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 煌めく照明は夜の暗幕を貫き切り裂いて世界を彩る。健全な皆々様が眠りについた後の世界はアウトロー共の巣窟となり、上っ面だけの安全、非合法極まりない遊びやら取引きやらが横行するのだ。昼間は閑静なシャッター街も、今では原色の電飾に飾られて、どこをどう見ても堅気ではない人々がうろついている。真っ白なスーツを纏い黒のシャツを着込んだ男や背中が大きく開いた真っ赤なドレスを着た女。ギラついた目と、耳や顔を飾る銀の装飾。ケバケバしい化粧と主張の強い香水。遠くから聞こえてくる怒声や甲高い笑い声。薄暗い場所で袖から袖へ受け渡される白い粉の入った小さな袋。電子掲示板に流れていく法外な金額。薄汚い乞食や客引きなんかは日常風景だ。治安も衛生も、最底辺とは言わないが、良いとも言えない。しかしそんな場所が消えないのは、やはり一時の快楽と愉悦を忘れらないからなのだろう。依存にも近い。褒められこと、勧められることではないが、咎めにくいこともまた事実だった。

 ばさりと長いコートの裾が翻る音。規則的に地面を叩く革靴の光沢。提げられた古臭いトランクの中身は言うまでもない。闇夜に紛れない金糸は周囲の灯りを映して、部分的に色味を変えている。電飾にも負けぬほど煌めいている翡翠が見据えているのは中世の城を思わせる豪奢な建物。その手前で立ち止まった男は口角を上げる。やけに堅牢な見た目の門が開かれれば、前方に在るのは十数段ほどの階段。毛足の短い、臙脂の絨毯が中央に敷かれたそれを上れば、屈強な肉体を黒いスーツで固めた門番が来客を出迎える。コートの胸ポケットから会員証を取り出した男はそれを右手側の門番に見せた。渡された会員証を直接目で観察し、更に機械へ通した門番は偽装、異常が無いことを確認して男へそれを返す。そして男は開かれた門の奥へと足を進める。

 照明が絞られ、音を絞られた音楽が流れる空間は、外にある娯楽施設と一線を画していると一歩踏み入れただけで分かるほど、落ち着いていた。ルーレット台やトランプカードの散らばったテーブル、目にも鮮やかな硬貨の数々が無ければ小洒落たバーかレストランだと思ってしまうだろう。門を潜ってすぐのところにあるカウンターにコートを預け、男は見慣れた空間を往く。ゲームに使うというのには些か多すぎる額をテーブルの上に出している人々の顔は、どれもどこかで見たことのあるようなものばかり。勝敗を物語る声があちらこちらから聞き取れる。

 潮騒のようなさざめきの合間を縫い、男はトランプカードが踊っているテーブルのひとつに辿り着く。そこではプレイヤーとディーラーが一対一の勝負を繰り広げていた。上等な布で仕立てられた、オーダーメイドであろうスーツを着込んでいる壮年のプレイヤーは眉間に深い皺を寄せて、机上のカードを注視している。対するディーラーの方は、そんなプレイヤーを見下ろすように次の手を悠々と待ち、挙句テーブルに近付いてきた男に気付いて口角を上げて見せるくらいの余裕すら有るらしい。相変わらずの傲岸な態度と狂いの無い無慈悲な手腕に男は苦笑を浮かべた。やがてプレイヤーが手のひらをテーブルに向け、水平に振る。そして開かれるカード。いつの間にか増えていたギャラリーから感嘆の声が上がる。ジャラジャラと音をたてて硬貨と札束がテーブルの上をディーラーの方へ動いていくのを、プレイヤーだった敗者は恨めし気に目で追う。そんな敗者を勝者であるディーラーは口角を上げて挑発的に見遣った。しかし既に手持ちが無いのか矜持を木端微塵に砕かれたのか、両手を上げてすごすごと席を立ち去って行く敗者の、その後姿を至極つまらなさ気に一瞥して、ディーラーは机上に山積みになっているものをぞんざいに落としてカードを片付け次のゲームの準備を進め始める。ギャラリーが次は誰がいくのかと騒めく。けれど誰もがディーラーの纏う雰囲気に気圧されてその手を挙げようとはしない。その中で、唯一手を挙げるものがいた。癖のある金糸を揺らし、ふたつの翡翠を輝かせる男。先程からずっとテーブルの近くにいてプレイヤーとディーラーの一騎打ちを観ていて、その存在に気付いたディーラーが一瞥していた男だ。挙げた手をひらひらと振って主張する。歓声のような野次のような声がギャラリーから飛ぶ。照明を反射して赤味を増した紫水晶が向けられ、翡翠を捉える。それを了解と受け取ったのか、男はディーラーの目の前の椅子を引いて腰を下ろした。初めてではない。男とディーラーの一騎打ちはちょっとした名物行事として有名なもの。ちなみに男が勝ったところを見たものは誰もおらず──つまり男は今まで一度もディーラーに勝利したことがないのだ。また来たのか。懲りない奴だ。なんて紫水晶が翡翠を見下ろしている。とびっきりの笑顔でそれを往なして翡翠は足元のトランクに向けられた。よっこらせ、と軽い調子でトランクを持ち上げテーブルの上に置き、開く。中には溢れんばかりの札束が敷き詰められている。勢いよく開かれたせいで宙に舞った数枚を気にすることも無く男はトランクをディーラーに突き付けた。沸くギャラリー。対するディーラーはテーブルの下を指す。それにもギャラリーが沸いた。一体どれだけの飢えと乾きが癒せる額なのだろうか。それを一夜にも満たない、ほんの一時で無に帰すか手に入れるか等、常人では出来ないことを、男たちはあっさりとやってみせる。ふ、と吐き出された吐息に続くのは、やはり聞き慣れた声音。落ち着き払ったそれは罵倒とも忠告ともつかない言葉を男に贈る。決して甘くはないその贈り物を至極嬉しそうに舌で転がした男は満足そうに答えた。

 いつも通りの風景、遣り取り。ディーラーはよくきられたトランプカードの中から二枚を男の方へ抛り、自分の手元にも置く。そのうちの一枚を表向きにして、男に視線で尋ねる。音も無く問われた男は上機嫌にテーブルを叩いた。男の手元にカードが一枚抛られる。そのカードを見て男はふむと声を漏らす。表情は変わらない。ディーラーの元にも一枚カードが増えた。こちらも、表情は変わらない。繰り返すこと数回。とうとう男が手のひらを下に向け、水平に振った。開かれる双方のカード。ギャラリーが騒めく。項垂れる男。微かにわらうディーラー。机上の富は、先程と同じように再びディーラーの方へ動き、テーブルの下へ消えていく。ギャラリーが減っていく中、次を促すディーラーの視線に男は足元に置いていたもうひとつのトランクを机上に叩きつけて見せて答えた。トランプカードがディーラーの手中で規則的に踊る。面白そうに眉を寄せ口角を上げたのはどちらか。

 男はくるくると回る盤のあるテーブルに座って白い球を見つめていた。男の周囲には少なからずギャラリーがいる。再戦するも結局負け越した男はトランクふたつ分の札束を失い、残った革財布に万が一のためと入れていた資金で八つ当たりにも見える荒稼ぎをしていた。三十七に分けられた回転盤を注視してベルの音を待つ。男の前には既に山のような硬貨や札束があるが、まだ足りないらしい。やがてベルが鳴らされプレイヤーたちは各々ベットをし始める。多くのプレイヤーが九倍から十八倍の配当に賭ける中、男は迷わずに三十六倍に手を伸ばす。ギャラリーから上がる声を聞き流して、男はディーラーの手元、ひいては回転盤の上を走り始めた白い球を視線で追う。その間にベルが二度鳴らされ、ベットの終了が告げられた。果たして白い球が落ち着いた場所は、男が選んだ場所と相違ない。男の前の山がまた少し嵩を増す。ちらと先程までトランプゲームに興じていたテーブルの方を見遣ると、そこに男の相手をしていたディーラーの姿は無く、門番で見たような黒づくめの男たちがテーブルの下に落とされた硬貨や札束を丁寧に回収しているのが見えて、男はつまらなさそうに目の前の回転盤へ視線を戻した。そして何度目かのベルが鳴らされる。今度は、九倍に賭けた。

 ピンと伸びた、皺ひとつ無い紙幣はボーイに持って来させたトランクにきっちりと入れ、一点のくすみも無い硬貨の方は、良い意味でぺちゃんこに平べったくなった革財布へ放り込んでいく。それは成人男性が一か月生活していくのに十分な額だろう。目一杯に札束が詰まったトランクひとつと、半分ほどが札束で、残った空間は煌めく硬貨で埋められたトランクがひとつ。丁寧な装飾が施された懐中時計を見ると針は二と三を指していた。あのテーブルにはディーラーが戻ってきていて、またプレイヤーと一対一の勝負をしている。しかしそのゲームももう終わりが近いようで、手持ちのカードを睨みつけるプレイヤーはとても険しい顔をしていた。何度も見てきた光景。何度も体験した風景。綺麗に磨かれていた床に落ちていく金属と紙類の音。去っていく人影。入れ替わりでディーラーの前に立つのは戻って来た男。その姿に眉を顰めるでも嘲笑うでもなくディーラーは目を伏せる。一見すると拒絶の意にも見えるそれは、了承の合図。札束が詰まっている方のトランクを再三テーブルの上に置く。そして再び開かれる幕。男は決して弱くは無い。それはボードでもカードでもルーレット、それこそダーツなんかでも男のゲームを見ていれば自ずとわかることだ。ディーラーとの勝負で手を抜いているということもない。けれどディーラーにはどうしても勝てなかった。正々堂々、勝負をしているはずだが、何度やっても勝てなかった。ぼそりと零した愚痴を拾われた時など、暫く出入りができなくなったのは良い思い出だ。このディーラーは、纏う雰囲気通りの気高い人物なのだ。

 平たく言ってしまえばギャンブル施設。賭場。カジノ、である。扱うのはトランプ、ダイス、ルーレットという古典的なゲームと、時々行われるキノ等のランダムゲーム。スロットマシンやビデオポーカーの類は無く、中世の城を思わせる外観と落ち着いた内装が相俟って、まさに前時代的と言える施設だ。そしてその外観に相応しく敷地も広大で、誰が使うのか知らないが泊まるための部屋すらある。使用されるトランプカードも折れ線ひとつなく照明の灯りを返し、ダイスにも罅や欠けなど無い。テーブルにも凝った装飾が施され、長年大切に扱われているのだということが分かる。施設内に流れる品の良い音楽は、常連客の男曰く中二煮込みな音楽家による生演奏。経営者から直接雇われており、家族ぐるみの付き合いもあるのだと言う。若しくは、これもまた前時代的な蓄音機と円盤によるもの。そして完全会員制であり、此処に通っている客は各界では名の知れた人物たちばかり。毎日通う者もいれば月に一度、半年に一度というペースで通う者もいる。完全に日が落ちてからしか門を開かないこの城の持ち主は王族の血を引いているらしい兄弟。兄の方が舵取りをし、弟はディーラーとして店に出ている。弟が一従業員として店に出、働いていることを、兄はあまり好ましく思っていないらしく、その仲が昔ほど良くないというのは周知の事実であった。互いに互いのため、ひいては家のことを考えての行動なのだが、如何せんどちらも頑固なのが悪かったようだ。兎も角。血縁にも関わらず別居している兄弟はすこぶる仲が悪いらしい。

 照明の灯りで色味を変えるディーラーの髪と瞳を、おそらく誰よりもディーラーと一騎打ちをしている筈の男は明るい陽の下で目にしたことがなかった。あの場所、あのテーブル以外で、顔を合わせたことがないのだ。普段何処で何をしているのかは知らないが、おそらくの予想は出来る。たぶん、カードやトランプと言った道具の整備や売り上げのまとめ等をしているのだろう。警戒されているのか規則でそうなっているからなのかは分からないが、ゲーム以外のことを訊いても答えてくれなかった。誰を相手にしても、だ。いつもツンと澄ましている。男がその色に空気に惹かれていったのは必然と言っても良いのかもしれない。最初こそなんだコイツなんて失礼極まりないことを思っていたが、何度も相対していくうちに感情が妙な方向へ堕ちていっていることに気付いた。いやいやいや。有り得ない、と。だって同性で、客と従業員で、しかも経営者の弟で。何かの間違いだと。しかし意識をすればするほどディーラーのことを考えていた。トランプをきる時の手首の動き。カードをこちらに寄越す時に近付く指。伏せられ震える睫毛は存外長く、縁取られた紫水晶は光の加減で幻想的にその色味を変えて見せる。髪もまた同じでよく色味を変えているから、きっと色素が薄いのだろう。動かされることの少ない唇はかたちが良い。小奇麗な制服に包まれた身体は均整のとれたうつくしいもの。女性のような、豊満で艶めかしい曲線ではないが、無駄の無い引き締められた身体の流線は古代の彫刻に見られる美。見せるために鍛えられた肉体とは違う品の高さ。白く生えそろった十本の指も、女性的な滑らかさは無いが手入れの行き届いている様は容易く見て取れる。長くケバケバしいものとは違う、短く切り揃えられた爪。ささくれひとつ無い指先。その手を取り、口付けたいと幾度思ったことか。あの双眸を真正面から覗き込んで、髪に指を差し入れて、そして唇を合わせたら。合わせられたら。そこまで、否、それ以上を考える程度にディーラーを想うようになった男はある日遂にその話を持ちかけた。

 人身売買にも触れそうな、しかし実現することは至難の業に見える、賭け。それは至極単純明快な話。ディーラーとの一騎打ちで、男が勝てばディーラーと個人的な意味で御近付きになるというもの。その話を始めて耳にしたときの反応は。きょとんと目を丸くして。いつもとはまったく違う表情。思わず零された音。あぁほら、やっぱり、なんて唇を舌でなぞって男は続ける。徐々に平時と変わらぬ様子に戻っていくのを、勿体無い等と思いながら語り終えた男はディーラーに答えを問う。心なしか、いつもより炯々とした双眸を晒したディーラーは綺麗に口角を上げて、物好きな男の酔狂な話に乗った。簡潔な言葉で二つ返事。苦い顔で渋られるだろうと、密かに身構えていた男はあっさりと承諾され、間の抜けた表情と音を晒す。男のその反応を鼻で笑い、ディーラーは、自分はどうすれば良いのかと訊いた。とんだ自信だと。きっとこのディーラーは自分が負ける筈が無いと思っているのだと男は判断し、あぁそれなら、と、何もしなくていい、と挑発的に口角を上げて見せたのだった。誰が聞いても勝機の無い負け戦に聞こえるだろう。現に男はディーラーとの勝負に未だ勝ったことがないのだから。無意味なことで、それこそ金と時間の無駄遣いだと、誰もがわらった。誰もが男の負けを疑わず、また近いうちに放り出すだろうと、それで賭けをする者たちすらいた。しかし男は未だディーラーの前に立ち、カードを引き続けている。その風景は日常と化し、平常となっていた。札束の詰まったトランクがふたつ。その中身がディーラーの前で増えたことは無い。何度繰り返そうとも、それは覆ることのない常だと、誰もが思っているけれど、男はそうは思っていないようだった。何故繰り返すのかと尋ねても、約束したからだなんて妄言とも戯言ともつかない言葉を返すばかり。残念ながら、その言葉は紛れもない真実なのだけれど、男がディーラーとの勝負に勝つことが出来たら個人的に御近付きになれるなんて、ありとあらゆる意味で有り得るわけが無いと考えるのが普通だろう。

 あの指先が胸倉を掴む。抵抗する間も無く引き寄せられて身体が傾く。思わず手をついたテーブル。載っていた硬貨や札束、トランプが乱れてしまう。構わず縮まっていく互いの距離。気付いたギャラリーが何事かと囁きを交わしている。成人男性二人でする格好ではない。何をされるのかと強張る。視界に入るのは元の色を知らない髪。ふわりと感じたのは仄かに甘い香り。耳にかかる吐息。翡翠が大きく見開かれる。抛り捨てるように放された胸倉。温もりの残るそこを、今度は自分の手で掴んだ男がぽかんとディーラーを見つめると、挑発的な笑み。嫣然としていて、誘われていると思った。囁かれた言葉を復唱し、その言葉は本当かと問う。頷くディーラー。輝く翡翠。上がる口角。いよいよ面白そうに男は笑う。上等だ。待っている、だなんて。初めて聞いた声。初めてゲーム以外で聞いた声、言葉。男にしか聞こえなかった、男に向けられた言葉。冗談めかしてはいたが、冗談には聞こえなかった。御伽噺の中のお姫様のようだ。此処で待っているから迎えに来いだなんて。とんだ姫君だ。不遜な物言い、振る舞い、容赦の無い手腕、どれをとってもロクな人物じゃない。それなのに、ふとした瞬間に翳る双眸が、表情が、どうしようもなく目に留まって目蓋の裏に焼け付いて消えないのだ。どろりと、からだの中に何かが滴った。

 依然として男とディーラーの関係に変化は無い。相変わらず負け越している懲りない常連客と相変わらず勝ち越している手加減を知らないディーラー。手加減は、敢えてしていないのかもしれないが。兎に角、男は未だディーラーに勝てていなかった。微かな変化を挙げるなら、なかなか面白いゲームを展開するようになったことか。あっさりと負けることは少なくなり粘るようになった。そしてふたつの視線が絡むことも、おそらく気のせいではなく、多くなっていた。当人同士でないとわからない機微。終わらないこの賭けを楽しんでいるような。何時この賭けが終わるのかと期待しているかのような。軽口を叩き合いくだらない冗談を笑い合う程度には和やかな雰囲気。

 今まで男がこの場所で落とした金の総額はどれほどなのか、本人は気にしていないようだが周囲からしてみれば、それがいくら大企業の御曹司であろうと由緒ある家系の末裔であろうと、一個人と御近付きになるために使う量ではないことは確かだった。

 何事にも終わりというものは訪れるものである。いつも通りの風景が、やはり在った。相変わらずの図。懲りずに描かれ続ける画。麗しい金と銀。その中で、いつもと違うものといえば。

「は…、」

丸い双眸がふたつ。呆けたように吐き出された音も、ふたつ。

「え、これ、」

テーブルの上に抛られ表を開かれたカード。男側のカードは数を満たし、ディーラー側のカードは数が一つ足りていない。その光景は、何時ぐらいぶりか。今日も今日とて同じ結果だろうと、退屈そうに一騎打ちを傍観していたギャラリーが俄に騒がしくなる。瞬く翡翠。震える唇はどちらのものか。

「俺の」

「お前の」

重なる声。伸ばされる指先。

「勝ちだ」

男の手がディーラーの手を掴む。何時かのように縮まる距離は、しかし今回引き寄せられたのはディーラーの方で。手のひらから落ちていくカード。乱れる机上。構わずに、男は掴んだその手を引く。そうして、停まる頃には掴まれた指先に、手の甲に口付けられて、ディーラーのその滑らかな頬に朱が滲んでいった。初心な反応に思わず破顔した男を、わらわれたと思ったのだろう、ディーラーは恨めし気に睨め付ける。そんな顔で睨まれたところで、こわくも何ともないというのに。男の笑みは益々深まる。手を掬い上げたまま、芝居じみた言葉を吐く。

「お迎えに、あがりました」

惚れ惚れするような、完璧な表情、所作。照明が絞られていても分かるほど頬を染めたディーラーは答えない。

「……見惚れました?」

「っ!」

弾かれるように男と距離を取ろうとするディーラーだが、男が手を離さなかった。小さな舌打ち。ギャラリーの視線が集まっている。しかしその騒めきはどこか遠くに聞こえて。

「…、随分と、遅いご到着だったな」

「でもずっと待っていてくれた」

「待ちくたびれた」

「それは、大変申し訳御座いません」

翡翠と絡まない紫水晶の視線はうろうろと宙を彷徨っている。それとは正反対な、凛とした佇まいと口調はせめてもの抵抗なのだろう。初めて見る反応。微笑ましくて、愛おしくて、口角が下げられない。周囲にひとがいるなんてそんなことどうでもいい。押し殺そうとして失敗した感情。零れ落ちたそれを拾い上げて呑み込んでしまえば。

「…それで、どうする?」

「と、言いますと?」

にやりと、今までのものとは異なる笑みを零す男。

「わかっているくせに」

意地の悪い。小さく吐かれた悪態。構わず、するりと頬をなぞる手。細められた双眸は心地よさに因るものか。きらきらとしていて、綺麗だと、思った。きっと、どんな宝石にも負けないだろう、なんて柄にもないことを。

「それじゃあ、遠慮なく」

ひらりとテーブルに乗り上げる。膝をついた所為で、目線がディーラーよりも高くなり、その双眸を覗き込むかたちになる。テーブルが小さな文句を言った。ギャラリーの中からは祝言とも呪詛とも罵倒ともつかない言葉が飛んでくる。やはりこのディーラーに魅せられていたのは男だけではなかったらしい。ざまぁみろ。横目でギャラリーを流し見て男は胸中で笑う。添えられる手。絡まる指。そして近付く互いの唇。反射的になのだろうか、閉じられた目蓋によってその宝石を覗き込むことは出来なくなってしまったけれど、生娘のようなそれは充分過ぎる程に男を撃ち抜く。

「いただきます」

重なるふたつの影。やわらかな感触。ようやく手に入れた温もり。しあわせそのもの。

「……おにいちゃんは、許しませんよ」

あぁしかし。どうやらその前途は多難らしい。

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