まだ途中_(X3 」∠ )_
---
夜はいつだって隣にいる。それは、例えるなら、真昼の星々のようなものだ。
少女は時々何かを避けるように道をふらりと歩く。左の目には眼帯。きっとまだそれに慣れていないのだろう、と少女と擦れ違う大人たちは勝手に納得する。
大人たちはきっと、太陽が昇っている時でも、本当に時々、夜が世界を覗き込むことを忘れている。
細い路地は薄暗い。
日暮れを思わせて、少女はその場で数秒立ち止まる。
そうして、偶々立ち止まって、覗き込んだ路地の中に、夜の住人を見た。
それ自体は、けして珍しいことではない。ただ、その時は、運の悪いことに、眼が合ってしまった。
ああ――とりあえず、隠れられる場所まで、と少女は路地から離れようとする。
少女と擦れ違うように、誰かが路地へ入って来る。カラリ、と何か金属が地面を撫でる音がした。
硬い音に釣られるように少女は振り返る。そこには、オバケたちを通せんぼするように、野球のユニフォームを着た男の人が立っていた。さっき聞こえた音は、その人が持っているバットが地面と擦れた音らしい。
オバケたちは男の人を見ている。男の人に通せんぼされている。それはつまり、この男の人もオバケが見えているということだ。珍しいな、と少女はどこか他人事のように思った。
「不浄なる魂よ、醜悪なる影よ、お前たちが救済される時は来た。」
おもむろに、男の人がバットを振りかぶる。
オバケは、怖い。恐ろしい存在だ。少なくとも、少女にとってはそうだった。追いかけられたら、逃げるしかない。触らないように、触られないように、やり過ごすしか、対処できない。
けれど野球のユニフォームを着た男の人は違ったらしい。
ぶんっと振られたバットがオバケの頭をかき消す。頭を失くしたオバケは、そのままスゥッと消えてしまう。体の真ん中の辺りをバットが通ったオバケは、二つになった体がそれぞれサラサラと消えていった。
薄暗い路地からオバケが消えていく。男の人が、オバケを消していく。
少女はそれを瞬き一つせずに見ていた。
*
「……まだいたのか。」
薄暗い路地を背中に、男の人が振り返る。バットやユニフォームに飛び散っていた影が、消えていったオバケのように見えなくなる。
「……お兄さんは、オバケが見えるの?」
少女は男の人を見上げて聞いた。
「それとも、お兄さんは、オバケと仲の悪いオバケ?」
少女には薄暗い路地に立っている、野球のユニフォームを着た男が見えている。同時に、少女は、薄暗い路地に立っている、野球のユニフォームを着た大きなアヒルのような何かが見えていた。
「俺は“バッター”。浄化する者。実体のない者どもを粛清している。俺は亡霊ではない。」
「そうなんだ。助けてくれて、ありがとうございます」
男――バッターの言っていることを、少女が理解しているのかどうか、バッターには分からなかった。けれど、そんなこと、バッターにはどうでもいいことだった。
そんなことよりも、バッターには知りたいことがあった。
「ところで、ここはどこだ? エルセンを見ないし、ガーディアンに関する話も聞こえてこない。」
バッターは少女に聞く。
少女はバッターを見上げたまま、こてりと首をかしげて答えた。
「……? ここは、わたしの町だよ。わたしが住んでる町。よまわりさんや、オバケがいる町」
今度はバッターが首をかしげた。
首をかしげる二人の周りに、またオバケがフラフラと集まり始める。バッターが、バットを構えようとする。
「――、」
「こっち」
オバケたちの前でバットを構えたバッターが、オバケたちに何か言おうとして、何かを言う前に少女がバッターの手を引いた。細い路地から離れようと言うらしい。
「……亡霊を放置することはできない。」
「でも、きっと、キリがないよ。オバケって、たぶん、いつかそこにいた誰かだから」
少女は道のあちこちにいるオバケを避けながら歩く。触らないように。目を合わせないように。追いかけてくるオバケに、追い付かれないように。
「ほとんどの人は、昼間、オバケのこと見えないみたいだから、お兄さんも無視しておいた方がいいよ」
「被害が出てからでは遅いだろう。」
「見ていなければ、見られないし、気付いていなければ、気付かれないよ。少なくともお昼は」
バッターの知っている亡霊は、昼も夜も関係なく現れて、戦闘をしていたけれど、ここでは少し趣が違うらしい。道行く人々を睨み付けているオバケは、人々を睨み付けているだけなのだ。
「……どこへ行くつもりなんだ。」
少女にならい、オバケを知らないふりしながら、バッターは改めて尋ねた。
「落ち着いてお話ができるところ」
少女とバッターは神社に来ていた。
人の気配が無いさびしげな、小さな神社だった。けれど、神社と言うには少し遅かったかもしれない。なぜならその神社は、取り壊されかけているからだ。
人々から忘れられてしまったような、ひっそりとした姿。バッターは神社に、いつか出会った読書好きの小鳥を思い出していた。
少女が壊れかけの木箱に何かを投げ入れる。チャリン、というか、コツン、というか、そんな音がした。
少しの間、静寂。
「……それで、お兄さんはどこから来たの?」
周りの風景を眺めていたバッターに、少女が言った。
「俺は、」
バッターは口ごもる。なんと言えばいいのか、わからなかった。
OFFになった――自分が、OFFにした世界から来たとは、言いにくかった。
自分が見知っている世界とは風景も住人も違う。それを、この小さな少女に言ったところで、と思った。
「もしかして、お兄さんは迷子?」
けれど少女はバッターが思っているよりも賢いようだった。
「迷子……いや、俺は…………何故そう思う?」
迷子、という言い方に少し不満を覚えつつ、バッターは少女に尋ねる。
「なんとなくだよ。お兄さん、ずっとあちこち見てたから」
バッターは内心驚いていた。この少女は、この短時間でよく自分を見ていたのだな、と。
「それに、お兄さん、大きなアヒルさんにも見えるから」
太陽は沈み始めていた。空の下の方は燃えるように赤い。上の方からは、じわじわと濃い紫色が広がってきていた。
「お兄さんは、どこから来たの?」
夕暮れの中で、少女の目が、バッターを見つめる。
「俺は、俺がOFFにした、物語を終えた世界にいた。だが気付いたらこの見知らぬ町にいた。」
バッターは名乗りを上げるように言う。
「俺はこの世界の者ではない。」
迷いや悲しみの一欠片もなく言い切るバッターを、少女は、強い人なんだな、と思った。
「とんでもない迷子だったんだね、お兄さん」
困ったなぁ、と少女は眉毛をハの字にする。
違う町どころか、違う世界から来る人なんて、マンガやアニメのお話でしか知らない。
でも、違う世界の人だとしたら、大きなアヒルのような姿が見えることにも納得できる。
同時に、違う世界なんて、どうやって帰れば良いのだろう、と思った。
気付いたら知らない場所で、家への帰り道が分からないなんて、自分なら途方に暮れてしまうと少女は思った。
ガサガサと草むらが揺れたのは、そんな時だった。
*
バッターがバットを構える。少女はポシェットから懐中電灯を取り出した。
二人は懐中電灯に照らされる草むらをじっと見つめた。
ガサガサと草むらが揺れて、白くて丸い足が、ひょこりと見えた。
「操り人形よ、君を操る糸は既に切れているだろう? だと言うのに異なる世界においても狂った聖戦で踊り続けているのか、バッター?」
「ジャッジ。」
バッターがその名を呼んだ。
草むらから現れたのは一匹の白い猫だった。
ヒトの言葉を操るその猫は、バッターを知っているようだった。
「猫ちゃん……?」
「そうともお嬢さん。我々は所謂、ヒトが皆こよなく愛している猫と言う生き物さ。」
少女の小さな呟きに、ジャッジと言う猫は紳士的に答えた。
「……お嬢さん、お心遣いは嬉しいが、こういった菓子に釣られるほど安くは……。」
シュッと、意外と勢いのある速度でジャッジの目の前に魚型のクッキーが投げられる。少女が投げたものだった。
少女はジャッジがクッキーを食べるかどうか見守っている。
なんだかいたたまれなくなって、ジャッジはクッキーのにおいを嗅いで、かじった。
「……いや、ふむ、悪くはないが。」
まずくはなかった。
「さて。では話を戻そう。」
口の周りと前脚を綺麗に舐め終わったジャッジがバッターと少女に向き直る。
「いつかのように、君は私に猫の手も借りたいと助けを乞うのだろうが、残念ながらそれは叶わないだろう。」
「……それは俺が世界をOFFにしたからか。」
「そうとも言えるし、そうとは言えない。」
「……。」
「いや、いや。それは私の感情の部分の話だ。まあ、端的に言えば、ここにおいて私が出来得る手ほどきは無いということだ。君は自分で言っていただろう。自分はこの世界の者ではない、と。つまり私もこの世界の者ではないのだよ。」
「それもそうだな。」
「だが、そうだな……それでも君が私に何かしらの情報提供を求めると言うのなら、私は、私なら情報の集まる場所に行く、と答えるだろうな。幸か不幸か、君はそういった場所に行ったことがあるわけだしな。」
ジャッジの言葉は鋭い爪のようだった。カリカリとバッターを引っ掻いているような。
けれど少女は二人の間に踏み込まない。少女は、子供は、大人が思っているよりも聡いのだ。
「それって、図書館のことかな、猫ちゃん」
「そうともお嬢さん。」
ジャッジはバッターを見上げる。
少女はバッターと図書館の関係について何も知らない。バッターは、分かった、と静かに頷いた。
*
「でも、ごめんね、お兄さん。わたし一回お家に帰らなくちゃ。きっとお姉ちゃんが心配してるから」
今度は少女がバッターを見上げて言った。
家に戻りたいと――当然のことを申し出る少女に、バッターはカクリと首を傾げる。
「気にするな。子供はもう家に帰る時間だ。ここからは、一人で行く。」
「おや。人形師を失った人形一人でこの珍事を如何にかしてやれるのかね?」
「……ジャッジと一緒に。」
太陽はもう完全に沈んでしまっていて、周りにはとっぷりと暗闇が広がっていた。
「一人で大丈夫かね?」
宵闇の家路を心配するジャッジに、少女は微笑んで見せる。
「ありがとう猫ちゃん。わたしは大丈夫だよ。二人がちゃんと帰れるようにムカデさんにお願いしておくね」
「……そう言えば、その、木箱のような物は何なんだ。キューブのようなものか?」
バッターが木箱――賽銭箱を指さす。賽銭箱に、またお賽銭を投げ入れていた少女が、バッターを振り返る。
「……? これはお賽銭箱だよ。お金を入れて、神様にお願いごとをしたり感謝の気持ちを伝えたりするんだよ」
「察するに、この賽銭箱は先程君が口走ったムカデさんとやらに向けたものだろう?」
「うん。この神社には、大きなムカデさんがいたんだよ」
「なるほど、大きな百足の神の住まいだったと言うのならば、ここに亡霊の姿が無いことに納得がいく。」
ジャッジの尻尾がゆらゆらとご機嫌そうに揺れた。猫の目が、ニンマリと細められる。
「その大百足は神聖で高潔な魂なのだろうな。」
恭しい声でジャッジは言う。崩れ落ちている社を見上げる後ろ姿に少女はニコニコしていた。
「……。」
静かな夜に紛れていた二人の前を、バッターが横切っていく。
そして、むんずと掴んだ、一掴みのお札のようなものを、賽銭箱に突っ込んだ。少女の目が丸くなる。
お賽銭箱には小銭を入れるものだとばかり思っていたから、少女は驚いた。
「金額はこのくらいで良いのか?」
何事もないような顔でバッターが少女に聞く。良いのか?と言われても、お金と思われるお札はもう箱の中なのだから、確かめようがない。
神社の主も、バッターの行動に驚いているようだった。石畳の境内に、サラサラと白い山が積もっていく。
「え、あ、うん。良いんじゃないかな。それで、えっと、これ、持って行くと良いよ」
「これは……?」
少女が指した白い山を覗き込んで、バッターが聞く。ザラザラとした、白い粉。
「ムカデさんのお塩。オバケに使うの。きっと役に立つよ」
塩。山を突いた指先に付いた塩を舐めて、バッターは頷く。砂糖とは違う塩の味に、気が引き締まるようだった。
少女がポシェットから取り出した、プラスチック製の入れ物に塩を入れて行く。それが、神社に来るまでの道で少女が拾った物であることを、バッターは知っている。まだ使えそうだから、わたしが使うの、と少女は言っていた。
加えて、少女は懐中電灯もバッターに授けた。やっぱりポシェットから出てきたそれは、少しくたびれているように見えて、案の定拾い物のようだった。カチカチ、とライトの具合を確かめて、少女はバッターに手渡す。
受け取りながら、どうして拾ってるんだとか、どうして落ちてるんだとか、そんなことをバッターは思った。
「図書館はとなり町にあるよ。気を付けてね、お兄さん、猫ちゃん」
「ああ。協力に感謝する。」
「君も十分に気を付けるのだよ、お嬢さん。」
*
神社に続く階段の下で少女が手を振る。それに片手を挙げてバッターは応える。そうして二人はそれぞれの道を歩き出す。
ふと、背後に気配を感じてバッターは振り返る。
ぽよぽよと夜の色に紛れない、うさぎのポシェット。向こう側の足元を照らす、懐中電灯の灯り。ぴょこぴょこと跳ねる赤いリボン。
そして、少女の後を追うように、ぬっと夜のような影が現れた。
そいつは黒いテープとかベルトが巻かれたような姿をしていて、大きな袋を持っていた。
そいつはバッターの方を振り返る。つるりとした、仮面のような顔には、真一文字に切れ込みのようなものがある。
不思議と敵意や悪意、殺意は感じなかった。
バッターを、確かに見ていたそいつは、しかしすぐにフイと顔を逸らした。ゆるゆると、遠ざかっていく少女の懐中電灯の光についていく。
おそらくアレは家路についた少女を害するものではない。バッターは今度こそ少女に背を向けて歩き出した。
バッターの仕事は亡霊を浄化することだ。
世の安寧をおびやかす存在を浄化して、世を清浄なものにする。
それは、歩く世界が変わっても変わらない。
それがバッターの仕事で任務で、役割だからだ
となり町に辿り着いたバッターは最初に、重々しい夜の空気に眉をひそめた。
そして少し町を歩いてみて、思った。
なんというか、亡霊たちが攻撃的なのだ。
まず、数自体が多い。懐中電灯の光を当てないと見えない亡霊もいる。光を当てられると逃げていく亡霊や、光を当て続けると消える亡霊。逆に光を当てると襲い掛かって来る亡霊もいる。
殺意と悪意を滲ませながら近付いて来る亡霊をバットで浄化して、バッターは周りを窺う。
「う、うわあ……! ど、どうしてこんな、ぼくが、こんな目に遭うんだ……!」
周りを窺っていたバッターの耳が、聞き覚えのある声を拾った。
掠れたような、囁くような声。
どうやら他にもこの世界に迷い込んだ者が居たらしい。しかも、察するに、声の主は何かに襲われている。間違いなく亡霊だろう。バッターはバットを握りしめて、声のする方へ駆け出した。
*
嫌だ、もういやだ、と泣く声に加えて、忙しない足音と荒い息遣いも聞こえてくる。
バッターは曲がり角を曲がる。
現場は角を曲がってすぐそこだった。
暗い夜道を街灯が寂しげに照らしている。そこを見慣れた姿――エルセンが、黒い影に追いかけられていた。
黒い影に狙いを定めてバッターが走り出す。
ガシャンガシャンと音を立てる、赤黒い影とエルセンの間に割り込んで――。
亡霊を浄化しようとして。
じょきん、と。
暗闇から突き出された大きな鋏が、バッターの目の前で閉じた。
野球帽の下で、バッターの目が丸くなる。
目の前には、突き出された赤い鋏。閉じた状態のそれは、赤黒い影と、エルセンの身体を通って――。
フッと鋏が消える。入れ替わるように、ぼとりと呆気なくエルセンの頸が落ちた。
次いで、ジョキン、ジョキン、と鋏の舞う音。
その度に、ボトリ、ボトリとエルセンが小さくなっていく。
赤黒い影も巻き込まれて、細切れになっていた。
亡霊も生者も、そいつは切ったのだ。
バッターはハッとする。ハッとして、懐中電灯を投げ捨てて、バットを振った。
ぶん、と風が唸る。何かしらに当たった感触は無い。逃がしたか、とバッターは小さく舌打ちした。
足元に視線を落とす。
赤い血だまり。そこに沈む、やわらかそうな角ばった、塊。
チラリとしか見えなかったけれど、精神的に限界が来ていたと見えるエルセンは近いうちにバーント化しただろう。そして、自分に浄化されただろう。
結末は同じだ。
同じだけれど――バッターは口をヘの字に引き結ぶ。
バッターはたぶん、エルセンがまだエルセンであったのに、亡霊と一緒くたに処理されたことが気に入らなかった。
「……落とし物はちゃんと拾って行くべきだろう。忘れてくれるなよ。その光はこの異界の夜を照らすために、親愛なる少女が与えてくれたものなのだから。」
猫らしい静かさで後を追って来ていたジャッジが言う。カラカラと、地面に転がった懐中電灯が猫の手に転がされていた。
エルセン――だったものを、バッターはどうすることもできない。
転がっていた懐中電灯を拾い上げる。
ともかく、目的地である図書館へ向かおう、とバッターは思った。
「――しかし、こんな人気の無い時間に開いているのかね、この世界の図書館は。」
襲ってくるオバケを浄化しながら一人と一匹は夜道を往く。道中で見かけた町の地図によると、図書館は町の南側にあるようだった。
「夜道にこれだけ亡霊が溢れているのに、目的があったとしても、出歩くのは躊躇われるだろう。つまり、私は思うのだよバッター。このまま図書館に行ったところで無駄足になるのではないか、と。」
ジャッジの言葉はもっともだった。
「だが、建物の中には亡霊が居らず、逆に安全だという可能性もある。それに、他に行くアテも無い。」
それでも、バッターは図書館へ向かう足を止めない。
いつもの仕事へ赴くように。決められた道順のように。何かに導かれるように、バッターは図書館を目指す。
*
辿り着いた図書館は暗かった。
しっかりと戸締りされた窓や扉のガラスは夜を映して鏡のようだ。
「……やはり、出直した方が良さそうだ。無事に一夜を明かすことが出来たらの話だがね。」
建物の周りを歩きながらジャッジが言う。
バッターも、さすがに今回は一旦退いた方が良さそうだ、と思った。
「そうだな……?!」
ジャッジに同意して、建物から離れようとしたバッターが驚いたように言葉を止める。
かと思うと、走り出した。
何事かと顔を上げたジャッジの視界に、暗い建物の中で何かぴょこぴょこと跳ねる物が映った。
それは一つにまとめられた髪と、赤いリボンのように見えた。少女――だろうか。
閉じられた図書館内に少女など不自然極まりない。
けれどもし本当に少女が迷い込んでいたとしたら大事だろう。
バッターは塁から塁へ移るような走りだった。向かう先は窓のようだ。
その窓は戸締りがされていなかった。不自然に、その窓だけ開け放たれている。
まるで誘っているようじゃあないか――と思いながら、ジャッジはバッターと共に図書館の中へ飛び込んだ。
*
図書館内はシンと静まり返っていた。
ひとまず懐中電灯で辺りを照らしてみると、壁の掲示板に「図書館の中では静かにしましょう」「館内を走ってはいけません」というようなことが書かれた張り紙があった。
次にバッターは廊下を照らす。来た道は真っ暗で、当然人の気配もない。
往く道の先では、何かがキラリと光を反射した。
近寄ってみると、そこは司書室というか、準備室のような部屋だった。扉に嵌めてあるガラスが、光を反射したらしい。
ドアノブを回してみるも、当然鍵は開いていない。
つまりここに少女が入り込むこともできないということだ。
バッターはドアノブから手を離した。懐中電灯を周りに向けると、開けた空間がすぐそこにあった。
小さな卓上カレンダーの置かれたカウンター。静かな観葉植物。通路の邪魔にならないよう配置された、テーブルやソファ。大小厚薄様々な本が収められた棚。
それは間違いなく、図書館で見る風景だった。
このまま少女を探すべきか自身の調べ物を優先すべきか――迷っていると、窓に光の筋が見えた。
光の筋は窓ガラスを拭くように左右する。そして時々、ぴょんぴょんと上下している。
まるで背の低い者が図書館の中を覗こうとしているような。
「……。」
「……行くのかね?」
「ここの関係者ならば鍵を持っているだろう。亡霊なら勝手に侵入してくる。」
「なるほど、第三者である可能性が高い、と。ふむ、確かに、考えられる。」
言いつつ、バットを握り直してバッターは窓に歩み寄る。
窓際まで行き、外を覗くと、窓の下には青いリボンがあった。
「……こんな時間に何をしている。」
窓の鍵を開け、窓を開けながらバッターは口を開いた。自分のことは棚に上げている。
「!」
地面を照らしていた懐中電灯の光がピャッと跳ねる。おそるおそるといった風に、青いリボン――少女が振り向いた。
しょんぼりとした様子で俯いていた少女は、バッターを真ん丸な目で見上げる。
「……わ、わたしは、図書館の中に懐中電灯のあかりが見えたから、もしかしたら、ユイなんじゃないかって、」
「? 人を探しているのか?」
「うん……。でも――」
「その、ユイというのは、赤いリボンでポニーテールの少女か?」
バッターは館内に侵入するきっかけとなった姿を思い出す。たしか、目の前の少女と同じくらいの年恰好に見えた。
けれど、青いリボンの少女は、バッターの予想とは少し違う表情を見せた。
「うん、たぶん、お兄ちゃんが見たのはユイ。でも、ここにいるのはユイじゃないから……」
少し寂しそうに笑った少女は、続けてバッターにたずねる。
「ところで、お兄ちゃんは何をしてるんですか? お兄ちゃんも、誰かを探してるんですか?」
「我々は異世界から迷い込んだ者さ。だから元の世界へ帰るために少しでも情報が欲しくてね――この、知が集積される場所を訪ねたと言う次第なのだよ。」
「ね、猫が喋った……!」
そうして、バッターとジャッジは事の次第を少女に話した。話を聞く直前、少女はジャッジに見覚えのある魚の形をしたクッキーを差し出したけれど、ジャッジは丁重に断った。
バッターの話を聞いた少女は眉尻を下げる。仕方ないと言うか、当然の反応である。
「えっと……あの、でも、もしかしたら、そういう、神様みたいなことなら、「民俗学」の本棚に何か手がかりがあるかも……?」
バッターは図書館の中を振り返った。
真っ暗で、懐中電灯が照らしてくれる範囲に、民俗学の本棚を示す看板は見えない。
「……お嬢さん、実に心苦しいのだが……ほんの少し、我々に協力してもらうことはできないだろうか。」
ジャッジが申し訳なさそうに、少女に言った。
もちろん、この年端もいかない少女を巻き込むことには気が進まない。けれど、地元民の協力を得られるに越したことはないし――なにより、このまま夜に一人で居させるよりも安全ではないかと思った。
「そうだな。民俗学、とやらの本棚を教えて欲しい。」
バッターも頷きながら、窓の外へ手を差し出していた。窓から少女を引っ張り上げるつもりらしい。
少女は、はにかむように「はい、」とバッターの手を握った。
少女を室内へ引っ張り上げる時、バッターとジャッジは彼女に片腕がないことに気付いた。
*
音をたてないように、静かに歩く。
図書館内は、静かにして、走らないように。それは自分の身を護るためにも守るべきルールだった。
少しでも走ったりすると、すぐにオバケが寄ってくる。
なるべく騒ぎを大きくしないように、本棚の影に隠れてオバケをやり過ごす。
そうして、バッターたちはようやく目当ての本棚に辿り着いたのだ。
それに気付いたのはバッターだった。
本棚の前に、地味な色のジャケットを着て黒縁眼鏡をかけた、半透明な男が立っていた。思わず、バットを構えかける。
けれどバッターがバットを振らなかったのは、その男はひどく静かだったからだ。我が物顔で夜の街をうろつくオバケたちとは違い、敵意とか悪意が少しも感じられなかった。
そっとバッターは男が見つめている本棚を覗き込む。少女は既に近くの本を取り出して、ジャッジと共に読んでいるようだった。
*
手当たり次第に本を捲ってみた結果、具体的な解決方法は見当たらなかった。
それ以前に、当然というべきか、バッターたちのような状況について言及された文章も見つけられなかった。
強いて言うならば、何かの拍子に結ばれる「縁」が予測のつかない事態を引き起こすこともある、という曖昧な一文くらいだろうか。
図書館から抜け出したバッターたちは、次にどうすべきかを考えていた。
「縁……「縁」か。」
「心当たりは……無いのだろう? その様子では。」
「だが、「縁」が結ばれるものであり、何か「縁」が結ばれたことでこうなっているなら、「縁」とやらを切れば良いんじゃないか? あるいは、結んだモノを直接叩くか。」
「しかし「縁」とは概念的なモノらしいじゃないか。切れるものなのかね?」
「縁を、切る……」
「なにか、心当たりがあるのかな? お嬢さん。」
少女が小さく口を開いた。それを、ジャッジは聞き逃さなかった。
「いやなものとの縁を切ってくれる神様なら、ダムの方に神社があります。最近またダムの水が減ってるみたいだから、もしかしたらお参りできるかもしれないです」
「なるほど。行ってみる価値はあるかもしれないな。」
少女がナップサックからかわいらしいノートを取り出して広げる。ノートには、以前街を歩き回った際に描いたという地図が広がっていた。
そしてノートの別のページを破り、図書館から神社とその周辺の道を描き写す。
子供らしい、丸みを帯びた文字と絵の地図を受け取って、バッターは目的地と道を確認する。
「協力に感謝するよ、お嬢さん。家まで送らせてもらっても?」
地図を頭に叩き込んでいるらしいバッターの横で、ジャッジが少女を見上げた。
「え。あ、うぅん、大丈夫だよ。ありがとう、猫ちゃん」
「そうかね? しかし、一人で帰るにしても気を付けるんだよ。この夜は彷徨う悪意に塗れているようだからね。」
猫ちゃんは優しいね、と少女は小さく笑う。
「お兄ちゃんも、気を付けてください。元の世界に、帰れると良いですね」
「ああ。協力に感謝する。」
*
青いリボンの少女と別れて、バッターたちは山道を歩いていた。
少女は下水道からダム底に沈んだ村へ出て、そこから神社へ上がって行ったらしい。
が、周囲に山が連なっているなら、そこから分け入った方が早いのではないかとバッターは思ったのだ。
道に迷いやしないかとジャッジは渋々バッターの後を続いていた。けれど、不思議なことにバッターの足どりに迷いは見えない。
まるで何かに導かれるように。