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Take 1

 「……あんた、大丈夫か?」

 突然降って来た声にブライヴは目蓋を開ける。見れば分かるだろう、と自身の血臭に嫌になりながら視線をやれば、人の子が自分を覗き込んでいた。驚くほど澄んだ青い瞳に、思わず目が丸くなる。

 「ああ、意識はあるんだな。なら大人しくしててくれよ」

 薄い色の髪と褪せたような肌色に、それが放浪の民だと思い至ったのは一拍置いてからだ。各地で見かける商人が纏う、特徴的な装束でなく、簡素なシャツを着ていたのもパッと見て分からなかった一因だ。

 状況に取り残されるブライヴを置いて、少年は小さな手で怪我の手当てを始めていた。

 幸い敵の攻撃は鎧を貫かなかった。が、鎧を着けていなかった頭部に少々。傷自体は大して深くないが、せめて血が止まるまで休もうと思っていたのだ。

 「……放っておけ。大した傷ではない」

 細い指先がこそばゆくて目が細まる。ともすれば睨むように見えるそれと、唸るような声を聞いても放浪の民の少年は手を停めなかった。

 「だろうな。でも、血をそのままにしておくのは良くないと思うぜ。大熊とか、出てきたらどうするんだ」

 それは今更ではないのか――と思ったが、少年の知ったことではないのだろう。何を言っても無駄そうな少年に、思わず肩の力が抜ける。なんだこいつは。お人好しにも程があるのではないか。自分が怖くないのか。見知らぬ半狼――それも手負いの――にお節介を焼くとは、親はどういう教育をしているんだ。

 

Take 2

 最初の一発は避けない。客として近付いてくるだけの理性があるヤツは、大体初撃は脅しとして振るうからだ。だから、最初の一発を貰っても、それが致命傷になることは少ない。

 甘んじて客――だった男の拳を受ければ、やはりそいつは持っている物をすべて寄越せとロクに手入れのされていない直剣を突き付けてきた。予想通りの展開に落胆する。どうしてこう、嫌な想像ばかり当たるのだろう。死ねェ!と叫ぶ男の声を聞きながら、カーレは振りかぶられる直剣をぼんやりと見ていた。

 男は赤い商人の姿を見失う。フッと目の前から消えたのだ。慌てて視線を巡らせ――下! 商人は体勢を低くしていたのだ。上目遣いに見上げてくる眼は、しかし砥がれた刃のように鋭く冷たい。思わず「ヒッ」と喉が引き攣る。だが、もう遅い。商人がすらりと腰元から短剣を抜く。銀閃。それが男の見た、最後のモノだった。下顎の、柔いところへ短剣を突き立てられて、男が頽れる。

 それを、周囲の男たちは呆けたように見ていた。所詮は商人。それも、痩せ細っている。と、油断していたのだろう。どう、と男の身体が音と血を溢れさせながら倒れて、はじめて各々隠し持っていた凶器を握り締める。

 まったく悲しいことだ。しかし、仕方ない。ここで逃がせば、他の商人が奴らの相手をすることになる。直接は関係のない同胞を、危険に晒すことは、憚られた。

 憤怒の形相で迫って来た男を、まずは避ける。ツ、と出した足に引っかかった男は地面とキスした。

 そいつに続いて来た男は、腕を捉えてその勢いを利用してやる。ぶわ、と浮き上がる身体に、男は目を見開いた。そして――ぐるりと地面に叩き付けられる。受け身も取れずに、背を強かに打ち付けて男は息を詰まらせる。視界に広がるのは青い空。そこへ、ぬっと赤い影が現れる。骨のような手が視界を覆った。首筋に冷たい物。スッと冷たい熱が走る。意識が暗転する。

 商人が仲間の首――太い血管を迷わず切り裂いたのを見て、男は慄いた。どうしてただの商人が躊躇いの欠片も無くひとを、あんなに冷静に殺せるって言うんだ。

 「化け物」

 小さくこぼされた言葉を、カーレの耳は拾っていた。苦笑する。最初に手を出してきたのはあんたたちだろう。まあ、だからと言って今更見逃せるわけもないのだが。

 同胞から買っていたククリを抜く。

 カーレは気付いていた。まだ男たちの仲間が数人、草むらに潜んでいることに。男たちがどういう作戦を以て自分に近付いたのかは分からない。だが、こちらの予想外の行動に、士気も統制も崩れていることは確かだ。それはカーレにとっては幸いなことだった。

 カサリと揺れた草むらへククリを投げる。ドスリと鈍い音。同時に、ぎゃあ、と悲鳴が聞こえた。顔の辺りを抑えて転げる身体が、草むらから飛び出す。

 動揺は簡単に伝播した。ガサリガサリと草むらが鳴く。そちらを、商人がチラと見た。細い指先から、またククリが放れていく。

 「この野郎!」

 更に悲鳴がふたつ、みっつ転がると、先ほどカーレを「化け物」と評した声が、今度は怒気を孕んでぶつかってきた。けれど怒気を向けられた相手は冷静だった。

 すらりと、今度はスローイングダガーが抜かれる。陽光を映す刃はよく砥がれて美しい。それを持つ手が、フッと揺れる。ダガーが消えた、と男は思った。思って――トスリと、頭部が揺れた。思わず立ち止まる。何が、と思って、ぶわりと顔面を襲う熱と痛みに悲鳴を上げた。いちばん大きく痛む場所――左目へ手を遣れば、そこに何かが突き立っている。スローイングダガーだ。

 痛い。痛くて、痛くて、痛くて、死んでしまいそうだ。

 その場で蹲った男の身体に影がかかる。それに気付いた男は、ヒィヒィと喘ぎながら影の主を見上げる。間違えるはずもない。あの商人だ。

 「た、たすけ、たすけて、」

 しにたくない、と見っともなく命乞いをする。

 けれど。商人の答えは。

 

Take 3

 「……ああ、あんたか」

 ブライヴを振り返った青年の目は若草のような色をしていた。

 「……カーレ、」

 「大丈夫だよ。あんたも大概、心配性だよな」

 赤い商人の装束を纏った青年――カーレの足元には追い剥ぎと思しき、数人の死体。

 ちらりと見た感じ、すべて短剣による外傷が致命となっている。つまりカーレは敵を「焼かなかった」と言うことだ。

 「……目は、どうだ」

 放浪の民の「秘密」を、ブライヴは知っている。見たことがあるからだ。野党に襲われた商人が、抵抗の手段として「それ」を行使しているのを。

 だが、カーレは放浪の民が持つ力をブライヴに話していない。ならば、こちらから触れてやることもないだろうと、ブライヴはカーレたちの秘密を知らないふりをしていた。

 「最近また少し見にくくなってな。この前うっかりイノシシにド突かれたよ」

 少し困ったように笑う当事者に、ブライヴはどんな顔するべきか迷い――カーレ曰く、変な顔をしてしまう。

 それはどういう顔なんだ、とカーレが笑った。この朗らかに笑う青年が、短剣一本で複数人の追い剥ぎを殺す――殺さざるを得ない世界なのだとふと気付いて、ブライヴはやはり変な顔をしてしまった。

 

Take 4

 水場には先客がいた。小さな滝つぼでもあるそこは、水浴びにも丁度良く、先客もそのために来ているようだった。

 小さな焚火の傍に痩せたロバと少々の荷物。ブライヴは当然のようにその傍に荷を下ろし、鎧を脱いで置いた。軽装になり水際へ。残りの衣服は、水に入る直前に脱いだ。

 ざばざばと水を掻き分け、こちらに気付いているだろうにも関わらず背を向けたままでいる先客――カーレの元へ。そして声をかけようとして、腹側から背にかけて刻まれた傷が見えて、ほとんど無意識のうちに腕が伸びていた。

 相も変わらず細い身体は腕の中にすっぽりと納まった。

 「随分甘えたな挨拶だな」

 黄金を流し込んだような色の目が振り返る。振り向いた直後の丸い目はあまり見られるものではないけれど、それよりも今は傷の方が大事だった。

 身長差を利用して身体を覗き込む。やはり腹側から脇腹を通って背の方へ大きな傷ができている。他にもいくつか。腕や、どうしたらそんな場所に――と思ったのは太腿に走る傷。グルル、と鼻筋に皺が寄る。

 ブライヴが考えていることを、カーレは察して苦笑した。

 「大丈夫だよ」

 ぽすぽすと己を閉じ込める腕を叩いてやると、逆に力が込められてしまった。どうして。

 

Take 5

 ブライヴはカーレのことを綺麗だと思う。

 他の者が貧相だという肢体は無垢金の針にも負けない金細工のように思うし、他の者が気色悪いという双眸は黄金樹以上の慈悲と温もりを湛えていると思う。細い指先は物を丁寧に扱うし、楽器を弾く時なんか驚くくらい繊細に滑らかに動くのだ。穏やかな声も良い。人を傷付けない言葉選びも好ましい。当人はあまり丁寧に扱っていないようだけれど、月の光を紡いだような色の髪も好きだ。

 何より「ブライヴ」そのものをすべて受け入れてくれるこころが美しいと思う。

 そんなことを言えば、カーレは「買い被り過ぎだ」と困った顔をした。

 でもブライヴは心からそう思っているのだから、カーレの反応こそ理解できなかった。

 だから、あまり危険を冒すな。無茶はするな。思いつくだけの言葉を並べて、何なら「お前に死んで欲しくない」まで言った気もする。すべて本心だ。

 だけれどやっぱりカーレは困ったような顔をして「俺はあんたが思ってるような、綺麗な人間じゃあない」と言うのだ。だが、同時に「でも、あんたがそう思ってくれてるのは、嬉しいよ」と言うので、ブライヴはカーレにできるだけ言葉を尽くそうと思うのだ。あまり、上手くはいかないけれど。あまり上手くはいかないのだけれど、ブライヴの言いたいことを、カーレは汲んでくれるし、汲もうとしてくれるから、あんまり酷い誤解や擦れ違いが起きることはないのだ。

 そんなカーレのことを、ブライヴはいつしか「愛しい」と思うようになっていた。お節介で、お人好で、でも敵対者には容赦がない放浪商人のことが、かけがえなく思うようになっていた。

 それは、今も変わらない。

 組み敷いた身体。その薄い腹が、薄っすらと己のかたちに膨れているのを見て、腰がズクリと熱を帯びる。散々暴かれた身体が、更なる狼藉の気配を察してヒクリと揺れた。

 「――ァ……、……」

 とろりと蕩けた褪金の目がブライヴを映す。ふるえる舌は唾液に濡れている。劣情がひどく煽られる。だが、逆に好いた者のこんな姿を前にして、煽られない者が居ようか。居ないはずがない。

 身を乗り出して耳元、首筋に鼻先を寄せれば、小さな悲鳴と共に薄い背が反り、顔が背けられる。それを好都合と、背と寝台の間に手を差し込み抱きしめる。そうして、愛している、と囁けば、抱いた身体がビクビクと跳ねて、胎に埋めた半身がきゅうきゅうと締め付けられた。

 声は疾うに枯れているのだろう。四肢も、既に力はまともに入らないと見える。それでも相手は、カーレは、ブライヴへ手を伸ばして、その背へ腕を回そうとした。割開かれた脚が、腰にゆるやかに絡みつく。それに応じてやろうとより身体を沈めれば、ぐぷぐぷと半身が相手の胎に更に潜りこんだ。そのおかげで、ようやくブライヴの背を捉えたカーレの指先は、早速それに縋ることとなったのだ。

 クゥ、と熱に浮かされたカーレの喉から子犬のような音が出る。それすら愛しくて、堪らなくなってブライヴは自分のにおいを相手に移すようにぐりぐりと頭部を喉や首筋に擦り付ける。

 きっと今生で自分がここまで想うのはこの男だけだろう。その確信がある。後にも先にも、「ブライヴ」が愛するのは「カーレ」だけだ。仮令いつか呪いとなり狂い、愚かな被造物として果てたとて、その事実は変わらない。「ブライヴ」は「カーレ」を確かに愛していたのだと。

 「ああ――カーレ、愛している、」

 愛の言葉に答える声は無い。

 けれど、ブライヴは見ていた。乱れた髪の間から、はくはくと懸命に動かされる唇を。ブライヴは聴いていた。言葉には成らなかったけれど、「あいしている」とカーレが吐いたのを、確かに聴いていた。

+++

 商人――放浪の民は狭間の地において底辺にも近い地位にいる。定住は許されず、冷やかしはまだ良いとして、追い剥ぎに遭うことも、間々ある。

 けれど各地を渡り歩く、「そういうもの」だと認識されていることは、時に都合が良かった。

 例えばそう、探し物をしている時などには。

 

 ロバに跨った商人が、もはや道を成していない街道を往く。かつて人々で賑わったであろう道も、今や古び寂れて終わりの時を待つばかりの様だ。

 ここしばらく、褪せ人を見ていない。ごくまれに現れたと思ってもすぐに見なくなる。一時、よく顔を出していた褪せ人ももうずっと音沙汰がない。エルデの地は王を戴くことを諦めたのだろうか。祝福の無い自分たちには、関係のないことだけれど。

 ひとつ、またひとつと途絶えていく知り合いの息遣いを思い返しながら、商人――カーレは放浪する。

 

 元より疎らであった客足が、遂にパタリと途絶えたのは幾分前だ。拠点としていた教会の近くを巡回するツリーガードが駆る蹄の音も、いつの頃からか聞かなくなっていた。

 漠然と、そういう時期なのだろうな、と思った。

 陽が沈むように。海が凪ぐように。月が、欠けきるように。

 そういう、終わりの時が近付いているのだろうと、何とはなしに理解してしまった。

 けれど不思議と恐怖や焦燥は感じなかった。カーレ自身の終わりもまた近くなっていたからだろう。

 潮時だとは思っていたのだ。ただ、もう少しだけ、もう少しだけ――もう少しだけ、導きの始まりに近い場所で商いをしていたら、また客に会えやしないかと、ほんの少し期待していた。

 だが、それももう終わりだ。終幕の足音に気付いてしまえば、踏ん切りは呆気ないほど簡単につけられた。焚火を消して、随分少なくなった荷物をまとめ、長らく拠点としていた教会を出る。行く当ては無い。しかし、最期にやりたいことはあった。

 

 カーレには友がいた。不器用で、不愛想で、探し物が下手だが、悪いやつではなかった。名前を、ブライヴと言った。

 ブライヴは主を持つ騎士であるらしかった。らしかった、と言うのは、踏み込んだ話をしなかったからだ。ただ、時々ブライヴが口にした、彼の周りの話からそう思ったのだ。厳しくも優しい、大きな鍛冶師の爺様。命に代えても守るべき、妹のような魔女。人形遊びをする胡散臭い同僚。ぽつぽつとこぼされる友の話は、カーレの知る世界には無いものでどこか御伽噺のようだった。けれど同時に、そこにどうしようもない影のようなものが垣間見えて――「騎士」であると同時に、運命に抗い戦う「戦士」でもあるのだろうな、とも思った。生まれ持ったものを諦め、受け入れた自分とは違うその姿は、ひどく眩しいものだった。

 ふたりが顔を合わせる機会は、友と言えどそう多いものでもなかった。ブライヴには任務があるし、カーレは放浪の民で商人だ。狼の遠吠えが聞こえても、放浪の民の演奏が聞こえても、結局その音源まで辿り着けることは稀だった。

 だが、べつにそれだって良かった。「あいつが生きているのだな」と、知れるだけで良かった。道行きで「半狼の戦士に会った」とか「赤い装束の放浪商人に会った」と言った、相手が生きている報せを耳にするだけで充分だった。

 何より、不思議と「そろそろ顔を見たい」と思い始めると、近いうちに再会していたものだから、満足していたのだ。

 

 いつ会えなくなるとも分からない世界であることは、理解していた。けれど心のどこかで最期に立ち会えるのだと思っていたことは、否めない。友であったから。特別な存在であったから。

 だが実際は――朗報も訃報も、一かけらだって届きやしない。

 最後に会ってからカーレが顔を隠す垂れ布を必要とするまでになるだけの時間、ふたりが顔を合わせることは今に至るまでなかった。

 きっと、そうなのだろう。ブライヴがどうなっているか、想像するのは容易かった。そういう生き方をしていたから。

 だからせめて、最期に会いたいと思った。

 放浪の民が他者に何かを求めるなど、異端も良いところだったが――最期の最後に「カーレ」は「ブライヴ」に会いたくなってしまったのだから、仕方ない。

 

 旅路は孤独だった。エルデンリングが砕けた後の世界も酷いものだったが、今の世界はより酷いだろう。生きているものが居ない。辛うじて生きていたとしても、息絶える直前のものばかりだ。探せばカーレのように「まともに」生きている者もいるのだろうが、きっと数えるばかりだ。そのくらい、閑散としている。

 虚ろな視線が背中を刺す。恨みがましい声が鼓膜を揺らす。いっそ「どうして放浪の民なぞが」等と暴力に晒されれば楽なのだろうが、元気に動く生き物の影など、終ぞ見られることはなかった。

 それでもカーレがブライヴの足跡を辿ることができたのは、世界に遺された誰かの遺志のおかげだった。霊体がひたひたと足音で導く。メッセージ、特にジェスチャーが光を持った指先で進むべき方向を示す。かつてそこを歩いた誰かが残した助けを借りて、カーレは友の背中を追った。

 

 そうして、放浪の商人は輝石に囲まれた魔術師塔へ辿り着く。

 共に旅を始めたロバはもはや居らず、荷物も放浪の民が持つ楽器だけ。

 元より細かった肢体は更に枯れ、立っているのもやっとな姿だった。

 それでも、盲目の旅人は友の最期の地へ辿り着く。

 

 霧は疾うの昔に晴れていた。落ち行く陽が闇を呼ぶ。

 カーレは石段の前に遺された鎧に手を伸ばした。指先に触れる、乾いた獣の毛の感触に、あ、と思った。次いで、硬い金属の板を持ち上げる。しかしその場に残されて久しいそれは、持ち上げただけでぼろぼろと崩れていく。それでも、かつて触れた形を辿るように、カーレは錆びきった鎧を、指先が引っ掻かれるのも構わず確かめる。

 忘れることはあるまいと思っていた声は真っ先に思い出せなくなった。間違うことはあるまいと思っていた足音は真っ先に幻聴を聞いた。

 その、理由を。改めてカーレは知る。

 幸せだった。幸せだったのだ。ブライヴと過ごした時間は。

 漠然としていた理解が、はっきりとした輪郭を持ち、それはようやく胸を貫いた。

 ハハ、と呆れたような、困ったような、泣き出してしまいそうな笑い声がこぼれる。

 けれど雨は降らなかった。

 音もなく、カーレは灰塵の傍に腰を下ろす。細枝のような指が、古びた楽器を構える。ひゅうと風が一陣駆け抜け、赤い垂れ布を捲っていく。乾いた、薄い唇がゆるやかに弧を描いていた。

 

 「運命よ……例えあんたが瞳から光を奪い去ろうとも、この唇からは詩を奪えない……」

 

 放浪の民で歌を嗜む者はあまり多くない。だが、歌を嫌う者は少ない。

 かつて口遊んだものをブライヴに聞かれ、気に入られ、時折せがまれていた歌をカーレは歌う。体力は既に限界を越えていて、歌う声も楽器を弾く手もふるえ掠れていたけれど、カーレは歌った。うつくしい歌だった。

 終わり行く世界など嘘のような、穏やかな時間が訪れる。

 

 詩は辿り着く。世界が闇に包まれても。

 歌は帰り着く。悲しみの嵐に全てを薙ぎ倒されても。

 音は巡り合う。大切なモノが絶えず其処に在ってくれたから。

 人は歌い継ぐ。苦難に満ちた運命であろうとも、幸いは確かに在るのだと。

+++

 後背位でするのは身体を慮ってのことだ。それは互いに解っている。

 解っている、けれど――。

 

 耳元でグルグルと獣の息遣いが弾んでいる。ぐぷぐぷと水音の鳴る下肢は、否、全身すでに力が入らない。へたりと沈んだ上半身。下半身は辛うじて支えられているが、気を抜けばすぐに崩れ落ちてしまうだろう。

 シーツに顔を擦り付け口端から涎を溢れさせ、商人は与えられ続ける快楽に喘ぐ。

 互いに理性が溶けかかっている。平生落ち着いた声音で話すことの多い半狼の騎士が、もうずっと獣のような唸り声で、時折思い出したように喉奥で低く何をか言っていた。商人の方も喃語のような音ばかりを吐いていた。

 だって仕方ない。正しく獣じみた状況なのだから。きっと影を見ればそう見えるだろう。

 たぶん、それで、頭が勘違いをした。

 素肌に触れる獣毛に、耳元で聞こえる唸り声に、四足の獣を視てしまった。

 理性の焼き切れた頭が、非現実を認識して四肢に伝える。ありえるわけもない、錯覚だと言うのに、咥え込んだ熱を、それでも美味そうにしゃぶる身体の浅ましさ。あるいは、身体はそれが騎士だと解っていたからだろうか。

 兎角。

 いま誰が自分を抱いているのか、商人は分からなくなった。

 分からなくなって、ロクに動かぬ舌で、騎士の名を呼んだ。

 呼ばれた騎士は――。

 崩れた己の名。溶けた相手の声。

 反応するなと言う方が無茶なのではなかろうか。

 ズクンと腰に焼けた鉄を乗せられたような感覚。

 答えてやらねばと上体を倒せば声にならぬ悲鳴が聞こえた。

 ひぐひぐと跳ねる身体を抑え、耳元で名を呼び返してやる。

 声が、掠れた自覚はあった。あったから、聞こえただろうかと少し不安になって――それは杞憂だったと、呼んだ直後にぎゅうと縮こまった胎に知る。

 がくがくと細い身体がふるえ、きゅうきゅうと熱が揉まれる。その動きに、中だけで達したのだと。

 「――、カーレ、」

 「――ッ! ――~~~ッ! ~~~~~!!」

 堪らなくなって、そのまま再度名を呼べば、一際高く、音無き悲鳴。

 元より目の見にくいところに、夜の闇。その世界はほとんど見えていないと考えていいのだろう。だから、音が平時に増して重要なものになる。

 「ァ――、ぅ゛……、ぃ、ぅ……、」

 シーツを彷徨う手を捉え、掠れた声に己を呼ぶ音を聞いてしまえば、その健気さに胸が詰まった。

 「ッ、カーレ、ここにいる。俺は、ここにいるぞ」

 「……ぃ、……っ、ぶ、らぃ、う……、しゅ、き、だ、ァ、……ッ!」

+++

 月下。

 床は硬い。

 あるだけの布の類――毛布や、外套や、衣服や――を敷いたけれど、気休めだ。

 其れでも良い、と奴が云ったのだ。

 だから己れたちは硬い床の上に転げている。

 月が己れの背を照らす前は、まだ気に掛けられていた。

 背は痛まぬかと。

 だが今は。

 もう構ってはいられなかった。

 腕中の熱を貪り、貪られることばかりに気が向く。

 ぐちゅぐちゅと腹の中を耕し、ひぃひぃと喘ぐ喉を舐る。

 首を、肩を、胸を、腕を、足を、食む。食んだ。

 そこかしこに残る歯形は全て己が残したものだった。

 其れを見て、胸に充足感が満ちる。

 己れが付けた。己れが残した。己れの跡。

 歓喜の儘、腰を突き込めば、ぐじゅりと一際の水音。

 身体を挟む細い脚の、爪先が、ピン、と伸びる。

 (アア、とこぼれた高い声ははじめて耳にする音だった)

 縮こまった腹に、ぎゅうと熱が搾られる。

 その心地良さは、牙を食いしばらねばならぬ程のもの。

 ほとんど無意識で、腰を動かしていた。

 下にある身体が、未だふるえていたけれど、停められなかったのだ。

 そうして、ごぷりと、熱が弾けるのを感じた。

 喉がグルグルと鳴った。

 (だが同時に、あ、と思った)

 だくだくと己れから溢れた熱が、奴の腹を満たしていく。

 (あつい、と掠れた声が、薄いくちびるから、)

 この上ない幸福な状況に反して、己れは。

 ザア、と血の気が引いていく。

 だって奴は、熱いものが嫌いなはずだ。

 だって奴は、熱いものに身を侵されている。

 己れは急いで熱を除こうとする。

 (悪い、すぐに片付ける――)

 しかし己れは、奴から離れることができなかった。

 腰に、細い脚が。

 びくびくと跳ねるくせに、その細脚は、己れの腰を引き留めようとするのだ。

 (困惑するなと言う方が無理ではないか)

 己れは、良いのか、と訊く。

 宵の内にもポォと灯る、褪せた金の眼が、己れを真直ぐに視ている。

 淡い光は、星にも火垂るにも見える。

 あるいはそれは、しるべのような。

 答えは伸ばされた腕だった。

 死に際のいきものが首をもたげるように、かくかくとふるえる指先が己れを誘う。

 その誘いに乗れば、汗に湿った指先は、己れの頭を柔く掻き抱いた。

 (耳元で吐かれた吐息は熱を帯びていた)

 熱いのだろう、と己れは訊く。

 熱い、と奴は答えた。

 己れの喉から唸り声が漏れる。

 くすくす、と微かな笑声。

 ひとが気遣っているのに何事かと己れは思っ――

 (あんたの熱は好きだ)

 (もっと、焼いてくれ)

 ――、

 ――。

 己れは。

 おそらく、その、時に。

 身を焦がすと言う感覚を知ったのだ。

+++

 その褪せ人は、自身の顔が良いことを知っていた。
 そうであるから、狭間の地に来る前は数多の人間を、色んな意味で泣かせていた。店にツケることは当たり前。借金を踏み倒すのはワケもなく、多少の悪事も大目に見てもらったりなんかもしていた。
 そんな生き方をしていたものだから、狭間の地に来てしまった時も「まあ何とかなるだろう」と軽く考えていたのだ。
 だが当然、そう何もかもが上手くいくわけではない。律の砕けた狭間の地において、顔の良さなど役に立つものではなかったのだ。理性の無い、話の通じぬ者どもに、どうしてそれが効果を与えよう。
 そして何より――話のできる者であっても、これっぽっちも靡いてくれないことが、褪せ人の子供じみた自尊心をチクチクとつついていた。

 「…………」
 「……言いたいことがあるなら、言ってもらえると助かるんだが」
 今日も今日とて褪せ人は狭間の地の始まり――その近くにある、エレの教会を訪れていた。そしてそこで商いをしている放浪商人と、今日も今日とて取引をしていた。
 普通の品物を、普通の値段で買う。オマケは無し。公正な取引。
 だが、それは、褪せ人からすれば、やはり信じられないことだった。だって故郷やその周辺では多くの商人が負けてくれた。少し頼めば、それに加えて様々なサービスもしてくれた。それなのに。
 それなのに、この商人は!
 こちらを「お得意様」と呼ぶ割に何のサービスもしないのだ!
 何度か利用してやれば靡くだろうと思っていた褪せ人は、今日に至るまで調子を変えない商人を思わず凝視していた。
 それで冒頭の商人の言葉である。
 かくりと小首を傾ける商人に、褪せ人こそ首を傾げた。
 「……なあ、アンタ。自分で言うのも何だけど、ボクは顔が良い」
 「……?」
 当然、褪せ人の言葉に商人は困惑した。
 だが褪せ人の方は、それに気付いていない。
 「そんなボクが贔屓にしてるんだぜ? そんで、アンタって良い人だから、対応次第では他の褪せ人やらにアンタを宣伝しても良いと思ってるんだけど、」
 「……」
 「アンタに限ってモノを見る目はあってもヒトを見る目が無いってことはないだろ?」
 どこか拗ねたように言葉を連ねる褪せ人に、商人は相手の言わんとすることを、何となく察する。
 と同時に、何だかおかしくなってしまった。
 褒めて欲しいけれど、自分からは言い出せない子供のような。
 「――ふっ、く、フフッ」
 「なっ、なんだよ!? なんで笑う!?」
 「ああ……悪い悪い。いや、あんたがそんな言い立ててくるとは思ってなくて」
 その商人の反応は、それまで褪せ人が商人に対して一線を引いたような態度を取っていたこともあるだろう。
 一歩引いて、相手が食いついてくるのを待つ常套手段。しかし食いついて貰えなければ褪せ人自身が焦がれる諸刃の剣だった。それを褪せ人は、ようやく思い知ったのだ。
 「そうか、あんた、顔が良いのか」
 ころころと笑う商人の物言いに、褪せ人は「もしかして」と今更ある可能性に気付く。
 「……もしかしてアンタ、その目、」
 「……あんたたち程、見えてはいないな」
 遥か遠くに聳える黄金樹から削り出したような眼球が褪せ人を向く。目のことを口にした瞬間、少しだけ下がった温度の真意を、褪せ人は知らない。
 知らないからこそ――褪せ人は、フンスと鼻を鳴らすことができたのだ。リムグレイブから出ることもできていない褪せ人は、狭間の地を覆う無数の業の外にいる。
 「それなら仕方ないな。ほら、触って確かめてみな」
 褪せ人の手が商人の細い手を掴む。
 「良いのか?」
 「良いって言ってるんだ。きっと惚れちまうぜ」
 褪せ人の物言いに、商人はまた噴き出すように笑ってしまった。

 両の目を閉じて自身の顔に触れる商人を見つめながら、この人は、キスする時こんな顔をするのだろうか――と褪せ人は思った。

 「どうだい、男前だろ」
 乾いた細枝のような指先に顔を辿られながら褪せ人が訊く。
 「そう……そうだな……? いや、人間の顔は久しぶりに触るからよく分からんのが正直なところだな……」
 むむ、と眉間に皺を寄せる商人に褪せ人の胸が鳴った。なんだその顔は。かわいいぞ。
 ハッとする。反射的に抱いてしまった感情を掻き消して、「もっとちゃんと確かめろ」と要求した。
 誰かに好意を抱かれ向けられることはあっても、自分が好意を抱くなど――いやでもこの商人すごく良い人だしな。商人だけど、お役立ちなオススメ商品とか教えてくれるし。ぼったくらないし。おしゃべりもしてくれるし。好きになっても仕方ないのでは。
 なんてことが頭の中でグルグル回り始めた時だった。
 ザク、と草土を踏む音が聞こえた。
 褪せ人と商人は揃って音の方へ顔を向ける。
 「……何してるんだ」
 そこには狭間の地でも珍しい、半狼の騎士が立っていた。
 訝しげ――と言うには眼光の鋭すぎる眼を向けられて、褪せ人の背に冷や汗が流れる。しかし同時に「何故???」と疑問符が浮かぶ。どうして自分はこのデカい獣人に威嚇されているのか。
 褪せ人の口から思わず「ええ……」と声が漏れかけた時だった。商人が騎士のものと思われる名前を呼んだのは。
 「ブライヴ。ちょうどいい。この顔は男前か?」
 柔らかな金の眼に見上げられた騎士は、唐突な商人からの問いに戸惑った。まあ、無理もない、と褪せ人は思う。少しだけ騎士に同情した。
 「…………ひとの顔面の美醜なぞ知らん」
 「そうか……」
 つっけんどんな騎士の答えに商人の肩がスンと落ちる。それを見てだろうか。騎士が呻くように言葉を続けた。
 「……知らんが、良い方なんじゃないか。知らんが」
 「そうか。良い方か。ありがとう」
 そうして商人は「これが良い顔か……」と覚えるように褪せ人の顔を今一度辿る。
 その間。
 やはり半狼の騎士がすごく鋭い眼光を飛ばしてくるものだから、褪せ人は「なんだこの獣人」なんて思ったりしていたのだ。

 「じゃあな。よい商いだったよ」
 いつもの決まり文句に、いつもにはない笑みを含ませて、商人が褪せ人との取引を終える。
 買った商品を鞄や麻袋にまとめながら教会を後にした褪せ人は、早くも次回に胸を馳せていた。
 ようやく進展したのだ。きっとあの商人は自分をただの客ではなくて、個人として認識してくれただろう。そうなれば、時間は大してかからないだろう。自分は相手が好き――まだ少し不本意だが、好きになってしまったらしいので仕方ない!――で、相手もきっと自分を好いてくれる。素晴らしい流れだ。
 さあ、明日から楽しみだ――。
 と、教会を振り返った褪せ人は。
 先ほど自分にしていたように、両手で持って相手の顔を確かめる赤い商人の姿と。
 そんな商人に口吻を寄せ、剰えその体格差で以て押し倒すあの騎士の姿を。
 見て、しまった。
 「――、」
 瓦礫に隠れる、その直前。見えた商人の顔は。否。騎士の顔も――ひどく幸せそうで。
 ああ、と褪せ人は空を見上げる。
 狭間の地において、顔の良さなど役に立つものではないのだ。
 「――今日の空の青さは、よくよく目に沁みるなァ」

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🐺さんを封牢から出したのがカさんだったらってあり得ないif小ネタ。ナチュラルにブラカレ。封牢の仕組みよく分かんない……分かんなくない?

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Turn up the lights, I don't want to go home in the dark.
(ランプの燈りを大きくしてください。暗闇の中を家に帰りたくない)
(O. ヘンリー/米・小説家)

 

 商人は何でも知っている。
 それは商いにおいて情報が至極重要なものだからだ。利益を出すため。生き残るため。商人たちは情報を重んじる。
 そうであるから――例えば、誰にも知らされず、ひっそりと置かれた封牢を嗅ぎつけることだって易いことなのだ。

 獄囚を前に、商人は平然としていた。並の褪せ人ならば裸足で逃げ出すような恐ろしい唸り声を立てる半狼を、茫洋と見つめている。
 「そうか、あんた、探し物が見つかったんだな」
 商人の手が伸び、半狼の横面に触れた。剥き出された牙を恐れる様子など微塵もない。
 「あんたの遠吠えが聞こえたよ」
 だから来たのだと、なんでもないように商人は言う。
 「さあ、行け。あんたが成したいことを。したいことを、やりに行け。あんたは強い。狭間の地でも、一等強い騎士だ。そして主を絶対に裏切らない狼だ」
 商人の手が、腕が、獄囚の首に回る。金色の目に見つめられて、そこに宿る狂気を垣間見て、僅かに怯えを見せていた獄囚は、己の首に絡む細い腕を振り払えなかった。
 「さあ行け。そのために俺を呼んだんだろう? ご利用ありがとうございます、だ」
 ぎゅうと狼の頭を抱き締めて、その獣毛に顔を埋めて、商人は小さく笑う。
 けれど、それは長くは続かない。続くわけもない。
 ふ、と何かを吹っ切るように、商人が小さな溜め息を吐いた。ほんの少し、空気がピンと糸を張る。
 「大丈夫。あんたは生きてた。確かに、此処に居た。自分の足で立って、歩いていた。俺は知っている。覚えている。半狼のブライヴ。俺があんたの証明だ」
 その、囁きに。呼ばれた名に。紡がれた言葉に。
 ピンと狼の耳が立ち、苦しげに細められていた目が見開かれた。
 「行け。もう振り返るな」
 商人がするりと騎士の首から腕を解く。シャリ、と靴裏が砂利を擦る音。商人が、騎士から身体を離そうとする。
 「――、」
 けれど、商人が騎士から半歩後ずさったところで、叶わなかった。
 騎士の両腕が、商人を捉えたのだ。
 大した動きではないはずなのに、それでもバサリと大きな衣擦れの音がした。
 骨が軋むほどの勢いと強さで抱きすくめられて、商人の目が丸くなる。
 「――カーレ、許せ」
 掠れ、ふるえる声を絞り出した騎士の顔は見えない。
 だが商人は――騎士がどんな顔をしているかくらい、想像できていた。
 「気にするな。あんたが世話の焼けるやつなのはよく知ってる」
 くすくすと商人は笑う。
 そして、ぽんぽんと大きな背中を叩いてやった。
 それが合図だった。
 ごう、と一陣の黒い風が吹く。
 はためく髪や外套を抑えながら、商人は吹き抜けていく風を見送った。
 「じゃあな、ブライヴ」
 あっという間に見えなくなる。微かに漂う残り香と体温だけがあの騎士の残滓。けれどそれもすぐに消え去ってしまうだろう。戻ることは、きっとない。
 解っていたことだ――。
 自分たちの道は、交わりはすれども収束はしない。
 商人はなんとなしに空を仰いだ。霧の多い湖のリエーニエでは珍しい、突き抜けるような青空だった。
 はふ、と吐かれる息ひとつ。
 リエーニエの片隅に、空になった封牢と、商人が一人。
 それは狭間の地の歯車が、大きく回っている最中の、小さなできごとだった。

+++

 カフェのテラス席で微睡んでいる時だった。
 穏やかな日差しに香ばしい珈琲のにおい。ほのかに漂う甘さはケーキの名残。加えて何より、何ものにも代え難いパートナー。
 描いた理想が現実になっていた。
 そんな時にふと――視線を感じた。
 悪意や敵意は無い。そしてごく近いところから、それは自分たちを見ていた。
 一度気付いてしまえば、もう気になってしまった。無視することは、できそうになかった。
 静かに指先で物語を辿っているパートナーの邪魔をしないよう、そっと周囲を見回そうとして、彼の、半狼の眼はすぐ斜め下で止まった。
 テーブルの端から、大きな瞳が、じぃ、とこちらを見ていた。
 プラスチック製と思われる丸いテーブルのふちに手をかけて、小さな少女がこちらを見上げていた。
 キラキラと効果音すら聞こえて来そうな澄んだ目に、気恥ずかしさを覚える。
 「あー……なにか、用か?」
 辛うじて、努めて穏やかな声音を作って、彼は少女に訊いた。
 見てくれから他人に怖がられることは、よくある。今回も、そうならなければいいが――と微かな諦観と共に思った。けれど。
 「狼さんの目、ブドウの色ね!」
 少女は朗らかにそんなことを言ってのけた。
 「こっちのお兄さんは狼さんの目をしているわ!」
 だけでなく、パートナーを指して、そんなことも言った。
 帽子をかぶりマスクをしたパートナーは、少女には「お兄さん」に見えたらしい。
 一瞬キョトンと丸くなった目が、少女の存在を捉えて、ふわりと細められる。
 「御機嫌ようレディ。なぜ俺の目を狼の目だと?」
 ぱたりと本が閉じられ、その顔は少女へ向けられる。
 その何気ない動きを見て、相手と正面から向かい合う誠実さと律義さが、やはり好きだなと彼は思う。
 レディ、と呼ばれた少女はますます嬉しそうに楽しそうに囀る。
 「あら、ミスタ。ご存じない? 狼の目はキレイなコハク色なのよ」
 「なるほど。レディは物知りですね」
 「こないだママとパパと動物園に行って、そこで見たの!」
 猫が日向で目を細めるように、少女は目を細める。
 「だからお兄さんたち、とってもお似合いだと思うわ!」
 そこで、メアリ、と誰かを呼ぶ女性の声がした。
 直後、少女が「ママ!」と振り返る。
 「それじゃあね、狼さんお兄さん!」
 バイバイ、と手を振って少女は女性――どうやら猫の獣人らしい――の方へ駆けて行く。
 まるで嵐のようだ。
 ふたりはカフェのテラス席に取り残されている。
 思わず相手の方へ眼を遣ってみると――半狼の紫水晶と商人の琥珀がかち合った。
 フ、と笑ったのはパートナーだった。
 「こんな目にはもったいない評価だな」
 病に因る瞳の色を、そうとは知らない少女は宝石と呼んだ。
 「そうか? 俺は、見る目があると思ったが」
 彼もまたフと笑う。
 温くなった珈琲を一口。そろそろ会計に行っても良い頃合いだろう。
 そんな空気を感じたのか、はたまた同じことを考えていたのか、パートナーが本を鞄に仕舞い、席を立つ準備を始める。
 穏やかな午後だ。
 家に帰ったら、買った食材や雑貨を仕舞って、夕食の準備をふたりでしよう。夕食は何が良いだろう。せっかくの休日だ、少し凝ったものでもいいかもしれない。
 そんなことを考えながら、彼は席を立ったパートナーへ手を差し出す。それはダンスへ誘う優美さも、手繋ぎをせがむ幼気さも感じさせた。
 「帰ろう、カーレ」
 「そうだな。そろそろ食材を仕舞いたい。帰ろう、ブライヴ」
 ごく自然に握り返される手に「幸せだなあ」と彼は思った。

A ballad
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