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 それではこれでと話を切り上げ、さぁ部屋に帰ろうと男が足を踏み出した時、言葉とか音ではなくて――それよりも直接的に引き止められキョトンとした表情で振り返れば、そこには踵を返した男の服の端をしっかりと掴んで何か言おうと口を開いたひとが、心なしか頬を染めて立っていた。何かをこちらに伝えたいが何をどう言えば良いか分からない――もしくは言葉がまとまっていない――らしく、口を開いては閉じてを繰り返している。珍しく、視線が絡まない。

「少し、で、いいのだが、少しだけ、あぁ、否、忙しいならいい、そう、時間があるなら、少しだけ、話しが、できないだろうか」

はい何でしょうと振り向いてからたっぷり数分経った後、漸く、やけに上擦ったような声音で伝えられたのは何ということのない――だろう――事だった。その時にキッと睨み付けるように此方を真正面から見てきた双眸がキラキラとしていて、宝石のようで、綺麗だなぁ、なんて。

「だめ、か…?」

眉を下げられて乞うように言われてしまえば、男の中の断ると言う選択肢は勿論消失する。

「え、あ、いえ。大丈夫ですよ」

政治的な関わりがあれば、少しくらいは考えるか躊躇うかしたのだろうが、相手の様子を見ている限りそうでは無くて、完全に私的な要件らしいということがよく分かった。午後からの予定は特に何も無かったはずで、急ぎの用事も無ければ、報告書だとかの類はすべて片付けてしまっていて――何よりも相手が相手であるため、無下にすることはできない。断る理由など、一欠片も持ち合わせていない男は、相手の言葉に対して首を縦に振った。

「…そうか、」

男の答えを受け取り、よかった、うれしい、と言わんばかりに綻んだ相手の雰囲気に、目の前にいる人物は本当に初対面で自分を懲罰房に放り込んだ人物と同じ人なのだろうかと思った。

 互いに何を言うでも話すでもなく、人が疎らにいる廊下を歩いていく。ふたり分の足音が仲良く空間に溶けていく。時々かけられる声に返事を返しつつ、目の前の背をゆっくりと追うことにそれほど時間はかからず、男は一室に通された。

 落ち着いた内装である。ごてごてと過剰に装飾されているわけでもなければ、あまりにも簡素で殺風景というわけでもない。丁度いい程度である。家具に凝らされた趣向は一目で名のある職人の手によるものだと判る。綺麗に整理整頓清掃された本棚や書類、燭台は部屋が大切に使われていることを知るには十分な判断材料だと、男は部屋を見回した。扉を閉め、無言のままスタスタとソファの方へ歩いていき、案の定さっさと腰かけてしまっている相手の、丁度向かい側に腰を下ろす。ぎしりと発条の軋む音。手触りの良い布地。やはり良い物は違うのだな、と羨望にもよく似た、至極どうでもいい感想を持ちつつ、男は対面の人物を見つめる。先程から滲んだままの朱は白い肌によく映えている。今は伏せ目がちになっていてよく見えないが、あの双眸はまだキラキラと零れ落ちそうな光を湛えているのだろう。綺麗――綺麗、である。眼前で組まれている武骨な指先。言葉を選んでいるのだろうか、引き結ばれたままのかたちのいい唇。窓から入る陽光に照らされる銀糸は何時か何処かの港で見た絹糸のよう。浮世離れした、つくりものにも、等しい美しさ。金銀財宝宝石でつくられた、しあわせのおうじさま、とでも言えるだろうか。そんな風に、男がぼんやりと取りとめのない事を考えていると、相手は注視されていることに気付いたらしく、口を開く。

「っ、どうかしたのか、いや、違う、話があるのは、こちら、だから、」

いつもとは明らかに――百八十度回って三百六十度くらいは――違う様子に男は疑問符を浮かべるしかない。ようやく顔を上げたと思えば今度はふいと横に逸らされてしまう。まるで恋をしている少女のように――。

「え、あ、いえ、いえいえいえ。どうぞお気になさらず! あ、そうだ、何か、ゲームでもしますか?トランプでも、チェスでも――」

妙な方向に傾きかけた思考を振り払うように、話がしやすくなるような雰囲気になるだろう、無難な提案をしてみる。

「いや、そんな、すぐに終わる――終わらせる、から…!」

「?!」

しかし男の気遣いは一蹴されてしまった。朱が滲んだままの顔で、答える、というよりも呟くように、自分に言い聞かせるように返された言葉が不穏な意味で使われることの多いものだった気がするのは、気のせいでは無いだろう。背筋に冷たい汗が流れる。

「…あぁ、何か飲む、か?」

ごくりと、喉が動いたのが見えたのだろう、相手は気を遣う。相手が、男に気を遣う。それがどんなことなのか。

「それとも、何か食べる、か?」

どれほどのことなのか。きっと相手は知らないのだろう。男は頭をフル回転させて相手の真意を掴もうとする。

「え、と、ハイ、では、紅茶でも、淹れてきましょうか…?」

「え、あ、いや、おれ、は、水で、いい、」

何か持ってきがてら、これからのことについて考えようと、腰を上げたところで相手が視線と共に声を上げる。紫の双眸を見下ろすなんていう、滅多に無い状況になる。そして視線がぶつかったと思えば、すぐに逸らされる。あかく色付いたかたちの良い耳と、光の加減で表情を変える色素の薄い髪が見える。

「えー、っと、それでは、何か用意してきますね」

そう告げて、流石に台所なんかは内設されていない部屋を出る。適当に人を掴まえて一番近い給湯室を使わせてもらうか――と脳内で予定を手早く組み立てたばかりの男に声をかけたのは、ひとの良さそうな、柔和な笑みを浮かべた、燕尾の執事服を着た初老の男性だった。

 その男性は、茶菓子は勿論ティーサーヴィスを載せたワゴンを押している。

「どうか、しましたか…?」

「いえ、お二人が部屋へ入って行かれるのを見かけましたもので――何かご用意した方が良いかと思いまして」

「そ、それはどうも…」

にこにこと、どこか嬉しそうに語る男性の気配りと間の良さに感服せざるを得ない。しかしこれで頭の中を整理する時間はがっつりざっくり消えて無くなってしまった。

「あ――え、と、紅茶じゃなくて冷水って、」

「はい。念の為と思いまして、載せてありますよ」

もしかしたらと思い――願い、と言っても過言ではない――訊いたことは、やはりあっさりと返されて、いよいよ逃げ道は無くなる。これはもう腹を括るしかないらしい。仕事に関係が有ろうが無かろうが、話をしたいと言われたのは他の誰でもない、自分なのだ。ならばさっさと済ませてしまおうと、男は心を決める。相手がいつもと違う様子だからと言って怯んでいてはいけない、と。

「では、よろしくお願いしますね」

綺麗に一礼した初老の男性にワゴンを託される。何をよろしくお願いされたのか分からないが、とりあえず愛想良く返事をした男は先程歩いて来た道をワゴンを押しながら戻って行く。

 案の定ロクに纏められなかった思考に、どうしたものかと思いつつ扉を叩いてからワゴンと共に入室する。幾分か丸くなった双眸と震える声が男を出迎える。

「……早すぎないか?」

「あぁ、これには少し理由がありまして」

かくかくしかじか云々かんぬん。隠すようなことも無いので、飲み物と菓子の用意をしながら、ありのままに起きたことを伝える。

「なるほど、そういう…」

どうぞ、とよく冷えた水の入ったグラスを差し出すと、あぁ、と受け取られる。その際に、ありがとうと唇が動いたと思ったら、言葉になりきらなかった音が零れたのは、男の五感が拾い上げた幻だろうか。

「…と、それで、話、なのだが、」

手にしたグラスを傾け、喉を潤した相手は口を開く。

「話――そう、話、だ」

落ち着きなく視線を彷徨わせながら、開いては閉じてを繰り返す。珍しく歯切れの悪い――否、今日は全体的に珍しいというか見たことの無い相手の姿を見ているから、今更そういう表現をするのは何か違和感があるが――相手の言葉を、男はのんびりと待つことにした。

「その、実は、」

やがて、おそらく意を決して発せられたであろう、言葉には意外にも真剣な色が見え隠れしていて、思わず男は身構えてしまう。

「!? あ、いや、違う、そんな――政治的な話では、まったくない、から、身構えるな、と、」

徐々に尻すぼみになっていく言葉。伏せられた表情は見えず。その表情を、見てみたいと、思わないことも無く。

 気付けば部屋の隅に佇んでいる時計の針は、最後に見た時よりも一つ、二つ程進んでいた。穏やかだが、のんびりとしたと言うにはやけに速く感じた時間の流れに、自分はこの空間の居心地を割かし気に入っているらしいと、男は気付く。それを自覚すると、幾分か余裕が持てるようになった。ソファに軽く座り直して、ふと微笑んで見せる。

「わかりました。えぇ、時間はまだ存分にありますし、偶にはこうしてのんびりゆっくりするのもいいでしょう?」

「…ぅ、あ、あぁ、すまない」

このひとがこんなになるなんて、余程のことなのだろうということは容易に想像がつくが――それは一体、何に関してのことなのか、興味は必然的に湧く。

 そこで、アレ、と。男は内心首を傾げる。今のは、それは、どうしてそう思ったのかと。そりゃ確かに相手は一国の王族で、大切な重要な人物で、個人的な交流も無いとは言えない間柄になる――のだろう――し、あの第一印象からしたらかなり悪い印象は――相手のことをまぁまぁ微笑ましく見られるようになった程度には――薄れた方ではあるが、ここまで個人として意識するのは、何故なのかと。落ち着き無く宙を彷徨っている紫水晶の持ち主を、男はまじまじと見詰める。はっきりとしない言動だということ以外、別段変わったところは無い――ように見える。翡翠とかち合った紫水晶は、やはり直ぐに逸らされてしまう。何かをした――やらかした覚えは無い。まったく無い。それならば、何故。ぼんやりと芽生えた疑問はゆっくりとだが、確実にそれは首を擡げる。

 低いテーブルの上に出されはしたが、まったく手の付けられていない茶菓子がふたりの様子を見守っている。一歩進んで二歩下がるどころか、一歩踏み出そうとして足を引っ込めるを繰り返している状況である。今時片田舎の学生でもしない青春のようである。少し、したい話があるからと引き止めた者と引き止められた者が、部屋にふたりきりで向かい合って座り、進展の無いまま数時間。いい歳をした大人が頭を抱えて、あーだのうーだの唸って、数時間。である。中々にシュールな状況、光景である。用意されたティーサーヴィスと茶菓子でお茶会を開くでもなく、棚からトランプやチェスを取り出し楽しむでもなく、向かい合って相手の様子を窺っている。淹れられた紅茶も、注がれた冷水も、減る気配は無く。

 かちりと、時計の針が重なる音。それが切欠になったのかどうかは判らないが、丁度その時のことだった。

「――、その、話、なのだが……唐突だということは解っているし、すまないと、思っている」

視線は、逸らされたまま。

「こんな、おかしいということも、重々承知している」

翳った表情に浮かぶのは、微かな恐怖。その色を見とめた男は息を小さく飲む。そんな男には気付かずに相手は続ける。

「しかし、言わないよりは、言った方が良いと、」

「は、ぁ……」

そしてまた、そこからが長くなる。

 ひとつ大きく深呼吸をする。

「…つまり、だから…実は、その、」

ひとりで首を縦に振ったり横に振ったり。

「私…じゃなくて、俺、は、お前が、」

目の前に相手が居ることを忘れているのではないかと、思わせるような。

「いや……待て…いや、」

うろうろと一ヵ所に留まることの無い視線。

「……だから、つまりだな、その…お前のことが……!」

今にも溢れてしまいそうな程の光を湛えた双眸にどうしたものかと――同時にこのひともこんな顔をするんだな、なんて感想を持ちつつ――男は困り顔で提案してみる。

「えぇと…そんな、無理はしなくても、お呼びいただければ何時でも――」

「だめだ」

「ですが、」

「お前が良くても、俺が良くない」

きっぱりすっぱり言い切られて――しかもやはりというか相変わらずの唯我独尊的な言葉を以てして――口を閉じて相手の気が済むまで待つしかなくなる。焦っても何も良いこと等無いと、微笑ましく子供を観察するような気持ちで相手を観つつ冷めてしまった紅茶に手を伸ばす。

「だから、その、お前のことが、えっと、」

ゆらゆら頼り無げに揺れている紫水晶の水面はきらきらとうつくしく、先程のあれは何だったのだろうと。

「実は、お前のことがだな……きいているのか?」

「えぇ勿論。ずっと耳を欹てていますよ」

「ぅ…そ、そうか……って、なんで、いや、ちがう、」

男は緩く口角を上げている。

「えぇと…す、その、」

此方は何もしなくて良い。寧ろ何もしない方が良いだろう。相手を待っていればいい。気長に。短気は損気とも言うし、何よりこんな相手を見られるなんて。

「お前の、お前のことが、つまり、その、だな、」

「はい」

「……すまない、少し、待ってくれ…」

「はい、何時まででも」

「――…、」

何かを言おうとして、言おうとして開かれた唇はしかしそのまま閉じられる。

「どうしてお前はそんな、」

小さく零された音は誰にも拾われない。

 きらきらと眠くなるような日のことである。今日も今日とて平穏そのものを抱く国にて、小さく可愛らしい戦争は舞台袖で幕を開けていた。放つのは言葉の弾丸。刺し込むのは想いの刃。それらが満足な戦果を挙げてくれるかどうかは誰にもわからない。他人を傷付けることの無い、甘酸っぱい戦い。けれど当人たち――当人にとっては重大な重要な戦い。何と戦っているのかと問われても明確な答えは返すことが出来ない故返ってくることは無い。なぜ今なのかと訊かれても偶々その時に心が決まったからだとしか言いようは無く。穏やかな風景の一部にしかならないその戦場は或る部屋の中。紅茶と茶菓子のにおいがとふとふと漂う部屋。からだを受け止めるソファは呆れたように愛おしそうにその重みを享受している。まるでおおきなこどものようだと。

 足を出しては戻すの繰り返しだと――状況的には言えるのだろうが、しかしここに辿り着くまでに大きな一歩は踏み出されているのだ。

「……だいたい、お前はずるい」

「…?」

「どうして俺がこんな、」

ぼそりと小さく動いて閉じられる。寄せられた眉間の皺とヘの字に結ばれた唇には可愛らしい不満の色。理不尽且つ微笑ましい暴力である。同時に、毒にも似ている。何をも損なうことは無いが確かに対象を蝕んでいく。対象若しくは互いが認識したところから作用し始め全体を侵していく。仮令それに因って命を落としたとしても当人たちが構うことは無い、どころか本望だとすら思うだろう、劇物。その池――底無し沼に堕ちたのは麗しい紫水晶。見上げた水面が映る宝石に灯るのは揺れる仄かな恐怖。覗き込む翡翠は沈んでいる紫水晶に気付いているのか否か。ゆらゆら、ゆらゆらと。

「あぁいやどうせ――お前には分からないだろうな」

外に出されないもの、音に成されないものを読み取れなんていう魔法じみた芸当を、心から勿論求めているわけでは無く、ただ掠れた羨望の色をにおわせるだけの。

「えぇ、俺は貴方じゃありませんから」

かちゃりと、何時ぐらいかぶりの食器の触れ合う音。冷めてしまった紅茶を、飲むと言うよりは舐めると言う程度の摂取。細められた双眸。返された答えは褪せた羨望を嚥下してのもの。個として在るが故にひとは他のそれを求める。

「………、」

「俺が貴方のすべてを知らないのと同じように、貴方が俺のすべてを知らないのと同じように」

「それは──、…これから、知っていけばいい」

「へ?」

今、相手が何と言ったのか、その言葉を意味を掴み損ねた男は間の抜けた声を出す。

「え、あ、あの、今、」

「だから、つまり、だ」

「はぇ?」

丸く、ぽっかりと陸地に取り残された湖面のように翡翠は大きく開かれている。そちらを見ること無く――というよりも見ることが出来ずに――紫水晶は彷徨う。

「その、個人的に、」

一度ズレを生じた歯車は、簡単には同じ調子を取り戻してはくれない。

「俺と、お前が、」

「え? え、」

「――っ!」

「それは、つまりどういうことでしょうか…?」

「だから!さっきから!言っているだろう!」

「いや言ってませんって!言おうとしてるみたいですけど!」

「察しろ鈍感!」

「そんな無茶な!」

それは自覚しているようで、気まずそうに目が逸らされる。ぐしゃりと乱された銀糸の合間から翳って尚光を湛えている紫が覗く。色付いた白磁。喉が鳴る。相手は、このひとは。

「俺は、」

「――」

ひとつ大きく深呼吸。

「お前のことが、好きだ」

​BGM:すすすす、すき、だあいすき(ジェバンニP)

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