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 これはふたりだけの秘密――とは実に甘美な響きを孕んだ言葉だと思う。例えば二人だけで木の実を頬張った時だとか、二人だけで少し離れた山の中を探検した時だとか。共犯者以外に知れてしまったら、大なり小なり不都合なことを隠すには不可欠な秘密の共有約束。

 男が、まだ小さな子供だった頃、好奇心に誘われて踏み込んだ山で迷子になったことがあった。今思い出しても苦い思い出である。何も知らない子供だったのだ、と誰にともなく言い訳をする男の姿を知っている者は一人しかいない。

 その少年は青々とした葉が色付き始めた晩夏の山へ、その美しさを追うように迷い込んだ。一人で山へ入るなと言われていたのに――である。どうしようと胸が苦しくなる。兄弟や師父に心配を、否、バレないうちに帰らなければ。少年の額に冷や汗が滲む。周囲を見回しても己の目が捉えるのは同じような風景ばかり。高く幹を伸ばし、広く枝葉を広げた木々。降り注ぐ陽光はいつの間にか赤みを強めている。シャクリと足が踏み捉える地面には、頭上の枝から落ちてきた黄色や赤色の葉が広がっている。もちろん、雪や細かい砂ではないので足跡が残っているわけがない。鳥の声や虫の羽音が聞こえる。聞こえはするが、その姿は見られない。

「ぁ――、誰か、」

ようやく絞り出した声は、けれど誰かに届くとは思えないものだった。傾いた赤い陽光が山を染め上げる。ただでさえ赤を纏う山が更に赤く、燃えるように照らされる。日が高い時には美しいと思っていた山の景色も、不気味に思えてきた。空の色も沈んでいく。生き物の鳴き声だけではなく、風の音すらも恐怖を煽る要員となっていく。

「誰か……誰か!いませんか!」

今度こそ、大きな声が少年の口から出た。あまりの心細さに、叱られてもいいから兄弟か師父に見つけて欲しいと思ったのだった。誰か、と少年は震える声でもう一度叫ぶ。しかし少年の声に答えたのは、求めている聴き慣れた声ではなかった。

 ガサリと草木の擦れる音と、地面の落ち葉を踏み締める音が聞こえた。鹿や兎なんかの、ちいさな動物ではない。ガサガサと音を引き連れて近付いてくる何かに少年は息を呑む。何時でも逃げ出せるように足を開いて腰を落とす。ともすれば溢れそうになる涙を手の甲で必死に拭いながら、音の方をしっかりと見据える。誰そ彼、と問わねば人影が何者なのか判らなくなる時分、少年に近付いてきたその影は紛うことなく人のかたちをしていた。

 茂みを掻き分け現われた青年は、至極訝しげに眉を寄せて、少年をジッと見ていた。

「……迷子?」

青年の口から思わず、という風に言葉が零れ落ちる。鬼が出るか蛇が出るか、と気を張っていた少年は自分と同じ、人間の登場にホッと胸を撫で下ろしていた。同時に、独りではなくなった安心感からか、堪えていた涙がボロリと溢れ始める。嗚咽はまだ出ていないが――少年の涙を見て慌てたのは青年の方である。

「な――、あ、あぁ、大丈夫! もう独りじゃないから、ね?」

寄せていた眉間の皺を解き、困ったような顔で踏み込み一歩分ほど開いていた距離を詰めて、青年は少年の目線に合わせて地面に膝をつく。とうとうしゃくり上げながらゴシゴシと乱暴に目元を拭う手を退けさせ、優しく目元を己の服の袖で拭ってやる。大丈夫と優しく声をかけてやりながら、まずは少年が落ち着くのを待つ。その間に、見かけない顔と服装で、もしかしてと目星を点ける。日は随分と落ちてきていたが、近い道を選べば日が落ちきる前に返してやれるだろうと考えた。なるべく穏便に、対処してやりたいと思ったのだ。

 少年が落ち着いてきた頃、青年は立ち上がって手を差し延べてやる。

「さ、そろそろ山を降りよう。歩ける?」

「え――あ、は、はい」

差し出された手に目を丸くした少年は、しかしそれでも素直に青年の手を掴んで歩き出した。一瞬驚いていたとはいえ、手を引かれることに慣れている様子の少年をチラと見た青年は、きっと弟か末っ子なのだろうな、と呑気なことを考えた。対する少年の方も、手を引き慣れている様子の青年をソッと見て、きっと兄なのだろうな、と同じようなことを考えていた。

 グズ、と少年が鼻をすする音に青年が視線を遣る。

「あ、いえ。なんでもない、です。大丈夫なので、気にしないでください」

青年の眼が自分の方に向いたことに気付いた少年が大丈夫だと健気に主張する。

「――……」

そんな少年の様子に何を思ったのか、青年は立ち止まり、握っていた手を放す。そして、背負っていた籠をその場に下ろして中を探りだした。何をしているのかと少年は青年の様子を窺う。下ろされた籠の中には、山で採ったのだろう木の果実や茸、山菜なんかが入っている。食べ物にしても、数人分はあると見えた。そんな籠の中を掻き回していた青年は紅い珠を掴み上げ、少年に差し出した。薄暗い森の中でもわかる、鮮やかな色。

「……貰っても、いいんですか?」

「他にどうするんだ? 腹が減ったら食えばいい。そうでなくても――気を紛らわせるくらいにはなるだろう」

少年の手に赤い果物を握らせて籠を背負い直し、立ち上がる。ごく自然に伸ばされた青年の手を、少年は貰った果物を片手にこれもまたごく自然に握った。サクサクと枯葉を踏んで歩く音が再び始まる。

 地面の傾斜が小さくなってきたな、と思うと視界が拓け、見覚えのある道に出た。兄弟や師父たちと共に、時々通る道だ。今度こそ帰ることができると少年は青年の方を見上げる。青年の方も軽くなった少年の雰囲気に気付いたのか、繋いだ手の方を見ていた。

「ここからは一人で大丈夫か?」

「はい!」

「そうか。じゃあ気を付けてな」

「はい! あの――えっと、ありがとうございます。本当に」

面映そうに礼を述べる少年に、フッと青年の表情も緩む。また、目線を少年に合わせると悪戯っぽく言った。

「今日のことは二人だけの秘密にしよう」

山に迷い込んでいたことをひとに知られたくない少年はすぐに頷く。

「私に会ったこと、果物を貰ったこと――もちろん、山に入ったことも、誰にも言わないように。どうしたのかと訊かれたら、そうだな……いつの間にか同じ道をグルグル歩き回ってしまっていた、気付いたら帰ってきていて果物を持っていた、とでも言えばいいだろう」

 日が沈み切るギリギリで帰ってきた少年を見た兄弟たちは何処で何をしていたのかと目を潤ませて詰め寄った。師父はその間彼らを見ていただけだったが――やはりその眼は鋭いものだった。おずおずと進み出て謝罪と、青年に教わった説明を披露する。ジッと見詰められる居心地の悪さにツキリと胸が痛んだ。すべてを見透しているような師父の視線に、少年は首を竦める。師父が口を開き、やはり怒られるのかと覚悟をした。が、告げられたのは、そうか、と静かな一言だけだった。細められた目元が心なしか優しげに見えて、少年は目を丸くする。あ、と小さく呟いたところで師父は既に背を向け歩き始めていて、少年は兄弟たちに囲まれて動けなくなっていた。披露した説明の詳しいことや、その果物は美味いのか、なんかの質問が矢継ぎ早に飛んでくる。そうこうしているうちに師父の背中は見えなくなってしまった。

 結果として自分から迷子になったことは二人だけの秘密になった。青年の方も、誰にも言ってくれていないらしい。互いの正体がわかった後、顔を合わせた時は驚きを隠せなかった。年下の門弟を慈しむような眼で見られたことは思い出したくないことだ。その後も、ふとした拍子にそんな眼をするから意地が悪い。だが、いつからだろう。彼の眼に映っていることが心地いいと思うようになったのは。自分を映した後、伏せがちになる目とそれを覆う目蓋、震える睫毛を見て胸が大きく弾むようになったのは、いつからだっただろう。

 珍しく得た自由な時間を、しかし持て余し、散歩としてフラリと踏み入ったのは件の山だった。少し山を歩いて時間を潰そうと考えたのだ。

 あれからもう随分と経ったような気がする。そもそも人里離れた場所だ――娯楽施設など近所にあるわけがない。

「――おや、」

あの時のように色付いた木々を見上げながら暖色の絨毯を踏んで歩いて行くと、自分とは違い、色素の薄い髪が背を飾っている、見覚えのある背中が見えた。足音も気配も隠さずに近付く。

「珍しいこともあるものだ」

振り向いたのは、やはりあの時手を引いてくれた青年。少し拓けた場所に佇むその姿は降り注ぐ陽光を受けて眩しく見える。以前よりも少しだけ鋭くなったように思える双眸が僅かに丸くなっていたのを、見逃すことはなかった。だがそのことを態々口にすることはせず、ヒョイと軽く片手を挙げて笑う。相手もまたフ、と口元を緩めて応じてくれた。サク、と足の裏が地面を捉える静かな音に混じって、元気のいい足音と声が少し離れた場所から聞こえてくる。視線を音のした方へ遣り、目の前の人物に戻す。

「……やんちゃ坊主のお守り、ってところかな」

笑みを含ませながら言うと、相手の顔が微かに困ったように歪んだ。少なからず、手を焼いているらしい。

「そう、言ってやらないでくれ。確かに元気は良いが――いい子でもある」

「それはすまない」

血の繋がった兄弟を、というよりも近所の子供――門弟という方が、彼らには身近だろう――を気にかけるお兄さんのような眼をする。自分にも向けられたことのある眼。偶に顔を合わせたとき、未だに数度向けられる優しい眼。あぁ、変わらないのだな、と思っていたところで姿の見えない声が目の前の相手の名を元気に呼んだ。草木の向こう側から聞こえてきた、未だ声変わりを終えていない瑞々しい声。それに返事をしたひとは、ごく自然に足をそちらへ向ける。

「では――今日はこの辺で、だな。またいつか」

一言、横顔だけで別れを告げて木々の奥へ消えていこうとする背中に、平生を装って声をかけた。

「あ――ちょっと、少しだけ」

その声に、数歩踏み出していた足は止まり、頭上に疑問符の浮かんだ顔が再度こちらを向く。なるたけいつもと変わらぬ、人当たりの良い微笑を浮かべて、警戒されぬよう、あの若い声に目の前の者の関心が占められたことに仄暗い感情を持ってしまったことを悟られぬよう、大きくなった少年は仕掛ける。

 ふたりの距離が近付いて、重なった。触れ合う唇は乾いていた。間近になったあの目は丸く見開かれている。そのまま少し角度を変えて下唇をユルリと食んでやれば、思い出したかのように身体を離そうと抵抗を始めた。しかし体勢からか知り合いだからか本気で殴ることはできないらしく、腕を突っ張ったり肩を叩いたりという、それはそれは可愛らしい抵抗だった。口角が、知らず、上がる。二本の腕をそれぞれ背と腰に回し、無防備に開いていた両足の間に己の足を一本、滑り込ませる。ちいさな火種を煽るように腰を背筋を撫でてやれば、やめろとくぐもった呻き声の合間に熱を逃がすかのような吐息が溢れる。あ、と掠れた声がした、その時に開いた口内へソッと舌を差し入れてやると、伏せがちだった双眸が遂にギュッと目蓋に覆われた。はしたない水音をさせてやると、かたちばかりの抵抗をしていた両手が力なく縋り付く。神経を侵す水の音。堪えきれず、合間に落ちていく鼻にかかる吐息。喘ぐ口の端から銀の雫が一筋垂れていった。

 最後にひとつ、音を立ててから放してやると、フラフラと覚束無い足取りで後退った。一歩後退る度にザッと地面の枯葉が騒ぐ。頬を上気させ潤んだ目で突飛なことをした者を精一杯睨めつける。手の甲を唇に押し当てているその姿は、愛らしくも艶めかしい。いきなり何をするのかと、視線が訴えていた。何故でしょう、と小首を傾げながら微笑を浮かべ答える。

 そうして、男は徐に口を開く。細まった双眸で相手を捉えながら、ひどく穏やかな声音で提案した。

「これは――もちろん、私とあなた、二人だけの秘密にしましょう?」

あの日、目の前のひとに言われたことを己が吐く。

「私に会ったこと、私としたことを、誰にも明かさないで二人だけの秘密に」

「言えるわけが、ないだろう……!」

そうですか、と余裕を見せながら笑う男を見て、あの時の少年がいつの間にこんな男になったのだ、と息を呑む。目の前にいる者は強いと直感が告げる。だが、男とその強さに惹かれている自分がいることも、また確かだった。しかし惹かれているなど――認められるわけがなかった。そんな胸中を知ってか知らずか、少年だった男は柔和に微笑んで後退する。それは実に紳士じみた所作だった。

「時間を、ありがとうございます。では、またいつか」

憎らしいほど綺麗に去っていく背中を見つめながら、残された者は己の名をもう一度呼ぶ声に、今度こそ向かっていく。その先で、行儀よく修行をこなしていた少年に顔の赤さを指摘されたことは言うまでもない。

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