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「ねぇセンセ。ここ、わかんないんだ」

数学の教科書を指しながら、目の前の男子生徒は目を細める。

「だから教えてよ」

僕留年だけはヤダから。と無邪気に笑う教え子の一人に、喉まで出かかった様々な悪態を飲み下してどうにか、放課後に図書室へ来いと伝えた。元気よく走り去る背中に溜め息を吐いて、職員室へと足を向ける。廊下を進む足取りは、やや疲れているようだった。職員室までの廊下は酷く長いものに感じて、それが余計に疲労を煽る。一刻も早く珈琲でも淹れて一息つきたいのに、などと思いながら歩き、ようやく辿り着いた職員室の扉に手をかける。細かい傷の目立つ、この学校と共に歴史を重ねてきた引き戸を開けば、紙とインク、それから珈琲の良い匂いが広がる。それと同時に、その穏やかな雰囲気に似合わない言葉と声が、聞こえた。

「おかえりー! って、あは!なぁに? またあの子?気に入られてるねぇ! さっすがぁー!」

穏やかな昼時の校舎に、情けない悲鳴が響いた。

 夕方の学校は、とても浮世離れした場所のような気がしてならない。日が傾いて空を朱く染めるまではそうでもないのに。やはり学校という場所は少なからず世間とは切り離された特別な場所であるのだろう。グラウンドや中庭で活動をしている運動部の声を聞きながら図書室へ向かう。多くの生徒が出払った校舎はとても閑散としている。否、校舎には文化部がいるし、活動もしているのだが、その軽音や吹奏楽の音もどこか遠くに聞こえる。西日に照らされた廊下に他の人はおらず、やはり自分一人が校舎に取り残されたのではないか、と気分をどこまでも感傷的にさせた。

「やっほーセンセ!やっと来たね! 僕待ちくたびれちゃったよ」

図書室独特の静寂を物ともせずに自分を呼び、手をぶんぶんと振る姿は人懐こい子犬のようだ。

「図書室では静かになさい。常識ですよ」

もう何度目になるか分からないやり取りをして生徒の向かいの椅子を引いて座る。机の上には教科書と文房具がぞんざいに置かれていた。今まで何をしていたのかと思い、ちらと生徒を見れば、その言動に似つかわしくない分厚い本を持っていた。それは初めて目にする題名と作者名だった。この前はレフ・トルストイを読んでいた。またその前はフランツ・カフカ。そういえば芥川龍之介なんかも面白いと言っていた。この生徒は存外読書家らしい。暇なときに手に取って読む程度の自分にはよくわからない。どれも似たようなものではないのか。そんな視線を感じ取ったのか、生徒は言う。

「だってね、この本あんまり面白くなかったんだもん。期待とかしてなかったけど、うん。これ、結局おんなじことばっか言って、前に進まないんだよ。場面が変わるだけなんだ。さすがに飽きちゃうよ」

「…それは欠伸が出そうな作品ですね」

赤紫色のスピンを挟むことも無くぱたんと本を閉じる。それを邪魔にならない所に置いて、ふあぁ、と間の抜けた声を出しながら伸びをすると、生徒はもぞもぞと座り直した。放り出されていた勉強用具をずるずると引き寄せる。

「ん。じゃあ始めましょーか!」

 ここが分からない、あそこが出来ないと言ってはいるが、ちょっと教えてやればこの生徒はするすると問題が解けるようになるのだ。実際、生活の中でも勉強に関して酷く悩んでいるような姿を見たことが無い。定期テストの成績だって、悪くないのだ。寧ろ良い部類に入る。そんな生徒が、どうしてわざわざ、それも他の教科まで自分に訊きに来るのか、未だに理解できないでいた。たしかに、自分は英語科の教師であるが、他の科目も人並みには教えることが出来る。しかし、やはり質問するならば、各科目の教師に訊いた方が良いのではないか。それに、教師でなくとも、この生徒には双子の兄がいる。だから以前、兄がいるのだから兄に訊けば良いのではないか、と言ってみたことがあるが、センセじゃなきゃだめなのーと言われた。生徒の兄だって成績優秀であるのに。

暫く、静かな時間が流れた。シャープペンシルがノートの上を走る音と、不規則的に捲られるページの音。それと、時折ぽつりぽつりと交わされる言葉。時計の針は一時間と進んでいない。しかし生徒のノートは多くの数式や記号で彩られている。開かれている教科書のページは、授業よりも少し進んでいた。

「…貴方は、何故こんなことをするのですか?」

最後の練習問題を解いたところで、口が動いた。顔を上げた生徒が、真っ直ぐにこちらを見ていた。

「貴方は、成績も良いですし…そもそも、どうして英語以外の教科も私に訊くのですか? ちゃんとした、教科の先生に訊いた方が良いのでは?」

「んー、」

持っていたシャープペンシルを置いて、肘をつく。唇をとがらせて顔を逸らしても、機嫌を損ねたわけではないと、書架の方に向けられた灰色の瞳が語っていた。数十秒そうしてから、再び視線が合った。

「だって僕センセが好きだもん。センセと出来るだけ一緒にいたいもん」

「は、」

「個人としてね。センセが好きなの。ダメ?」

照れるでも恥じらうでもなく。堂々と言われた言葉に、呆然としてしまう。

「一目惚れってヤツかなぁ…入学して、初めてセンセを見たときから。ずっと」

だから学年上がってセンセのクラスになったときホントに嬉しかったんだぁ、と幸せそうに笑う生徒に、顔に熱が集まるのを感じた。夕日の所為だと思いたかったが、生憎太陽はもう地平線の近くまで落ちていた。黄昏の、薄暗さが救いだった。そんな心境を知ってか知らずか、生徒は続ける。

「……でもね、センセも少なからず僕のこと好いてくれてると思うんだぁ」

「…なぜ、そう思うのですか?」

「だってさ、センセ、なんだかんだ言ってこうやって僕に付き合ってくれるじゃない。どんな教科でも、どんな日でも」

否定は、出来なかった。思い当たる節が、思い返してみれば多々あるのだ。こうして放課後の図書室で時間を過ごすことも、今日のように廊下で声をかけられることも、すべて心の底から嫌だと思ったことはなかった。

 自分は、存外この生徒のことを気に入っているらしい。ペースを持っていかれても良いと思える程度には。

「ねぇ、先生。答え、チョウダイ? 僕ずっと我慢してたんだ。卒業まで持ってこうって思うくらいには。でも、もう無理かな。だって、今とっても良いフンイキ。据え膳食わぬは男の恥って、」

「…なんですかそれ」

 

一人の男の子は大事な人との未来に胸を膨らませる。最初は手を繋いで、次はキスをして。そして、その先は、

 

先生と生徒

(こんな青春如何でしょう)

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