top of page

 三学期制の学校ではそろそろ終業式が行われる頃。同様に、待ちに待った夏休みという至上の長期休暇を控えたこの片田舎の学校でも世間の例に漏れずグダグダとした空気が充満していた。考査も終わり、面談も終え、残された一学期を適当に消化する教師と生徒。教室の座席にチラホラと空きが見えるのは、青春というヤツなのだろう。片すべきことはすべて片されているため――あるいは夏の暑さや湿気に諸々を削がれているため――に、指導が入ったとしてもそこまで厳しいものにはならないことが予想される。

 南国の海だって目を細める青さだ――と少年は頭上の青に手を伸ばしてみた。それはありふれた真夏のことだった。

 聞き慣れた鐘の音がする。電子音が隠しきれていないその音色を聞き流しながら少年は緩慢に上体を起こす。仰向けに寝転がっていたせいで白いシャツの背中には細かな土へんがくっついていた。耳から外れてしまったイヤホンからは流行りの音楽が微かに溢れていた。シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出し時間を確認し、先ほどの鐘の音が三限目の終業を告げるものだったと知る。そうして、そのまま携帯電話の音楽プレーヤーを呼び出して一時停止を指示し、イヤホンを外して再度ポケットの中へ突っ込む。軽快な旋律とやたらと早口に歌い上げられる歌詞の代わりに、耳には蝉の鳴き声とひとの騒めき、風の音や車の音なんかが飛び込んでくる。給水塔の影で、日向よりかはまだ幾分かマシだが、逃げ場のない夏の鼓動が確実に体力を奪っている。ユラユラと揺れている向こうの景色はきっと蜃気楼。小高い丘の上に建てられた校舎の最も高い場所から臨む街に生えている建物たちがぼんやりと滲んでいるのだから。何か飲み物でも買ってこりゃよかったな、と思いながら少年は時々髪を揺らす風に目を閉じる。

「――おい、」

そうして、どのくらいしていただろう。不意に声がかけられた。見ると、右斜め背後に一人の男子生徒が立っていた。上履きの色は少年と同じ。同学年で、同級生。知っている。

「こんなところで何をしている」

「何ってそりゃあ――」

知っているどころか、自分とこのひとは恋仲だ。綺麗な銀髪を後ろに撫で付けて制服カタログみたいにきっちり制服を着こなして校則を違反するなんて想像も浮かばさせない、優良生徒の鑑みたいな、学校でもちょっとした有名人。勉強も運動もソツなくこなす様はまさに文武両道の王子様。そんなひとと自分が恋仲だなんて今でも時々夢なんじゃないかと思うが――野良猫に引っかかれたって世界は色を失わないのだから、現実なのだ。

「ちょっとばかし夏を堪能してました」

自然に上がる口角は仕方のないことだと思った。影に入っていることでいつもより数段色濃く見える紫の綺麗な双眸も、こめかみから耳の裏を通って首に筋を残して流れていく汗も、すべてが眩しく、そして愛おしい。

「隣、どうですか? 綺麗ですよ、空」

ポンポンと隣を叩くと、かたちの良い眉が中央に寄せられた。

「そんな状態で何を言っている、愚か者」

飲め、と差し出されたのは青いラベルのスポーツ飲料。

「えっと、これは……」

「いつから居たのか知らんが、どうせ水分なんぞロクに摂っていないのだろう?」

「……どうして俺がここに飲み物持ってきてないと……?」

「貴様は己に対して無頓着な面があるからな。それに、そうでなくても今月はもう持ち合わせがなさそうだ」

「は、ははは……そりゃどうも」

サラリと吐かれた言葉に乾いた笑いを零してペットボトルに手を伸ばす。

「――で、まだ此処にいるのか?」

喉が潤い、タイミング良く風が吹いたことで幸せそうな溜め息を吐いていた少年に、結局隣に腰を下ろした恋人は訊く。

「え、あぁ、そうですねー……どうしましょう?」

「教室には戻らないのか」

「冷房とかついてたら教室にも留まるんですけどね……」

扇風機だけが涼をとる手段となっている教室を思い浮かべて、あるいは思い出して、ふたりは同時に溜め息を吐く。

 チャプン、とペットボトルの中の液体が音を立てた。

「あ、ならいっそのこと学校抜けちゃいます?」

ケロリとサラリと言ってみせる少年に、信じられないものを見る眼が向けられる。

「おま、な、なんてことを……!」

「ね、いいでしょう? ふたりで学校抜け出しましょ?」

歌を口ずさむように、事も無げに紡がれた言葉はどうやら空耳ではないらしい。イエスかノーか、答える前に手は掴まれていて、周囲の景色は動いていた。

「こういう日は、こういう日も楽しんだ方が得ですよ!」

こういう日――絵に描いたような、青と白と緑の、夏の日は、おろしたてのルーズリーフも使い古したシャープペンシルと消しゴムも学校で買わされた分厚い参考書も放り投げて、大切な人と過ごすのが、一番らしい。もっと言うと、現状に飽きが来たなら、思い切って気分転換した方が吉だとか。

 鐘の音が四限目の始業を告げるその直前。教室に手を繋いで舞い戻ってきた少年はふたり分の荷物を引っ掴んで言葉通り嵐のように去っていった。廊下ですれ違った赤毛の少年は何事かと一瞬目を大きくし、けれど振り返って視界に入ったふたつの背中を見とめてフフフと笑い声を漏らした。ドタドタと階段を一段飛ばしに駆け下りて行くふたりを止めようとする生徒はおらず、教師もまた――運が良いのか悪いのか――その場にはいなかった。下駄箱に辿り着くと靴を履くのももどかしく、踵を踏み潰したまま外に飛び出す。繋いでいる手と手が汗で滑って離れそうになるが、それはどちらともなく込められた力によって未だそうなってはいない。あまりの勢いに何も言えずにいるだけなのか、それとも何も言わずに身を委ねているのか、少年の背後からは何の言葉も飛んで来ない。校舎の裏手に回ると、そこは駐輪場になっている。

 似たような自転車が並ぶ中から乗り慣れた自分の自転車を見つけ出して、カゴにエナメルのスポーツバッグを放り込む。さすがにふたり分――もうひとつのカバンはありふれた、よく見かける紺色のスクールバッグ――のカバンを置ける容量はなかったので、自分で背負ってもらうことにした。そして自転車を押して、来賓用の門まで早足で行き、緩い戸締まりしかされていない門を開ける。その途中、告白中だと思われる下級生――しかも見知った顔だった――に遭遇したが、構ってはいられなかった。何してるんですか先輩! なんて叫びを背中に受けながら、開けた時と同じように緩く鍵をかけた門のすぐ目の前で後ろに大事な人を乗せ、地を蹴り坂を駆け下りていく。真正面から風を受けて前髪が踊る踊る。ペダルを踏み込む度に速度は上がり、腰に回された腕に力が込められる。その温もりに、不快感はなかった。

 流れていく景色から眼が離せなかった。公共の交通機関と徒歩で見慣れた景色とはまるで違っていた。何もかもが数秒とその場に留まっていない。通行人の話し声も似通ったマンションやアパートが立ち並ぶ住宅街も、あっと言う間に後方へ飛んでいく。世界が終わる時に廻る走馬灯はこんな感じなのだろうかと思い、そしてそれでも変わらずに目の前で存在を主張している背中に、無意識に口角が上がり、腕に力が篭った。

 仕掛けた時限爆弾から逃げるように坂を駆け下りて、その勢いのまま片田舎にしては様々な店舗が揃っている大通りへと出て、街路樹の木陰で一息吐く。背負われていたスクールバッグは下ろされ、カゴに収まっているエナメルの上に積まれている。

「はー……なんかすっごい青春してる気がしますよ、俺」

へにゃりと笑って少年が言うと、近くの自販機で入手してきた冷たい缶珈琲を持っていた白い腕が動いて、少年のこめかみを指で弾いた。

「ってぇ! ちょ、いきなり何するんですかアンタは!」

「何が青春か、貴様」

問答無用で連れ出しおって、と不機嫌そうに吐かれた。少年はたしかに悪いことをしたと思ったが、しかし振り払わなかったのは相手だよな、と考えを改めて、それを言おうと口を開いてジト目で声の主の方を向いた。向いて、不機嫌そうな言葉とは裏腹に至極愉快そうな――それは少年の目を通して見ると至極可愛らしいという表現になる――表情を浮かべている相手に、何も言えなくなり、ふへへと妙な笑い声を漏らすこととなった。

 木陰で顔を寄せ合って肩を震わせて笑い合う。本屋の画集の城に仕掛けた黄色の爆弾が憂鬱を吹き飛ばすだろう想像をするように、飛び出してきた丘の上の白い校舎が緩やかに鮮やかに砕け散り、多くの生徒が眩しそうに白い欠片が舞う青の空へ手を伸ばす姿を幻視する。それはつまり、自由への願望。勉強道具を放り投げて外へ駆け出したいことだってある子供たちの、自由な空想。組み上げられた全てをぶっ壊して自分たちが思い描く世界を描く、自由気ままな空想テロリスト。誰もが一度は手を出す職業。それは彼らとて同じこと。

「怒られますかね?」

笑いながら訊く声に、恐怖なんぞは微塵も含まれていない。

「少しは指導が入るだろうな」

「まぁ、ふたりなら大丈夫でしょう」

「何が大丈夫なんだ」

そっと、誰にも見えないように身体の後ろで手を握る。しっとりと汗ばんだ手の冷たさが心地いい。

「だって俺たち共犯ですよ共犯」

「どんな理由だ、それは……」

それでも嬉しそうと笑う少年に、仕方ないと隣の人が折れたのは言うまでもない。

「さて、それじゃどこまで行ってみます?」

 繋いだ手を離さずにどこまで行けるだろうと、ふたりは立ち上がる。相変わらず太陽はギラギラと照っているし、それなのに大通りを往き交う人々の数は多い。近くの駐輪場に自転車を停め、カバンを肩に提げて通りへ繰り出す。逸れないようにと繋いだ手は、人混みの中にごく自然に紛れた。人混みを縫うように歩いて歩いて、そうして、ふと此処ではない何処かに飛んでしまったら面白いのにと、やはり少年は夢想する。白昼夢の延長でも構わない。日常を抜け出した先の世界で迎える終章はどんな感動を齎してくれるのだろう。結末が悲劇でないのなら、どんな終わり方でも構わない。

 そうして一日を街で過ごしてからというもの、時折学校を抜け出すふたりの姿が見られるようになった。例のごとく荷物を引っ掴んで廊下を疾走。階段を一段飛ばしで駆け下りて靴は踵を踏んで駐輪場へ一直線という、素晴らしいまでの一連の流れ。教師の眼が無い時を見計らって逃走するものだから手に負えない。

また今日も手に手を取り合って廊下を走る、ふたり分の騒々しい音がする。

「今日は、どこまで、行ってみますか?!」

笑いつつ、息を切らせて愛しい人のご意向を伺う。答える声もまた、笑いを含んでいる。

「何処へでも――お前が手を引いてくれるなら、何処へでも!」

「すっかり共犯ですねぇ!」

「なんとでも言え!」

 夏の雨の日特有の、どんよりとした曇り空の下を駆けていくふたつの白い影。

「もっと遠く、隣町まで行ってみましょうか」

振り返った新緑の瞳とかち合ったのは、曇天の下でもなお翳りのない藤の瞳。

「ああ。もっと、もっとお前と世界を見てみたい」

​BGM:共犯者(カラスヤサボウ)

bottom of page