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元ネタ:ARIA -Navigation 17 逃げ水-

GF音撃さん周辺捏造、CP要素薄(もはや足し算)。意外に長引いてビックリした。

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 ジィジィと蝉が鳴いている。

 窓を全開にしても茹だるような暑さの室内に人影は無い。否。少しだけ視線を巡らせると、陰になっているところに大きなものがひとつと、小さいものがふたつあった。

 今日も今日とて仲良く寄り添っている猫たちは、いわゆる毛玉であるが――暑くないのだろうかとふと思った。電気代の節約で、冷房を点けずに筆記用具を広げていたスタースクリームは日陰で寝そべっている猫たちに眼を向けた。青味がかった黒い毛玉と、黒と橙の斑の毛玉である。暑さで死んでいるように見えるが、腹の辺りが上下しているから、しっかり生きていることが判る。

 さして埋められておらず、白い部分が多く残っているルーズリーフの上にシャープペンシルを転がして、猫たちに近付く。

 スタースクリームが日陰に入った丁度その時、さや、と風が吹いた。思わず目が細まる。室内ならどこも大して変わらないと思っていたが、なるほど、まだマシな場所はあったらしい。世界がやや翳ったおかげか、細やかなりとも涼をもたらしてくれた風のおかげか、二匹の傍に腰を下ろすと、ツラと眠気が顔を出した。そよ風はまだ吹いていてカーテンを揺らしている。どうせ今日は何の予定も無い。ずるずる溶けるように身体を横たえながらスタースクリームは目蓋を閉じていく。あぁそういえば――机の上の筆記用具を片付けていないな、と世界が閉じる直前に思った。

 家の外では決して見せないだろう溶けた姿で眠っていたスタースクリームが目を覚ますと、眠る前よりも部屋の中は暑くなっていた。蝉の鳴き声が暑苦しさを煽って仕方がない。当然だが太陽は動いていて、日陰だった場所は、日に照らされてジットリ熱を帯びている。のっそり起き上がると、傍に見慣れた毛玉ふたつが居た。日光を遮る人間の身体で出来た、動く距離がより少ない場所に落ちた陰を利用したらしい。

 時計を見ると針は二時に近い時間を指していた。暑いわけだと溜め息を吐いて、水分を取りに立ち上がる。ぎし、と軋んだ床の音に猫の耳がぴくりと動き、頭部が持ち上がった。

 冷蔵庫からペットボトルを取り出して喉を潤す。ついでにと、皿に水と少しの氷を入れて猫の前に出してやる。

 こう暑くては何にも手を付ける気がしない。広げたままになっている筆記用具を片付けながら、そこで、スタースクリームはルーズリーフやシャープペンの芯の残りが心許無いことに気付く。面倒だとは思いつつ、どうせこのまま家に居ても特に何をする予定――というよりも気力――があるでなし。外に出ることにする。

 窓をどうしておくべきか迷い、結局盗まれて困るようなものは手の届く場所には置いてないのだしとそのまま開けておくことにした。財布とケータイの、必要最低限の貴重品を持って玄関に向かう。

 ガチャンと鍵の開く音がすると、部屋の奥から水を飲んでいた猫たちがトテトテ出てきた。二匹は大学がある時と変わらず、するりとスタースクリームの足元を抜けて外に出て行く。スタースクリームもスタースクリームで慣れたように二匹が外に出てから扉を閉めて鍵をかける。外の暑さは、室内よりかはマシな暑さに思えた。

 アパートの古い階段を下りて、最寄りの文房具屋に向かおうとした時、常ならばさっさと好きなところへ行く猫たちが少し離れた場所で、スタースクリームを待つように立ち止まっているのが見えた。

 ジッと視線が逸らされないので近付いてみれば、それを待っていたかのように背を向けて歩き出した。立ち止まる気配は無く、けれどスタースクリームが速度を落として少し距離が出来ると、前方の猫が付いてきているのを確認するかのようにチラと振り返る。誘われている、と――後から思えば夏の暑さにやられた馬鹿馬鹿しい考えだとしか言いようがないが――思った。暑さに浮かぶ逃げ水のように前を往く猫二匹の背をスタースクリームは追う。

 猫二匹と共にアパートを離れていくスタースクリームの姿を、その後輩が偶然にも目撃していたことは、また別の話である。

 時折背後を振り返られ、ちゃんと付いてきているか確認されながら歩くこと数分。スタースクリームは見慣れた道から見慣れない細い道――俗に言う路地裏に入り込んでいた。こんな道があったのか、と周囲に視線を巡らせながら思う。街の探索などあまりしない方だが、いつも歩いている道の近くにこんな風景があるとは思いもよらなかった。迷いのない足取りで前を歩く小さな背に少しだけ感心する。そして、そのまま、振り返りはしても立ち止まる気配のない案内猫――どこに案内しようというのか、そもそも案内しているのか知らないが――についていく。

 狭まった道の両側には、少なくはない数の扉や窓があった。個人経営らしい店や、その看板とも、幾つもすれ違う。店名を表しているのだろう看板には、Firstだとか、Primeだとかと書いてあった。しかし不思議と道に面した窓から室内を見遣っても人影は見えない。生活感というか、人の気配は色濃く見えるのに――その姿だけが見えていないような印象を受けた。

 そして、猫たちはある店の扉の前で立ち止まる。扉の側に立っている看板にはAncientと書かれていた。

 扉にはめ込まれた硝子を通して店内が見える。カウンターと座席。カウンターの奥の棚には硝子瓶や大小様々な缶、食器のように見えるものが置かれている。この店も喫茶店だろうか。

 そんなことを考えながら、スタースクリームが数分にも満たない時間、扉の前で佇んでいると、不意にカランコロンとドアベルが鳴って扉が開かれた。足元でゆったり尾を揺らしていた猫たちが開いた扉の隙間から店の中に滑り込んでいく。

 対して、ドアベルの音に茫洋と漂っていた思考を引き戻されたスタースクリームは、目の前に扉を開けたはずの人影が無いことに刹那身構えた。けれどすぐに足元で猫の鳴く声がして、釣られるように視線を下方に向ければ、謎はあっさりと蒸発した。片手で開けた扉を押さえ、片手で折った膝をよじ登って来た猫二匹を抱えた店員が居た。白いシャツに黒いスラックス。その上にエプロンを着ているから、おそらく店員だろう。その店員が、猫を抱えて立ち上がり、まだ店の出入り口で突っ立っているスタースクリームと向かい合う。その顔は偏光サングラスのようなバイザーに上半分ほどが隠されていた。接客業でその見てくれは大丈夫なのか、と思ったが――店員がカクリと小さく首を傾け、扉を開けたまま正面の身体をズラしたので、ひとまず思考を切り上げてスタースクリームは店の中に足を踏み入れた。

 店内は冷房が利いていて、思わずほうと一息吐く。店員はカウンターの上に猫を下ろして、さっさとその向こう側に引っ込んでいった。それから猫たちの前に牛乳の注がれた皿を出す。カウンターの上をうろつくこともなく、行儀よくしていた猫たちは出された牛乳をごく自然に飲み始めた。

 その傍の椅子に腰を下ろしてスタースクリームはグラスを拭いている店員にアイスティーを注文する。店員は注文を聞くと、客に一瞥も一言の返事も寄越さずにアイスティーの用意をし始めた。風貌と言い対応と言い――本当に大丈夫なのか。

「おや。お客さんとは、珍しい」

スタースクリームが初めてきた店に何度目かの妙な危機感を覚えていると聞き覚えのある声が聞こえた。

 声のした方を振り返る。そこには、やはり見覚えのある人物が、カップとソーサーを持ちながら奥の座席から移動してきていた。

 店奥の、角の辺りの座席からやって来た先客はカウンターに近付いてから、そこに座っている人物が誰であるか気付いたようだった。

「スター、スクリーム……いや、こんなところで会うとは」

「……それはこちらのセリフだ、ベクタープライム」

スタースクリームを見て至極意外そうな顔をした先客はベクタープライムだった。

 アパートサイバトロンの近所に、小学生くらいの子供四人と共に住んでいる男と、猫を追って来た先で顔を合わせることになるとは、もちろんスタースクリームも予想外である。けれどサイバトロンに住まっているヤツらと出くわすよりかはマシか、と思った。

 ベクタープライムが隣の椅子に腰を下ろすのとほぼ同じタイミングでアイスティーが出された。その隣に、小振りな硝子製の水差しに入れられた牛乳とシロップ、小さな陶器の壺に入れられた砂糖が置かれる。例によって店員は無言である。

 まずは何も入れないでグラスに口を付ける。傾けられたグラスの中でカランと氷が鳴った。飲食物に然したる拘りなぞは無いが、それでも美味しい、とアイスティーを一口飲んで思った。けれどそのままの苦さでは少し、とスタースクリームはシロップの入った硝子の水差しに手を伸ばした。

「ところで、何故ここに?」

シロップを注ぎ、水差しを戻したところで店員がグラスにマドラーを寄越す。それを使ってアイスティーとシロップを混ぜているスタースクリームに、ベクタープライムが疑問を口にした。

「俺、は、そこの二匹を追って――」

「ほう? そうなのか?」

僅かに目を丸くしてベクタープライムが牛乳を平らげてカウンターの上でゴロゴロしている猫たちに訊く。猫たちはそれぞれ鳴き声を上げて、その問いに答えた。それが肯定を意味しているのか否定を意味しているのか、スタースクリームは判らなかったけれど、ベクタープライムが、そうなのか、と頷いたから、おそらく肯定を意味していたのだろう。彼が適当な返事をしているという風には、何故か見えなかった。

「……この店には、よく来るのか」

今度はスタースクリームがベクタープライムに訊いた。

「え? あ、あぁ……まあ、そうだな。頻繁ではないが、時々」

「ここに着くまで、他にも幾つか店を見た。あれらにも行ったことはあるのか?」

「たまに、な。ここほどじゃないが、それなりに顔を出す。特に今の時間帯はランチを出しているところが多いしな」

他の店の営業時間も、この店とあまり変わりないということだろうか。つまり、今も営業している、と。だが、それにしては。

「……窓から中を見たが、人の姿は見られなかったのだが?」

「それは……そうだ、たぶん、光の加減とか、陰の具合でそう見えたんじゃないか?」

「……」

空になったカップを店員に渡しながら困ったような笑みを浮かべる。空のカップを受け取った店員は無言でおかわりを淹れて客にカップを返した。アイスのカフェラテらしい。受け取ったカフェラテを一口飲んで、カップをソーサーに置く。

 どうにも胡散臭い答えを寄越したベクタープライムに、これ以上追究してもぎこちなく躱されるだけだろうと思ったスタースクリームは質問を変えた。

「……この猫たちは、よくここに来ているのか? 路地で迷うことなくここまで歩いて来ていたが」

「あー……そうだな…………猫たちに追いつけなかっただろう?」

ベクタープライムが不思議なことを言った。

 けれど、言われて、そういえば、と思った。不思議とスタースクリームが猫たちに追いつけた瞬間は無かった。いくら初めて歩く道だとしても、猫たちが立ち止まらなかったとしても、平均より少し高い身長を持つ成人男性が猫の歩に追いつけないなど、常ではあり得ない。追いつくと思っても追いつけない。一定の距離を保って前を往く。そんなものを、似たようなものを、自分は知っている。

 スタースクリームの脳裏に、ある蜃気楼の名前が浮かんだ。

「――逃げ、水、」

思わず、頭の中に浮かんだ名前が、小さな音になって零れ落ちる。

 瞬間、この空間すべてが一気に遠くなったような気がした。カウンターの上で思い思いにダレている猫たちも、それを当たり前のように受け入れている無愛想な店員も、隣の椅子に座っている顔見知りのはずの先客も、すべてが遠くなったような――。

 知らず、呼吸を止めていたスタースクリームの意識を引き戻したのは、力強い羽音だった。

 店員の肩に黒と黄色の羽毛を持つ鳥が留まっている。その鳥は、銜えていた紙袋を店員に渡して、スタースクリームの方を覗き込むように見ていた。愛玩用の鳥ではあり得ない大きさの鳥である。鋭い眼が、成人したとは言え、まだ若い学生を捉えている。店員はと言えば、我関せずというように紙袋の中から領収書を取り出して眺めていた。

 カツ、と硬質な音を立てて鳥が店員の肩からカウンターの上に降りて来る。

「追いつクはずの無いモノに追いツイてシマったら、ドウなるんだろうねェ、坊や?」

「っ!?」

そして、ごく自然に口をきいたものだから、スタースクリームの肩は小さく跳ねた。飼い主だろう、店員の方へ眼を遣ると、領収書を眺めている店員の背後の壁に掛けられている時計が目に入った。その針は二時丁度を指していて、思わず注視してしまう。時間の流れが、どう考えても、おかしい。

「あぁ――そうだな。今が一番暑い時間帯だな」

時計を見ているスタースクリームに気付いたベクタープライムがなんでもないことのように言う。否、そんなことよりも、喋る鳥に動じていない。のんびりカフェラテを楽しんでいる。

「坊やはココに何をしに来タンだ?」

「――俺は、ただ、ルーズリーフとシャープペンの芯を買おうと、」

鳥が、どう見ても人語を喋ることの出来る種類には見えない鳥が人間臭く目を細めて、鳥類らしく首を傾けながら訊く。その声に時計から視線を戻したスタースクリームは平静を装って答える。いよいよおかしい、と思っていると、ガサガサと紙袋を漁っていた店員が、枯色の袋の中からルーズリーフの束とシャープペンの芯が入った小さなケースを取り出して、スタースクリームの前に置いた。

「なラ、ソレを持っテそろそろ帰ッた方がイイな」

カウンターの端でじゃれ合っていた猫たちが普段世話になっている学生の腕の近くで鳴く。

「ココは坊やタチが踏み入ルニハおすすめ出来なイ場所」

鳥が朗々と宣う。椅子を伝って床に下りた二匹がスタースクリームを見上げてもう一度鳴いた。

「坊やたちが、気付イテはいけナい、追いつイテはいけナい場所」

席を立てば急かすように二匹が足を押し、身体は自然と店の扉へ向かっていた。足に当たる猫の毛は、慣れ親しんだやわらかさである。

 カランコロンとドアベルが鳴って喫茶店の扉が開く。二匹に押されるそのままに外へ出れば、ジワリとした夏の暑さが戻って来た。店内を振り返ると、結局最後まで表情を変えることのなかった店員と、穏やかな表情でこちらに手を振っている先客の姿が見えた。

 扉が閉まり、来た時と同じように猫の先導で路地裏を歩く。流れていく景色の中、立ち並んでいる喫茶店の店内を覗くことはしなかったけれど、どの店からも賑やかな音が聞こえてきた。笑い声だけでなく怒声や何かが割れる音まで、どこからか聞こえてきて――喫茶店と言うより酒場のイメージに近いな、と思った瞬間も。

 そしていつの間にか道は拓け、周囲の景色は見慣れたものになっていた。

 いつもの歩き慣れた道に戻ってきている。蝉の鳴き声や車の走行音。子供の笑い声やはしゃぎ声が聞こえる。炎天下でルーズリーフの束とシャープペンの芯のケースを手に、数十秒の間、スタースクリームはその場に立っていた。足元には、ただ座っている姿も優雅な黒い猫と、寄り添うように黒の周囲を往ったり来たりしている黒と橙の斑の猫。

「……帰るか」

二匹を見下ろして一言零すと、猫たちは顔をスタースクリームの方に向けて、それからゆらりと尾を揺らしながら――おそらくアパートに向かってだろう――歩き始めた。

 その後ろを歩きながらスタースクリームはあの喫茶店のことを思い出していた。繁盛しているのかどうか知らないが、店の雰囲気は悪くなかったし、味も、良かった。どうもただの喫茶店ではないようだったが――代金を払った記憶が無いし――機会があればまた行きたいと、柄にもなく思った。茹だるような暑さの中で、口元が緩やかに弧を描く。

 そんな、ある夏の日の、白昼の話。

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