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毀れた色が呼んだ名前

 世界というものは無数にあるらしい。今自分たちが知覚している世界。今自分たちが知覚していない世界。そんなふうに世界は樹のように枝分かれして、無数に存在しているらしい。

 シンと静かな夜だった。現世の一切が眠りについて静寂を湛えている。ぽつりと虚ろに佇んでいる街灯は、誰を待つでもなく誰に待たされるでもなく、ただ黙ってそこに立ち、その足元を照らし続けている。朝からほとほとと降り続く白は止む気配も無く地面を染めていく。古びた民家の、生け垣からひょこりと顔を覗かせた紅は白を多く積もらせて首を撓らせていた。折れるのが先か落ちるのが先か。などというところだろう。外の道に面しているその紅が辿る道を――毎年のことなのだが――きっと家主は知らないのだろうけれど。

きらきらと、空に浮かぶ星が月が流す涙のように落ちてくる白は、そんなふうに奪っていく。否、白にそんなつもりは無いのだろうが、結果として音を熱を命を静かに持ち去っていく。けれど、黒く塗り潰されたそこに、ほんのりと灯りを与えていることもまた事実だった。

 この時期になると街はあまり人の姿を見せなくなる。店に出ている人々も、心なしか元気があまりないように見える――鼻を耳を朱くして、白い煙を吐きながら、けれど笑顔を作って、手を震わせて指を悴ませて実に寒そうに――というか、寒さに身体の筋肉が上手く動かない所為でそう見えるだけなのだろうが。そして、日の昇る少し前から開かれていた市場は昼の少し前には閉まってしまう。いそいそと店を畳んだ人々がこれからすることと言えば、見慣れた街の、行き慣れた店で必要なものを買って、家に帰ってゆっくりすることだ。家に帰れば温かいスープや甘いケーキ、愛する家族等が待っているのだろうから。

 冬は白いとよく言われる。或いは白と黒だと。色が無いと。何も無いと。あらゆるものを涸らしていくから、奪う季節だとも言われることがある。一切を攫って行くから次が芽吹くのだろうけれど。水滴が凍って落ちてくる雫なんかは、音すら奪っていく――と人間は言う――らしい。そんな冬と言う季節が、感謝等のあたたかな感情を向けられることは至極少ない。それを冬が気にしたことは、冬自身が己はそういう存在なのだと割り切っていたから、あまり無いのだけれど、何故か春はそれに眉をよせた。

 春は愛される季節だ。一概に愛されているのだとは言い難いところ――それは開いた花の飛ばすものだったり目覚めた生き物だったり――もあるが、冬程殺伐とした季節だとは言われない。冬と比較してみて、はじまりの季節だとも言われる。そんな季節が何故冬を気にかけるのかと。

「違う筈なんかないだろ」

曖昧に境界線が解けていく、極僅かな時間にしか触れ合えないにも関わらず、求め合う姿と言うのは、傍から見ればそれはそれは滑稽に映るのだろうが、当人たちにとっては深刻なことだ。

 自分たちは望んで生まれた存在ではないのだと、春は思っている。自分が春になる前に春だったヤツは、同じく以前の冬との恋に落ちて、春という名と存在を捨てた。今頃どこで何をしているのかは知らないが、最後に会った時から音信不通になっていて、生きているのか死んでいるのかすら分からない。そもそも自分たちがこの名前と存在を捨てるとどうなるのか――大体は命が尽きるまで担っているし、途中で消えたヤツなんて連絡が取れなくなるのだから――見当もつかない。

 その年、春が冬に出会うことは無かった。一年を通してみると、例年よりも暖かい年だったように思う。冬は春が顔を出す頃にはもう溶けて去ってしまっていたのだ。ふらりと顔を出さないものかと期待をしてはみたが、それはただの期待に終わった。日射しだけが面影を残していて、春はその存在に見合わない表情と心情でその年を過ごした。思うに、年々冬に会う機会が減っているような気が、春にはしてならなかった。春自身も留まる期間が短くなって夏に繋ぐ感覚が早くなっていると思うし、その夏の話によると秋に会う機会も少なくなっているらしい。可笑しなことになっていると春は思っている。それとも定期的に訪れることなのか。古株から伝え聞いただけの、四つの季節の廻り方では、どうとも言うことができない。淡い色の生命を芽吹かせる春から、その色を更に濃く鮮やかにする夏へと廻り、いずれ訪れる交代への準備として色を撫ぜる秋は、それでも色がすべて落ちてしまう冬を、悪態は吐けど心底憎むようなことはしなかった。寧ろ一番若い冬を気遣っているようにすら見える節もある。それは秋自身も夏との接触を多く持てていないことからなのかもしれない。自身がはじまりの季節だとは思っていない春は冬こそがはじまりなのではないかと考えている。途切れることの無い彎環に終始を求めるのは、それこそ無駄だと思うが強いて言うのなら、そうではないかと春は思っている。はじまりと終わりは背中合わせなのだから。もうずっと冬の声を春は聞いていない。元より長くは一緒にいられないが、せめて繋ぐ感覚がほぼ等しかったあの頃に戻ってくれれば、少なくとも今よりは長くいられるだろうにと。春が訪れ、ようやくはじまりだと嬉しそうに声を上げる人々も、春にとってはどうでもいいことだった。春からはじまるのではない。冬からはじまっているのだと。嘗て爆ぜる暖炉の炎のようだと冬に評された双眸を細めて、春は唇を尖らせる。

 残念ながら――春と言う存在は人々が思っているほど穏やかでも優しくもなかった。たとえば、ほんの、すれ違う程度にしか冬と接触できなかったというだけで、その年初めて吹く南寄りの風を連れ出して冬を引きずり出してみようなどと試みたり、出来るだけ気温を下げようと北の方の気団にちょっかいを出してみたり。勿論それは周囲の努力により未遂に終わったが、その年の春はなかなか面白いくらいに脹れて、夏に繋いでいた。そんなに一緒に居たいのなら二人揃ってやめてしまえば良いのでは――等と周囲があまり五月蠅くないのは、何だかんだ言って、春と冬が与えられたことに真面目に向き合っていて、それを互いに誇りにしているということを――春の方には、少し首を傾げるところがあるが――理解しているからだろう。与えられたことを途中で投げ出すようなことを春と冬はあまり良しとしなかった。つまり似たもの同士なのだろう。ただ、少しだけ振る舞い方が違っていたと。それだけなのだろう。

 己を呼ぶ声に目蓋を持ち上げるが視界には誰も居らず、ただただ広がる空と降り注ぐ陽光だけが在って、空耳だったのかと再び目蓋を閉じようと短く息を吐く。

「……、フリューリング、」

もう一度、今度ははっきりと聞こえた声に、春の意識ははっきりとせざるを得なかった。

「ヴィンター、お前、なんで、」

何故、と自分で呟いておいて、春は思い出して自己解決する。そういえば今は丁度繋がる時期だったか。気温が上がってきてはいるが、風はまだ冷たく、影に入れば十分雪を残しておけるだろうと言える程度の寒さを感じることができる。

「今回はあとどれくらい居られる」

恐る恐る、と言う風に春は訊く。今回もまた一週間と経たずに溶けてしまうのではないかと。

「さぁ――どうだろう。わからないな」

「…そうか、」

この時期がいつまで続くのか、という春の問いに、正確な数字が出ていない以上言い切れないと、几帳面で真面目な冬は答えた。

 寂れた公園のベンチで眠っていた春を、どうやって冬が見つけたのか、等という疑問は野暮というものだろう。互いに、数少ない同じ存在なのだから気配でわかるというものだ。ヒトや動物、植物のソレとは違う気配。外見こそヒトと然程変わらないが、やはり春や冬であって、ヒトとは決定的に違う存在なのだ。何年も変わらない容姿だったり、春や秋が気温の変化に強く、夏が寒さに弱く、それとは逆に冬は暑さに弱い、というような暑さや寒さに対する反応なんかが良い例になるだろう。

 上体を起こした春は冬の手を握ったままいた。

「…からだが冷える」

そのまま微動だにしない春を、眠たいのだと踏んだらしい冬は自分の上着を脱いで春に羽織らせる。冬が、声をかけはしたが眠りの邪魔をしたかったわけではない――というのを春は知っているし、なにより眠たいわけではない。冬が来るまで昼寝をしていたのは事実だが、会いたいものに会えたというのに、それよりも睡眠を優先するようなものがこの世にどれだけいるのだろう。

「別に、眠ぃわけじゃねぇよ」

冬の仄かに冷たい上着を――ずっと纏っていたであろうにも関わらず――いや。それは冬のものなのだから当たり前か――それでも空いている手でしっかりと掴んで、嬉しそうに目を細めた春は言う。

「…ま、確かに俺様にゃまだちょっとばかし寒い時期だけどよ」

さらさらと風に鳴る草木を聞きながら、向かい合っている。

「そうだな――今夜は雪が降るらしいが…確実に時間は進んでいる」

それが嬉しいのか悲しいのか、その青い瞳はただ揺れていて判らないけれど、きっとそのどちらもなのだろうと春は推測した。

 夏と秋は、もちろん血などは繋がっていないが、兄弟のように似ていると、夏から聞く春は、秋も夏と同じようにとても愛らしい容姿をしていると思っている。砂糖を細い糸状に溶かして集めた、あまくてやわらかそうな雰囲気で、どちらかといえば秋の方がしっくりとくる夏は、春から聞かされる冬に会ってみたいと、その人懐こそうな笑顔と仕草で言っていて、やはり春は夏を気に入っていた。思いっきり自慢したいと、見せつけたいと、冬が聞けば赤くなるだろうことを考えて、春は夏に冬自慢をしているのだが。もちろん、正反対と言われる夏と冬が会うことなど不可能だろう。そして、そんな春に似ているという秋にも、直接会ったことがないにも関わらず春は好意を寄せている。夏や冬から話を聞くが、どうにも言い分はズレているようだが、その分秋というものがどんなものなのか、春の興味や好意は増々膨らんでいく。果たして秋が、夏の言うように何だかんだ言っても構ってくれるという兄のようなものなのか、冬の言うように自己を主張するが空回りしてしまう若い学生のような微笑ましいものなのか、実際に会ってみなければわからない。夏から聞くところによると、秋は季節の変わる頃になると冬から毎回春のことを聞かされているらしく、秋がいい加減にしろよこのやろう、と夏に愚痴っているらしいが、そんなことを零しつつも冬の話に付き合っているらしい秋は、やはり夏と同じようにやさしいのだろう。夏と秋の前世だか何だかというヤツは、きっと兄弟だったに違いないと、春は思った。

 冬の視界が大きくぶれて、強い力にからだが傾く。突然のことに碌な反応を返せず、冬はそのからだを流されるままだった。冬よりも少しあたたかい手が、長時間日光の下に晒されてもあまりあたたかくはならない手を掴んでいる。何をしているのかしていたのか細かな小さな傷の残る、その手が何よりも丁寧に優しく柔らかくものを扱うか冬は知っていて、直接言うなんてことはないが、その手で触れられることが冬は好きだった。

 すり、と冬の首筋に春が顔を寄せている。

「眠らないのか」

「んー? お前が会いに来てくれたのに?寝んの?」

冬を抱き寄せた春はかたちの良い耳に唇を寄せて面白そうに言う。

「ありえねーわー」

お前いるのに? と言われて、冬はぎゅうと目を閉じる。耳にすっと朱が滲んでいくのを、もちろん春は見ていて、それをそれはそれは愛しそうに目を細めて見ていた。

「また貴方はそんな…っ、からかわないでくれ」

しかし振り払われないのは、相思相愛というヤツだからだろう。

「こどもじゃ、ないのだから」

 そしてせかいはくるりと。

「なーに言ってんだお前はー」

ぐしゃりと髪が掻き回される。

 あたたかい手が、やはり冷たい冬の髪を溶かしていく。

 その髪を、きれいだと、春の麗しい日射しのようだと、春は評した。ひらいた花で、ふくらんだ実で、きらめく葉で、あらゆるいのちを集めて紡いだ色らしい。尊い色だと。貴い色だと。春は手放しに冬の色を褒めた。

髪だけではない。目の色だって春は褒めちぎった。うつくしい。きらきらしていて、きれいだと。けして届くことのない空で、けして尽きることのない海で。

 そんな、きらめく気高い色を持った冬はたしかに光に愛されているのだと、春はまっすぐに言う。奪う季節で、分かつ季節で、乏しい季節だと言われ続けてきた冬に、与える季節で、はじまる季節で、満ちる季節だと謳われている春が大真面目に言うのだ。

 それが冬にとってどれほどの感情を齎すのか。

「会うたび会うたび寂しそうな目ぇしてるくせによー」

「してない!」

によによと緩む頬を隠そうともせずに春は冬の髪を掻き回す。

 おさないこどもにするようなそれを、冬はあまり好きではなかった。否。それは少し違う。好きではないのだけれど、嫌いではない。髪を肌を撫ぜる春のあたたかな手は好きだ。ただ、年下のこどもにするようなそれが、冬は好きではないのだ。対等なものでいたいのだ。庇護されるようなものではなくて、肩を並べて歩くような、背中を合わせていられるようなものでいたいのだ。

 それなのに春は。

「おーおー、そーゆー反応とかな。かわいーお子ちゃまだぜ?」

「っ、貴方は……!」

きっと、知らないのだ。だからこんなにも甘やかしてかわいがって与えてくれるのだ。

 性質がわるい。と冬は心の中で呟く。

「こども扱いするなと、言っているだろう!」

飽きる様子もなく春にぐりぐり撫でくり回されていた髪はぐしゃぐしゃになってしまっている。上げていた前髪が下りてしまった。

 あぁもうどうにでもなれと冬は春の肩に顔を埋める。もぞもぞと額を擦り付けて、頭突きのような、ちいさなお咎め。小動物のようなその仕草に春は、がばりと冬を抱き締めた。かわいい、かわいいな。おまえは本当に、どうしてそんなにこんなにっ。

 ほわぁああぁぁぁあ、だか、ふおぉぉおぉおおぉ、だか、なんだかよくわからない、聞いたことのない声を発しながら、春は冬をぎゅうぎゅうとあつく抱擁する。自分よりもガタイのいいもの相手に、なにを。

「おまえは俺をころす気か…!」

なにを、しているのか言っているのか。

「ころせるものか…!」

俺が貴方をころすはずがないじゃあないか。貴方はさっきからなにを言っているんだ。なんて、冬はぽこぽことヘンな方向に怒りながら、相変わらず春を押し返すようなことはしない。

「いーや、死ぬ。死んじまうな。お前かわいすぎるから」

「そんな…っ、」

「死因が恋人依存による溺死とかロマンチックじゃね?」

「しっ、死なない! いや、死なせない!」

「あ、まてコラ!どこ行くつもりだこのやろう!」

うっとりと呟いていた春の胸を押して、冬はようやく春の腕から抜け出す。何故か泣きそうな顔をしていて、あぁやっぱりコイツは俺のもンだ、なんて春が思っていると冬はやはり泣きそうな声で叫んで、走り出してしまった。ひんやりときもちいい冬の温度に気をとられていた春は、すこし遅れてその後を追う。

 バカをつけてもいいほど真面目な冬は春の言葉を、やはりそのまま受け取ってしまったようだ。クソ真面目で、頭固くて、でもそんなとこもやっぱかわいいなぁ、と思う。自分たちのような存在が、そんなことで死ぬわけがないというのに。

 否、死ぬわけはないけれど、死んでもいいとは十分に思える。

「おい待てよ!」

コラ、止まれ、止まれよ! なんて賑やかに騒ぎながら春は冬を追いかけて行く。

 まだ、あたたかい。春と触れ合っていたところが、冷たくなくなっていて、冬は、あぁこれが春のぬくもりというやつか、なんて。あたたかくて、うれしくて、もっと触れていてほしいと思う。けれど、先程の春の言葉に冬は、それはだめなことなのだと思った。しんではいけない! ころしてしまうなんて! そういった表現が相応しいのかどうか、わからないけれど、大切なものをこの手で奪ってしまうなんて、そんなにひどい話はない。

 ほかのものだって、奪いたくて奪っているわけではないのに。

 もちろん、自分たちのようなものがそんなに簡単に存在を無くせるわけがないことは、わかっている。けれどもしものことを考えてしまうと、こわかった。やはり自分は奪うものなのだと、奪ったことによって、改めて知ってしまうから。そしてその奪ったものが一番大切なものだなんて、笑い話にもならない。

 うっすらと滲む視界のまま、冬は走る。行く宛ても何も無いのに、ただひたすらに走る。後ろから春の声が聞こえてくるけれど立ち止まってはいけない。と思う。立ち止まれば、きっと春は力一杯に抱き締めるのだろうから。それで、それでまた、死んじまいそうだ、なんて幸せそうに言うに違いない。あたたかな腕で、やさしい声で、本当にこのまま、もう死んでしまっても構わないという風に。

 春が死ぬ――消えてしまうくらいなら、自分が消えてしまえば良いと思う。疎まれて恨まれて、要らないと言われてばかりの冬が消えてしまえば、それこそ幸せな世界なのではないだろうか。

 なんて、そんなことを考えながらふと周りを見てみると、小高い丘の上に来ていた。眼下には、太陽の光に照らされた、穏やかな街が見える。

「つっかまーえたぁあああぁー!」

ほう、と息を吐くのも束の間。もう追って来てはいないだろうと思っていた春が、とても楽しそうな声とあたたかなその腕で、冬を背後からとらえた。耳元で遠慮なく、楽しそうな嬉しそうな、溶け始めた雪のような声がする。首筋に頬を寄せて、やっぱり冷たさが俺好みだとか何だとか言っている。じわじわと伝わってくる春のあたたかさに、冬はまだ何も言えない。

「なんだよーいきなり何なんだよー置いてくなんてヒドイんじゃねーのォ? ヴィンターさぁん」

反応が未だに返せない冬に、それはそれは子供っぽく春は言う。ぽく言うだけで、同時にしていることはまったく子供っぽくないのだが。

「なー?」

かたちの良い耳をはむ、とやわらかく食んだり、舌で輪郭をなぞったり。その度にふるりと小さく震えて反応を返している冬を、春は緩みきった表情で堪能している。後ろから抱かれている冬に、春のその表情が見えていないのが、救いなのだろうか。にやにやするな、きもちわるい。なんて照れ隠しに関節技でもかけられてはたまらない。もちろん、そんなところも含めて、かわいいと、春は言っているし思っているのだけど。恋は盲目というやつなのか、それとも愛が偉大なのか――それは病的とも言えるだろうし、狂的とも言えるだろう。

「な、な、な、なんで…っ、」

ようやくそれだけを吐き出した冬に、春はわらって答える。

「なんでって、そりゃお前が俺様置いて勝手にどっか行っちまおうとしたからだろ」

「それは、だって、俺と一緒に居たら貴方が、」

「死んじまうからってか?」

す、と細められた双眸は、やはり光を湛えて冬を捉えていた。その視線に瞳に、冬は融けてしまいそうになる。チリチリと痺れる頭のどこかが逃げろと鐘を鳴らす。

「死なねぇよ。少なくともお前を残しては、な」

 ちゅ、と冬の舌を掬う。甘い、と春はそれを食んでいて思う。やわらかな肉は、ひんやりとしたその温度をもって、それが冬のものだと教えてくれる。絡める指も、辿る輪郭も、春よりも低い温度。それを溶かしていくような感覚は、何度味わっても良いものだと思う。溶かしているはずの自分まで、溶けていくような。苦しそうに眉を顰めながらも決して舌を噛まずに、寧ろ離すまいと衣服を握る姿も砕けそうになるからだを必死に繋ぎ止める様子も、じわりと広がった朱の上に浮かぶ雫も時折零れ落ちる声もすべて、すべてが愛おしい。互いの温度が同じになってしまえば良いと思う。そうすればきっと互いの境界すら曖昧にしてしまえるのだろうから、離れることなんて無くなって、ずっと一緒にいることができる。あぁ、けれど。それではあの瞳の色が髪の色が、姿が見えなくなってしまう、なんて少々仄暗い考えが浮かぶ。朗らかな春の陽気に不釣り合いな水音を、まだ冷たさの残る風が攫って行く。ひとつだった影がようやくふたつの影だとわかるようになったとき、ふたつを最後まで繋いでいたのは細い銀の糸だった。上気した顔で、潤んだ双眸で、半開きの唇から切なげな吐息が漏れていて、これを誘っていないと捉えるものがはたしてこの世にいるのだろうかと、冬を見て春は唇を舌でなぞる。ふるふると震えているからだに回した腕を音もなく動かす。飾り気の無い、冬を表すようなシンプルな服に包まれたからだの、真ん中よりも少し下のところに手をそろりと近づけて、優しくやさしく撫で上げる。豊満な曲線とはまた違う、しっかりとした輪郭と、しかし硬すぎない感触。微かな衣擦れの音と同時に、掠れた声が漏れて冬が崩れ落ちる。薄紅色の絨毯の上に腰を下ろすことになった冬は、どうしたものかと春を見上げた。立たせて欲しい、と訴えてくる瞳を真正面から見つめながら、笑ってみせる。持って来ていた冬の上着を、冬の背後の薄紅の絨毯に広げて、そっと肩を押す。立たせてくれる気など無いのだと、知った冬は、しかし春を押し返すことも、逃げ出すこともできずに、春の肩に押し返そうとした手を乗せたまま、背中を敷かれた上着に近付けていく。抗議しようと口を開いても、春に先手を打たれてしまう。敵わないと、冬は改めて思う。いつだって冬は春に敵わないのだ。どこか子供っぽい振る舞いをしていても、時折見せる横顔は怜悧な美しいもので――いつ自分たちが生まれたのかわからないけれど、どうしても春が年上に見えてしまう。きっとずっと敵わないのだろう。けれど、それでいい。別に、敵わなくたっていい。なんだかんだ言って、冬は今にしあわせを感じていた。結局流されてしまっている今の状況だって、本心から嫌がっているわけではないのだろう。冬が本気で抵抗すれば、腰が砕けていようと、春をからだの上から退けることなど造作もないだろうし、その前に春が手を止める。風が若葉を微かに揺らすような笑い声を漏らして、春は冬の耳元で囁く。じわじわと広がっていく朱と、小さく躊躇いがちに動く唇。伏せられて逸れた視線の、その瞳は何よりも雄弁に冬の胸中を語っている。色の昏くなった碧眼を捉えた煌めく紅眼は、それはそれは綺麗な弧を描いた。太陽の光が届かなくなる。冬の視界は煌めく紅と透けるような銀で埋め尽くされて、どこに視線を飛ばせばいいのか、わからなくなった。ただ、ちらと見えた紅が、ひどくきれいだと思った。そこに映り込んだ冬の青は、紅と混ざり合って青とも紅とも言えない色になっていた。ぽつぽつと、髪に、額に、眦、鼻筋、頬、耳も忘れずに、首へ、時々鮮やかな花弁を残しながら、優しい雨が降ってくる。くすぐったそうに、しかし幸せそうに声を零しながら冬は雨にうたれる。それと同時に、春に抵抗していた腕の、ささやかな力や言葉すら洗い流していってしまうような雨に、冬は少しだけこわくなった。自分が自分ではなくなってしまいそうな気がして。けれどそんなこと、春にはすべてお見通されていて、冬をあやすような言葉を、春は嬉しそうに囁く。大丈夫だなんてどこにも根拠の無いことを言うのだ。冬からしてみれば何もまったく大丈夫ではないのだが、春曰く最高にかわいくて最高にきれいで最高にヤバいのだとか。割と大丈夫ではないように聞こえるが、このような状況で本当に大丈夫でなくなるのはもっと別のものらしい。話を聞いたとき、冬は、意味がわからないと思った。ぼんやりと、霞がかかっていくような頭で冬は意味の無いことを、それこそ現実から逃避するように考える。きっと、理性や自制心なんてものは最初から無かったのかもしれない。そう思ってしまうほど、結局互いに互いを呼んでしまうのだ。熱の中で何度も何度も、声が嗄れても互いを呼び続ける。自分では触れられない場所に手を伸ばして、触れて――或いは自分ですら触れたことのない場所に手を伸ばさせて、触れさせて――、名をいつもより掠れた声で浮かれた声で呼んで、それに声を返して、そこに在るのだと、限られた時間にしか触れ合えない春と冬はそうして貴重な時間を過ごす。凍りついてしまいそうな優しい冷たさが、それを持たない自分には愛おしい。融けてしましそうな懐かしい温もりが、それを持ち得ない自分には羨ましい。けれど混ざり合ってひとつになってしまうのは嫌だと思う。そうなってしまえば離れることも次を待つことも無くなるが、触れられないし見られないし聞こえない。だから、ひとつに混ざり合わなくてもいい。こうしていれればいい。混ざり合わなくても一つにはなれるのだから。いつか自分たちが消えてしまうまで。自分たちのような存在が在るということを――視認することはおそらく不可能だから――人々に知られることはないだろうけれど、おわりのときまで。

 しばらくの沈黙の後、冬は口を開いた。

「……俺は、貴方が消えるところなんて見たくない」

ぽつりぽつりと、ことばが零れ落ちていく。

「貴方を死なせてしまうなんて、耐えられない」

そうして、冬は口を閉じてしまう。絡まない、伏せられた青い視線は、きっと潤んでしまっているのだろう。冬がその雫を落としてしまうのは嫌だと思うけれど、それが自分を想ってのことだと思うと、それは少しだけ顔の筋肉が緩んでしまう。今も多分、緩んでしまっている。だから、ほら、冬が不満げな目でこちら――春を見ている。

「…何がおかしいんだ。俺は本気で言っているんだぞ」

「んー? んなこと知ってるし分かってるぜー?」

だってお前ホント真面目だかんなぁ、と背中から手を回して、冬を抱きかかえている春は笑う。

「さっき言ったろ? お前ひとり残してどっかいったりしねぇって」

肢体にどこか気怠さを覚えながらも、冬は首筋に顔を埋めている春を好きにさせている。春の髪が、さらさらと肌に触れる。ほんのりと春の日射しがのった髪は心地いい。

「貴方は、まったく――」

ふ、と幸せそうに息を吐いた冬に、春は思い出したように言う。

「そういえば、どこだったか、場所は忘れちまったけど、お前によく似たヤツ見たぜ」

「ほう。それは、いつのことだ?」

「んんー、と、たしか、ちょっと前、かな。なんか堅っ苦しい服着て歩いてた。髪とか目とか綺麗だったけど、やっぱ一番はお前な。隣に小鳥乗っけたヤツもいて、そいつも似たような服着てたぜー。仲良さそうだったけど、絶対俺たちの方が仲良いな、うん」

名も知らぬ、仲の良さそうな二人組に何故か対抗心を燃やす春を、あまり気にかけることなく、冬はそれと似たような体験をしたことがあると言った。自分たちの方が如何に仲が良いかというようなことを独り言ちていた春は首を傾げて、冬の話に興味を示す。

「丁度、ヘルプストから俺に廻る頃だった。街の画材店から出てきたのを見たのだが――その二人組の一人の容姿が、貴方に似ていた」

「俺に? まじかよこんなシェーナーマンが他にいるとかマジ有り得ねぇんだけど」

「二人とも、とても幸せそうな顔をしていた。画材を買い込んでいるようだったから、きっと、芸術家なのだろうな」

「…売れないしがない芸術家、に一票」

その時の、二人組の表情を思い出しているのだろう、穏やかな微笑を浮かべる冬に、春は微かに頬を膨らませて言う。しかし冬は、春の言葉に眉を顰めた。

「む…。ひとのことをとやかく言うのは、いただけないぞ」

「……ちぇっちぇのちぇっー」

「…何を考えているのか知らないが、貴方によく似ていたんだ。只者では終わらないだろう」

「あー…なんかソレ、すっげぇこそばゆいぜー…」

「?」

「こっちの話だよ」

再び冬の白い首筋に顔を埋める春に、冬は小首を傾げる。

「なんでもいいが――いつまでこうしているつもりだ?」

薄紅色の絨毯に広げられた冬の上着の上に落ち着いてから、もう彼是数時間は過ぎているだろう。高くあった太陽はもう西の方に傾き始めて、その色を実に鮮やかな緋に変えていて、駆け抜けていく風も、心なしか先程より冷たくなっている。

「ん…ずっと、こうしてたいな」

 その夜は、いつもより少しだけ暖かかった。相変わらず白い水の結晶は落ちてきて世界を塗り潰していくけれど、その夜は少しだけ賑やかだった。

「そっちの脚、遅れてるぜ!」

華やかな音楽も、優雅な雰囲気も無く、くるくると静かな白の世界の中で廻る影がふたつ。

「ほら、ターンだターン!」

なんて至極楽しそうに言いながら脚を運ぶもの。

「ちょっと待ってくれ…っあ、ばか、待てと言って…!」

そういったものに不慣れらしく、脚を縺れさせながらも懸命に脚を運ぶもの。

「おっと、大丈夫か?」

「…うらむぞ」

そんな賑やかな、ふたつの影が、静まり返った世界にあった。

 やはり空から訪れた白は日中振り続け、陽が西の空に沈む頃には街を埋め尽くしていき、今日もまた夜をシンと静かなものにした。そんな街に、つい数十分か数時間程前のこと、春と冬が揃って現れたのだ。仲良く並んで現れたかと思ったら突然春が冬の手をとり、くるくると回り始めた。それが何なのか理解するのに、数分とかからない。ダンスをしているのだと、曲が無くても、その所作が幾分か荒いものでも分かる。勝手に踊り始めた春の手を振り払うことなく応じる冬は、しかしおそらく滅多に踊ったことなどないのだろう、少しばかりぎこちない動作だ。春の顔よりも足元の方に、先程からずっと視線が行っている。それがあまり楽しくないらしい春は外見に似つかわしくない動作を――唇を尖らしてみるなんて子供のような――する。

「なー、さっきから下見てばっかだけどよーお前こっち見てくんねぇの?」

「無茶を、言うな……!」

不満げな春の言葉に、冬はしかし顔を上げずに反論する。頑ななその態度に業を煮やした春が、冬の顔を、腰に回していた手を使って上げさせた。その直後に歪んだ春の表情に、冬がだから言ったじゃないかというような眼をする。

「痛ぇ……」

「…自業自得だろう…が、…その、すまない……」

足が重なったせいでくるくると廻っていた影はもちろん停まる。足をどけて、向かい合って止まったまま、春と冬は笑う。くすくすと最初は堪えるように、徐々に堪えきれなくなって大声で。誰にも何にも聞かれることのない声。ほんのりと朱くなった肌に、薄らと浮かんだ雫は放っておいてもそのうち消えてしまうだろう。僅かに速度を増した鼓動を落ちつけるために吐く白い息もそのうちいつもの速さに戻る。

 白と黒と、僅かな色彩でわけられた世界を静けさが再び覆う。まだ黒い空からは相変わらず白い綿が落ちてきていて、地上を白く染めていく。春と冬がくるくると廻っていた場所に、足跡なんかは無いけれど、それでも少しだけ、足の形に凹んでいるように見えた。

「――…もう、そろそろだな」

そろそろと指を絡め合って、額を合わせて、瞼を閉じて言う。

「あぁ――そうだな」

まだ冷たい白の雫が降る、今日のような日があるとはいえ、廻る時間は確実に進んでいて、冬から春に名が移る瞬間は着実に近付いているのだ。また、互いに離れて、互いを待つことになる瞬間が。

「また、暫く会えなくなるな」

「毎回のことながら、嫌になるよな」

「…ゾンマーと会うことを楽しみにしているくせに貴方は何を言っているんだ」

冬が、ふいと視線を逸らす。

「んー? なんだよー妬いたのか?」

「妬いてない」

「心配すんなって、俺がそういう目で見てんのはお前だけだから!」

「こっちを見ないでくれ」

「ひでぇ!」

あんまりじゃねーのヴィンターさぁん、と情けない声を上げて、背を向けた冬に春は勢いよく抱き着く。均整のとれた冬のからだは、春を後ろから受け止めても少し揺れるだけで、大きくバランスを崩して倒れるなんてことはしなかったけれど、冬自身は幾分か驚いたようで春に苦い顔をした。

「危ないだろう。倒れたりしたらどうするんだ」

「危なくねーもん倒れねーもん。俺が知ってるし保証する」

「貴方は子供か」

「お前が!俺様を無下に扱うから!」

「お、俺のせいなのか…?!」

冬が目を丸くする。

「あぁ。だからもっとちゃんと構えよな」

抱き着いたそのまま、春は冬の耳元で言って笑う。やんちゃな子供のように横暴で無茶苦茶な――けれど悪意の無い無邪気な春の言葉に、結局冬は頷いて、はいはいと言ってしまうのだろう。冬が言った案の定答えとして寄越したその言葉を聞いてようやく冬の背中から離れた春に、冬は何度目かもわからない溜め息を吐く。

「おー、溜め息吐くと幸せが逃げるらしいぜー」

「……誰のせいだと…」

「そういや、お前の色って俺の色みたいだよな」

「――は…?」

春の、突然の言葉に冬は怪訝な顔をする。このひとはいきなり何を言い出すのかと。

「いや、前にも言ったけどよ、お前の色って俺の色に似てるんだよ」

「……と、言うと?」

「俺の、俺を照らす太陽と俺を包む空の色」

「……」

そういえば、そう言われたこともあったか、と冬は思い出す。けれど、そう言うのなら、自分は冬ではなく春という存在になってしまうのではないか。冬はその感想を春にそのまま吐き出してみる。すると春は一瞬目を丸くして、笑った。

「そうだな。だったら俺はお前になっちまうな! 落ちてくる白銀の雫の髪色と、暖炉の爆ぜる炎の目の色! ぴったりじゃねぇ?」

世紀の大発見でもしたように、大袈裟なほどの輝く笑顔で春は言う。

「…俺が貴方で、貴方が俺…という感じだな」

それは冬も悪い気はしないようで、こそばゆそうに呟く。

「でも、俺とお前の色が逆だったら実際どうなってたんだろうな」

「さぁ……それはわからないな。俺が春という存在になっていたのか、それとも今と変わらず冬という存在になるのか――」

どちらにせよ、想像の域を出ることは無い。しかしそのもしもの世界の話を続ける。

「銀と紅のお前かー…見てみてぇな」

「俺だって金と青の貴方を見てみたいぞ。きっと、とても綺麗だ」

「ちょ、不意打ちとか卑怯だぜ…!」

「なんのことだ…?」

「お前が俺のこと好き過ぎてヤバいっつーこった」

「ちょっと意味がわからないのだが」

「あぁでも心配すんな。俺の方が愛してるから」

「頼むから会話をしてくれないか」

じりじりと逸れていっている会話の内容に、おそらく春と冬は気付いていない。はらはらと落ち続ける白だけが、その会話を聞いている。その白が一欠片、ほろ、と撓垂れていた紅の首に落ちると、その鮮やかな紅がぱさりと呆気ない音をたてて白の上に落ちた。頭が落ちた分、幾分か軽くなった首は葉の擦れる音と少量の白が落ちる音を奏でて、先程よりも少しだけ高い位置で止まる。

「――あ、」

その微かな動きを視界の端に捉え、つられるようにそちらの方に顔を向けた冬は白の上に落ちた紅を見とめて僅かに眉を顰めた。

「……花、か?」

零れた冬の声に、その視線を追って、白の上に落ちた紅を目に入れた春が訊く。

「…あぁ、いつも、あぁやって落ちてしまうんだ」

「…綺麗に落ちるモンだな」

「俺が、きっと落としているんだ」

音も無く、白に残す跡も無く冬は紅に近付いて、しゃがみ、それを拾い上げた。冷たい花弁としっとりとした重さに、先程までそこにあったいのちの存在を感じて、冬は口を閉ざす。

「まぁ、でもよ、落ちるから綺麗だって思う節もあるだろ」

そんな冬を気遣ってか、春は口を開く。

「落ちる前も、そりゃあ綺麗だとかは思うけどよ――それって落ちるってわかってるから綺麗だって思うんじゃねぇの? ずっとそのままとか、落ちずに散るってんなら、ここまで感傷的にはならねぇんじゃねぇの?」

「…随分、詩的なことを言うんだな」

ふ、と息を吐くように微笑した、その双眸は細められていて、その中できらきらと揺蕩う、この決して明るくない世界でも無垢だとわかる空が、やはり美しい。

「んー…まぁ、受け売りなんだけどな」

そう言って、春自身も破顔する。

「ユウゲンの美って、言うらしいぜ?」

 ぼんやりと東の空が白み始める頃、街は未だ白く、空から零れた光を、その白が反射して街全体を幻想的な風景にしていた。これから時間が経って、昇りきった太陽が街に朝を連れて来たら、冬から春に廻るのだろう瞬間が間違いなく近付く。それは前々から決まっていたことで、季節が廻り巡っていくものだということは他でもない、当の存在たちが誰よりも何よりもよくわかっていることなのだが、それでも春と冬は互いにその手を放そうとはしなかった。けれど、それでも来たるべき時は避けられないもので。

 小高い丘の上から街を臨むと、まだ薄ら寒さは残るけれど数日前に比べれば随分暖かくなった世界に、賑やかに穏やかに過ごす人々のざわめきが感じられて、凛と静かに残っている薄紅色の花弁は、そんな街や人を見守るように――実際、ずっと昔から此処に在って、それらを見守ってきたのだろう――微風に揺られている。

「……また、暫く会えなくなるな」

「あぁ。ここまでだ」

そんな丘の上に、春と冬が、ぽつんと立って、何やら話し込んでいた。表情からして、嬉しいだとか楽しいだとかの話でないことは確かなようだ。春の紅眼は切なげに細められていて、ゆらゆらと揺れている。不満を隠すことなくへの字に結ばれた唇に、冬は困ったように眉尻を下げている。

「何回目だろうな」

「さぁ――もう忘れてしまった」

くるくると廻り続けて、無数の出会いと別れや喜怒哀楽を見てきたせいで、それらは幾度も繰り返される、ごく当たり前のことなのだと、廻った回数と共に数えることを止めてしまった。

「きっと芽吹く季節っていうのは、お前のことだと思う」

「それは、何故?」

「お前が芽吹く季節の筈だった…お前が始まりの季節の筈なんだ――一度全部が枯れ落ちて、眠りについて、だけど、だから次が始まるから。終わったんじゃない。次が始まってる。それは俺じゃなくて、お前の中で起きてる。だから、俺が始まりなんじゃない。俺は引き継いでるだけだ、だから、」

後半になるにつれて、ぐちゃぐちゃと纏まりの無い文章になってきた春の言葉は、ぽろぽろと零れ落ちていく水滴のようで、指先が白くなる程強く握られた手と共に、まだ一緒に居たいのだと冬に切実に訴えていた。それは冬も同じようで、きらきらと白に反射する光が幻想的な雰囲気を作り出す中、泣きそうな表情で、しかし口角を上げて春の言葉を握力を甘受している。

「なぁ、もう、逃げちまわねぇか」

「何を言っているんだ貴方は…行く宛ても無いのに」

「何処だっていい。ずっと一緒に居られれば、それでいい」

「、どうなるかも、わからないのに」

「どうなったっていいだろ――俺たちの前の、フリューリングとヴィンターだって、音信不通で、今何してんのか何処にいんのかもわかんねぇけど、さいごに見た時、あいつらムカつく位幸せそうな顔してたろ」

大切だと思える存在と一緒ならば何処へだって行けるのだろう。たとえそれが許されないことだとしても、自分という存在や名を捨てることになったとしても、何にも代え難い、しあわせというものなのだろう。ぼんやりと霞んでいく冬を前にして、春はそれを引き止めるように言葉を紡ぐ。

「もうちょっと、もうちょっとだけ留まれよ。そうすれば、きっと新しく開いた花とか、北の方から渡って来た鳥とか、見られるぜ」

「――そうだな。俺の知らない色が、生き物が、きっと見られるだろうな」

けれど、と冬は続ける。その、続く言葉を、春はわかっているけれど、やはり言ってほしくは無い。

「けれど、それを目にするのは俺の役目じゃない。貴方の、フリューリングの役目だ。俺が目にしてしまえば、貴方の立場が無くなってしまうだろう?」

諭すように、優しく言う。その言葉を、その音を、そんな顔で吐いて欲しくないと春は思った。周囲に滲んでいくように曖昧になる透けた身体で、涙を抑えつけて笑う、困ったような表情で、そんな言葉を吐いてくれるなと。

「それでは――またしばらく、だな」

そう言い残して冬が溶けて消えるその瞬間、春は叫んだ。

「愛してる!やっぱ俺お前のことが好きだ! 次も待ってろよ!会いに行ってやるから!早く会いに行って、長いこと一緒にいてやるから! だから、そっちで待ってろ!」

冬を攫っていくように吹いた一陣の風に攫われていった春の声が、冬に届いたのかどうかは、わからないけれど、それでも一人残された春は満足そうに目を細めていた。きらきらと煌めいている紅色の瞳には頭上の空が映っていて、青の雫を垂らし込んだような色になっている。それは丁度炎と水が混じったような色だ。

 その日は風花が舞った。どこかの山から飛ばされてきたのかもしれない。滅多に見られないそれを街の人々は物珍しそうに眺めて、日常を送っていた。そんな人々に視認されることのない春は、街が一望できるあの丘に立っている木の枝に座ってその花に手を伸ばす。指先に触れただけで融けて消えてしまうその花は冷たいという温度も柔らかいという感触も感じさせない。触れたという事実だけを残して消えた花弁の在った指先を見つめる春の眼差しは、愛しいものを見るそれに他ならない。

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