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 小高い丘の上、青々と茂った名も知らぬ草の上に並んで腰を下ろしていると、不意に手を掴まれた。突然のことに、思わず顔を隣へ向ける。ムスッとした不機嫌そうな顔は生前のそれよりも険が取れていて幼く見える。青い目が、ジロリと横目で男を捉えた。なんだ、とでも言いたげな視線を感じた男は、なんでも、と言うように顔を前方へ向ける。

 サヤ、とやさしい風が吹く。掴んだ手の中の温もりを、確かめるように――或いは逃がさぬように――力を込める。

「……あたたかい」

「そうだな」

隣で零された小さな声は、けれどしっかりと相手の耳に届いた。微かに笑いを含んだ相槌が返る。

「オウガイ殿には会ってきたのか?」

「無論」

「そうか。良かったな」

「……いい加減師父離れしろと言われた」

「そうか――そうか」

隣の肩が、触れ合っている手から伝わる揺れから、震えていることがわかる。実に面白そうに穏やかに揺れている肩を恨めしそうに横目で睨んでも、効果は無い。だが、不思議と不快感はあまり感じず――どちらかと言えば、幼い頃に親しんだ、気恥ずかしさのそれに近かった。

「お前は――」

乱世となってから特に傲岸不遜が常の印象であった男からは想像し難い、声音。

「お前は、これからどうする」

その問いに、訊かれた者は首を傾げた。特に何をするとも決めていないのだろう。加えて、したいという願望も、薄ぼんやりと位にしかないのだろう。問うた者の予想通り、どうしようか、などととぼけた答えが返ってきた。

「……ならば、俺の側に居ろ」

「? オウガイ殿と一緒に過ごすのでは――?」

「うるさい。お師さんに不格好な姿は曝せん」

「ふふ。そうだな。では、お前が落ち着くまで側に居よう」

言いながら、握られている手が痛いと宣うこの男は言葉の意図に気付いていないらしい。これまで近過ぎた師父との距離がある程度の距離になるまでの目付という意味で取っているらしい相手に、思わず頭を抱える。以前からニブいところはあったが――油断していた。

「そういう意味ではない。ずっと側に居ろと言っているのだ」

もうおまえだけでいい、と。吐かれた言葉に、呆けた顔を曝した。そしてジワジワと上ってくる朱に、男はようやく満足気な表情を浮かべる。

「え――いや、なん……え?」

掴まれている手を引き抜いて距離を取ろうとする男の思い通りにはさせず――引き抜けない程に強く手を掴んで、相手が身体を動かそうとした勢いを利用し、その身を引き寄せる。バランスを崩した身体が腕の中に収まった。紅を差したように色づいた目元、耳元が、熟れた果実のようで、美味そうだ――なんて感想がふと過ぎる。口元が、自然と弧を描く。

「答えは、無論、是しか認めんがな」

「お前しか要らない」

 

(将仁 想いを伝えてしまえば、大きな子供は一人の男に早変わりするとかなんとか)

 ザァ――と空が泣き出した。窓の硝子越しに、そういえばあのひとは傘を持って行っていなかったな、と青年は雑誌を捲っていた手を止める。空は蒼色と灰色が混じったような厚い雲に覆われている。数分も経たぬうちに天と地を繋ぐ銀の糸は無数に降り、銀の垂れ衣と成っていった。あのひとが帰ってくるまでに、止めば良いが――。

 夕刻。時計の針が指す数字の割に外は暗く、また雨も止んでいない。仕事に出ているひとのことを考えると、気が気でない。あのひとは、この雨の中でも勝手知ったる帰路だからと傘を差さずに帰ってくるような人物だ。それで風邪でも引かれたら、困るのは本人ではないか。青年はテーブルの上に置いていた携帯電話を手に取る。電話帳を開いて、見慣れた――兄弟たちのものよりも見慣れてしまった――数字の羅列を選ぶ。ボタンを押して、数コール待つと、ブツリと塞がっていた栓が抜けたような音が聞こえた。

「――ハイ?」

次いで、鼓膜をくすぐる、聞き慣れた声。

「あ――、今、大丈夫ですか?」

「あぁ、大丈夫だ。どうした? 何かあったか?」

相手は屋内に居るのだろう、通話口の向こう側からは無数の足音や話し声が微かに聞こえてくる。雨の音は、聞こえない。向こうの建物にも窓はあるだろうが、青年は念のために訊いてみる。

「いえ……その、そっちでは雨、降ってますか?」

「雨――」

声が途切れて、衣擦れの音。コツコツと足音も聞こえてきた。窓際へ歩いているのだろう。

「……いや、降っていないようだ。そちらは降っているのか?」

「えぇ。今日、傘持って行っていないですよね?」

「む……そうだな。しかし、走って帰れば――」

「言うと思いましたけど……駄目ですよ、そんな。風邪でも引いたらどうするんですか」

あなただけの身体じゃないんですから、とダメ押しをすれば、うぐっと息を呑む音が聞こえた。眉尻を下げた困り顔が容易に想像できる。だが、窓から見る外の様子はあまり変化が無い。道路を走る車はライトを灯しているし、ビルやマンションの窓も人工的な光を漏らしている。雨脚が弱まる気配は感じられない。

「…………傘持って迎えに行きますから、会社を出る時に連絡してください。駅の改札で落ち合いましょう?」

「いや――」

「お返事は」

有無を言わさぬ問いを投げたところで――相手の名を呼ぶ声が少し離れたところから上げられているのが、通話口から聞こえた。フッと空を薙ぐ音がして、ハイ、と向こう側の声に応える声が少しだけ恨めしい。

「えぇと――では、駅の改札で待っている」

行かなくては、と微かに焦燥を帯びた声が苦笑する。そして、通話が切れる直前。

「トキ、ありがとう」

なんて言うのは、卑怯だ、と思った。ジワリと朱が滲んだままの顔で、携帯電話を耳に当てたその姿で、しばし硬直する青年であった。早く――早く、帰宅の連絡が来ればいい。雨も、止まなくていい。騒ぐ胸の意味が、あっという間に変わった。

 それから数時間後。雨脚が少し弱まった街を歩くふたつの影は、一本の傘の下に仲睦まじく肩を寄せ合っていた。

 

「駅の改札口で待っていて」

 

( トキシュ 学生と社会人の同居生活にあったある日の一コマ)

駅の改札口で待っていて

 じゃれ合った末に疲れ果て、抱き合うように寝台に転がり、そうして眠りに落ちるということを、幼い頃はよく繰り返していた憶えがある。そう、正に、今の状況のような。それは相手も同じようで、懐かしいな、なんて上機嫌に呟いている。

 あぁ――と、青年は目を細めた。このひとは、あの頃のままだと思っているのだ。幼い、子供の頃のまま、庇護下に置くべき対象だと見ているのだ。同じではない。もう子供ではない。自分を、肩を並べて隣に立つ、一人の男として、見て欲しかった。だから、青年は戯れに落としていた口付けを、深く相手の唇に落とす。

 戯れを装って覆い被さった身体が、ピシリと固まった。数秒の間、完全に相手の動きが停まる。その隙に、無防備に力の抜けていた唇から口内へ舌を滑り込ませる。丁度、ふたつの舌が触れ合った時、相手が抵抗を始めた。己の身体に影を落としている身体を退かそうと両手を突っ張ろうとするが――如何せん、体勢での利が無さ過ぎた。重力を味方につけた青年は差し出された腕の手首を掴んで寝台に縫いとめる。舌同士を軽く擦り合わせてから歯列をなぞり上顎を撫でると抑えつけた身体が跳ねた。角度を変える、ほんの少しの間で、制止を促す言葉の、欠片が耳をかすめる。それを、聞こえなかったフリをして青年は続ける。戸惑うように震えている舌を掬い上げ、先程よりもしつこく擦り合わせる。ピチャ、チュク、と漏れる水音に、眼下にある顔がいよいよ赤く色付いていく。目元に滲んでいるのは、どんな意味を持った雫なのか。目を細めた青年は、ジュッと音を立てて舌を吸い、口を放した。細い銀糸がふたりを数秒の間繋ぎ、そして切れる。手首を抑えたまま見下ろす肢体はいつの間にか弛緩していて――乱された呼吸を整えるように開かれた唇から覗くのは唾液でテラテラと淫靡に光るやわらかそうな赤。視界を彩る色彩に、無意識に生唾を飲み下していた。

 静かに自然に手を放して、服に手をかける。寝支度を整えた後、纏った寝間着は着やすくもあり――脱ぎやすくもある。スルリ、と閉じられていた前を開けば、微かに震えている肩や腹が露わになった。

 目尻から零れ落ちてしまいそうな雫を掬って口付けを落とす。頬、唇、と下へ辿っていく口付けは首筋まで至り、赤い欝血痕を残していく。ほんの、興味から喉元に歯をやわく立てると、小さく引き攣ったのが感じられた。軽く歯を立てた場所をベロリと舌で撫でてから口を放す。赤に染まった顔を窺えば、僅かな恐怖を滲ませた羞恥の表情が浮かんでいた。

「……こわい?」

やさしく訊きながら、しかし手は止めず、無防備な素肌をなぞる。胸の突起の側を通り、割れた腹筋を辿る。

「やめ、」

「なんで? もうこんな――ノッてきてるのに?」

泣きそうな声の制止を穏やかな微笑みで躱して、緩く主張を始めている下半身に手を伸ばす。肌を覆い隠す布を取り払おうとする手に、慌てて自分の手を伸ばしてその動きを止める。

「待っ――何を、ッ、お前?!」

「待て? それはちょっと無理だな」

「ゃ……なん、なんで……っ?」

潤んだ声に釣られて首筋に顔を埋めながら下半身を重ね合わせて、ユルユルと腰を揺らす。布越しの、緩やかな刺激にも関わらず、覆い被さられて碌に動かせない背を微かに浮かせて悶える。加えて、視力を失ってから、より鋭敏に研ぎ澄まされただろう耳を吐息と共に舌で嬲ってやれば、堪らず声を上げた。

「ずっと――ずっとさ、待ってたんだよ、おれ」

あんたは気付いてなかっただろうけど、と青年は一言一言を噛み締めるように並べていく。

「だから、もう、待て、は無し。嫌だったらはっきりそう言ってくれ……あぁ、でも、どうしよう、おれ、」

「待て、なんて言わないで」

 

( 義仁 一線を越えさせてくれるかなって一線を踏みながら迷ってる男の子とその想い人)

待て、なんて言わないで
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