その日、ヘフェメトロは久々の休日だった。二人揃って一日丸々完全に休みである。それが何日――何か月ぶりのことであるのか、おそらく当の本人たちは憶えていないのだろう。職場の部下たちが快く休日に送り出してくれたのは、当然と言えば当然の成り行きと言える。
大通りから一本細い路地に入った場所に在る小さな喫茶店で、兄弟は舌鼓を打っている。兄は大きな苺パフェに。弟はほろ苦い珈琲に。舌鼓を打って、和やかに楽しんでいる。ゆっくりと流れていく時間。朝からあっちへこっちへ渡り歩いて、昼は行きつけだった食堂へ久しぶりに食べに行き、一日の中で一番暑い時間を涼しい水の生き物たちを硝子越しに見ながらやり過ごしたら、こうして一休み。車輪の音も警笛の音も聞いていない一日。ペンも判子も手にしていない一日。昔は当たり前だった気がするけれど、今では非日常となってしまったもの。はふぅ、としあわせそうな息が漏れる。
「食べる?おいしいよ?」
大きな苺パフェを一人で半分ほど平らげてしまっている兄は弟に訊く。街でも甘いと有名な苺パフェをよくもまぁ一人でこんなにも食べ進められるものだと、弟は思う。
「いえ、いいです。食堂でたくさん食べましたから」
やんわりと断ると、朗らかな笑みを浮かべたまま兄はそう、と頷いた。赤と白の混ざり合った色彩は、それはそれは甘そうで――今はとても腹に入れることはできない。
結局兄はそれを一人ですべて食べてしまった。食堂で昼食をたらふく食べたと言うのに。どんな胃袋を持っているのか。それよりも、兄の味覚は大丈夫なのだろうかと弟は不安になる。自分がしっかりしなければ。互いを思いやる程度に、兄弟は仲が良い。
ぼんやりと弟は思い出す。兄は何時だって自分の兄だったのだと。道で転んだ時も太陽が沈んで昏くなった時も、バトルで勝った時も負けた時も嬉しかった時も悔しかった時も――兄は何時だって朗らかに笑っていて、弟の手を取って牽いてくれた。人当たりの良さそうな兄のその表情は、弟の自慢であったけれど、それと同時に、自分以外には向けられたくないと、仄かな幼気な独占欲の対象でもあった。元来スキンシップの多い兄は、もちろん弟以外にも笑顔を見せたけれど、それでも自分から手を伸ばしたのは弟に対してだけだった。それを知っているのはきっと兄本人だけなのだろうけれど。
日の暮れかけた、真っ赤な路地裏で弟はあーともうーとも判らない音で唸った。似たような建物が建ち並び、変わり映えの無い石畳が眼下を埋める。どの道をどう歩いてきたのか、憶えていない弟は親指の爪を噛む。生憎連絡手段を携帯していない。陽が落ちて街が暗くなるまでには兄と合流したいのだが――どうする。人通りは少なく、道はまだ幾つも枝分かれしている。下手に動き回らない方が良いのは当たり前だが、だからといってこのままじっとしているというのも、得策ではない。がりり、と爪が削れて不恰好な形になっていく。仕事をしている時間中は手袋をしているから特に問題は無いだろうが――きっと兄は良い顔をしないのだろうということは容易に想像できる。少し困ったように、笑うのだろう。そして、駄目だよ、なんて優しく言って聞かせるのだろう。こんな時ですら――否、きっとこんな時だからこそ、兄のことを考えてしまう自分に、弟は小さく舌打ちをする。いつもは鬱陶しいくらいに絡んで来るくせに。これではまるで兄離れできていない甘えたのようではないか、と。そうこうしているうちに太陽はどんどん沈んでいく。辺りは薄暗く、赤紫色になった空にはぽつぽつと黒い影が浮かんでいる。上下し、左右に揺れ、小さくなっていく影は、きっと家に帰るのだろう。家に帰る――そう、家に。自分の居場所。自分の大切な場所に。じわりと、視界がぼやける。
「――、」
遂に零れた雫に気付いた弟は慌ててそれを拭う。しかしぼろぼろと次から次に溢れてくるそれを止める術など無く。そもそも何故こうなったのかすらよくわからない弟は、ただ零れ落ちてくる水滴を拭く作業におわれる。
誰かに、特に知り合いには見られたくないと、弟は俯く。そんな時。
「あー、フェロいたー」
このひとは、現れるのだ。タイミングがいいのか悪いのか、よくわからないけれど、まるで見計らったように現れるのだ。いつものように、朗らかな――まるで太陽のような――笑みを浮かべて。
「…って、わ、わ、どうしたの、なんで泣いてるの?どっか痛いの?大丈夫?」
軽く挙げていた手と、だらりと下げられてい手が、同じ高さで慌ただしく左右に振られる。その顔には困惑と微かな焦燥の色が浮かんでいる。ころころと変わるその表情はひどく子供っぽく見えるのだろうが、その表情の中にはいつも年下を守る年長者の眼差しが在るのだということを、弟はよく知っている。
「――っ、う、お、遅いんですよ、貴方は…!」
子供の言い分そのままだということは分かっている。けれど、言葉は止まらない。
「さっさと、迎えに、」
「うん、」
弟が言葉を言い終わる前に、兄はその身体を引き寄せ腕の中に閉じ込める。久しぶりにも思えてしまうやわらかな身体と温もり。震えている身体を落ち着かせるように、背を撫で頭を撫でる兄の手つきは、やはり大きく優しくて、弟は先程まで騒ついていた心が静かに凪いでいくのを感じる。現金なもの、なのかもしれない。けれど、今はそれでもいいと思った。耳元で兄の声がする。
「うん、ごめんね」
そして髪に口付け、顔を上げさせ赤く色付いた目元に頬に口付ける。
「じゃあ、ね。ほら、帰ろう?」
朽葉色の双眸が絡み合う。
「っはい、」
自然に取り合われる手は固く繋がれる。
並んだ影の大きさは同じ。その影から小さく聞こえてくるのは楽しそうな声。天真爛漫で、純粋無垢な、子供のような。時々横を向いたり跳ねたりしながら街の中へ溶け込むように消えていく。影が完全に見えなくなってしまうまでの、その間、ふたつの影が完全に離れることは無かった。
結局のところ、年上は何時だって何時までだって年上なのだ。年下も、また然り。それは何をどうしたって覆せるものでは無い。悔しいと、歯痒いと、確かに思う時はあるけれど――けれど多くの場において当人たちはその立場でよかったと、思っている。満足している。此方だけを見ていればいいと、思っている。特に身内がふたりだけのものなんかは、特に。年下は年上に甘え労い、年上は年下を甘やかし、癒される。飽きることの無い、繰り返し。
陽が昇り、世界が再び照らされる頃にはいつもの日常が始まる。太陽の目が届かない地の奥底に、ふたりきり。閉ざされた扉の向こう側で訪問者を待つ。
I’m home.
(come back my sweet home)(welcome back my darling)