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 呑まれる――そう、思った。本能的な警鐘。直感的な危機。眼前で炯々としている隻眼。思考の裏側まで掬い取られてしまいそうな、虚。その眼底に渦巻いているものの名を、男は知らない。歪な笑み。濁った光。ぎりぎりと込められていく力に腕が軋む。堪らず漏れる呻き。それを拾った隻眼の男はこの状況で嫌味なほど綺麗に笑って見せる。口角を上げて見せる。開かれた唇から零されるのは悪魔の囁きにも似た言葉。呑んではいけない。呑まれてもいけない。これ以上を許しては、いけない。逃れられないこの場で出来ることと言えば、極僅かなのだが。それでも。

 隻眼を睨め付けると、深められる笑み。その、胡散臭いこと嘘くさいことこの上ない。何故兄はこんな男を傍に置いておくのか。理解できない――と言うよりもしたくない、のかもしれない。背中に当たっている壁の冷たさはとうに消え失せている。こんなことになって、まだそれほど時間は経っていないはずだが、もう背中に心地良い冷たさは感じられない。外界と触れ合う箇所は熱を伝え、しかしその内側は冷えていくような。此処に長居はしたくない、と思った。

 小さく震えているからだを見止めた隻眼はうっとりと細められる。塞がっていない方の手が唇を捉え、なぞる。背筋を這うものは。思わず零れた声。制止の声は聞き流され宙に溶けて消えた。自分たちの他に人影は見えない。叫んでも喚いてもこの状況が簡単に変わることは無いと思われる。それは、当たり前――なのだろう。元より人気の少ない場所だ。ヒトの喧騒を嫌う人物がこの道を選び進むことを予想するなど容易い。隻眼の男は知っていて此処でこんなことをしているのだろう。用意周到にして迷惑極まりない緻密な計画性。そこに甘やかな毒のような性格と表情と言葉。芝居がかった演技臭い所作。手の内など見せることは無い。信用に足るとはとても思えない。信頼できるとは、思えない。そんな男の険しい表情を前にしても隻眼の男は態度を変えることがない。此処がホームと言う点で有利なのは男の方である筈だというのに。蛇に睨まれた蛙の、蛙の方だとは思いたくないが――否定できないのが現状だ。視覚。聴覚。嗅覚。感覚のほぼすべてが隻眼の男に向いてしまっている。鈍い眼光は燻る黒炎。掠れた囁きは蝕む狂気。纏う匂いに隠しきれない鉄錆と硝煙の臭い。這いずる蛇のような不快さを残す、不躾にからだを辿る指先。残された片腕でできる抵抗などたかが知れている。誹ったところで意味は無く。詰ったところで隻眼の男の筋書き通りなのだろう。しかしこの状況を脱するには、そのくだらない筋書きに乗ってやるしかないらしい。大丈夫。選択肢さえ間違わなければ、大丈夫だと男は目の前の隻眼を睨み付けた。

「――何か、用か」

嫌々絞り出すように発せられた言葉。それでも満足そうに、隻眼の男は答えるために口を開く。

「えぇ、えぇ――それは、もう、大切な」

背が粟立ち腹の底が波立つ。何故そんな声でこんな耳元でそんな風に音を発するのか。ただの政治的なものでは無いものまで含まれていることが、鮮やかに受け取れる。しかし隻眼に宿るそれが何であるのかを男は知らない。それと同時に、知ろうともしないだろう。だからこそ隻眼の男はその端正な顔を歪める。

 立つ場が違う。吐く意が違う。容姿、思考、地位、身分、出身、生立ち、願望、その他――何もかもが、違う。それは摂理としてごく当たり前のことであるが、その違い故に相容れないことが歯痒く、手を伸ばせば届くであろう場所に見えているのに手を伸ばすことは叶わず、また、自分と同じ出身、学舎の出、人種であるはずにも関わらず、つい先日の邂逅でつい最近の実績で――よりによってあの旧友と――急激に急速に距離が縮まっているなど、予想は出来ていたとしても信じたくないことで、しかも一度でも此方に向けられたことのない双眸があの緑に向けられて固定されているなど、そんなこと――現在仕えている主ではないが、どこで手を間違えたのかと、隻眼を細めたところでどうにもならないことは当人が一番よく解っていることだが、それでもゆらりと手を挙げる炎の色は濁り淀んでいて、苛立ちと焦燥と欲望だけが堆く積み上がっていく。

 まるで底の知れない海のような碧眼に覗きこまれている眼球が、奪われそうだと脳が警鐘を鳴らしている。何が、などとは分からないが、きっとロクでもない、奪われるわけにはいかないものだろう。肉を切らせて骨を断つというくらいの覚悟が無ければ国を治めるこの名は背負えない。壁とその身体に挟まれたからと言って――それが何だと言うのだと改めて唇を引き結んだ男は、ぎりと隻眼を真正面から睨み返した。その視線を、なぜか至極嬉しそうに受け止めた隻眼の男は相も変わらず笑っている。その表情が、いつか絵画で見たどこか茫洋と焦がれる婦女子のそれとよく似ていて、男はほんの一瞬だけ目を丸くした。ほんの一瞬だったのは、無理もない。視界がやけに急に翳ったと思ったら、先程まで睨め付けていた碧眼が、睫毛の触れるような距離にあったのだから。先程まで敢えて聞き流すような言葉を吐いていたかたちの良い唇が、またいつものように綺麗な弧を描いたと思ったら、自分のそれと重なっていたのだから。

「――ッ!」

反射的に、片腕でも、細やかでも、今この状況で出来る限りの抵抗を咄嗟に始める。零になった互いの距離をとろうと健気にも奮闘する姿を捉え、うっそりと細められた隻眼。べろりと唇が湿る感覚にちいさく震えたからだが可愛らしいと思った。文字通り、目の前にある睫毛が震えて目蓋が閉じられる。今まで大切に大事にされてきたのだろうなと――そして、現に今もされているのだろうなと――容易く考えられる。いくら鉄のにおいを硝煙のにおいを纏っていようと、その本質は変わらず無垢で純粋な存在だということを、その隻眼は見透かしている。それを汚す――汚すことが出来ると言う仄暗い愉悦。おそらく、未だ何人も踏み入れていないところまで、今からこの足を手を伸ばすのだ。

 壁に縫い付けていた腕を放す。放して、そして自由になった腕で相手の身体を自分の身体に引き寄せた。腰と後頭部に手を回して、まるで恋人のような。しかし重なった唇はそのままで、明らかに一方は一方を拒んでいた。幾ら啄む角度を変えようと舌を押し付けようと決して開かれることはない。するりと首筋に下りる指先。項を辿っていく、人肌とは違う、手袋に包まれた指先の感触に肩が跳ね声が漏れる。その僅かな隙間を、待ち伏せていたものが見逃してくれる筈など無かった。ずるりと意思を持った動きで入り込んでくる、自分のものではない生温かな質量に、堪らず目が潤む。噛みついてやろうにも頤はいつの間にか先程の指に捉えられていた。からだを押し返そうにも腰を引き寄せられ脚の間を器用にも割り開かれては出る力も出なくなる。意図せず零れ落ちる声が恨めしいと思い、またこの薄暗い空間とそれに誂えたような、控えめなくせに十分な淫猥さを持つ水音が忌々しいと思った。これではまるで悦んでいるようではないかと、思った。逃げても追われ捉えられ絡まれ吸われ擦り合わされ、堪能される。飲み下せず――飲み下す気は、さらさら無いのだろうが――溢れた、どちらのものともつかない唾液は白い肌を伝いてらてらとした軌跡を残して零れ落ちていく。痺れているのはどこの感覚なのか。溺れているのはどんな意識なのか。音を感覚を、現状の全てを拒絶するように固く閉ざされた目蓋や僅かでも隙あらば反撃をしようと震える頤。脚を割られ腰を抱かれ、いつその場に頽れてもおかしくないだろうに健気に踏み止まろうとする意志。本人にそんな気は毛ほども無いのだろうが、その表情、姿はいじらしく愛らしく淫靡であると、わざと聞こえるように水音をたてて離された唇は弧を描く。呼吸を整えるために上下する肩。ようやく垣間見えた双眸は蕩けて零れ落ちてしまいそうな夜明けの色。溢れ伝う軌跡を辿るように拭っていく指先を、そのまま薄く開かれたままの唇をなぞり不躾にも咥内へと滑り込ませた。がり、と鈍い音がして指に痛みが走る。手負いの獣のような双眸を捉え、隻眼はやはり面白そうに細められる。噛まれた指を抜き、己の唇へと運ぶ。紅をさすように動くそれはかたちの良い半月の上を滑り、それをてらと光らせる。

「貴方様は、なんて――甘美な贈り物を与えてくれるのでしょう」

噛まれた場所に唇を重ねて見せた隻眼の男は言う。

「私たちの側に貴方様があってくださればいいのに。それが幸せというものでしょう?」

鈍い青と潤んだ紫が混ざり合う。

「この、美しい右目を抉って、お揃いにしてみましょうか」

ぞろりと舐め上げられた箇所に肌が粟立った。

「私と同じように、ココを抉って――あぁそうだ、同じ眼帯を誂えましょう。そうしてオソロイにすれば、貴方様がどちらに立っている人間なのか、一目で、周りに言わずとも伝わるでしょう?」

その言葉の裏に綴られているものは。

「そうですね、えぇ、私が抉って差し上げましょう。私が貴方様の右目を刳り貫きましょう。刳り貫いて、そしたら、その右目を私に与えてくれますよね? そうすれば私は――私は勿論、貴方様に、ひいては主様にしあわせになっていただける。そんな気がしてならないのです。あぁもちろん、抉る際には主様に許可を頂きますが――大丈夫ですよ。きっと許してくださいます。だって主様は貴方様のことを誰よりも愛しているのですから」

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