の心配などはしない種類の人間なので、きっとこの先も繰り返されるのだろう。シンプルなデザインで揃えられた家具は色調も落ち着いたもの。ふたりがふたりだけで過ごすための空間に、余計なものは要らないと、どちらともなく決めたのだった。この部屋。この家にいる時、そこはふたりだけの空間。何人も――基本的に、だが――入れることは勿論、干渉すらさせない。閉じられた空間。隔たれた世界。流れる時間は気にされることもなく。何時からか据え置かれた時計は各々別の時を刻み始め、その役割を失っていく。それらに手を伸ばすことも目を向けることも無く日々を送り続けるふたりの生活は、しかし極自然に流れていく清水のようで。生活感の感じられない空間には、それが一番合っていた。そうしてまた陽が落ちては昇る。

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