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沈む小石のように。

望みや願いは積もっていく。

ぶくぶくと、深く高く。

恋慕は渦巻く炎。

泥沼に嵌まっていくのがわかった。

何時終わるとも知らぬ暗闇。

朗々と過ぎていく時にすら恨みを覚える。

鈍いのだろうとは思っていた。

いざ相対して、それを目の当たりにすると、やはり。

木偶の坊じゃないかと自嘲する。

憎いのは気付いてくれない相手ではない。

けれど、どうしても憎いと思ってしまう。

利害の一致だけではなくなったのだ。

僅かな時間でも、隣に居たいと。

願望は際限なく広がっていく。

焦がれる心に、冷たい刃を求めてしまう。

居場所になりたいと思うようになった。

食む唇のやわらかさを想うようになった。

桃色に染まる頬を想うようになった。

野に寝転び空を見上げても、気が紛れることはない。

野蛮だと思った感情は極原始的な本能でもあった。

想い人は手の届かぬ高みのひとだと言うのに。

盲目だった。

ふたりだけでいいと、考えてしまうほどに。

閉ざした箱庭の中で無垢なまま。

酷い頭の男だと、時折正気が顔を出す。

問うて答えが返ってくるはずなどなく、男は頭を抱える。

述べる言葉に偽りはないが、伝えたい言葉ではない。

時として吐いた言葉は己を貫いて散っていく。

ふわりとあのひとを思わせる匂いにすら顔を向ける始末。

まるで恋する乙女だなと、隻眼が細まる。

殿下、と自室で呟く声はひどく甘い色を孕んだ。

静かに、息を潜めて空を舞う鷹の目から逃れる山鼠のように男はその感情を押し殺す。

覗いた深淵は底なしで――手を伸ばしたが最後、頭から落ちた。

巫山戯た話だと、もうひとりの自分がわらう。いい歳していい歳した野郎に惚れるたァなァ?

恋情の色は鮮やかなそれではなく、もっとくすんだ鈍い色だった。仄暗い炎が揺らめく。

突然のことではなかったが、前兆のようなものが無かったといえば嘘になるが、それでも未だ信じ難かった。

いつも通りに、明日から今までと同じように振る舞えるかどうか、自信は正直なところ、なかった。

碌な頭してねぇや。よくよくどっかイカれてんだ。水をかぶっても点った炎は消えない。

二度寝から目覚めても何も変わっていない。最初からわかっていたくせに。

何時だって最善の選択を選んできた筈の頭は此処になって故障しているらしい。肝心なとこで。

手堅く攻めるべきだろうか。それとも、何もせずに何事もなかったことにしておくべきだろうか。

苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる男のこんな姿を、誰か見たことがあっただろうか。

煙を――ゆらゆらと立ち上る紫煙をぼんやりと眺める翡翠には、どこか疲れのような色が滲んでいた。

理性的な人間だと言う自負はあった。理性的で合理的で、人間らしい人間だと思っていたし、歳も十分に重ねたと思っていた。

若くはないのだと、思っていた、のに。

顔に出しているつもりはなかった。出すつもりもなかったし、その勇気すら男にはなかった。

恋をしているなど――。それも、利用するべき同盟相手に恋心を抱くなんて――。

ひどく愉快そうに歪んだ旧友の顔が忘れられない。恋をしているんだろう、と見透かしたように言ったあの胡散臭い男。

張り倒してやりたいと思った。ブン殴ってやりたいと。きっと数年前なら戯れの延長でそうしていただろう。

もうそんなことをできる間柄ではなかったし、そうして物事を解決しようとする時期でもなかった。

脳内で思い浮かぶ限りの悪態を吐き捨てながらその場は平穏にやり過ごしたが、あと何回堪えられるか、不安に思った。

闇の中でなら互いを互いと知らずに手を取り合えるだろうか。

思うのはいつの頃からか唯ひとりだけになっていた。こんなに一途に想うことができたのかと自分に感心した。

もう少し。少しでも相手のことを知りたい。あのひとは自身のために何を感じ、思い、描いているのだろう。欲望は重なる。

俯瞰したくはなかった。今の自分を俯瞰して見てしまえば、顔を両腕で隠してしゃがみこんでしまいそうだと思った。

とうさん、かあさん、なんて今更両親や祖父母なんかの名を、迷子の少年のように呼んでしまう。

ひどい病だ。恋は盲にするだけじゃない。胸を締めつけ、苦しめる。恋とはこんなにも苦痛を齎すものだっただろうか。

唐突にそんなことを考える。或いは、隠さねばならない恋だからだろうかと。積もっていくだけの想いが。

野を駆けていく風のように自由な身であったならこんなことにはならなかっただろう。だが、今の自分だからこそ。

とばされてきた自由の身ではない、自分だからこそ、あのひとに会えたのだろう。そう思えば、少しだけ楽になった。

ふとした瞬間に、もういいんじゃないかと思ってしまう。もうケリをつけてしまえよと。しかし男は思ったりもするのだ。

まだダメだ。まだその時じゃない。生き急ぐ馬鹿みたいなことするなよ。お前は使える脳みそ持ってるだろ、なんて。

手遊びの代わりに気を紛らわせようとペンを取ってみても、綴られる言葉には、あのひとの面影が見えていた。

色に出にけり

たった一枚の紙切れでふたりは離れ離れになる。それは抗うことのできないことだった。

地上にある異なるふたつの国に、それぞれが留まる。遠くないはずの距離が壁のように横たわっている。

私を忘れないでくださいと、男は言うけれど、それを言いたかったのはきっと、間違いなく――。

鐘が鳴った。重厚な、遠ざかっていく国が持つ歴史のように厚みのある鐘の音が聞こえ、遠ざかっていく。

例外などあるはずがなかった。それ以前に、言い出せるはずがなかった。同盟相手が好きだから離れたくないなどと。

椅子が軋む。堅い木で組まれた座席に深く腰掛ける。流れていく風景を見たくなかった。

泣いてしまいそうだった。何も知らず、柔らかな椅子にふんぞり返っているだけの上の都合に振り回されて。

爆ぜる暖炉の火に焼べてしまいたかった。送られてきた指示書を、文字通り荼毘に付してしまいたいと思った。

望まない選択肢を選んだのは、愛しい人がお前の最善になるようにしろと、言ってくれたから。

辞めた方が良いだろうかと口にすると、そのひとは馬鹿者と怒ってくれた。やさしいひとだ、と男は思った。

真面目に国の――ひいては民の――ことを考え、想っているのだな、と。そして自分のことも、おそらく。

野にはポツポツ白いものが見える。きっと花だろう。青い空に白い花が咲く緑の野原。平和的な画だと思った。

見ているこの景色が何時か変わるとしたら、それはどんな時だろうか。少なくとも、火によってでは変わって欲しくない。

眠りに落ちることができたら幾分か楽になったのだろうが、生憎こういう時に限って睡魔は現れないのだ。

苦々しい表情で揺られている男を、周囲の乗客たちは訝しげにチラリと見遣ってから各々席に就く。

お姫様は何時だって鳥籠の中で王子様を待っている。ならば王子様はどうなのだろう。あの王子様は籠の中の鳥のようだった。

不自由のない生活の代償は不自由な身の振り方。澱んだ籠の中で、自分だけが彼の窓で在れたように思う。

瑠璃色の夜。紫苑色の朝。黄金色の昼。自分だけがあのひとを外に連れ出して美しい世界を見せていたように思う。

ままならないことも、少なくはなかったけれど、それでも出会った当初に比べれば和らいだ表情を見せてくれることが増えた。

ツイ、このまま何事もなく平穏に暮らせたら、暮らせるのではと思うほど、穏やかな時間を共有できるようになれた。のに。

突然の、これは、なんだ。何故自分は彼の傍に居られない。何故彼は自分から遠い存在に、今更、なるのだ。

白くなる指先は誰からも見えない。グシャリと握り潰したのは、茶色の封筒。中に入っていた紙は床の上。

昨日の今日と言うほど急なことではなかったことが救いに思えた。

彼に会って、抱きしめて、きっと帰ってくると。貴方の傍に戻ってきましょうと。貴方が必要としてくれるなら――。

晴れない表情は徐々に滲んでいき、とうとう綺麗な雫に濡れた。静かに落ちるその雫は、何よりも雄弁に彼の心境を語った。

今際の別れにはしたくなかった。またどうにかして戻るのだと強く思った。男は唇を噛む。

真っ直ぐな想いは一個人としてのものだった。何時からかそれほどまでに強く想うようになっていた。

軽々しく行動できないことは互いに重々承知のこと。衝動と焦燥を、ひっそりと押さえ込む。

下手に動けば何もかもが台無しになる。ふたりだけの問題では、もちろん片付けられない。それこそ、愚行だ。

理性を働かせ、理想的な展開になるよう事を運ぶにはどうするべきかと、汽車の中で男の頭は既に回り始めている。

心からの誠実を捧げたいと思った。あの孤独な王子様の傍に居たいと思った。大切な存在として。

夢想するのは幸せな風景。自分と彼と、あの子供たちとが、呑気にお茶会なんぞをしているような、そんな風景が。

立ち別れ

顔を見ればわかるよと何でもない顔で言われたときは、言い逃れができないくらい完璧にカンニングがバレた学生のような顔をしていたと思う。

許されない恋をした。叶うはずのない恋をした。落ちてはいけない相手に恋をした。だから誰にも何も言わずに墓の向こうまで持っていこうと思っていたのに。あっさりと、それも厄介な相手に、バレてしまった。否。厄介な相手だからこそバレてしまったのだろう。

「安心してよ。流石にそこまで――兎や角言うつもりはないからね」

目を細めて口角を上げる、その表情は普段浮かべているものよりも人間らしく、柔らかく見えて、背中がむず痒くなった。

「ただ、そうだね。忘れてくれるなよ。誰が誰にそういう気持ちを抱いたのか」

「あぁ――。あぁ、わかってる。わかってるよ」

細められた青の碧眼は似合わないくらい穏やかな光を湛えていて、同じ道を辿ったのだと、辿っているのだと言っているようで、気の利いた冗談のひとつも飛ばせなかった。

あの旧友にバレたのは事故だ。アレは昔からひとの機微を目聡く見抜いた。

ひとり報われぬ想いを抱え、焦げる胸に眉を寄せても日常は変わらずに過ぎていった。代わり映えのない毎日が賑やかに穏やかに過ぎていく。

覚悟はしていたはずなのに、ジリジリと痛みは増していく。溜め息が増えましたね、と生徒に言われる程度には耐えられなくなっているらしい。わらってしまう。

銀と菫の気高い色彩を知らず探してしまうのも、追ってしまうのも、その証拠だろう。

相手だけが、気付かない。

周囲には隠しているのだから、気付かれないのは当たり前だ。恋して周りに察せられるなんて、年頃の乙女でもあるまいし。ポーカーフェイスや心にもない表情を浮かべることは、得意だと思っている。自室以外ではいつもの表情を崩さないように心がけている。

それでも無意識に動くからだは止めようがなかった。小さな変化であったことが、救いだろうか。

そして今日も男はひとり部屋で彼の人を想う。

あぁ、やはり自分は、後戻りなんてできないほど、あのひとに恋をしている。

(最近の顧問、上の空になってること多くない?)(溜め息の数も増えてるような気がするんだよな)

落ちてしまった
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