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 外を歩きたい、と言ったのは自ら目を潰した男だった。派手に刻まれた傷の手当てを請け負っていた北斗の次兄は驚いた顔をして、それから微苦笑を浮かべて訊いた。

「私は構いませんが……大丈夫ですか?」

療養のためにと宛がわれた部屋に設けられた窓の傍らに立ち、時折吹き込む穏やかな風に髪を遊ばせる男は声のした方へ顔を向けて頷く。中の水を換え、新しい水の入った桶を抱えていた次兄は寝台の脇の机上にそれを置いた。そろそろ傷は落ち着いてきているが、まだ安静にしていて欲しいというのが本音だった。

「駄目だろうか」

が、しかし、日を跨がずとも数時間居れば見飽きてしまう殺風景な部屋から出ては駄目かと訊かれて、駄目だと答えられるほど、彼は割り切れる人間ではなかった。

 男の手を引いて森の近くまで広がる草原を歩く。大丈夫だと言う男に、手を繋がないなら屋内で我慢してもらう、と要求を突き付けて得た温もりである。昔は兄に手を引かれていた自分が、と不思議な気分だった。それも、年上の手を引いているのだから尚更だった。

 小石や木の枝、根に足を取られながらも失明したとは思わせない足取りで隣を歩く男に、内心感嘆する。思っていた以上の人物だ、と。

「――トキ? トキ、」

漠然と、そんなことを考えていると自分の名を呼ぶ声が意識を引き戻してくれた。

「あ――ハイ? えぇと、どうかしました?」

「いや。いきなり黙り込んでしまったから」

「すいません。少し、考え事をしていて」

「この後、何か予定が?」

白い布で覆われたその目を見ることはできないけれど、困ったような表情を浮かべていることは手に取るように判った。まさか、と次兄は首を横に振る。

「特にありませんよ。あるとしたら、あなたの傍にいることくらいです」

「私みたいなのと一緒にいるよりも兄弟たちと一緒の方が良いんじゃないか?」

冗談めかした声音の中に忍ばせた本気に男は気付かなかったらしい。クスクスと肩を震わせながら男が言った。

 ほんの少しの寂しさを覚えながらも足を進めていた次兄はふと視界に入った樹を見止めた。ユル、と繋いでいる手を揺らして注意を自分へ向けさせてから提案する。

「あそこに樹がある……あそこで少し休憩しましょう」

だいぶ日が高くなってきた時分である。頭上から降り注ぐ陽光を、繋いでいない方の手を翳すことで遮りながら樹までの距離を測る。周囲には気になるようなものも、他者の気配もない。行こう、と声をかけて歩き出す。背後で相変わらず穏やかな声が、身を委ねる意を示してくれた。

 サクサクと、茂った草を踏みながら少しの距離を歩く。もちろん、その間も繋いだ手は離れていない。サヤ、とすり抜けていく風は無邪気に駆け回る子供たちを思わせた。

 静かに佇む樹の幹はそれなりの太さがある。木陰に入れば、風で擦れ合う枝葉の騒めきがより近くなった。着いたことを知らせる次兄の声に、男は繋いでいない方の手を前に伸ばして樹の幹に触れる。なるほど、と確認の声。そうして、顔を見合わせて、ふたりは樹の根元に腰を下ろした。自然と表情が緩んでいく。

 特に何を話すわけでもなく、ポツポツと独り言のような会話と共に時間が流れて行っていた。そこへ、来客がひとり。

「あの――」

おず、とかけられた声に、おや、とふたりが顔を上げる。声の主は、その身に未だ幼さを残す北斗の四男だった。次兄が微笑んで手招きすると、恐る恐るという風にふたりに近付いてきた。

「あの、先日は、」

一歩一歩を踏み締めるように、ゆっくりとふたり――男の目の前まで来た四男は泣きそうな表情を浮かべて切り出した。

「あぁ、ケンシロウか」

切り出したのだが、言い終える前に男に遮られた。スイ、と両手を広げて、おいでと誘う。不意に離れていった温もりを、思わず視線で追った次兄には誰も気付かない。遠慮がちにだが手の届く距離まで歩み寄った四男を、男はフワリと抱きしめる。ピシリと北斗兄弟の身体が――それぞれ違う意味で――固まった。

 変なところで他者の機微に疎いらしい男は腕の中に収めた四男の背中をポスポスと優しく叩いてから彼を開放した。仄かに頬を染めた四男は呆けたように立ち尽くしている。

「そうだ。時間があるなら此処で一息ついていくと良い」

なぁ、と同意を求められた次兄はほぼ反射的に、あぁ、と答えた。ふたりきりに越したことはないが――可愛い四男と愛しい白鷺と一緒に過ごせるなら、それもまたアリだろうと思った節もある。が、ハイ、と元気よく答えた四男を抱え込むように座らせているのには思わず頭を抱えたのだった。まるで、休日の公園で憩う親子のようである。らしいと言えばらしい行動であるし――男のそんなところに惹かれた次兄だった。

「よかったな、ケンシロウ」

誰よりも強く優しくなるだろう可能性を秘めた四男の頭を、優しく撫でてやると、実に嬉しそうな返事が聞こえた。つられて次兄の口角も上がる。

 燦々と照らす陽は樹が広げた枝葉に遮られ、熱と光を幾分か落ち着かせて木陰で憩う者たちに届く。チィチィと小鳥の囀る声や大空を舞う猛禽の歌う声、山を駆け回る動物たちの声が風に運ばれてやってくる。

 フワフワとした陽気に、三人はうつらうつらと睡魔に襲われていた。四男なんかは、既にその背を男に預けて眠りこけてしまっている。

「……肩、使ってもいいですよ?」

「ん……あぁ、すまない……」

頭部をゆっくり揺らしている男に次兄が囁くと、今にも陽だまりの中へ溶けていってしまいそうな声が応えた。次いで、フッと肩にかかる重み。素直に肩を借りてくれたらしい。これで完全に目蓋が落ちるだろう――と思ったところで、拓けた草原の向こうから近付いてくる黒い影が見えた。

 遠く離れていてもこれほどヒシヒシと伝わってくる威圧感を持つ者を、北斗の次兄は一人しか知らない。

「――にいさん、」

さして時間をかけずに目の前までやってきた北斗の長兄を見上げて、次兄は思わず、と言うように言葉を零した。先程まで戯れていた睡魔は何処かへ身を隠してしまっている。己の肩に頭部を預けている男と、男に背を預けて寝息を立てている四男を無言で見下ろす長男に、その弟はほぼ無意識に身体を強張らせる。鋭い眼光をもって対象を見詰める様は正しく捕食者だった。厳しい眼差しで次兄を見、その横の男に視線を移し、最後に四男を捉えた男はムスッと引き結んでいた口を開く。腹の底を探るような声に喉が上下する。鼓膜を震わせたその声は、敬愛する兄のものだとしても、あまり好きにはなれないものだった。

「何を――している」

「え、と、シュウのリハビリを、少し」

悪いことをしているわけでは無いのに咎められているような気がして――次兄の声はやや小さくなる。だが、このあたたかな空間を壊してしまいたくは、なかった。

 なるたけ穏便に、迅速に、事を済ませたいと思っていると、長兄の大きな手が、ヌッと伸びた。何を、と次兄の双眸が丸くなる。隣の男と四男に影がかかる、丁度その時。

「兄さんでも、それはダメです」

いつになく真剣な眼をして次兄が静かに言った。おまえ、と長兄が眉を寄せ、伸ばしていた手を止める。

「ふふ……ラオウ、時間があるなら、ゆっくりしていくか?」

北斗の長兄と次兄がジッと視線を合わせている時、その雰囲気に似合わない声が、当の次兄の肩に頭を乗せている男の唇から発せられた。クスクスと小さく肩が揺れている。おそらく、最初から事の成り行きを耳で追っていたのだろう。頭を少し動かして、白い布の下、見えぬ目で北斗の長兄を見上げるように小首を動かしてみせる。その手はポスポスと己の横の地面を叩いている。此処に腰を下ろせ、と言っているのである。手を下ろした長兄は、む、と思案する。心なしか、視界に入った次兄の眼がいつになく鋭い。だが、フワフワと毒気を抜くような微笑を浮かべて、北斗に囲まれている南斗を前にして、興味が湧かないわけがなく――。

「――」

手に誘われるまま、ストンと腰を落とした長兄に、次兄は息を呑む。相変わらずヘの字に結んだ唇や眉間に寄った皺を隠しもしない仏頂面。ただ、纏う空気は幾分かやわらかく。

「あなた……一体何者なんですか……」

「ふふ? 私は南斗白鷺拳伝承者、それだけだが?」

瞑想するように目蓋を閉じた長兄を一瞥した次兄から切り出し、コソコソと囁き合うふたりであった。

 枝葉を伸ばした樹の下で、四つの人影が仲睦まじく昼寝をしている。ふたつは互いにもたれ合うように。ひとつは背筋を伸ばして、安穏とした空気を享受するように。ちいさなひとつは、もたれ合うふたつのひとつに背を預けている。至極のんびりとしたその風景は彼らが身を置く世界では滅多に見ることのできないもの。彼らの普段を知る者が目にしたら間違いなく目を剝くだろう、風景。人気のない場所であったが――偶然その場を通りかかってしまった者が、いた。

 彼は特に意味もなくブラついているだけだった。途中で手に入れた果物を腕に抱え、ひとつを齧りながら人気から離れるように歩いていた。歩いていて、辿り着いた風景が、兄と弟と、南斗の拳士が仲良く昼寝をしているものだった彼は、思わずポカンと呆けた顔をしてしまった。随分小さくなっていたが――食べかけの果物がその手から転がり落ちた。落としたそれを別段気に掛けることもなく、彼は自分の目を疑い、恐る恐る木陰に近寄る。だが、近寄ったところで目の前のそれが変わるわけでもなく――。

「こいつ、は、確か……」

己の兄の隣、己の弟を抱えるようにして腰を下ろしている男に、彼――北斗の三男は覚えがあった。今まさに抱えている弟のために自分で目を潰したとかいう、変わり者。清潔そうな白布で目元を覆っているが、覆われていない肌にまで痛々しい傷跡が伸びている。腰を落としていた三男は眉を顰める。出会って間もない他者のために自分の両目をくれてやるなど、簡単に出来ることではない。

 ハァ、と溜め息をひとつ吐いて、三男は抱えていた果物を供え物のように四人の前に置く。小憎たらしい弟の分を置いたのは、ただの気紛れである。パッパと手を太腿を叩いて払う。シレっと加わってもいいかと思ったが――兄たち、特に、長兄が後で怖い。長居は得策じゃないと判断した三男は立ち上がり、再度歩き出す。腕にかかる重みが、幾分か減っている。樹から離れていく足取りも、心なしか軽くなっているように見えた。

 三男の背中が見えなくなってから、目蓋を閉じたまま北斗の長兄と次兄は口を開く。

「ジャギも、腰を下ろしていけばよかったのに」

「腰を下ろして――それに興味を示したら威嚇するのだろう?」

おれにしたように、と長兄は片目を開いてチラと視線を遣る。

「先程もそれとなく窺っておったくせに」

「ふふ。バレてた」

「まったくお前ともあろう者が……」

「でも兄さんだって――ひとのことは言えないでしょう?」

スッと開かれた次兄の片目には長兄が映っている。悪戯っぽく細められた弟の目から、兄はフンと一つ鼻を鳴らして視線を逸らした。

 男に背を預けていた四男が、むずがるように身体を動かす。ごく自然に男の腕が動いて、四男の髪を撫でる。自分を挟んで交わされていた兄弟の会話の、その中心が――まだ幼さを残す四男だと思っているのか――己だとは気付いていないらしい。そういう人物であると、わかってはいるが、時々その鈍感さに恐ろしさを感じる。

 人気のない草原に佇む一本の樹。その根元に腰を下ろす四つの人影と、穏やかな呼吸音。吹き抜けていく風を心地よさげに見送って、小鳥は囀りながら羽を広げる。滅多に訪れない平穏を享受する者たちの表情は、やはり穏やかなもの。この数分後には賑やかな羽搏きを伴ってまた新たな人影が幾つか現れ、この静かな平穏とはまた違った平穏が訪れるのだが――それはまた、別の話。

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