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乱舞する世界の中心

 還るべき場所は何処なのだろうと彼は言った。自分たちは何処から来て何処へ還っていくのだろうと。永くを生きていたつもりだったが、その質問に答えることができなかった。

 単独行動と言うものは楽で良い。他人に気を使う必要なんて無いから、自分の好きなことが好きな時に好きなようにできる。これは決して強がりなんかでは無い。紛れもない本心だ。世間というか、古くからの友人たちの間ではぼっちだなんだと言われているようだが、単独行動と言うものは素晴らしく良いものなのだ。寂しくなんかない。ぐず、と鼻が鳴るのは肌を刺す寒さのせいだ。視界が滲むのも、吹き付ける風の所為だ。

 切れてしまったインキと、ぺちゃんこになった絵の具と、草臥れた筆と、無くなった紙パレットと、あとは、と指を折る。彼の持っているプラスチック製の籠は、既に底が見えなくなっているというのに。大小様々なコピー用紙や色とりどりの鉛筆等が放り込まれているその籠は十分重たいだろうに、彼はまだモノを入れるつもりらしい。客の疎らな店内はひどく静かだ。その中で、彼の独り言はよく目立つ。

 彼は芸術家だ。ただ、無名のと言っても過言では無いほど世間で彼の名を知る者は少ない。つまり彼は売れない芸術家なのだ。絵や彫刻等の、創作物での収入は皆無といっても差し支えない。

 そんな彼の資金は親の遺していった莫大な財産。数年前に死んだ両親が何をしていたのなんて、親の顔も知らない彼が知ったことではなかった。勝手に産んでおいて勝手に捨てた両親に、ざまあみろとすら思った。今まで親無しだったというのに、今更そんなこと言われても、と。だが資金面から将来の夢を諦めるしかないと思っていた矢先の話に、彼は口角を上げた。貰えるものは貰っておけ。割かし彼は強かな性格をしていた。

 かさりと袋が鳴った。少々買い過ぎてしまっただろうか。と考えて袋を覗いてみるが、やはり必要な分のモノしか入っていない。やはりこまめに買い足すべきなのだろうか。

 はぁ、と白い息を吐いて彼は見慣れた石畳を歩く。家から殆ど出ない所為か、いつの間にか街路樹や建物に絡み付く蔦はその色を変えて、街を素朴に彩っている。ツイ数日前までは青々と茂っていたはずなのに。目に良いと言われる抗酸化ポリフェノールの概要や葉緑素が分解されたことによって顔を出し始めたビタミンAの元となる物質の概要を思い出しながら街を往く。

 彼が、家というか私有地から出たのは、おそらく数週間ぶりだ。今日だって青い絵の具が切れたことに気付くまで、街に来るつもりも必要も何も無かった。別に引き籠もりと言うわけではない。私有地の外に出なくとも生きていけるのだから、必要以上に出ないだけだ。食糧なんかは取り寄せればいいし衣料品だって通信販売やら自作やらすればいいのだから。だが画材は別だ。創作に必要なものは自分の目で見て手で触れて選びたい。だから彼は今日街に出て来たのだ。

 きらきらと黄金色の雨が降る。道路の向こう側に、くるくる回りながら落ちてくるそれに手を伸ばす幼子の姿が見えた。その子供に倣うように視線を上に向けてみる。際限無く広がる空は青く雲一つ無い。少しだけ遠くなったような青を背景に黄金が舞う。

 彼は肉親のいない、天涯孤独の身だ。生まれてすぐに施設前に置き去られて、ひょんなことから自分が此処にいる理由を知って、突然きみのご両親が亡くなったなんて言われて。勿論生みの親と言葉を交わしたことなど無い。世界の理不尽さを彼は大いに恨んだ。

 育った孤児院の、大好きだった男性職員ももう亡くなってしまっている。本当の父親のように思っていた。顔も名前も忘れてしまった本当の親なんかよりもずっと好きだった。実際彼はその男性職員のことを親父と呼んで慕っていた。

 すん、と鼻が鳴る。

「俺様、今すっげー人肌恋しいぜ親父ー…」

それは今に始まったことではない。ふとした瞬間に思ってしまうのだから。以前なら仕方ないと割り切れていた。頼れる人も寄りかかれる人もいなかったのだから。だが今は違う。大切なひとがいる。生真面目で几帳面で少し不器用で、とても愛らしく美しい恋人が。その恋人も今は本業に専念しているのだろうけれど。陽が沈む頃になれば顔を合わせられるだろう。

 恋人との出会いは数年前のことだった。その日もその日で何の収穫も無いまま街を歩いている彼の目の前に、そのひとは現れた。

 ふらりと、気紛れに立ち寄った美術館で見かけたそのひとに、彼は目を奪われた。一目惚れというヤツだった。そんなもの信じていなかったのに。朝の太陽のように輝く髪色。すべてを包む蒼穹のように澄んだ虹彩。ちらと見えたその色彩に、彼は撃ち抜かれた。ベタな表現だが、それがしっくりくる。数秒か、数分か。時が止まったように感じた。我に返った時にはその姿はもうなかった。慌てて、追うように美術館を進んで行くと、少し広くなった展示場所でその姿を見つけた。もちろん道中の作品なんて目に入っていない。

 東洋系とラテン系の二人が一緒だ。どうやら一緒に見に来た友人らしい。

「どう?とっても素敵でしょ!」

「えぇ、とても素晴らしいです」

「…お前の作品ではないだろう」

耳を澄ましてみると、和やかな会話が聞こえてくる。

「でもでも!俺すっごい好きなんだ!このひとの作品!」

「俺も、嫌いではないな、」

「雰囲気が良いですよねぇ…なんでしょう、落ち着くというか、」

壁にかけられた作品を指差しながら話す彼らの、その楽しそうなこと。他の作品を見るフリをしつつ聞き耳を立て続けてみる。

「あ、こら。あんまり燥ぐんじゃない」

「だってーだってー」

「?」

「久しぶりに三人で出掛けれたんだもーん」

「おやおや…毎日学校で顔を合わせていますのに」

「でも最近忙しかったじゃんか? 菊は締切がーとか、ルートは原稿がーとか言ってさ。俺寂しくて死んじゃうかと思ったよー」

「そんな…兎でもあるまいし、」

「えぇ。兎は縄張り意識の強い動物ですからね。寂しくてすぐに死ぬというのは、適切ではないと思いますよ」

「ヴェー…」

「それにフェリシアーノ君の場合は兎と言うより子犬でしょうし」

菊と呼ばれた東洋系の青年は態とやっているのだろう。曖昧な笑みを浮かべている。ラテン系の青年の名はフェリシアーノか。人懐こく人の好さそうな子だ。そして、最後。一目惚れした青年。ルート。ルートというのか。それとも愛称なのか。どちらにせよ、良い名だと思った。

 同性だからだとかそんなもの知ったことではない。ソドムの罪なんて糞喰らえだ。愛したいひとを愛して何が悪い。隣人を愛せ、なんて言うくせに、己を愛さない民には裁きを下す神の教えなんて糞喰らえだ。

 三人の、おそらく大学生が美術館を出た後も、彼はしばらくその場にいた。彼らがいた場所で足を止めて、壁を見上げる。数百年前の画家が描いた絵が、静かに彼を見下ろしていた。彼らが好きだと言っていた絵。無名な自分が創るものと、天才と謳われた男性の創ったもの。何が違うのだろう。使った画材か。技量の差か。それとも、作品に傾ける情熱の差か。あの三人は自分の創ったものを見て、どんな感想をくれるのだろう。特にあの青年。美しい太陽と空を持つ彼は。

 上手だと言われるよりも好きだと言われる方が好きだ。昔は上手だねと褒められて嬉しかったが、今はそう思わない。みんなそう言うのだ。絵が上手だね、色塗りが上手だね。同じことを言われ続けると飽きてくるのだ。何が上手なのか。何を見て上手だと言うのか。何故そう思うのか。彼は知りたかった。だから、彼が他人の作品を上手だと褒めることは滅多に無かった。その代わりに彼は、この作品の此処が好きだ、あそこが好きだ、と言った。

 あまり外に出ないくせに、また会えるだろうかと密かに思っていた、彼のその願いは比較的早く叶うこととなる。

「あ、」

画材のストックが無くなったのと、そのついでに尽きていた食料を買いに街へ出掛けた時のこと。立ち止まった彼の視線の先には、美術館で見たあの三人の姿があった。それぞれ鞄を持っているので学校帰りなのだろう。フェリシアーノというらしい青年の手には道中で買ったのだろう、ジェラートがある。談笑しながら目の前を通り過ぎていく三人を彼は目で追う。彼らが歩いてきた方向にある学校は、彼の知る限り大学が一つだけだ。彼は三人が大学生であると確信した。

 冷たい風が通り過ぎていくのを感じながら、彼はそんなことを思い出していた。気付けば曲がるべき角を直進しようとしていたではないか。

「あぶね、」

呟いて、角を曲がる。あとは真っ直ぐ行けば家に着く。恋人はまだ学校だろうか。

 偶然を装って彼らと接触すると、意外と早く打ち解けることができた。菊やフェリシアーノとも親しくなり、彼の世界は広がっていった。

 やはり三人は同じ大学の親友だということ。菊は漫画を描いていて、定期的に開かれるというイベントで本を出しているということ。フェリシアーノは画家を志望していて、時折コンクールに応募していること。そして、ルート。本名はルートヴィヒというらしい。彼は物書きを目指していて、こちらも時折コンクールに応募していること。その他にも色々なことが聴けた。もちろん聴いただけではない。自分のことも話した。またいつものように同情されるのかと思ったら、彼らは目を丸くしてドラマのようだとか浪漫的だとか捲し立てた。それも目を輝かせて、純粋に。

 そうして交流を重ねること一、二年程。ようやく彼が想いを伝えた頃には、二人はめでたく相思相愛になっていた。何と言ったのかは覚えていない。だが、そんなに気の利いたことは言えていなかったと思う。しどろもどろになりながら想いの丈をぶつけたのだったか。恥ずかしい。もう少しカッコ良くビシッと決めることができると思っていたのに。男二人が真っ赤になって何をしているのかと。あぁ、けれど。とても嬉しかった。しあわせだった。

 交際を始めたと言っても、彼らの生活に大きな変化が現れることは無かった。恋人は学校があるし、彼も基本的にアトリエに籠っている。家が無駄に大きいので同居をしてはいるがそんなにイチャイチャはしていない。していないというか、恋人が恥ずかしがるのだ。週末や連休の日は良いらしいのだが。けれどそれは一日ベッドで過ごしても構わない日を選んでくれているということで。

 露店で買った小振りの林檎を齧りながら歩いていると、公園が目に入った。見慣れた公園だ。小学生や幼稚園児がよく遊んでいる。どこにでもある、ありふれた公園だ。今日も子供たちの笑い声が公園から漏れてきている。それだけならいつもの日常だ。だが、今日は何やら違う。白煙が。公園の一角から白煙が空に向かって伸びているではないか。不審火だろうかと彼は公園の方へ足を進める。状況を把握して、必要そうなら消防に知らせなければ。眉を顰め、頭をガシガシと掻くと、彼は残っていた林檎を咀嚼して飲み込み、残った芯をやや低い街路樹の梢に立たせた。

 秋と言う季節は色々な顔がある。読書の秋。体育の秋。味覚の秋。暑かった夏を終え、寒い冬を迎えるまでのこの時期は至極過ごしやすい。趣味や勉学に勤しむのに最適だ。遊ぶことにだって、もちろん適している。

 そんな季節には焼き芋と言うものがある。季語や風物詩としては、もう一、二週間程待った方が良いのだろうが、折角だ。

「えへへー俺焼き芋初めてなんだぁ」

「ええ。許可が貰えてよかったです」

街の清掃ボランティアをしていた時に、菊がふと言っていたのを思い出したフェリシアーノがやってみたいと言い出したのだ。落ち葉を集めて火をつけて芋を入れるだけの、しかも美味しいらしい野外料理にフェリシアーノとルートヴィヒの興味は強く引かれた。きらきらとした目で話を聴く二人に菊は、許可がもらえれば公園でやりましょうと提案したのだった。

 何故街の公園なのかと言うと、菊とフェリシアーノは学生寮に住んでいるから、大量の落ち葉を持ち込んだり等の無茶なことはできない。もちろん場所も無い。ではルートヴィヒの方はどうかと言うと、彼の方もまた住み込ませてもらっている身だから、あまり家主に迷惑を掛けたくないと言った。ではどうしようかと額を吐き合わせた結果、街の許可を貰い、公園でするのはどうかと言うことになったのだ。

 街の役所に問い合わせた時の緊張感といったらなかった。電話口で声が震えた。まさか公園で焼き芋していいですか、なんて訊く日が来るとは。受話器を持つ菊の近くで息を殺して役所の人の返事を聞き逃すまいとする二人に和みつつ、切り出してみると意外にもあっさりとその許可は下りた。おそらく菊と言う経験者がいたことと、街でも評判の好青年三人組の頼みということだからだろう。火の管理や後始末、何も知らない街の子供たちに気を付けること、と念を押され、晴れて公園で焼き芋ができるようになった。

 そうして街の清掃ボランティアで譲り受けた落ち葉と市場で買い込んだ芋を持って、彼らは学校が午前中しかない日に最寄りの公園へと足を運んだのだ。

 燃え盛る炎は無いものの、まだ熱を孕み続けている落ち葉の山の温度は高い。遊びに来た近所の子供たちに注意を促しつつ、焼けた芋のお裾分けをする。きゃっきゃっと歓声を上げながら焼けた芋を頬張る子供たちに、三人の頬は自然と緩む。

「…偶には、良いものだな」

「ヴェ、なんかほっこりするよねぇ」

目を細めるルートヴィヒに、菊がぽそりと耳打ちする。

「ギルベルト君がいたらなぁ、とか思いました?」

途端に赤くなる友人に菊はころころと笑ってみせた。

「ふふふ。冗談ですよ」

「き、菊…ッ!」

「おやおや」

「? どうしたの、ふたりとも」

何やら赤くなっているルートヴィヒと珍しく本心から破顔しているらしい菊。自分が子供たちとじゃれ合っている間に何かあったらしい二人を見て、フェリシアーノは首を傾げた。

「いえいえ。何でもありませんよ。若い方が幸せそうだと爺も幸せな気持ちになる、というだけですから。ね」

「……気にしないでくれ…」

「ヴェー…?」

 公園に足を踏み入れると、手に手に芋のようなものを持った子供たちがいた。屋台でも出ているのだろうか。近くを通りかかった子供を呼びとめて訊く。

「なぁ、手のそれ、どうしたんだ?」

「焼き芋ってヤツですよ!」

「買ったのか?」

「買うも何も…売ってるとこなんて見たことねーです。コレはあそこで貰ったのですよ」

あそこ、と子供が指差した先にはいつもの三人組の姿。なにやら落ち葉の山を囲んで談笑している。白煙の源もあの山のようだ。しかし炎は上がっていない。

「そうか…わかった。ありがとな」

嬉しそうに焼き芋を頬張る子供に別れを告げて彼は三人に近付く。ちら、と菊と目が合った。

「噂をすれば何とやら、ですね」

そう、菊が呟いたのと彼が恋人に後ろから声をかけたのは、ほぼ同時だった。

「よーぉ、お前らー火遊びしすぎると火傷するぜー?」

ひくんと恋人の肩が跳ね、意識と視線を完全に落ち葉の山に注いでいたフェリシアーノからヴェ、と声が零れ落ちた。

「ヴェ、ギルベルトだ。どーしたの?こんなところで」

「買い出しの帰りだ。お前らこそ何やってんだ?」

「えーとね、俺たち今焼き芋してるんだー」

「焼き芋?」

「えぇ。焼き芋です」

そして菊が説明を始める。初めて聞いたのだろう、焼き芋と言うものの説明に彼は目を輝かせる。

「へー。そんなんあったのか…なんだよー呼んでくれれば良かったのによー」

ちぇっちぇー、と頬を膨らませて、しかし楽しそうに言う。そんな彼の反応に、フェリシアーノが朗らかに笑って言った。

「えー…だって今日はギルベルトが一日アトリエに籠るみたいだから邪魔しないようにってルートが言ってたんだもん」

「ちょ、フェリシアーノ…!」

「…まじか」

慌ててフェリシアーノの口を塞ごうとしたルートヴィヒだが、それは失敗に終わる。片腕でだが、彼がルートヴィヒの身体を引き止めたからだ。まじですよ、という菊の一押しに、彼の頬が緩む。

「そーかそーなのか」

「ち、違っ、」

何が違うのかは知らないが、ルートヴィヒは二人の言葉を否定する。

「俺はただ、貴方の邪魔にならないように…! あぁ、もうだからニヤつくな馬鹿ッ!」

ちなみに菊とフェリシアーノは、彼とルートヴィヒが恋仲だということを知っている。二人をくっつけるために協力したことだってある。菊たちがいなければ、彼らはまだ恋人と言う関係にはなっていないだろう。

「まぁ、大方ギルベルト君の作業を邪魔しないように気を遣ったのでしょうね。ずっとそわそわしていたんですよ、」

菊の耳打ちに、彼は恋人を引き寄せて宣言した。

「じゃあ、俺たち帰るから!」

「なっ、」

「ヴェ?!」

目を丸くする二人を気にせず、菊はどうぞどうぞと促す。

「あぁそうだ。折角ですから持って行ってください」

ほいほいごろごろと落ち葉の山の中からアルミホイルに包まれた芋たちを掻き出して、新聞紙に包み二人に渡す。土産というか贈り物、なのだろう。

「爺からのプレゼントです」

「プレゼントって…菊! 俺は帰るなんて一言も、」

「おおーありがとな。ありがたく貰っとくぜー」

肩から腰に回った彼の手の動きに、フェリシアーノも彼と菊の意図を汲み取れたのだろう。

「そ、そうだよー、折角だしゆっくりしなよ!うん、原稿もやっと終わったんだって、お前この前言ってたじゃん?休める時に休んどいた方が良いよ!」

「な、ほら満場一致。帰るぞ?」

「し、しかし後片付けが、」

「それなら心配しないで下さい。責任を持って私たちがしておきますので」

年に数回、見るか見ないかの笑顔を見せて菊が言う。それには流石のルートヴィヒも首を縦に振らないわけにはいかない。

「そうか…それでは、悪いな二人とも」

「気にしないでよー」

「えぇ、お気になさらず」

そして菊は再度ギルベルトに耳打ちする。

「…では、何があったのか、よろしくお願いしますよ」

「お願いしますよってお前なぁ…んなもん聞いてどうすんだよ」

「おや。シチュエーションや展開なんかは知っておいて無駄になるものではないと思いますが」

「……お前ソレ、ぷらいばしーの侵害とか肖像権とか、」

「安心してください。私、基本的に浮気しないタイプなんで」

「基本的にってなんだ、基本的にって…つーかお前付き合ってるヤツとかいたっけ?」

「二次元は素晴らしいということです」

「…………」

そういえば、そろそろ冬の祭典とやらがあるのだったか。これ以上は深入りしない方が良いと彼は判断した。

「どうしたんだ?ふたりとも」

「あ、いや何でもねぇよ」

丁度その時、声がかかる。片付けられるところを片付けていたようだ。こそこそと話している二人が気になったのだろう。

「そうか」

彼が手を振ると、短く返事が返ってきた。

 菊とフェリシアーノに手を振り二人は公園を後にする。湯気を上げる、甘く焼けた芋を頬張りながら歩く。吹き抜ける風が、先程よりも冷たくないことに彼の口角は上機嫌に上がる。

「?嬉しそうだな」

それに気付いた恋人が小首を傾げて訊く。

「んんー? あー、うん、お前がいるからな、」

「何を…!」

強ち嘘ではないのだけれど。弾むように返された言葉に恋人は顔を赤く染める。

「お、重たいだろう、ここからは俺が持つ」

照れ隠しなのだろう。彼の手から画材の入った袋を引っ手繰ると恋人は、すたすたと早足に前を行ってしまう。それを締まりのない表情で彼は追いかける。

「お前ってホントかーわいいの!」

うるさい、と恋人は振り返りもせずに叫んだが、その耳は赤いままで。

 くるくる回って落ちていく。きらきら光って舞い上がる。黄色と赤と、時々緑が彩る並木道を二人は並んで歩いていた。早足に過ぎていくこの季節は巡り巡るどの季節よりも素朴な色を持っていると彼は思う。きっと恋人もそう思っているだろう。ひんやり冷たいけれど、ちゃんとあたたかい。しゃく、と落ち葉を踏むたびに音がした。

 互いに交わす言葉は無い。ただ、彼がまとめ買いした荷物と、ふらりと立ち寄った露店で買った食料。それを二つに分けて半分ずつ持つ。公園で貰った焼き芋たちも、その袋の中に入れられていた。何も持たずに、コートのポケットに突っ込まれていた右手は、暖かくて少し柔らかい恋人の手と繋がれている。武骨な、女性のような滑らかな曲線は持たないけれど、彼にとっては十分うつくしいと思える手。彼の大好きな手。そのかたちを確かめるように彼は指先で恋人の手を辿る。恋人もまた、彼の手を握り返したりしてその存在を確かめる。

 言葉を交わすことも、目を合わせることもないけれど、彼らはしあわせだった。大切な人がそばにいるから。互いに口角を上げて、彼らは黄色と赤と、時々緑が彩る並木道をしゃくしゃくと鳴らしながら歩いていく。

 彼の家は街の郊外にある。人が住んでいる家よりも売りに出されている家の方が多い地域だ。近所の人なんて、ここ数年見ていない。手入れの行き届かない草木は伸び放題で、夏になると深夜に肝試しをしに来る若者たちもいる。アトリエに籠っている間に、母屋の方に侵入されかけた時はどうなることかと思った。

 車を使って、街の中心部まで数十分程かかるこの場所を不便な場所だと言う人がいる。鉄道もバスも通っていないこの場所はたしかに不便だろう。だが、彼は自分の足を使って移動するこの場所が好きだった。今こうして良い雰囲気で恋人と歩いていられるから。なんてことを考えながら歩いていくと、家の門に辿り着いた。

 錆びの浮いた門は、ぎぎ、と鈍い音をたてて開く。

「ケセ。俺様凱旋だぜー」

「貴方は何と戦って勝利したんだ…」

特徴的な笑い声を上げながら彼は帰宅を叫ぶ。いつものことだ。

「…それで、荷物はどうする?画材はこのままアトリエに置いて来るか?」

母屋と少し離れた場所にあるアトリエを指して、恋人が彼に訊いた。掲げられた、画材の入った袋がかさりと鳴る。それを見て彼は軽く頷いて見せる。

「ん。そうだな。先に置いてくるか」

 彼のアトリエは小さな小屋だ。元は物置小屋だったようだが、彼が一掃して埃っぽい物置から普通の小屋になったのだ。壁に這う蔦や古風な煉瓦造りは、昔ながらの童話に登場する秘密の小屋を彷彿とさせる。

「相変わらず、此処は別世界のようだ」

 彼のアトリエに踏み入れた恋人は息を吐いた。その視線は小さな小屋全体に飛ばされている。壁に立てかけられたカンヴァスやイーゼルに乗っている描きかけの風景。凸凹とした作業台の上に広がる木屑の海に転がった小熊。絵の具が出されたままのパレット。彼が創り出したものたちに、恋人は愛しげな眼を向ける。そんな恋人に彼は声をかけた。

「……おい、」

零れた声が思いの外低いもので。

「荷物、重いだろ」

「? あ、あぁ、」

貸せよ、と画材の入った袋を受け取り適当な場所に置く。

「…怒っている、のか?」

恋人の、申し訳なさそうな声に彼の肩が微かに跳ねる。

「…いや、別に、怒ってねーよ」

先程とは違い、彼の声は揺れていた。それは彼自身も先程の声音に動揺しているということで。

「偶々だ、うん、」

恋人の、怪訝そうな寂しそうな目に覗かれて、彼は頭部をがしがしと掻き回す。

「だから、気にすんな」

「…そうか」

そうしてようやく表情をやわらかくした恋人は続けた。

「此処には、貴方が溢れているようで、好きなんだ」

「?」

どういうことだろう、と彼は小首を傾げる。彼という存在は世界に一つしか在り得ない。それなのに、何故。そんな彼の反応を見て恋人は言う。

「貴方の描いた世界が、貴方の創ったものが、溢れていて、貴方の中にいるようで、」

「俺の中、ってお前……」

ニヤニヤと締まりの無い顔をした彼の言葉に、ハッとしたらしい恋人は顔を赤くした。

「なんかエロいぜ」

「な、そういう意味じゃない! 俺はただ、貴方の感性と言うか世界観と言うか、そんなものが表された作品をたくさん見ることができて嬉しいと…!」

「おー、そーかそーか。つまりお前、俺のこと大好きってことだな」

「ぅ、も…、ばか!」

ばたん、と音をたてて扉が閉まる。

「かーわいーの」

一人残された彼はぽつりと呟く。それにしても。あんなにもやもやとしていた胸の内が恋人の、おそらく何気ない言葉と表情に一瞬ですっきりしてしまうとは。我ながら現金なものだ。彼は思う。誰にもくれてやるものかと。ゆら、と彼の目が細められる。

「おーい、待てよ、置いてくなよォ」

買ってきた画材を棚や引き出しに補充して声を上げる。思い出したように恋人の後を追う、彼の声にちらちらと見え隠れするのは紛れもない熱。はたして恋人がそれに気付くのかどうか。

 扉を開けて外に出ると、太陽は随分と傾いていて周りは薄暗くなっていた。人の顔が見分け難い程度だ。青と赤が混じった空には、落陽を中心に鮮やかなグラデーションがかかっている。そんな空にはぽつぽつと黒い影が浮かんでいた。

 彼は恋人が思っているほど優しい人間でも出来た人間でもない。寧ろ褒められるような人間ではない方だと言えるだろう。飽きっぽい性格をしてはいるが、独占欲や執着心は人一倍だと言っても過言ではない。一度嵌まり込んでしまえば、簡単には手放さないのだ。

 だから、彼はいつも気が気でない。大事な大事な恋人がどこかへ行ってしまったらどうしようと。誰かにとられてしまったらどうしようと。恋人はそんなことを言うのは彼だけだと言うが、たぶんそうではない。うつくしい恋人を欲する者は、きっと男女問わず多い。現に彼の知り合いには自分の好みであるならどんな者でもイイ、なんて言うヤツがいる。牽制はしておいたが油断はできない。世界は広いものなのだから。なんにせよ、恋人には自分がどれほど魅力的な人物であるのか自覚をしてほしいと彼は思う。

 母屋の玄関に入ると、ダイニングの方から夕食の良い匂いが漂ってきた。リビングを覗いてみるとソファに恋人のコートがかかっている。母屋に入ってそのまま夕食作りに取り掛かったのだろう。いつもは皺が付かないようにコートをハンガーにかけてから取り掛かるのに。先程の遣り取りに相当キていたのだろう。そのままキッチンに目を向けると、まだ赤く色付いている耳があった。その後姿からはぽろぽろと心の欠片が零れているようで。音をたてないように彼はリビングを後にした。

 階段を上って彼は自室の扉を開ける。画材など創作に関わるものは大体アトリエにあるので、この部屋に置いてあるものは決して多くはない。が、必要最低限のものだけが置いてあるというわけでもない。例えば、少し型の古いノートパソコンとベッド。本棚には図鑑から指南書、漫画に至るまで様々な種類の本が並んでいる。メタルラックには船や戦闘機の模型、小振りの観葉植物の鉢なんかが置かれている。所謂、平均的、一般的な男性の部屋と言う感じだ。それでも彼の友人からすると殺風景な部屋らしい。

 財布と携帯電話をノートパソコンが置いてある机の上に放って、ベッドに倒れ込む。気の抜けた音をたてて彼を受け止めたベッドのスプリングは小さく悲鳴を上げる。少しくらいなら眠っても大丈夫だろう。ベッドサイドテーブルの時計を見て、彼は目を閉じた。

 物描きと物書きはよく似ているようで似ていないものだと思う。せかいをつくるものという点では同じだが、文字と絵という違いは大きい。彼自身は文字も線を色を持つ以上、絵と同じようなものだと思っているが、それならば何故彼は文字でせかいを紡げないのか、ということになるし、恋人は絵が苦手なのか、ということになる。かいている、ということには変わりないのに。書くということと描くということはそんなにもかけ離れた行為なのか。彼と恋人は昔、この疑問と似たような会話をしたことがある。それはあのアトリエでのこと。

 その日は休みの日だった。

「…よく、そんなに描けるな、」

窓際に寄せた椅子に腰かけている恋人がぽつりと零した。その視線は、鮮やかに色付いていくカンヴァスに彼の持つ絵筆に固定されている。

「そうか? 俺は、お前みたいに書くことの方が難しいと思うけどな」

パレットから絵の具を掬った絵筆が白いカンヴァスを走る。水分が多いのか、パタパタと絵の具が床に落ちていく。それを拭こうともせずに彼は続けた。

「手を動かしてりゃ色が付いてくんだ。線が引けるんだ。構図や配色は…まぁ、考えないこともねぇけど、それでも、起承転結って考えて話を作ってく方が難しいと思うぜ?」

壁やイーゼルに立てかけられた無数のカンヴァス。棚に収まりきっていない絵の具は勿論、鉛筆やペンやインク、パステルやエアブラシといった画材たち。それらが広がっている部屋には足の踏み場が至極少ない。壁に掛けられているのは時計では無く乾湿計。部屋の窓から見える日の傾きからすると、時刻は正午を回ったくらいだろう。ふむ、と零した彼の恋人は足を組み替える。再びの、沈黙。しかし不思議と気まずさは無い。傍から見れば不思議な空気に違いないだろう。交わされる言葉はぽつりぽつりと少なく、互いが互いを見ることも殆ど無い。只管に穏やかな空気が流れていく。そのしばらくの後、彼は口を開いた。

「描いてみたいとかは、思わねぇの?」

恋人は目を丸くして彼の言葉を復唱する。

「描いて……、絵で、作品をつくる、と?」

「あぁ。俺はある。時々だけどな。文字で言葉で表現してみたいって」

彼の持つ細い筆は、しかし文字を形作ることは無く、縦横に枝葉を伸ばす木々を生み出していく。それを見つめながら恋人は答えた。

「……俺は。俺も、ある。直接視界に届く色でカタチで、表現してみたいと。自分の想い描いた世界や人物を、回りくどい文章なんかではなく、一目でわかる、カタチにしてやりたいと思う。しかし…思うように上手くできないんだ」

その言葉に、今度は彼が目を丸くした。

「なんだよソレ。お前はちゃんとカタチにしてやれてるだろ。髪の長い、とか背の高い、とかの明確な言葉の表現を以てさ。その上紙面で動かしてる。十分いのちってやつを与えてるだろ。何も無かった白い紙の上に、一色でいのちを。俺にはできねぇことだ。なぁ、なんでそんなに面白く言葉を羅列できるんだ?」

そして視線を合わせる。その瞳に映ったのは互いの言葉にきょとんとした、どこか間の抜けた互いの顔で。ふは、と噴き出すように彼らは笑う。

「つまり俺たちは自分にできないことを普通にやってのける互いを羨んでるってことか」

「そうなるか、な」

彼は近くの机に手を伸ばして絵の具のチューブを掴む。

「お前のさ、書く言葉、すっげぇ好きだ。なんか、すとんって感じで入ってくんだ」

「……貴方の、色は、とても鮮やかで、その、美味しそうだと思う、」

言っていて恥ずかしくなってきたのだろう。徐々に小さくなっていく声と色付いていく耳に彼の表情は綻ぶ。色の混ざり合うパレットに新しく色を落とすと、それを絵筆でかき混ぜてまたカンヴァスに走らせ重ねていく。彼の向き合っているカンヴァスにはありふれた風景が広がっている。青果を売る露店や肉類を売る露店等が並ぶ市場を行く二人の人物。手を繋いで幸せそうに笑うその二人はどこか見たことのある容姿をしている。だが、描かれているその人物が実在しているのかといえば頷き難い。モデルがいる、という程度だ。彼らによく似た、仲睦まじい二人の姿。おそらくその絵は彼の願望だった。それと同時に、恋人の願望でもあったのだろう。

 当時の世界は彼らにやさしく出来ていなかった。今も優しいと言うには首を傾げざるを得ないところもあるが、それでもあの頃と比べれば随分やさしくなったと彼は思う。実際、彼が思うように世界はやさしくなっているのだろう。彼らに対してだけではなく、現在に在るすべてのものに。

 勿論、世界のすべてがそうであったわけではない。彼らや、彼らと同じようなものたちに理解を示してくれるものも勿論いた。そういったものが身近に居てくれた分、彼らは恵まれていたし、恵まれているのだろう。

 音がする。規則的な音だ。彼の意識は、その音でふわりと浮かび上がる。ベッドサイドテーブルのつるりと冷たい時計に手を伸ばして文字盤を覗き込むと、目を閉じる時から一周と半分ほど針は動いているようだった。音は部屋の扉の前で止まる。

「ルツ、」

寝起きの掠れた声だった。扉の向こうで息を吐くのが聞こえる。同時に小さな衣擦れの音がしたのを彼の耳は聞き逃さなかった。それから一拍して、返事が返される。彼の好きな、穏やかな低音が、彼に向けて言葉を紡ぐ。

「…食事の用意ができた」

「ん、了解」

そして音は遠ざかっていく。扉の向こうの恋人はどんな顔をしていたのか。伸ばした手で扉を叩き、返事が無ければどうしたのだろうか。クツ、と彼は喉の奥で笑う。

 リビングに足を踏み入れると香ばしい夕餉の匂いが鼻腔をくすぐった。それはダイニングに近付くにつれてその存在を色濃くしていく。

 食卓に並べられた料理の数々に彼は破顔する。好きなものばかりだ。それらが湯気を立てて早く胃袋の中に収めてくれと見つめてくる。

「なぁ、食ってイイ?食っちまってイイか?」

ガタガタと椅子を引いて着席した彼は未だキッチンにいる恋人に訊く。あぁ、と振り返った恋人はもう落ち着いたらしく冷えた麦酒とグラスを手にしている。彼は益々目を輝かせて言った。

「ほら早く座れよ!そんで食おうぜ!」

彼らは豪奢で華美な食事をあまり好まない。嫌いと言うわけではないので外食にそのような料理の店に行ったりそのような料理を得意とする友人を招いたりはするが、積極的に作ったりするようなことは無かった。素材の素朴な味を活かすような料理が、彼らは好きだった。

 あたたかな料理をその腹に収めて彼は幸せそうに唸った。すげぇ美味かったぜなんて声をかけると、食器を片付けている恋人は幸せそうに破顔してそれはよかったと返す。食後のつまみにと出された生ハムをつつきながら彼は麦酒を呷る。

「っはー、やっぱいいよな、こういうの」

小さく落とされたテレビの音声を背景にして彼はしみじみと呟いた。

「そうか?」

向かいの席に戻って来た恋人は言いながら麦酒の入ったグラスに口を付ける。

「あぁ。なんか時間がゆっくり流れてるみてぇじゃん」

「ふむ…喧騒の中から一歩出た時に感じる静寂のようなものか」

「んー、うん。そんな感じ、かな」

ケセ、と特徴的な笑い声を漏らして彼は続けた。

「重ねられた類似色の中に落とされたアクセントって感じだな」

それぞれが自分を表すかのように喩えをあげる。同じ物事を違う視点で感覚で伝え合う、この遣り取りは二人にとって、とても意味のあることだった。それと同時に、好きなもののひとつだった。新しい答えに楽しい言葉に彼らの感覚は刺激される。相手の喩えを聴いたときの、光の珠が弾けるような痺れるような感覚。時に甘く時に苦く嚥下されるそれは他のひとの作品に触れた時にもよく似ている感覚だ。

 刺激を受けることは悪いことではない。気分転換にもなるし創意が湧いてくるキッカケになったりもする。だが、他のひとの作品を覗き込むあまり自分の創り方を忘れるというのは至極いただけない話だ。

 一通り言い合ってから彼は思い出したように小首を傾げて見せる。

「そうそう、明日…じゃなくてもいいんだけどよ、近いうちに美術館行かねーか?」

「美術館? 構わないが……突然どうしたんだ?」

「いやー、偶々チケットが手に入ってよー…調べてみたらお前の琴線に引っ掛かりそうな作風のヤツのだったし? 折角だし行きてーなー、なんて」

後頭部を掻きながら言う。そんな彼に恋人は嬉しそうに答えた。

「そうなのか…! そうだな、来週の水曜日なんてどうだろうか。俺たちの学年は授業が無い日だから、その日は一日休みなのだが、」

彼の感覚に全幅の信頼を寄せているのだろう、彼の言葉に少しの疑いも見せずに嬉しそうに目を輝かせている。この恋人は、一度心を許したものに対してとても厚い情や信頼を見せる人種だ。その一番に位置付けられているらしい彼は愛されてんのな、なんて思いながら確認する。

「じゃあ来週の水曜に行くか? 今月末までしかやってねぇみたいだし」

「あぁ。そうしよう」

頷いた恋人に、彼は上機嫌にもうひとつ訊いた。

「なぁ、そういえば公園でフェリシアーノちゃんが言ってたヤツ。どんな話なんだ?まだ学校に提出してねぇんだろ?読ませてくれよ」

「……活字を追うのは苦手だと、以前聞いたが?」

眉間に皺を寄せて言うその声は、しかし嬉しそうだ。

「俺がお前の作品を読み切らなかったことなんてないだろ?」

知っていると目を伏せて笑う。その可愛らしく、どこか淫靡なこと。きっと無意識なのだろう。彼は舌で唇をなぞりながら目を細める。

「そうだな。貴方は貴方なりに最後まで丁寧に読んでくれる。原稿は…たしか鞄の中だったな。持って来る」

言って、席を立とうとする恋人の腕を彼は掴む。がた、と椅子が音をたてる。

「いんや。今すぐじゃなくてもいい。折角なんだから今日はゆっくりしようぜ」

「っ、何を、」

「明日も休みなんだし、構わねぇだろ?」

ゆらりと彼の双眸が揺れた。その瞳の中には爆ぜるような熱が浮かんでいる。隠されることなく揺れるそれに気付かないほど恋人もこどもではない。

 多くの命が枯れて、今年もまた冬が来る。野山の生き物は眠りにつき春の日射しを待つ。数える程度の夜を越せば色付いた木々の葉は散ってしまうだろう。そうして落ちた葉は色を失くしかたちを失くしていく。生まれ出た土に還るのだ。

 きっとひともそうなのだろう。生まれて死んでを繰り返す。人間という生き物は極僅かな時間の中でしか生きられないけれど、だからこそ生を謳歌する。永く生きて世界に取り残されるよりもずっと楽しいだろう。置き去られるなんて御免だと。独りでずっと生きるよりも大切なひとと短くても一緒に生きた方が幸せだ。芽吹く命に先を託して笑って目を閉じたい。そんなことできなくてもいいと、昔は思っていたが今は違う。最期の時まで、あの手をとっていたい。それはまだずっと先のことなのだろうけれど。

 手が冷えて指が悴んで筆を動かし難くなる。線は歪むし色は零れる。けれど描いていたい。今その瞬間にしか描き得ないものを残したい。ほんの僅かなひとの目にしか、触れることがなくても。愛した世界をものを描き続けたいと。

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