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「――壁を、」

築くのだと言った、その双眸は静かに凪いでいた。

 そうして一つは二つに分かれた。ようやく一つになったと思った矢先にこれだ。聳える灰色の壁を見て、青年は白い息を吐き出した。“東側”はひどく寒いところだった。一面の白、白、白。そして、時々赤い。ぱち、と視界の端で火が爆ぜた。ゆらゆらと揺らめく暖炉の炎は、白い大地に時折落ちる赤とは違い美しかった。じっと見詰めていれば、それこそ引き込まれそうなほど。

「……」

ばさり、と背後からやや乱雑に毛布をかけられて、また暖炉に気をとられていたらしいと気付く。相変わらずきっちりと軍服を着込んだ青年が横を通り過ぎていくのを見て、毛布を掴んだ青年は再度暖炉に向き直る。懲りていないわけではない。ただ、少しだけ気になることがあった。だからこうするのだ、と心中で誰にともなく言い訳をする青年を、やはり先程の青年は見てはいなかった。窓の外の太陽は、傾き始めている。

 あの大戦を経て、一つだった国は二つの国となった。否、二つに分けられた。三つの国に支配された“西”と、北の大国に支配された“東”と。西は資本主義をとり、比較的順調に回復していった。東は、社会主義をとった。しかし、今重要なのは、其処では無い。問題は、今青年と同じ部屋で黙々と仕事をこなしている青年だ。西には弟がいる(いや、弟が西なのだ)(、と言った方が良い)。東には、自分がいる(もう国では無い筈だが、)(消えていないのだから)。

では、この青年は、誰だ。この青年との邂逅は、ひどく印象的だった。放り込まれた寒い家。その奥で、一人で座るには大きすぎるソファに腰かけて、この青年は居た。目深に被られた軍帽から零れる金糸の色が、少しばかり薄く見えるのは、外に降り積もる雪を具現に取り入れた所為だろう。そうでなければ自分の見間違いだと、(だが自分があの黄金を見間違う筈が無い)(あれ程美しい金糸を)思いたかった。

 状況がいまいち飲み込めていない自分を置き去りに、青年は口を開く。

『ようこそ、東へ』

かたちの良い、薄い唇が紡いだのは、それだけ。だが、その声が、ひどく弟に似ていて。しかし確認する間も無く、青年は口を閉じる。そして、目深に被っていた軍帽を僅かに上げ、今まで伏せていたのだろう、瞼を開け、ゆるりと笑った。何時か食べたラズベリーの様な双眸が、弧を描いている。そこで、(あぁ、違う)安心した。弟ではない。見ると、頬には傷が有る。纏う雰囲気も、随分と剣呑なものではないか。なのに、何故。

 思考だけがぐるぐると廻り、一言も発せずにいると、ぎしり、と音がした。何事かと音のした方を見ると、ソファから青年が消えていた。何処へ、と決して広くはない部屋を見回すと、その青年は机に向かっていた。笑みなど、とうに消えていて、あの双眸も下に落ちてしまっている。構う気などさらさら無いのだろう。暖炉に火を灯すこともなく仕事を始めた青年は、此方がいくら様子を窺おうと、此方を構うことは無かった。彼の声を聞いたのも笑顔を見たのも、それが最初で最後だった(笑顔は、社交的なものだった)(可能性が、限りなく高いが)。

 意志の疎通は、やはり、元は同じ国だからなのだろうか、何となく出来ていた。少し様子を見て、此方が無駄にちょっかいをかけることも無くなっていったし、あちらが此方に干渉することも少なかったからだ。それでも、何か確認が必要なときには書類があったし、何より、自然と仕事はお互いに分けてこなすようになっていた。不思議なことに、ようこそ、等と言ったくせにあちらは表舞台に立つことは無かった。式典や外交等、人と接触する仕事はすべて此方に回され、あちらは書類など裏方に徹していた(変なヤツ!)(だが、詮索するようなことはしなかった)。

 そんな生活が、数十年間続いた。

 壊せ。壊せ。我らは一つだ。壊せ。一つに。今こそ、一つに。壁を、壊せ。怒号にも近い叫びが、ひたすらに壁を叩いている。気付けば、日はとっくに落ちていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ぱちぱち、と暖炉の火が健気に部屋を暖めている。火が消えていないのは、無愛想な彼の気遣いなのだろう。しかしその火も、もう小さくなりつつあった。そういえば、件の彼は何処に(珍しい。机に向かっていないなんて、)(他の部屋だろうか)行ったのだろう。

 一人ではもちろん、二人で住むにも少しばかり大きな家の中を進んで行く。壁が壊れ、この家を出るのなら、一応同居人に一声かけていくのが良いだろう。幾つも有る扉を、一つ一つ開けて行くが中には、人はおろか家具の一つも無い部屋が続いた。振り返ってみれば、いつも屯(たむろ)している部屋と自室、バスルーム以外の部屋に足を運んだことが無い。

(あいつ、何処にいるんだ?)

そうして、最後の部屋に辿り着く。壁は他の部屋同様白いが、今は窓から入る照明やら松明やらの光で、様々な色が混ざり合っていた。そんな薄暗い部屋には、ベッドが一つ。ぽつりと置かれていた。どうやら此処が彼の寝室らしい。

「――行かねぇのか」

ベッドの上に横たわる背中を見て、問う。僅かに、その背が動いた。

「俺は、行くからな」

答えなど、今更期待していなかったが、それでも最後まで沈黙を守られるのは、些か腹が立った。だが、そんな生活も今日で終わりだ。壁が崩れれば、東西などという区別は意味を成さなくなる。そうすれば、全部元通りだ。否、経済状況から見ればすぐに元通りとはいかないだろうが。そして、部屋を出ようと踵を返す。

「あぁ、さよならだ」

だが、不意に背後からした声に足を止めた。

「兄貴」

掠れた声だった。いつも凛としていた姿は想像できないほど、消えてしまいそうな。は、と振り返ると、いつの間に身を起こしていたのだろう。声の主はベッドに腰掛けて、出逢った時のように此方を見詰めていた。ゆるりと弧を描くラズベリーは心なしか力無い。そして何より。

「お前――ッ!」

向こう側が、見えている。透けているのだ。何故、という疑問を持つなど、今更だった(やっぱり、お前)。肩を掴もうとして、青年の手は空を掻く。あぁ、遅い。直感でそう思った。まだ聞きたいことが山ほどあるというのに。そんな青年の胸中を知ってか知らずか、彼は、やはり目を閉じる。もう行け。そう、言われているようだった。

 東と西を隔てていた壁は、とうとう崩れそうになっていた。無数の民が、金槌を鶴嘴を手に手に壁を叩いている。歓喜と嗚咽が夜の街に渦巻く。壊せ。我らは、一つだ。そして、一際大きな歓声が上がっている方を見やると、壁が崩れていた。街をぐるりと囲む大きな壁の一部分にすぎないが、確かに壁が壊れたのだ。其処を中心に、次々と壁が壊れていく。ようやく、二つが一つに戻っていく。じわりと胸にあたたかいものが広がる。どれほどこの時を焦がれながら待っただろう。疲弊した身体は、それでも“西”に向かって駆けて行った。再会に抱き合う人々を掻き分けて、ひたすらに叫んで走る。早く、早く早く早く、会いたい。大切な、弟。

「――兄さん!」

「ヴェスト!」

手を伸ばして、互いに掴んだのは同時だった。

「にいさん、兄さん、兄さん!」

弟が叫ぶ。青年は手をしっかりと掴んだまま思いっきり地を蹴って、無防備な弟の懐に飛び込んだ。決して万全とはいえない、未だちらほらと包帯やガーゼが垣間見える痛々しい風体だったが、青年の弟はしっかりと(けれど、やはり少し踏鞴を踏んだ)(まぁ、それは仕方ないだろう)青年を抱きとめる。久しぶりの温もりに、あちら側で冷えた身体はじんと温かくなった。

「おう、お前のお兄様だぜ」

青年、否、兄は負けじと弟を抱き締め返す。背丈こそ兄を越した弟だが、根本的なところは変わっていないようだった。分かれる以前と比べると少しばかり草臥れたような気のする金糸に手を伸ばして梳く。兄や姉にとって年下とはいつまで経っても変わらない、可愛い身内なのだ。にいさん、いたい。うるせ。知らず知らずのうちに、回した腕に込める力を強くしていたらしい。弟から困ったような、しかし嬉しそうな非難が上がる。そういう相手だって腕の力を緩めていないくせに。お互い様だ。

 そうして漸く身体をどちらともなく離したのは、たっぷり数分は経ってからのことだった。弟の顔を見ると、寒さからだろうか、それともそれ以外の所為か、目尻や耳を真っ赤にしていた。未だにぼろぼろと零れている涙をやや乱暴に拭ってやると、子供扱いしないでくれと言われた。泣いてるくせに、と言ってやろうかと思ったが、その時の弟がひどく幸せそうに見えて、兄は、はいはいと笑うだけにした。

 ぐるりと周囲を見渡せば、自国の民に交じって、よく見知った国々がいた。おめでとう。おめでとう。東も西も、南も北も関係無く、言葉や言語はもちろん、皮肉交じりだったりするものも含め、様々な祝辞が飛ぶ。その中の数名には(元は、と言えば)(お前らのせいじゃね?)お礼にガンをくれてやる。

「……良かった、本当に、」

ぽつりと呟いた弟を見ると、彼は抱き合い歓喜に涙する民を眺めていた。その双眸の、青の美しいこと。やはり、赤よりも此方の青の方が、ずっと良い。

 その青に照明の赤が映って、一瞬息を呑んだ。(あ、)(似ている)あちらで見た、ラズベリーが脳裡をよぎる。何故、あの青年を弟と似ている等と思ったのか。たしかに、顔立ちや仕草はどことなく似ていたが、それでも、どうしてまったくの他人だとは思えなかったのか。

「兄貴」

弟が、発した言葉に、ハ、とする。弟を見ると、固まる此方を(もちろん、そんなのはおくびにも出していない)(あぁ、だからか)置き去りになんでもないように此方を見ていた。はにかんだように笑って、改めて向き直る。

「おかえり、」

そこで、やはりそうだったのか、と改めて向こう側にいた青年が何者だったのか思い知った。

 詰まる所、あの青年は紛れも無く“東”であったわけだ。確かに、兄の方も、東であることには変わりなかったのだが、彼は“西”と対になる存在だったのだ。二つに分かれた一つは、成る程、似て非なる姿をとるわけだ。しかし表面上“東”は兄だというのが通説になっていた。ただでさえ混乱している世界を更に混乱させるわけにはいかなかったのだ。だから彼は表立った舞台に立つことをしなかった。そして“東”が意味を成さなくなった今、彼は弟、つまり“西”へと還り、また元の一つに戻ったのだろう。もちろん、弟はそれを知っていたのだろう。直接会ったことが無いとはいえ、“自分”のことなのだから。感覚的に分かっていたのだろう。だから、おかえりと。そう言ったのだと、

 兄は苦笑する。なんだ。やはりそうだったのではないか。向こうであまり此方に構わなかったのはこうなることが解っていたからか。

Seid umschlungen, Millionen!
(また逢えるのか、なんて)

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