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人魚の鱗が剥がれ落ちた日

 例えば雨の日の湿った匂いだとか雪の日のシンとした音だとか。挽きたての珈琲豆の匂いだとか凹凸の無い万年筆の触り心地だとか。彼はそういうものが好きらしい。

 ツイテない。本当にツイテない。どんくらいツイテないかって言ってみると、よくあるドラマの被害者と同じくらいツイテない。ちょっとした小競り合いから突き飛ばされて、よろめいたその後。後ろ向きに倒れ込んだ、丁度そこに石だかブロックだかが在って、それに頭ぶつけてお陀仏しちまう被害者並にツイテない。不謹慎だとは思うが、とんだギャグ展開だ。格好悪すぎる最期だ。スマートかつクールな自分に相応しくない。散るなら華々しく散って逝きたいのに。否、まだ自分は死んでいないし、そうやって死ぬ世界からは程遠い世界で生きているのだけれど。だがしかし。それは兎も角、今日という日は悲しいほどツイテいないのだ。

 茹だるような日が続く。透明なグラスに放り込まれた氷は風流な音をたてる間も無く融けてしまっている。じっとりと張り付く空気は噎せ返るような息苦しさを運んできて、これ以上ないくらいに鬱陶しい。しかしそれを振り払おうにも身体はひどく怠い。腕はおろか指先ですら動かすのが億劫だ。突っ伏している机も随分と温まってしまっていて気持ち悪い。視界に入る書類たちも心なしか草臥れているように見える。

 それもこれもすべて使い物にならなくなってしまったエアコンの所為だ。たしかに古い型で、運転中に鈍い音を響かせていた老兵だったけれども。それでも昨日までは動いていたのだ。それなのに今朝になって突然の故障。業者に見てもらったところ使用年数の限界だとか。寧ろ今までよく動いていたらしい。その功績を称えられつつエアコンは長年勤めた前線から退いた。

「じゃあ新しいエアコンを」

誰もがそう思い上司に視線を向けた。向けたが、上司は首を縦に振ることはなかった。上司とて部下たちの言わんとしていることは理解していたはずだ。だが、上司は新しいエアコンを買わない、と言ったのだ。正確には、買えないと言った。懐が苦しいらしい。本当に申し訳なさそうにその旨を伝えた上司に、部下たちは従うしかなかった。この御時世、誰かの首を切ることなく経営を続けている中小企業はそうそう無いのだろうから。

 窓はすべて開け放たれているというのに、そこから入って来るものと言えば、蝉の鳴き声と人々の行き交う音くらいだ。彼の知り合いが吊るした風鈴の、美しいらしいその声を彼らはまだ一度も聞いたことが無い。人工的に風を送る機械は毎日健気に全力で働いてはいるが、文明の利器が作る冷風に慣れてしまった身体には勿論涼が足りない。彼は低く、獣のように唸った。

「…だらしない、ですよ」

その声に対して、見計らったように降ってきた声に彼はぴくりと反応する。緩慢に上体を起こすと、困ったような呆れたような双眸が此方を見下ろしていた。

「んあー…そう言うなって……仕方無いだろ、」

氷が融けきって、更に温くなってしまったグラスの中身を飲み干して、彼は周囲をぐるりと見回す。視界に入るのは見慣れた風景だ。決して広いとは言えない空間に並べられたデスクはそれぞれの個性が出ていて一目でどれが誰のものか判る。古風な書棚にはまとめられた書類が種類別にファイルに入れられて管理されているし、見るからに時代遅れな型のコピー機は相変わらず大きな音をたてて紙を吐き出している。同僚や後輩に目を向けてみるとやはりどこか生気の無い動きをしていた。滲む汗と漂う湿気を吸ってくたりと力を失った書類たちの、安いインクで綴られた文字はところどころ読めなくなってしまっている。

「まぁ、」

解ってはいるのだろう。眦を下げて、彼に声をかけた後輩はデスクの上から空になったグラスを回収する。そして新しく持ってきたらしいグラスを置き直す。

「おぉ、」

礼を言おうと後輩に顔を向けると、その手には空になったグラスが乗せられた盆があった。冷たい飲み物を配っているらしい。

 見ると他にも数名が盆を持ってうろうろしているではないか。この気温の中で他人にこういった気を配ることができるとは、とてもできた後輩を持ったと彼は思う。最近の若い者は常識がなっていないだとか何だかんだと言われている世の中だが、まだまだ捨てたものでは無い。

 後輩に礼を言いグラスに口をつける。さらりと喉を通っていく液体は冷たく、火照ったからだにありがたい。一気にグラスを空にしてしまうと後輩がまだいるかと訊いた。もちろん一杯で足りるはずもなく彼はその言葉に頷く。

「悪いな」

「いや、いいんです、」

グラスを盆の上に戻して、後輩は目を伏せる。その表情は、どこか嬉しそうだ。

「好きでやっているだけ、ですから」

そう言い残して後輩は給湯室へと踵を返していく。その背中を見つめていると、誰かに肩を叩かれた。反射的に振り向いて目に入ったのはニヤニヤと締まりのない表情をした同僚の顔。いつの間にか近付いていたらしい。それを見て、彼は隠すことなく盛大に顔を顰める。

「気色悪い」

「ひでーな」

付き合いの長い同僚は彼のストレートな物言いに微苦笑を零す。

「何ニヤついてんだよ」

気色悪い以外言いようがないだろ、と言う彼に同僚は大袈裟に手を広げて嘆いてみせる。世間一般から見て、おそらく同僚は整った顔立ちをしている。そんな同僚が、ふざけたい盛りの学生がするように腕を広げて悲愴を吐く様子はやけに芝居が掛っていて舞台俳優のようだと、彼は頭の隅で思った。

「そんな言われると流石に傷付いちゃうんだけど?」

「知るかよ。ホントのことだろ」

「お前さ、俺に対する愛が足りないよ」

「なんだよお前。何の用だよ。どっか行け」

同僚が現れたタイミング的にも同僚のニヤけ具合的にも、同僚は彼に何か用があるのだろう。それはそれは、とても下らない御用が。

「まぁまぁ、そう言うなって。目で追うばっかなんてオトメなことしてるお前に素晴らしいアドバイスでもしてやうかなって思ってさ」

やはり、下らない。

「ほっとけ。てかお前みたいにヤラシイ目で見てるわけじゃねーよ」

しっしっ、と動物等を手で追い払う仕草をする彼に同僚は少しばかり目を丸くした。

「えー?じゃあお前どんな目であの子のこと見てんの?」

その同僚の言葉に、今度は彼が目を丸くする。

「えー?じゃねぇよ! 寧ろお前そんな目であいつのこと見てたのかよ!節操無ぇヤツだとは思ってたけどよ…!」

「ん?全然イケるよ? 頑張り屋でかわいいし?顔も整ってるし?良い身体してると思うし?」

「見んな!そんな目で見んな! てかホント離れろ!変態が感染る!」

「変態とか失礼な! 愛だよ愛!」

火にかけられた水のようにふつふつと熱くなっていく二人の会話に、周囲は溜め息を吐く。ただでさえ暑いのに。よくそんな元気があるものだ。

「っていうかさぁ、お前はあの子のことどう思ってるわけ?」

「どう、って…会社の後輩だろ?」

「そんだけ?」

「…まぁ、かわいい、とは思う……」

「何その間」

「うっせぇばーかばーか」

そういえば、と彼は思い出す。そういえば自分はあの後輩の姿を目で追っていた気がする、と。気が付けば探しているのだ。何時から。最初に見た時、後輩を入社式で見た時から。

 綺麗だと思った。モデルのように均整のとれた身体や静かな光を湛えた双眸やひとに接するときの真摯さ。それらすべてが眩く見えた。与えられた仕事をきっちりと熟す丁寧さも、それ故に無理をしようとしてしまう危うさも。

 彼は真面目な人間があまり好きではなかった。どちらかといえば苦手な分類に入るだろう。それはいつもいつも眉間に皺を寄せて親の仇でも見るように与えられた物事に向き合っているからで、彼はそんな人たちを見るたびにもっと肩の力を抜けばいいのにだとか眉間に皺を寄せるくらいならもっと楽しいことをすればいいのにだとかと思っていた。

 結論から言ってしまえば、一目惚れというヤツなのだろう。今まで何故自分があの後輩の姿を追っていたのか。答えはコレなのだろう。

「……嘘だ」

ぼそりと零れた言葉に、同僚はやはり口角を上げる。

「嘘じゃないと思うなー」

「なんでだよ」

「うっそ無自覚だったの?」

お前あの子のこと目で追いかけまくってるくせに、と同僚が言う。やけに顔が熱いのは、きっと噎せ返る気温と湿度の所為だ。首筋を伝う汗がひどく冷たく感じる。それを知ってか知らずか同僚は彼の肩を叩く。

「ま、頑張りなよ。アドバイスくらいはしてやるからさ」

そう言って、ひらひらと手を振り同僚は自分のデスクに帰っていく。突然どうしたのだろうと思っていると視界にあの後輩。おかわりを持ってきたらしい。盆にはグラスが二つ乗っていて、彼と同僚が話しているのが見えて気を利かせたのだろう。

「何を話していたんですか?」

盆に乗っているグラスの一つを彼の手元に置きながら後輩は訊く。

「いや、別に大したことじゃ、ねぇよ。うん、」

「そう、ですか」

後輩のあっさりとした対応に、彼は胸を撫で下ろす。

「あ、そうだ」

「? なんですか」

「お前、その敬語?使わなくていいぜ。寧ろ使うなよな」

「しかし、」

「ただえさえ暑っ苦しいのに、そんな堅っ苦しいとさ。お前も気ぃ使うだろうし。うん、止めちまえよ敬語」

「……では、お言葉に甘えるとしよう」

「おう」

素直な後輩に頬が緩む。

「しかし、残念だな。あのひとの分も持って来ていたのだが、すれ違ってしまうとは、」

「そんな気にすんなって」

おそらく、同僚は彼と後輩の邪魔をしないように空気を読んだだけなのだろうから。勿体無ぇしお前が飲めばいいだろ、と彼は盆の上に残っていたグラスを持ち上げて、ずいと差し出してみる。透明なグラスの無機質な冷たさが心地いい。

 射すような直射日光が当たっていないだけマシだとは思うが、それでもやはりまとわりつくような暑さはやる気や集中力やその他諸々を奪っていく。ほとんどの社員が仕事に手を付けられずにいるような状態だ。それなのにある社員のデスクからは、ほわほわとした花が飛んでいるのだからたまらない。

「女子高生じゃねーんだからよォ…」

花を飛ばしているのが可憐な女学生だったらどんなによかっただろう、と言わんばかりに社員のひとりが零す。その目にはやはり生気が無い。

「何が悲しくてこの暑苦しい中で野郎同士の良い雰囲気感じなくちゃなんねーんだよ」

ファッキン、と吐き捨てた社員の呟きは誰にも聞かれていなかったらしい。

 気怠い静寂を破るように、勢いよく扉が開けられる。突然の音に緩みきっていた社員たちはびくりと肩を震わせて、音のした方に顔を向ける。その視線の先には何やらビニール袋を抱えた黒髪の青年が立っていた。そして、その青年は未だ呆然とする彼らをおいて口を開くのだった。

「皆さん、水鉄砲合戦やりましょう。水鉄砲合戦」

おそらく、大事なことだから青年は二回言ったのだろう。

 黒髪の青年が持っていた、大型ホームセンターのロゴが入ったビニール袋からは大量の水鉄砲が出てきた。外回りから帰ってきた社員の思いがけない土産物に一同は目を丸くする。

「いやはや、気が付いたら購入していましてね…折角ですしやりましょうよ」

デスクに広げられた大小様々な水鉄砲を眺めながら社員は言う。やりましょう、と訊くかたちになってはいるがその言葉にはやるんだよな、と言うような雰囲気がある。子供時代以来の水鉄砲に夢中な社員たちは気付いていないようだが、その目もまた有無を言わせない空気をまとっていて、彼らの上司は頷くしかなかったのだ。というか、こんな蒸し風呂に詰め込まれている彼らの水鉄砲に対するあの反応を見てしまえば首を横になどは振れないだろう。

「上司さんのお許しも出たことですし、外行きましょうか」

瞬間、上がった歓声を彼らの上司は生涯忘れないだろう。どたどたと騒がしく部屋を出て行く社員たちを見て上司はどこかしあわせそうに溜め息を吐いた。

 空気の流れが悪い屋内よりも外は随分涼しく感じられる。職場の駐車場には二十代前後の男女が賑やかに集まっていた。その手には水鉄砲やらホースやらが握られている。

「俺はこの一番大きいヤツを使うぞ!」

「んじゃ俺はコレ」

「えーっと、じゃあ僕はコレかなー」

「では我はアレにするある」

「コレで俺がお前ら全員撃ち抜いてやるよ」

外回りの社員が買ってきたものにプラスして、何故か職場の物置から出てきた色の付いた透明なプラスチックで作られた遊戯銃を各々が手にする。

「ヴェ、じゃあ俺コレにするー」

「ふむ…俺はコレ、か」

「では私はコレにします」

デザインを見て大きさを見て水の入る量を見て、彼らは己の相棒となるものを選んだ。

 彼らの集まった職場の駐車場には水道がある。しかし学校のグラウンドにあるようなものではなく、コンクリートの地面から水道管が一本生えているようなものだ。補給の効率は悪いし、持ってきたホースを繋いでしまえば水鉄砲組に勝ち目は無くなるだろう。案の定どうするのかと疑問の声が上がる。

「水の補給はどーすんだよ。いちいち並ぶなんて面倒なことはゴメンだぞこのやろー。つーかホース使うの無しな。フェアじゃねーだろ」

「そうですね…ではホースは補給等だけに使いましょう……バケツとか、ありましたよね、」

「じゃあバケツ、持ってくるわね」

「女性一人にやらせるわけにはいきません。手伝いましょう」

「恐れ入ります、ありがとうございます」

社内でもずば抜けてお似合いと言われ、実際に交際しているらしい二人がバケツを探しに屋内へ入っていくのを見送って、社員たちは次に決めるべき話題を上げる。

「で、チームはどうする? 合戦っつーなら分けなきゃなんねーだろ?」

「あぁ、それならココにクジが」

相変わらず用意周到というか何というか。ごく自然にスラックスからクジを取り出した、言い出しっぺの社員の目がきらりと光ったのに何人の社員が気付いたのだろう。おそらく大多数の社員が気付いていないだろう。気付いた社員も、この社員はこういう人物なのだと割り切っているだろうし、何よりこういうものが予め用意されているというのは、この炎天下でしなければならなかった作業が省かれているということで、ありがたい。つまり、あまり気にしていないのだ。

 わいわいと参加者たちはクジを引いていく。参加しない、観戦に回る者たちは建物の影になっている場所に避難してその様子を見ていた。まるでこどものようだ、と。ちなみに先程バケツを取りに行った二人は参加しないと言っていた。

 二色の、異なった色が塗られたクジを引いて彼らはチームに分けられる。どちらのチームに入るかは二分の一。自然と同じ色を引いた者同士が集まり、共闘する者と顔合わせをしていた。

「ちぎっ、なんでお前と一緒のチームなんだよこのやろー」

「そんなん言われてもなー…クジなんやからしゃあないやん? よろしくしたってぇな!冷たくされると親分悲しゅうなってしまうわー…でもこれは楽園やんなぁ!楽園やんなぁ!兄弟揃っておんなじチームとか…!」

「そのむかつく髭面ブチ抜いてやるよ」

「きゃーやだー野蛮眉毛ーお兄さんこわーい」

「って、お二人とも同じチームじゃないですか!」

「誰?」

各々が感想を漏らす、その中で。

「ヴェ、チーム別れちゃったね…」

「む…まぁ、気を落とすな。気にせず楽しめばいいだろう」

「そうですよ、ちょっとしたお遊びなんですから」

後から発言した二人のものとは違う色が塗られたクジを握り締めた、気の弱そうな社員が眉を下げていた。

 そういえば、と彼は思い出す。あの三人は仲が良いのだったか。違うタイプの三人だが、だからこそバランスの良い組み合わせらしい。三人とも同期だということもあるのだろう。特に二人と違うチームになったことに眉を下げていた社員はふわふわとした雰囲気を纏っていて彼も気に入っていた。後輩とわちゃわちゃしているところなどは、まさに楽園というヤツだ。しかし、なんだろう。この感じは。彼は少しだけ眉間に皺を寄せた。

 それからしばらくして、幾つかのバケツを抱えた二人が帰ってくる。バケツのほかにも、どこから引っ張り出して来たのか盥や大きな水槽なんかも抱えている。

「バケツだけだと不安だったから他にもいろいろ持って来てみたわ」

「おぉ…ありがとうございます」

「ホース繋いであるよー」

「ちょ、君何するんだい!」

「やだなぁ、偶々かかっちゃっただけじゃない」

まだ若い社員二人が戯れはじめる。見るからにホースを持っている方がもう一人の方に水をかけているような図だが。時折対立を見せる二人だが、なんだかんだ言って仲は良いのかもしれない。ぎゃあぎゃあやっている二人をやんわりと止める声がかかった。

「ほらほら、さっさと容器に水を溜めて。遊ぶ時間が減るわよ」

 涼しげな音をたてて容器が満たされていく。きらきらと輝く水面に青い空が映っている。満タンに水を入れられた容器たちは男性社員たちによって、日陰に移動させられていた。観戦者たちがぱちゃぱちゃと涼をとっているのが見える。

「なー、」

最後になる、水のはられた大きな水槽を二人で運んでいる時に、彼は口を開いた。

「お前さ、あの子と仲良いよな」

「あの子……あぁ、あいつのことか。まぁ、同じ学校だったしな」

それがどうかしたのかと言わんばかりの反応。当然の反応だろう。つまり幼馴染とかいうヤツか。成る程、仲が良いわけだ。きょとんとした、子供のようなあどけない表情に顔が熱くなる。というか、自分は何を言っているのか。あまり広がる要素の無い話題を振って。努めて平静を装い、何か、何か話題を、と考える。

「そ、そういやお前どっちのチームになった?」

水槽を割ってしまわないように、そっと地面に降ろしながら訊く。ごつ、と小さな音と共に地に足を付けた水槽に手をかけて立ち上がると、後輩は答えた。

「黒だ」

「マジで?」

「嘘を吐いてどうする」

「え、いやだってよ、同じだったから、」

「そうなのか」

「お前と一緒かー嬉しいぜー!」

目を輝かせて笑う先輩に、後輩は苦笑する。同じチームで嬉しいと言われて悪い気はしないが、何故こんなにも喜んでくれるのだろう。

「おふたりさーん、そろそろ始めるみたいですよー?」

先に運ばれていた、他の容器の水で遊んでいたバイトの子が言う。駐車場の方を指す、健康的に焼けた指の先には準備万端というふうに参加者たちが集まっていた。

「おぉーい!早く来るんだぞー」

「親分の本気見せたるでー!」

年甲斐もなく燥ぐ大人たちの、その楽しそうなこと。

 参加者は十二名。他の社員や上司は日陰で観戦する役に回った。合戦と言ってもただの娯楽であって試合等をしているわけではない。撃たれたからと言って戦闘不能になることも無い。ルールとしては、相手のネクタイをより多く取った方が勝ちというものと、ネクタイを取られた者は相手のネクタイを取ることができない、というものだけだ。つまり六名分のネクタイを取れば良い。スラックスのベルトループに、動物の尾のように解いたネクタイを通して垂らす。走っていて落ちてしまわなければいいのだ。ネクタイを持って来ていなかった者はタオル等を代用した。水の補充は自由だが、相手がそれをしている間にネクタイを取るというのもアリらしいので、タイミングが難しいだろう。

 腕を捲って肩を回して、やる気は十分のようだ。日陰から上司が気を付けなさいなんて親のようなことを言う。それが合図になった。

「あいやー!あの時の恨み、思い知るよろしあへんーッ!」

「痛ぉないでー痛ぉないから、ちーっと大人しくしときぃや、腐れ眉毛」

水鉄砲というか体術メインで仕掛ける者。

「うっせぇ誰がそんな攻撃喰らうかよ…おいこらワイン野郎ちょろちょろ動き回るんじゃねぇ!」

「ちょ、なんでこっち来んのさ!やめてよエロ大使!」

何故か味方を潰そうとし始める者。

「あ、あのー…」

「ヴェェエエエェエェ?! い、いつの間にぃいいぃいいいぃぃい?!」

「ってか誰だよお前このやろー…って、いつの間にタオル取ってんだよちぎーっ!」

あっさりとネクタイの代用物、長方形のタオルを取られる者。

「一先ず爺は様子見をさせていただきましょうかね」

一歩引いて戦況を見極めようとする者。

「君と共闘かぁ…邪魔にだけはならないでね?」

「じゃあ君には俺の援護を頼むんだぞ!しっかりしてくれよ!」

「ふむ…では背中を任せても良いな?先輩」

「えっ。あ、いや、おう。任せとけ!」

どこぞの戦闘漫画のような空気になっている者たち。

「やー、皆さん若いっすねー」

「あらあら。そういう貴女の方があいつらよりずっと若いでしょう」

「まったく…大人気無いというかなんというか……」

観戦者たちは思い思いのことを吐露しつつ、思いっきり身体を動かす彼らを眩しそうに見つめていた。そのうちギャラリーは、近くに住んでいる社員の知り合いが来たり配達に来た顔馴染みが留まってみたりで、地味に増えていくのだった。

 まるで学生時代に返ったようだと彼は思った。水鉄砲合戦と言うには些か激し過ぎる戦闘を繰り広げながら彼は口角を上げる。

 正々堂々、真っ直ぐに仕掛けてきた年下を往なしながらその尾を奪うタイミングを見ていると、今度はもう一人の年下が仕掛けてくるのだ。隙をつかれては分が悪いのだが、生憎こちらだって一人ではない。すかさず後輩がフォローに回ってくれる。ネクタイに伸ばされた手を掴んで、そのまま投げ飛ばす。そして駄目押しとばかりに水鉄砲で追撃するのだ。流れるようなその一連。ドラマか映画のワンシーンでも見ているような迫力と美しさに彼は感嘆する。

「油断は禁物なんだぞ!」

「っ!」

白い歯を見せて、後輩の方へと踵を返す年下に舌打ちをした。間に合わない。

「…貰ったぞ、君のネクタイ!」

ベルトループから抜き取られたシンプルなデザインのネクタイ。勝ち誇ったような笑顔。だが、敵に背中を見せてはいけない。

「お前も、油断禁物だぜ…!」

極力音を殺して近付いた彼は思いっきり相手のベルトループに通されていたものを引き抜く。うわ、と間の抜けた声。ざまあみろなんて思いつつ、彼は後輩に呼び掛けて年下二人との距離を取る。

「仇とってやったぜ!」

「仇って…」

困ったように笑いつつも、その声は楽しそうだ。

「あぁ、でも、そうだな。ありがとう」

ふ、とやわらかく微笑まれて彼は固まってしまう。激しく動いて乱れた髪が、やけにうつくしいと思った。その後に後輩が、これで思う存分できる、なんて言って唇を舐めていたことを彼は知らない。知らないが、おそらく彼にはそんな後輩の姿もうつくしく映るのだろう。

 青い空がぐるぐると回っている。頭がぼぅっとしていて蝉の声がどこか遠くに聞こえて、現実味が無い。じりじりと降り注ぐ日射しに眉が寄る。誰かが自分の名を呼ぶ声がするが、その声もやはり遠くの方で聞こえる。身体に力が入らなくて、声を出すのもままならない。さてどうしたものかと考えるよりも先に、彼は目を閉じた。

 そろそろ決着がつくだろうかと四人を観ていた社員たちは目を丸くする。当たり前だ。一斉に駆けだした四人全員がその場にぶっ倒れたのだから。バイトの子が可愛らしく悲鳴を上げる。

「ちょ、おい、大丈夫かよ…!」

日陰から、まだ水の入っているバケツを持って両チームのメンバーが飛び出す。

「熱中症、でしょうね……」

戦況を見守っていた社員がどこからともなく現れる。四人の状態を確認するとともに、相手チームのベルトループから尾を抜き取るという強かさを見せながら。

「おいこらしっかりしろよ、と!」

ばしゃりと水がかけられる。

「う…、」

反応を返すことを確認して、手分けをして四人を日陰に運び込む。揃いも揃ってガタイのいいヤツばかりが倒れていたせいで他の社員たちの骨は折れに折れまくった。

 日陰には冷えたスポーツドリンクを用意したバイトの子や他のひとがいた。運び込まれた四人を不安そうな目で見ている。一番回復が早かったのは一番体格の良い後輩だった。

「飲めますか…?」

上体を起こされ口元にスポーツドリンクを持っていかれる。

「、すまない」

支えられながら、容器の縁に口を付けて傾けた。飲みきれなかった分が白い肌を伝って滴り落ち、コンクリートの色を変える。喉が上下しスポーツドリンクが嚥下されるのを見届けると、安堵の溜め息が聞こえた。

「ご無事なようで何よりです…、」

「本当にすまない…迷惑を、かけた」

「このお馬鹿さんが! 身体を壊したらどうするのですか!」

「そうよー。それに、こういう時は他に言うことがあるでしょう?」

男性社員の方と親戚らしい後輩は、お似合いの二人に囲まれて眉を下げる。

「……ありが、とう」

「ん。どういたしまして」

周囲に微笑ましい空気が流れる。さや、と風が吹いた。

「ゔー…」

低い呻き声が漏れる。

「あ、先輩…大丈夫、です、か?」

声のした方を見ると、背中を任せ任されていた先輩がもだもだと蠢いている。まだ無理に動かない方がいいのだろうと判断した後輩は彼に安静にするよう促そうと近付く。まだ軽くよろめいたりはするが、もう自力で立つことができる。

「無理に動かない方が、いい」

「ぅー…? おー、おぉー」

自分に近付く後輩を見とめると彼はふにゃふにゃと手を振った。その姿に後輩が溜め息を吐く。

「何をしているんだ貴方は…」

「大丈夫、だったか?」

「…まぁ、大事無いが、」

上体を起こそうとする彼を支えながら言う。渡されたスポーツドリンクを一息に飲み干すと、彼はほぅと息を吐いた。さやさやと流れる風に、その双眸は心地良さそうに細められる。そして次にその目は後輩の方に向けられた。が、それは一瞬のこと。すぐに逸らされてしまう。そうして顔を隠すように、腕で汗を拭う彼を見ていた後輩以外の社員は思わず噴き出した。びしょ濡れなんだから意味無いのに、なんて笑いながら。

 ツイテてる。今日はなんてツイテる日なんだ。と彼は胸の内で叫ぶ。気になっている後輩と共闘できたし自分も大変なはずなのに心配してもらってしまったし、なにより水に濡れて透けたシャツ姿の後輩を拝めるなんて。今日は最高にツイテいる、と数時間前とは正反対のことを彼は胸中で叫びまくった。

 屋内に戻り、そういえば、と濡れてしまった服を脱いで持って来ていたTシャツに着替えた社員が声を上げる。今季は毎日フル稼働の扇風機が彼らの髪を揺らしていた。

「そういや結局どっちが勝ったんだ?」

「あぁ、こちらの勝ちですよ。恐れ入ります」

「うーん、残念。またやろうよ。今度は負けないからさ」

「検討しましょう」

早くも次回を楽しみにしている社員たちを横目に、彼とその同僚たちは言葉を交わす。

「随分楽しそうだったじゃん?」

「せやなー。すーっとニヤニヤしとったやんなぁ」

「っせーよ、お前らだって燥ぎまくってたくせにひとのこと言えねーだろ」

備え付けの冷凍冷蔵庫から引っ張り出してきたアイスキャンディーを齧りながら彼は眉を顰める。

「いーや。絶対一番楽しんでたね。恋してたね」

ニヤリと笑う同僚に殺意が湧く。

「こっ、恋とかおま、ばっかじゃねーの!俺が恋とか!笑えねーよ!誰にするってんだよ!」

捲し立てる彼をやはりニヤニヤとした目で見て、その同僚はアイスキャンディーをいつもの三人で談笑している後輩の方に向けた。

「言うねー。でもお前あすこの三人にアイス渡しに行った時すっげぇ気合入ってたよねー。俺が渡してくる!とか言ったのどこの誰だっけー?」

「せやなぁ。んで、なんや偉そーにコレやるよ、なーんて言っとったやんなぁ!」

「キザってヤツだったよねー」

「ウザっの間違いやわー」

無礼にも数分前のひとのことをゲラゲラ笑う同僚の脇腹を小突いてやる。非難の声が上がるが、知ったことではない。

「ちょ、痛いよ! 何すんの!」

「うっせぇ髭。ハゲろ」

涙目で言われたって、可愛いなんてこれっぽっちも思わない。眉間の皺は深くなる一方だ。同僚はそんな彼を見てようやく呼吸を整え始める。涙を拭って、口を開く。

「ひー、ふふ。あー、笑った笑った」

ちなみに関西弁を操る同僚の方はまだ腹を抱えて笑い転げている。同僚同士でしていた先程の会話に加えて、彼と同僚のやりとりもツボに入ってしまっているようだ。これはしばらく治まらないだろうなと彼は思った。

「でもさ、じゃあなんでお前さっき態々アイス届けに行ったの? いつもは行かないくせにさ」

「…偶々、そんな気分だっただけだ」

「ふぅん? 偶々そんな気分だった、ねぇ…」

「あ、あぁ」

「素直じゃねーの。後輩ちゃんに会いに行ったってはっきり言えばいいのに。実際そうなんだろ? 色恋沙汰でお兄さんに敵うと思うなよ?片思い社会人。さっさとくっつけよ」

入社式で一目惚れして、それから姿を目で追っていて、時折見せる顔がかわいいと思う自分がいることは数時間前にこの同僚のおかげで自覚済みだ。だから。だからと言って。

「………お前ソレ、告れってか?」

「うん。告っちゃえばいいじゃん」

あっさりと言い放つ同僚に彼は今日何度目かも知れない溜め息を吐く。

「アホか。バカか。ねーよ」

さすがにそれは、と首を振ってみせる。

「そりゃあな? 俺、あいつに一目惚れしてるみてーだし?すっげぇ、触りてぇなとか撫でてぇなとか話してぇなとか思うぜ?あわよくば、とかも思ったりしたぜ?」

「自覚してからの思考回路すごい肉食系だな」

「でもよ、それって全部相手の同意がいるレベルだろ?」

「そうだな。どんくらいやるかにもよると思うけど」

「あいつを俺の好きにしたいんだよ察せよ馬鹿」

「肉食系過ぎてヤバいな。飢えてんのお前? てかさり気なく罵倒してくなよ」

「普通に考えて、だ。同性に告られて頷くやつなんているか? そうそういねーよ。絶対フラれんのがオチだ。しかも相手は世に言うイケメンってヤツだ。まぁ俺よりイケメンなやつはいないだろうけどな。付き合ってる女がいるに決まってる。それでもお前告れって言うのか?」

「スルーかよ。あとお兄さん綺麗なひとなら大体イケるよ」

「お前を基準にすんな」

すると、木の棒だけになったアイスキャンディーを片手に同僚は、それこそキザに片目を閉じて指を振って言う。

「見たところ恋愛は初心者っぽいし、付き合ってるひとはいないんじゃないかなぁ。もし仮に女友達がいたとして、その子が片思いしてても本人は全然気付かないだろうね。言ったり、言われなきゃ気付かないタイプだと思うよ。だったら先手打った方が有利だよ! 同性だろうが異性だろうが真面目に考えて答え出してくれるだろうしさ。何よりあんな良物件なかなかないからね。競争率は高いだろうなー…」

そこで、がたりと音がする。突然立ち上がった彼を見て、同僚は笑みを深くする。そんな同僚の表情の変化にも気付かず、彼はツカツカと踵を鳴らして後輩に近付いていく。そして不思議そうに彼を見る三人の前で止まって真っ直ぐに目当ての後輩を見つめた。

「きょ、今日、」

声が震えている。後輩以外の二人は何かを察したらしく、穏やかに黙っていてくれている。

「あのさ、帰りにちょっと、付き合ってくんねぇ?」

それだけ吐き出して、彼は自分のデスクへ踵を返していく。まだ返事を聞いていないのに。

「おかえりー」

至極にこやかに彼を迎えた同僚はツヤツヤとしている。しかし彼はそのままデスクに勢いよく突っ伏して、あーだのうーだの唸っている。耳が赤い。単に暑さの所為と言うわけではないのだろう。

「上手くいきそう?」

同僚が問うと、彼は突っ伏したまま答えた。

「わかんね……。でも、言うだけ言ってみようとは思う」

「いいんじゃないのー? 言わずに終わるより言って終わった方がいいと思うし」

「終わるとか言うなよ!」

再びぎゃあぎゃあと騒ぎ始めた彼らの方を見ながら、あの三人が何やら話し込んでいたことに、彼らはもちろん気付いていない。

 彼らが童心に返って駆け回っていた駐車場には、大きな水槽やバケツが並べて乾かしてある。どこからか持ち出された物干し竿にはワイシャツがかけられている。昼はとっくに回っているはずなのに、まだ日は高い位置にある。

 今時珍しい古風なレコードのかかる喫茶店。大通りから一、二本路地を入ったところにあるその店は知る人ぞ知る憩いの場だ。黄昏の路地裏にぽつりと浮かび上がる看板の前に、人影が二つ。

 少し暗めの照明と素朴なデザインの家具が落ち着いた雰囲気を作っている。小洒落た店だと思った。からんからんと鳴る鐘の音もどこか懐かしく心地良い。その店の、一番奥。テーブルになっている席に向かい合って座る。続く沈黙に、自然と顔が強張ってしまう。何か、何か話さなければ。

「あ、あの、」

被る声に、互いの目が丸くなる。なんてタイミング。再びの沈黙。

「あ、のさ…、」

暫くして零された声は、ひとつ。

「聴いて欲しいことがあるんだけどよ、」

慎重に、言葉を選ぶように紡いでいく声は微かに震えている。とうとう彼は一歩を踏み出した。

 相手は私語も何も挟まずに彼の話を聴き終えた。その双眸は真っ直ぐに彼を捉えている。

「……その話は、本気か?」

漸く返された言葉に、彼は頷く。

「、あぁ。本気だ」

声が、掠れた。

「そうか……少し、時間をくれないか」

「もちろん、構わないぜ」

ありがとう、と告げて相手は顔を伏せてしまう。

 悪い雰囲気ではなかったのだが、あの後は特に会話もせずに別れた。彼は自宅のベッドに倒れ込み目を瞑る。今日は色々なことがありすぎた。あの反応を見る限り、返事も期待できないだろう。

 恋をしている、というのは前々から薄らと気付いていた。ただ、それが本当に恋なのかどうか判りかねていたのだ。勘違いもか知れないと、思うところあったのだ。しかし今日のあの同僚のおかげで判ってしまった。はっきりしてしまった。アイスキャンディーに舌鼓を打っていた時は馬鹿じゃないのか、なんて言ってしまったが、これは本物だ。それも、相手といつも仲良くしている二人に嫉妬を覚える程度の。よく今まで確信してこなかったものだと、改めて思う。

 それに、喫茶店でのあの醜態。自分はもっとクール且つスマートにああいう言葉を吐ける男だと思っていたのに。今になって気の利いた言葉が頭に浮かんでくる。あれではまるで初心な男子学生のようではないか。思い出すだけで顔に熱が集まる。少し早まってしまっただろうか。告白できたことに後悔はしていないが、もっと落ち着いてから行動すればよかったと思う。

「…なんか、格好悪いぜー……」

じっとりとした夜はひどく寝苦しかった。

 彼はまだ知らない。あの後輩が、あの時は突然のこと過ぎて呆然としていたことを。自宅に帰って彼の言葉をようやく咀嚼し嚥下した時に顔を真っ赤にしていたことを。

 彼はまだ知らない。睡眠を取らずに考えた結果、あの後輩がどんな答えを選んだのか。

 後輩が彼に返事を返したのは、あれから一週間ほど経った頃だった。一週間前と同じ喫茶店に呼び出された彼は一週間前と同じように向かい合って座っている。

「その、この間の答え、なんだが、」

視線が合わない。歯切れの悪い言葉に、胸が騒めく。

「…おう、」

祈るような気持ち。答えを聞きたいような、聞きたくないような。しかし耳を塞ぐわけにもいかず、彼は静かに相手の話に耳を傾ける。

 肯定されるとは思っていなかった彼に、相手の言葉が突き刺さる。嘘のような言葉。夢のような現実。彼は呆けた顔を見せて、え、と漏らす。

「ほ、ほんとか、それ、」

「あぁ、」

照れくさそうに笑う、その愛らしいこと。彼は歓喜する。

 ここから始まるのだと、彼は隣で眠っている恋人の髪をさらりと撫でる。くすぐったいのか、もぞりと動く身体にキスを降らせていく。自分のものだという証を付けながら。

「あいしてる、」

囁いた声音は、これ以上ないくらいしあわせだと語っていた。

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