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 丁度時計の針二本が円盤に書かれた十二の上でぴったりと綺麗に揃う、一回り前になる頃、その事実は伝えられた。いやに無機質なノイズ音に紛れて流れ込んでくる言葉に、その場に居たものたちは皆一様に口を噤む。戦艦ビスマルクが英国戦艦と交戦、自沈した、と。
 梔子色の瞳が丸く大きく見開かれる。え、と笑おうとして失敗した歪な唇から音が零れる。紺青に染め抜かれた制服の裾が揺れる。
「一番艦が、ビスマルクが沈んだ…? こんな時に何を……そんな、馬鹿なこと――笑えない冗談はやめてくださいよ、」
渇いた笑い声。どうしても揺れてしまう瞳。
「そんな…だって、ビスマルクは、欧州最大最強の船でしょう?就役してから二年も経っていないのでしょう? 貴方たちは、何を言って、」
詰め寄りながらも縋るような視線は迷子のそれによく似ている。花園で魚が泳ぐ日はとうの昔に過ぎ去っている。そうでなくてもこの国の人々はこの手の類の娯楽が苦手だと――少なくともこのものは――思っている。そして何より、そんな冗談を言っているような、言えるような状況ではない。解っている。解っているけれど――信じたくなど、無かった。
「嘘、嘘だ…、そんなこと、嘘だ…!」
梔子が瑞々しく潤んでいく。寄せられた眉は八の字を描いている。力任せに胸倉を掴まれた壮年の男性は、男性も悲痛な表情を浮かべている。潮騒に紛れて聞こえてくる嗚咽は波紋のように広がって行き、押し殺されなくなり、やがて啜り泣きと成る。理不尽に掴んでしまっていた男性の服から手を放し、ふらふらと後ろに退がる。まるで何かに怯えるように、からだの末端を震わせているものを、目の前の男性含め周囲にいる者たちは気遣う。大丈夫ですか。無理はなさらないで下さい。控えめだが、確かに優しさを含んだ言葉たち。それを受け取ったものは顔を伏せてぐしゃりと髪を掻き乱す。そうしてその場を去っていくものの背を追おうとする者は、追える者は、誰一人いなかった。
 ぼろぼろと水滴が零れ落ちては渇いた地面に色濃い染みを残していく。あまりにも早い離別であり死別だと思った。これでもう隣に並び、立つことは出来ない。あの場では漏らすことの無かった嗚咽が、いやに冷たく感じる水滴と共に溢れ出てくる。それを隠すことも無く、滂沱としているものは、別れの言葉というか最後の言葉すら聴くことが出来なかった無念と、何故自分に一言でも遺してくれなかったのかという孤独感。その他にも色々な感情が混ざり合う感覚に膝を折る。ぼたぼたと黒い染みが増えていく。置き去りは、ひとり残されるのは、寂しくて悲しくて、嫌だと思った。
寒さからか、それとはまた別のものからか――白く重たい空気が下りた空間に、劈くような無線の音が響く。
そうして今まで沈黙を守り静かに腰を下ろしていたものは漸くその姿を現すこととなった。千年の孤独から、歩み出すように。悠然と、泰然と、それこそ気高く、数年前に消えたあのもののように、歩を進める。僅かな前進。決定的な出撃ではない。しかし世界を臨むその眼に温情などは無く。世界を睥睨するようなその眼に悲愴などは無く。腕のたつ職人に誂えさせたドレスにも見える、丈の長い軍服を翻して立つその姿はまるで無機的で機械的で、無情な兵器、そのものだった。獰猛に牙を剥いて、唯一の同族を失った、世界に一匹残された最後の番犬は歪にわらった。
冷たい。冷たくて、暗い。痛い。最後に見えた赤い光と灰色の煙に触れた時は、ひどく熱かった気がするというのに。ごぽりと赤が混じった泡を吐き出して、梔子はゆらゆらと輝いている水面を見上げる。ばらばらになってしまった乗組員たちは無事だろうか。外に出られなかった者たちには申し訳ないが、どうすることも出来なかったのだ。あまりに唐突で、不意で、突然のことだった。また、ひとつ。控えめな音をたてて生まれた泡が、きらきらと輝く水面の方に昇っていく。ごめんなさい。小さく唇が動く。それは、何に対しての謝罪なのだろうか。誰かが聞いているわけでもないけれど、その唇は未だ動き、言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい――沈んでしまって、守りきれなくて、ごめんなさい」
周囲に滲み出ていく赤はボロボロになってしまった紺青の布を染めながら蒼の中に漂い続けている。皺一つ無かった衣服は煤け破れ裂け、痛々しい。断続的に昇って行く泡とは逆の方向へと進むたび、上から降り注ぐ光はどんどん減っていく。光はやがて届かなくなり、真っ暗な――眠りに就くには丁度良いくらいの海の底に、そのからだは落ち着くのだろう。
本体と乖離した意識は、無意識的に求めるものの近くへ向かおうとしていた。もう碌に動くことなど出来ないというのに、少しでも懐かしさを感じる気配を追い、そちらへと手を伸ばす。白く上等な手袋は焼け爛れ、覆い隠していたしなやかな手を指先を、直接外界と触れ合わせてしまっている。太陽の光と触れ合うことが、ほぼ皆無だったその手はやはり白く、切り傷や擦過傷に彩られ、生々しい赤さがよく目立つ。それを気に留めることなく、嘗てあのものに触れられた其処を至極愛おしそうに眺めた梔子は細められ、胸の前でその手を、だらりと下げられていたもう片方の手で包むと同時に伏せられる。意識を包みからだを揺らす周りの海水は冷たく、傷口をざりざりと抉るように撫でていき、決して優しいものでは無いけれど、それでもこの水の中を進んで行けばあのもの――欧州最強と謳われた誇り高い戦艦、ビスマルク級戦艦一番艦のビスマルクに逢えるのだと思えば、こうして水中を降下しつつ漂っていることが、とてもしあわせなことだと思えた。過剰殺傷とも言える攻撃に晒され、ひとりぼっちで沈んだという鉄血宰相の元へ繋がっているのだと思えば、同型艦唯一の戦艦、ビスマルク級戦艦二番艦ティルピッツは口元を綻ばせることが出来た。側に行くことが出来る。その名を負うには些か華奢過ぎるとも言える、あのからだに触れて――髪を撫で、頬を寄せ、孤高を拭い、労うように――抱き締めてあげられる。そんなこと――生温い飯事のような行為を、きっと厳しい軍部のひとたちには怒られて、仲が良いとは言い切れない陸や空のものたちには馬鹿にされてしまうのだろうけれど、それこそ、そんなことはもういいかな、なんて思えた。ごぽ、と昇って行く気泡を見送ること、何度目か。再度世界を捉えた梔子は穏やかに凪いでいて、そっと動かされた腕が伸びた先には、辛うじて形を保っているのだろう、通信機。淡い色のそれは揺蕩う蒼と滲む赤をその身に重ねている。数年前に途絶えて、それ以来繋がらず、本来の使い方をされていなかったもの。
 壊れ、外れかけたヘッドセットを押さえて呼びかける。
――聞こえますか。
相手からの応答があるかどうか、出来るかどうか、わからないけれど、呼びかけてみる。
――聞こえますか、ビスマルク。
酷い雑音が入ってしまっていることは呼びかけている時点でわかるけれど、それでも言葉すべてを隠してしまうような程ではないと信じて、続ける。
――こちらティルピッツ。恥ずかしながら英国の攻撃により転覆、大破着底しました。
――……………、…、……ッツ、な………んだ、の…?
幾度目かの呼びかけの後、ヘッドセットから聞こえてきたのは、昏い潮の音と掠れた呼吸音と、何時位ぶりか分からない、懐かしい声。碌な状態ではないと言うのに、その声が聞こえた途端に声音と心が弾んだ。
――はい、こちらティルピッツ。ビスマルク級戦艦の二番艦。貴女の姉妹艦に当たる艦です。
か細い呼吸音、声。その一欠片も聞き漏らさぬように、二番艦は耳をよく澄ます。
――………そう、な…か、……が……、
苦しげな、しかしどこか安堵したような嬉しそうな声。
――ようやく、ようやく同じ場所に立てます。けれど、側に、居たいのですが、申し訳ありません。もう、動けそうになくて、どうか繋がっている海の中で貴女を想うことを、お許しください。
――…………構わ…い、……きに、し………
一番艦の、押さえ切れていない喜色に気付いた二番艦は、隠すことなく嬉々として返事をする。その声に対してだろうか、次いで聞こえてきたのは、はふと言う掠れた音。何時途絶えてしまうか分からない繋がりを、必死に繋ぎ止めようとしながら、ぽつりぽつりと言葉は交わされる。そうして海の底に触れていること、幾何か。どちらともなく呟いた。嗚呼、もう、そろそろかもしれない、と。限られた時間の、その瞬間が近付いていると、それとなく感じ取れたのだ。
――眠りに、就きますか。
――……あぁ、…………も…、
――…そう、ですか。そう、ですね……どうか、安らかに。我らが鉄血宰相。
応えは、無かった。最後に聞こえてきたのは、海の鼓動に溶けていくような、細い吐息。笑って、思わず吐き出されたようにも、聞こえた。そして、残された北海の孤独の女王と謳われた艦は、変わらずキラキラと輝き続けている水面を見上げて、ひとつ泡を漏らし、今度こそ静かに目を伏せた。今度こそ、ずっと同じ場所に居続けられると信じて。
 すべてが終わり、しかし傷跡が未だ色濃く残っている――色濃く残っていなくとも、負けたという事実がある限り――世界が敗者に優しくないというのは、常である。穏やかな潮の胎動に身を任せ、永遠の眠りに就いた――実際にその艦は眠っていた――と思っていた艦は、べきべき、だか、ばきばき、だかという音とからだが裂かれるような痛み、からだが軽くなっていくような感覚に、再び目蓋を開いた。ぼんやりと漂い、結ぶべき焦点を探していた梔子は、構わず繰り返される音に痛みに感覚に、はっきりと覚醒する。
「――っ、」
頭上を見上げると、水面に蓋をするように残っていた筈の部分が、小さくなっていた。その周囲には小さな影が在り、火花を散らしながら、どこか忙しなく動き回っている。その動きと共に音が生まれ痛みが走り、軽くなっていく。解体されているのだと理解するのに、時間はそれほど必要なかった。浮かんでいたからだの大部分が、無くなっていく。
「ぅ、あ、あ…やめ、やめて、くださ……また、また離れ離れに、なって…!」
その度に薄れ消えていく意識を繋ぎ止めようと水面に手を伸ばすが、それは、何の意味も成さずに、僅かな泡を生み、それが昇って行くだけにしかならなかった。水中に落ち着いたからだは決して多く大きくはない。
「自我、が、嫌だ、まだ、まだ僕は、僕でいたい…!」
からだがバラバラになるということは、自我が保ち難くなるということで、いくら部品が揃っていようと、それがただの瓦落苦多の山になってしまえば、そこに意識が宿ることは至極難しくなる。落ちてくるからだの一部――だったもの――は潮の流れを断ち切り海底の砂を巻き上げ、周囲に打ち捨てられたように落ち着く。拾い集め、元のかたちに合わせようとしようにも、それを達成できるだけの力など残されておらず、伸ばされた指先は、その中でも運よく触れられた欠片を撫でるだけに留まり、それ以外の殆どは、伸ばされた、それだけだった。その姿は、かのものの興亡と衰退をありありと物語っているようで――抵抗空しく徐々に消えていく意識の中で、とうとう艦はその手を離してしまった。ごぼごぼと泡が水面に昇って行く。脳裡を過ったのは、もう一度会いたかったという、細やかな願望と、もう二度と離れ離れにならないと言っていたのに、という申し訳なさだった。
 小さく騒めく海の声に、ひとり消え、またひとりになったのだと、深い眠りに就いているはずの艦が感じ取れたのは、単に唯一の同型艦のことを少なからず気にかけていたからなのだろう。昏く冷たい海の底、再びひとり残されることになった艦は、しかし居なくなった艦を恨むことなどはせずに、時流の流れにただ身を委ねる。ひとりは慣れていると、言わんばかりに。
 今の世界がどうなっているのか、海の底に居て知る由は無い。どれだけ時が経ったのか、考えることも止めてしまった。時々現れるいきものを感じながら過ごしている。残っているからだのすべてが朽ち果て塵へと還るまで、あとどれ程なのか。分からない。そんな日々が変わらず過ぎていくと思っていた時のことだった。頭上で水音がして、不自然な波が起きる。段々と近付いてくる何かの気配に、沈み切って停まっていた意識はふわりと浮かび上がる。そして、誰か――何かが、からだに触れる感触。やわらかく、小さな感触に、閉ざされていた瑠璃の双眸は開かれる。沈み、埋もれ、錆び付き、動くことの出来なくなったからだを、何者かが撫でているらしい。その姿を確認することは出来ないけれど、何故かその感触が、ひどく懐かしいと思った。何か、喋っているらしいということは、波の動きでわかったが、何と言っているのか、肝心なところがわからない。誰、何、なのか。何をしているのかと、無理にでもからだを動かし止めさせようとした、その時、やわらかな感触。こぽこぽと水面に泡が昇って行く。そして、からだ――艦の中に、入って来る感覚。不思議と不快感や拒絶感は無く、寧ろ安心感や懐かしさと言った類のものが溢れて、再び触れられたその温かさと、漸く視界に入れられた姿に、思わず笑みが零れてしまう。
「あぁ――お前は、本当に、本当に――馬鹿じゃないのか」
すべてを包む深い海に煌めく星々を砕いて鏤めたような瑠璃の双眸は、しあわせそうに閉じられる。此方を熱い視線で見つめている梔子は、見えた回数が少ないとしても、その鮮やかさを見間違う筈がない。あの二番艦のもので。水中に踊る、光の届かない深海のような色の髪はこの海底においても尚その暗さを伝えている。それもまた、あの二番艦のものと相違無く。
 今時では珍しい、古風な――軍国出身の、海軍元帥と同じ名を持つ人物は世界地図を広げていた。必要最低限の荷物を積み込んだ船の上、舵を握る者の訝しげな視線をものともせずに、生まれた国よりも南の方にある海をじっと見詰めている。その表情はひどく幸せそうに見える。これから行おうとしていることは決して容易で生易しいものではないというのに。
 目的の場所に着いた船はその動きを止め、ひとり海の中に入った人物を残して漂う。名残惜しげに未だ留まっている船に手を振るその人は、陸に帰るつもりが無いらしい。船の持ち主はやがて諦めて帰って行った。もう、引き返すことは出来ない。数千メートルを潜ることの出来る装備を携えた人は、よしと軽く微笑んで、長い道を歩き出した。やはりこの海は、北の入り組んだあの海よりも暖かい、なんてことを考えつつ、今度は自分から沈んで――否、潜っていく。
 やがて眼下に見えてくるのは静かに横たわる巨艦。巻き上がった砂利と降り積もった生物の死骸、塵屑を被って横たわっている、誇り高い鉄血宰相の名を冠したその艦は、海上に居た頃よりも少しだけからだを小さくして、静かに眠っているようだった。凸凹と大小様々な穴が無数に開いたからだは、しかし威厳のあるままで、満身創痍、多くの傷に彩られていたとしても、その気高さを失うことは無い。凛とした姿のままでいる艦を目にして、その人は破顔する。
「あぁ、貴女は、本当に――本当に、美しいひとだ」
そっと輪郭を指先でなぞる。
「ねぇ、褒めてください。僕、憶えてましたよ。貴女のこと。解体されて、自我が保てなくなって、あぁこれでもう終わるんだって思って、でも貴女のことは忘れたくなくて、そしたら、目が覚めたら、未だこうして僕は僕でいられた。もう艦じゃないけど、僕はビスマルク級戦艦の二番艦ティルピッツでいられた。貴女に、もう一度逢うために」
ね、偉いでしょう、と、大好きな母親――若しくは姉に褒めてと強請るような言葉、表情。それらがどれだけ相手に伝わっているのか、わからないけれど、それは構わないようだった。
「そういえば、艦長さんも一緒、だったんですよね。人間だからきっと、すぐに逝ってしまわれたのでしょうけど、でも、貴女が完全にひとりぼっちじゃなくてよかった。羨ましいな、とかは、そりゃ思いましたけど」
ごぼりと、何時かのように泡が昇って行く。少しだけ変化した艦とその周囲の雰囲気に、眠っていた艦が目を覚ましたのだと、会いに来た二番艦は知る。此処に落ち着いてから経った時間を考えると、もう碌に動けないだろうに、動こうとしているらしい一番艦に二番艦は苦笑する。
「どうか、そのままで。会いに来たのは此方なんです」
薄汚い堆積物をそっと掃う。抜け落ちた砲塔から、中に侵入した小さな二番艦は一番艦の中へと降りていく。生き物の影がひとつも見えないのは、何故だろう。暖かな命の気配が感じられない。
「あの時は、以前は守れなかった約束を、今度こそ果たしに来たんです」
言いつつ、今の自分の両掌を眺めた二番艦は、このからだじゃ抱き締められないじゃないかと眉を顰める。指を開いて閉じてを繰り返す。目の前のものと、自分の手を見比べて、唇を尖らせる。あの頃は――あれが普通だと思っていたから――まったく気にならなかったが、こうしていると不便極まりない。時間が流れ過ぎ、互いに姿を存在を違え、もう、あの頃のように見え触れ合うことは出来ないのだと、思い知る。一番艦の懐に潜り込んだ二番艦は上を見上げ、それから胎児のようにからだを横にして丸くなり、目を閉じる。
「今度こそ、ずっと、側に居させてください」
その言葉に、願いに、許可が出たのかどうかは分からないけれど、微かに騒ついていた周囲が落ち着きを取り戻していることと、此方を受け入れてくれているような雰囲気に、ほぅと安堵の息を吐く。刻々と、確実に遠退いていく意識。ぼやけていく視界と思考。胸を締め付ける苦しさはからだを包む冷たさと共に命を攫って行くようで。
 光も音も何も届かない場所で、愛しいものの懐で、目蓋を閉じる。
 夢を――夢、だろうか。幸せに想いを馳せるものは、懐かしい風景を見た。あの頃の、風景。だけれど、決してあの頃ではない風景。だって、自分とあのひとはあんなことをしていなかった。あんなに言葉を交わしたことはなかった。触れ合うことなんて、並んで歩くことなんて、叶わなかった。単なる、過去を映した夢ではない。そうだとしたら、それは願望なのだろう。細やかな願望を見せた、幸せな夢。あの時の色が、音が、温度が、鮮やかに蘇る。そんな、幸せな幻の中で、あのひとが此方を向く。綺麗な瑠璃色の瞳。さら、と流れるのは海の蒼を重ねた髪。すべて、そのすべてが焦がれたもの。それらが、此方に向けられ、此方に何かを伝えようとする。かたちのいい唇が動く。何と言っているのか、聞き取ることは出来なかったけれど、それでも何故か無性に嬉しくなった。膝下まである、長い丈の裾を靡かせて差し伸べられた手を握る。細くしなやかなその手は、やはり自分のものよりも小さくて――小さいけれど、手を握り、牽く力は、痛いくらいに強く確かなものだった。

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