top of page

 目蓋を開いて、視界に広がるのは白い光。ぼんやりと、やがて焦点が定まり落ち着いて来ると、眼前には昨日と何も変わらない風景が横たわっていた。はらはらと降り注ぐ花弁は動かされることの無いからだに留まる。遠くにぽつぽつと浮かび上がる灯りを綺麗に照り返すその白はすべてを呑み込む夜の帳の中でさえ溶けることなく存在を知らせる。月は出ていない。相も変わらず海原へ繰り出すことが許可されない日々を過ごしているものは目に見えて内側へ沈み込んでいるようだった。朝を重ねる毎に感情が摩耗しているような気を起こさせる。少し目を離せばふらりと何処かへ消えてしまいそうな危うさすら感じさせていた。それこそ、シンと凪いだ海の底へ深々とそのからだを投げ出すのではないかと。
 朝の朝礼や――あまり意味は無いが――軍議はおろか食堂にすら顔を出さない艦は使われていない部屋や人気のまだ少ない士官室なんかの隅の方で小さくなって茫洋と時を眺めていた。時には砲の影や艦橋の屋根に居た。勿論点呼召集への参加も何も無い。囚われているわけでもないのに――否、この入り組んだ北の果てに繋がれて囚われているようなものなのだろう艦は、正しく囚人の様な体を晒していた。また、それはこの艦の乗組員たちの心情も拾い上げてのもので相違無かった。放たれることの無い砲も切られることの無い舵も、すべてが彼らにとっては不服で、不満なものだった。もしもの時に備えて行われる訓練にも何処か気怠げな空気が漂っていた。
 使われず、外気にさらされるが儘の場所は錆び付きやしないだろうかと。時間だけは有り余っている場で、整備は十二分にされているのだが――如何せん艦自身があの状態なのだから、不安は拭い切れない。行く場所も無く、帰る場所にも帰れずに、ただ何時か来る最期の時を待つしかないその身はあの気高い姉によく似て威風堂々とした姿ながら何処か頼り無げに見えた。
 居ないのだと。もう居ないのだと、知った。まだ肌寒さの残る春頃、共に並び立ったあの日はもう二度と訪れないのだと事務的に告げられて、絶望しないものが居るだろうか。成果を急ぎ、早まった結果があの大きな損失だった。せめて自分か、或いは歴戦のあの姉妹が共に行動していれば、あんな悲惨な結果は訪れなかっただろうにと、何度も思った。駆け抜けていく風が冷たいと、幾度も思った。戦況は逆立ちして見たって良くない。新聞やラジオが囀る未来なんて霞んで見えもしない。それならば何の為にあのひとは沈んだのかと。自棄にも近い思考が理性を噛み砕きにかかる。また視界が滲む。こんなことになるなんて想像すら出来なかった。持てるすべてを織り込まれた、最強と謳われた艦が沈むなんて。運命の悪戯とやらも、勿論あるだろう。寧ろ運が悪かったとしか言いようのない事態に見舞われたらしいではないか。だとすれば、自分も沈むのだろうかと、そんな思いが脳裡を過って、しかし自分まで沈んでしまうわけにはいかないと、唇を噛む。見えない。何も見えず――寧ろ、自分一人がこのまま生き延び、世界に居座り続けるとしたなら、そんな世界は見たくない。此方から願い下げだと。ならば自ら沈むのかと、そんなことは許されない。相反するふたつの感情を抱えて、ひとり残された艦は今日も嗚咽する。
 抉られた腹は存外深く深く、それは勿論、痛みを伴う。焼けるような痛みと刺すような冷たい水に晒され、確かに憔悴し始めていた。傷は酷く痛んで、姉もこんな風に痛かったのだろうかと。
「嗚呼――痛い。痛いです……こんな、貴女は、」
もう泣くものかと決めた、あの別れの日だけだと決めた筈の涙は、止められなくなっていた。ほんの少しの間の別れだと思っていたから。また会えると思っていたから。それなのに。誰にも責められない。いくらその容貌が幼児の姿を脱しているヒトガタとは言え――その中身は生まれたての、未成熟な幼子から幾何か経った程度と言っても差し支え無いのだから。数多の場数を踏んだわけでも無く、数多の波に分け入り進んだわけでも無く、そして突然姉を失い北の海の奥にひとり佇むことになったものを、如何して誰が責められようか。軍人とて人の子である。家族が居る。手を取り合って間も無い、これから共に歩んでいこうとしていた家族を失うなんて。
 声を、聞いた者がいる。空を撃ち抜くような悲痛な声を、聞いた者がいる。いつも通り、寒い日の晩のこと、嗚呼と慟哭する声が、あの名を呼ぶ声が、聞こえたのだと。
「嗚呼どうして、どうしてどうしてどうして、なんで貴女が、貴女が居ないんですか。なんで貴女が沈むんですか。なんでですか。なんで貴女が居なくて、なんで僕が居るんですか。どうして貴女が居なくなって、そんな、だって沈まないって、沈むはずが無いって、せかいでいちばんのふねだって、そのはず、なのに、だったのに、なんで、どうして、」
哮える、その濡れた声は、迷子のようだったと。
「どうして、どうしてこれから生きていけと言うんです!どうやって!この真っ暗な、何も見えない世界で! 明日が来るかも分からない世界で! 何時どうやって訪れるかも分からない最期を!ひとりで!たったひとりで!待つなんて! 僕は、僕は!そんなのは!」
閉じるのではなく、その手で覆った世界。滲んだ視界はひどく見辛く、霞んだ世界はひどく味気無く、それならばもう何も見たくないと、そうしたのは、ごく自然な成り行きと言っても良いだろう。そうして此処は何処だと哮える鋼鉄の巨獣の夜は人知れず更けていく。
「嗚呼――独りは、嫌ですねぇ…」
啼き疲れ、眠りに就いた獣は朝陽の光と温かさで目を覚ます。昨夜の咆哮など無かったかのように緩やかにからだを起こして、ぽつりと呟くのだ。その声を偶々聞いた者は言う。それは、その声は穏やかに凪いだ海のような声だったと。
 生まれはそれぞれ違う場所だが、ふたりは確かに互いにとって唯一の存在だった。多少の差はあれど、その身に負った役割と期待は違わぬもので、それは重荷であると同時に必要とされているのだという確証であり喜びだった。けれどそれをふたりで分け合うことも、もう出来ないのだ。それだけではない。並んで立つことも歩くことも話すことも触れ合うことも、もう何もかも出来ないのだ。悲しさと、寂しさと、恋しさ。そのすべてを箱に詰め込み、鍵を掛ける。この戦いが終わるまで。少しの間。さよならをしようと。そこで、岸辺の日陰になっている場所に咲いている、季節外れの花を一輪、見つけた。手折ったその花に口付けて、微笑んだ。
 つくりものは夢を見るか。つくりものの見た夢は、それはやはりつくりものなのか。その問いは、人にだって言えるのではないかと、思った。人は人から生まれた――つくられた――ものなのだから、その問いは造られた自分たちだけに向けられるのは、おかしいのでは、と。だから、夢は陽の出ている間にだけ口にするようにした。夜は、何もしらないフリをした。語る相手も、聴いてくれる相手も、もう居なかったから。何時か見た夢は、結局潰えて、書類の裏で囁き合った理想なんて、夢のまた夢の先なのだと、枯れ朽ちて。
 ただ一緒に居たかった。ただ一緒に歩いていきたかった。けれど、それすらも許さない時流はいとも容易くその手を切り離した。嫌な音がする。飛行機の飛ぶ音。風を裂く音。何かの爆発音。聞き覚えのある声が引き攣れている。嫌な臭いがする。油の臭い。鉄の臭い。血の臭い。あれ程閑散として暇を持て余していた艦内は地獄絵図と化していた。炎が舞い埃が舞い人が舞う。抵抗らしい抵抗も儘ならない。切り崩されていくからだ。威風堂々と謳われた海上の要塞も、所詮は鉄や何かで出来た創造物にすぎないのだ。がらがらと音を立てて、水柱を立てて、崩れていく。
 傾き、逆様になった艦のその中には未だ多くの命が取り残されている。しかしおいそれと脱出することは出来ず、光も届かず行動の自由も少なくなったそこは、牢のようだと形容しても何ら違和感を感じさせない空間となっていた。けれど、ひとりごちるものはわらっていた。
「まぁ、貴女が居ないのなら、何処に居たって孤独なんですけど――えぇ、同じ海に居るから大丈夫だなんてそんな気丈なこと、言い続けられるわけ無いですよ。僕はそこまで良く出来て無いですからね。出来るなら一緒に居たいですよ。それに越したことなんてないんですから」
がり、と食んだものは鉄臭い。そんなことは気に掛けず、ゆらゆらと揺れる光を背にして眼下を臨むものは、ただ姉が今も何処かで――深い深い海の底であったとしても――笑ってくれていれば良いと、望む。波を泡を掻き分けて、昏い海の底で酷い格好で出会ってもまた、笑ってくれれば良いと。あのやわらかな微笑で迎えてくれれば、それで良いな、なんて。
 明日は晴れそうだと、若い水兵が鼻歌混じりに呟いていたのを、揺蕩いながら思い出した。あの水兵くんは無事だろうかと思い、同時に、明日が晴れかどうかは自分には関係の無いことだとも思った。明日が晴れだろうと大雨だろうともう自分には関係が無い。動けなくなり、このまま風化していくだけとなった自分に明日の天気等、関係が無い。艦としての存在意義を失い、ただの鉄屑と成り下がったことで、かたちが保てなくなっていく。遂に大海へ舞い戻ること日が無かった艦は、けれど、それでも今までそのかたちを保っていたのは、単に、姉が愛した世界を、姉と同じように愛していたからなのだろう。徐々に、ぼんやりと意識が遠退いていく。これが終わりなのだろう。次に目が覚めた時、自分は何処に居て、何を見るのだろう。あのひとには、姉には、会えるだろうか。会えれば良い。目を閉じる。会いに行くために、目を閉じるのだ。意識が心地良い波に浚われていく。波と波の間に溶けていく意識は、微かに懐かしい温もりを捉え始める。
 声がする。ずっと聴いていなかった、あの声。都合の良い、幻聴の類だろうかと、思ったけれど。
「――あぁ、そんな、だって、あぁあああぁぁあぁあああぁぁあ!」
その声は確かに輪郭を持っていて、目蓋を開いた、その目の前には、ひどく焦がれた姿が――困ったように眉をハの字にした微笑を浮かべて此方を覗き込んでいる、姉が、いて。どうして泣かずにいられるだろうか。手を伸ばして、髪に頬に触れる。擽ったいと細められた瑠璃の双眸は相も変わらず美しく。その手に重ねられた手は相も変わらず細くしなやかで。見間違う筈無く、これは現実なのだと。再びぽろぽろと溢れ出した涙を見た姉は、帽子を取り、優しく額を重ねた。
「頑張ったな、ティルピッツ」
ふわりと鮮やかに蘇るのは幸せだったあの頃。否。今だって幸せだ。
「ずっと、これからは、ずっと一緒に、」
「あぁ」
そして、これからも幸せだ。

​BGM:キミナシビジョン(KulfiQ)

bottom of page